第三章 動き始めた運命 (5)
その日の夜8時ごろ、疾風が夕食を終えてマンションの駐車場に止めた車から降りてエントランスへ向かうと、小百合が小走りで帰ってきた。
「おかえり」
疾風が声を掛けると小百合ははっとして顔を上げ、すぐに手で顔を隠した。
泣いている。疾風にもすぐ解った。
「どうした?なにかあった?なんで泣いてるんだ?」
疾風は小百合に歩み寄り、優しく声を掛けた。
「ヤダあたしったら……」
「ちょっとドライブでもしてくれないかな?愛車がお前はむさいってゴネててね」
疾風はおどけて言った。ここに居合わせたのが自分でよかったと思いながら。
そして、小百合を今止めたばかりの車へと誘導した。司に見つかってしまってはせっかくのチャンスを棒に振る事になる。
「美しい君を泣かせるふとどきモノは一体どこのどいつだい?」
疾風はハンドルを握りながら小百合の顔を見ないで言った。
「疾風さんてアメリカって言うよりは、イタリア人みたい」
鼻をすすりながら小百合が言う。
「え? どうして?」
「女の人をいちいち褒めちぎるから。ほんと、紳士的ですよね」
「そうかな? 女の人には優しくしろってね。特に美人には。アメリカに居た同僚に口すっぱく言われてね。そういやアイツ、すごいフェミニストだった。長く一緒に居たから、うつったかな?」
疾風はおどけて笑った。そんな疾風の言葉に促がされるように、小百合は話し出した。
「恥ずかしいんですけど、父とケンカしちゃって。昔から色々口うるさい人で……私が思うようにならないと、頭ごなしに怒るんです。こっちはもういい大人で自分の意思だってあるのに」
「それはまた……お見かけしたところ、昔かたぎな人っぽかったからね。ふとどきものって言った事、撤回しとかなくちゃ」
「フッ。そうですね。怒ると手が付けられないから。……だからあたし、一人暮らしを始めたのかもしれません。悪い人間じゃないんだけど、とても窮屈で……」
「それってすごくよく解るなあ。俺も同じ理由で一人暮らし始めたから」
「そうなんですか?」
「そう。自分の敷いたレールの上を歩かせようって。まあ、俺は長男だから、仕方の無いトコあるんだけどね。それが俺の責任ってヤツ」
「責任か……。それってとても大事ですよね……」
「まあね。俺んとこは大企業だから社員も沢山抱えてる。『経営者には社員とその家族を養っていく義務がある』って、親父の口癖だし」
「そうですよね……」
「でもまっ、それだけでもないさ。人には自分の人生を生きる権利もある」
小百合はうつむき加減で笑った。
* * *
ある夜司が仕事から帰ってくると、小百合が一人で庭に佇んでいた。
11月に入ったばかりとはいえ、この年は例年に比べるとだいぶ寒くもう厚手のコートが必要だった。
物思いにふける小百合をうっとりとした眼差しで司は見つめた。
その姿は普段の明るい小百合からは想像できないものだったがとても美しいと司は思った。
そしてこみ上げる、愛しいと言う想い。
「そんな格好でいたら、風邪を引くよ」
司は声を掛けた。
「あら、おかえりなさい」
小百合は柔らかく微笑んだ。
「ハードな仕事をした後のその言葉って、すごく効くねえ。家に帰ったって、そんな事言ってくれる人、居ないから」
「それはそれはお可愛そうに。お帰りくらいならいつでも言ってあげますよ」
「それはそれはありがたい。ぜひともお願いしようかな」
「な~に言ってるんだか。クシュッ」
「ほら、こんなトコにそんなカッコで居るから。一体どれ位そうしていたの? 30分? 1時間?」
「う~ん、どうだったかな? この庭って、とってもきれいだから……」
そう言った小百合を、司は後ろから抱きしめた。
「司さん?」
「ほら、こんなに冷たくなってる。今夜は特に冷えるから、もっと厚着しないと」
不意の出来事に小百合は動揺した。司は会うたびとても優しくて、好感の持てる人だった。いつも優しい眼差しで自分を見ていた気がする。
だからってそれは司の性格なんだと思っていた。
だけどこういう状況になると……。
「そうね。これからはもうちょっと厚着で来るようにします。確かに寒いから、もう中へ入ろうかな」
小百合はやんわりと言った。胸の鼓動は激しく波打ち、頬が熱くなるのを感じながら。
「それがいいよ……」
司はもう一度、愛しい者を愛しむようにギュッと小百合を抱きしめ、そして腕を放した。
チッ……。
帰ってきたところで司と小百合の様子を見た疾風は舌打ちした。
ぼやぼやしてられない。
このままでは司が小百合に告白してしまう。
あいつの存在が小百合の中で大きくなる前に自分の存在を確固たるものにしなければならない。
疾風は考えをめぐらせた。