第四章 それぞれの思い (2)
「だから君のような女性は僕にぴったりだと思うんだ」
テーブル越しに言う男の顔を、小百合は黙って見ていた。
"責任”この男の顔を見て思い浮かぶ唯一の言葉だ。
取引先の一つの御曹司。傾きかけている家業。政略結婚……。
こんな男の事など好きでも何でもない。
どんなに気の効いた言葉を言われたところで何の感情もわいてこない。
なぜこんな男に目を付けられてしまったのか。
たまたま帰った実家で、この男に会ってしまった。
男はそれからしつこく交際を迫ってきた。イヤだった。
だけど、家業の事を考えるとそうも行かない気もする。
この男と会うというと嬉しそうにする父親。
ズバリとは言わないが、それを期待している事はよく解っていた。
だからこの男の機嫌を損ねないように会おうと言われれば会っている。
この男の言葉一つでいとも簡単につぶれてしまうちっぽけな工場。
でも、父親が必死になって築き上げた工場。
社員も10人ほど居る。
もしも工場がつぶれるような事があったら社員や、その家族まで路頭に迷う事になる。働き盛りを過ぎ年老いたものも居れば、小さな子供がいる者だっている。
そういう人たち全ての生活を、あの小さな工場は背負っているのだ。
だから無下には出来ない誘い。
いや、断わる権利すら本当は無いに等しい。
食事だけのデートもいい加減限界な頃だろう。
そして今、この男がはっきりと言ったのだ。
「君は俺にふさわしい」と。
そして目の前にはこのホテルの部屋のカギが差し出された。
「今夜は帰らなくても平気だろう? 君だって、このカギが意味する事は十分解っている筈だ」
「でも……」
「お互い子供じゃないんだ。いつまでも上辺だけの関係は、そろそろ終わりにしたいしね」
「食事だけって言うお話だったから来たんです。そういうつもりはありません!」
自分を舐める様な視線で見る男に小百合は言った。
「まさか今日はセックスしましょうって誘う男が居るかい? 君だってこうなるって解ってて来たんじゃないの?」
「そんなことありません!」
「それならそれでいいさ。じゃあ、改めて言おう。今夜は朝まで一緒に居てくれるね?」
「ですから私は……」
「断われると思ってるのかい?」
男は急に強い口調で言った。
「君が僕と結婚したら実家は番万歳じゃないか。君だって今あの工場がどんな状況におちいっているか解ってるんだろ? 君の返事一つで状況は好転するんだよ。君が大事に思ってる社員やその家族、何より君のオヤジさんが救われるんだ。これ以上の親孝行は無いと思うよ」
何も言い返しようがない計算し尽くされた言葉だった。
自分がイヤだと言えばこの男は間違いなく工場を潰しに掛かるだろう。
それでなくても傾きかけていると言うのに、自分がこの男の申し出を断ってしまったらみすみすそれに水を掛けて沈めるようなものだ。
自分が小さい頃から居た社員達。休憩時間には遊んでくれ、可愛がってくれた
社員達。その人たちの生活を支えてやらなければならない。
皆を路頭に迷わせる訳には行かない。皆の生活を守らなければならない責任がある。
そう思うと……・答えなど一つしかない。
いや、最初から選択肢すらなかったのだ。
だけど、どうしてもこの男の事が好きになれなかった。
権力と言うもので自分の言いように人を扱おうとするこの男は、むしろ嫌悪の対象でしかなかった。
出来ればこんな奴思いっきりさげすんでやりたかった。
自分に恋人でも居れば多少事態は変わっただろうか?しかし、そんな人は無く、仮に居たとしてともに立ち向かおうと決めたところで状況はさらに複雑に絡み合うだけだったし、立ち向かうにはあまりにリスクばかりが大きすぎた。
自分1人が我慢すればいいこと……
そんなことは解っている。けれど、何をどう考えてもこの男を好きになれるはずなんて無かった。
父親もいっそのこともっと強制的に言ってくれれば反抗の一つも出来るのに、さすがに自分の娘に政略結婚を勧めることは出来ないらしく、遠巻きに期待していると言う態度だったので、余計に抗う事など出来ないのだった。
「さあ、行こうか」
男の言葉に小百合は固まった。
断わる事など出来ない相手。
だけどどうしても嫌なのだ。
皆のためと潔く諦められない自分を小百合は疎ましく思った。
レストランを出ると、男が強い力で小百合の腕を引っ張ってエレベーターに乗り込んだ。
どうしよう……。どうしても嫌だ。
エレベーターに乗りながら絶望的な気持ちをただ抱えていた。
エレベーターはどんどん男の用意した部屋に向かって近づいている。
予感はあった。だから今日だってすごく来たく無かった。
何度となく当り障り無い態度ではぐらかしては着たけれどまさにもう、それも限界なのだ。
男は期待に満ちた眼で自分を見ている。
なんとも浅ましい目だ。
好きでもない男とそんな事をするのは絶対に嫌だ。
嫌だ、嫌だ、嫌だ……・
小百合はエレベーターが途中の階で止まったのを見計らって男の手を振り払い逃げ出した。
「どこへ行くんだ! 小百合~!」
男が追いかけてくる。
小百合は無我夢中で非常階段を駆け下りた。逃げた。
もう何も考えられなかった。家の事、従業員たちのこと……。
そんな物は全て何処かへ飛んでいた。自分の身を守る事だけで精一杯だった。
ホテルのロビーを駆け抜け、入り口を出てしばらくしたところで小百合は男に捕まった。
「離して下さい!」
息を切らしながら腕を振り払った。
「何を言ってるんだ。君は自分のしてることが解っているのか? 俺の誘いを断わってみろ。君のオヤジさんの工場がどうなるか! 君のせいで従業員達だってその家族共々路頭に迷うんだぞ!!」
「でも嫌なんです! お願いです! こんな事、止めてください!」
どうしようもない気持ちで小百合は言った。それが無駄だとわかっていても。
「小百合さんじゃないか」
ふと声がして、小百合は自分の名を呼ぶ声のほうに振り向いた。
「疾風さん!」
そこには疾風が立っていた。彼の登場が神の救いにも思えた。小百合はとっさに疾風の方へと駆け寄った。
「一体どうしたんだい?」
低い声で疾風が優しく言った。
「あたし……あたし……」
「小百合、こっちへ来るんだ」
男がキツイ口調で言った。
押し黙る小百合。
「早く!」
男のその言葉に、疾風は小百合をかばうように小百合の前に立ちはだかった。
「何なんだ? あんた」
男が喧嘩腰で言う。
「この人の知り合いだ」
「俺たちはデートの途中でね。さあ小百合、こっちへ来るんだ」
「ちょっと待った!」
「ちょっとした内輪もめだから、見ず知らずのあんたは関係ない」
「そうか。ならとりあえず名乗ろう。俺はこういうものだ」
あえて名乗らずに疾風は名刺を男に渡した。
その男は名刺を見て固まった。
狙い通りだと疾風は内心ほくそえんだ。
自分の名刺が、サラリーマンの間でどれ位の効力を持っているか疾風は知っている。
「君の名刺もいただけるかな」
「ああ……」
疾風は男の名刺を受け取った。
「ああ、あなたはうちの会社と取引のある所の人でしたか。いつもお世話になっています」
疾風は言った。男のそれは、自分の会社の下請けに等しい会社のものだった。
「いっいえ……こちらこそ……」
男は言った。
「私、もう帰ります」
小百合は言った。疾風の出現は、この状況を打開する唯一の方法だった。
「そうか、なら送っていこう。車で来てるから。よろしいかな?」
疾風は男に向かっていった。
「いや……」
「彼女とは同じマンションに住んでてね。どうせ帰るトコは一緒なんで俺が送っていこう」
「お願いします!!」
小百合が懇願するように言った。
「では、失礼」
疾風は半ば強引に小百合を連れて歩き出した。