第三章 動き始めた運命 (4)
疾風がこのマンションに越してきて、1ヶ月が経とうとしていた。
仕事はめまぐるしいほど忙しかったが、週末のたびに行われるガーデンパーティーやチョットした集まりなんかにも、できる限り出席した。
司を出し抜いて小百合と親しくならなければならない。
疾風は小百合に自分を強く印象付けるために、顔を合わせれば積極的に話をするようにしていた。しかしそれはあくまで司がいない時限定だ。司にこの行動を気付かれてはいけない。
司が気づいてしまったら、何もかも台無しだ。
その辺の兼ね合いを上手く見計らって、疾風は慎重に行動していた。
日曜の午前中、疾風は車を洗車していた。
もちろんどこかに行動するであろう小百合を待ち構えるために。
20分程すると、小百合が現れた。
ジーンズにシャツにコートというラフな格好で小百合は現れた。
「おはよう」
「あ、おはようございます。寒いのに朝からせいが出ますね」
小百合はニッコリと微笑んだ。
「まあね。それよりおでかけ?」
「ええ」
「さてはデートだな?」
「残念。そうだといいんだけど。実家へね。それに、デートするのにこんな格好じゃ余りにも色気がないでしょ?」
「それはそうか。まあ、ラフな格好もそそるけどね」
「まあ、疾風さんたら! そんなに褒めてもらっても、なんにも出ませんよ」
小百合は笑った。でもその笑顔はまだきっちりと線を引いている者への社交辞令的なものに見えた。
「それは残念だな。ちょっとばかし期待してたのに」
口ではなんとでもいえる……疾風はうわべだけの言葉を熱がこもったように言った。
「それじゃ」
「気をつけて」
疾風は駐輪場へ向かう小百合を見送りながらほくそえんでいた。
「やっだ~! 誰がこんなこと?」
小百合の声を確認してそっちへ向かう。
「どうかしたのか?」
「え? ああ……。これ見てください」
小百合は自転車のタイヤを指差して言った。
「ヒドイな……。なんて悪質ないたずらだ。ナイフかなんかで切ったんだろうな」
疾風はかがんでタイヤを見ながら言い、小百合に気付かれないようにニヤッと笑った。
もちろんこれは疾風がやったものだ。小百合に近づくために。
駅から少し離れた所にあるこのマンションだから、大概のものは自転車を利用する。
当然、小百合もそうなのを疾風は見ていた。
「全くもう……角にある自転車屋さん日曜お休みなのに。あ~参った」
小百合は途方にくれた。これでは歩いていかなければいけない。
「良かったら俺が送っていくよ。どうせ暇だし」
疾風は出来る限り爽やかな笑顔で言った。
「いえ、そんな……歩いていくんで大丈夫です」
「だって、どれ位掛かるの?」
「30分ほどです」
「だったら送っていくよ。結構あるじゃないか。遠慮なんてしなくていいから。それに寒いからね」
「でも……」
「別に下心は無いんで、ご心配なく。同じマンションに住むよしみって事で」
「そんな風には思ってないですけど、やっぱり……」
意外とガードが固い。
「な~んて、実はこの車、新車で買ったばっかりでね。ちょっとだけ、誰かに自慢したくて」
言い様ならいくらでもあるもんだ、と疾風は思った。
「そうなんですか? そう言えばステキな車ですね。高そう」
「前々から欲しくてね。勢いに任せて買っちゃったって訳さ。でも悲しいかな助手席に乗ってくれる人がいなくてね。車も嘆いている訳だ。俺はこんなイカす車なんだから美人の一人や二人乗せてくれってね」
そう言って疾風はウインクした。
その様子に小百合も思わず笑った。
「って事で、遠慮なく。どーぞこの車の為に乗ってやってください」
「疾風さんって、面白い人ですね。じゃ、遠慮なく」
小百合は車に乗り込んだ。
「でも、ここから30分足らずのトコに実家があるのに、何でまた一人暮らしを?」
走り出してすぐに疾風は言った。
「ええ。親もそう言ったんだけど、いつまでも実家にいるのって自立してないみたいで嫌で」
「オッ偶然! 俺と同じ理由だ」
「疾風さんもそうなの?」
「そう。っていうか、自由も欲しかったんだけどね」
「それはあるわよね。そのうち、ステキな女の人が出いりするようになったりして」
「だといいけどね。なかなかどうして、出会いも無いから」
「そうなの? でも、疾風さん、絶対モテるでしょ?」
小百合がいたずらっぽく言った。
「そんなことないさ。それより君の方こそ男がほっとかないだろ?」
「また~! 寄ってきてくれないってこないだ言ったじゃありませんか!」
「あれは謙遜していたんじゃなかったの?」
「そんなんじゃありません」
「ふふ~ん。でも、ほんとは結構言い寄られたりするだろ?」
「それは……」
小百合が不意に遠い目をした。だからと言って、疾風にはどうでもいい事だった。
「ここです。ありがとうございました」
小百合が礼を言って車を降りようとすると、
「小百合、今ついたの?」
と、声がした。
「あ、お母さん」
小百合の母は、運転席にいる疾風を覗き込んだ。
疾風はどうも。と、かるく頭を下げた。
「小百合、この方は……」
彼氏なのか? と聞きた気に、母親は言った。
「ちっ違うよ、お母さん。彼はね、同じマンションに住んでる重森さん。自転車壊れちゃったから、送ってもらったの」
「あらそうなの?なんだかすいません。良かったら、上がってお茶でも飲んでいきませんか?」
「ちょっと何言うのよお母さん! そんなこと言ったら、迷惑でしょ?」
「あらいいじゃない。ねえ……」
二人のやり取りに疾風が一瞬固まっていると、
「何やってんだ?」
と男の声がした。
「お父さん……」
小百合が父だと呼ぶその男は、疾風を見て不快な顔をした。
娘を持つ父親がよくする嫉妬ってヤツだと疾風は思った。
「どうも初めまして。自分は小百合さんと同じマンションに住んでる重森と言います」
疾風は車から降りると名刺を渡した。疾風は自分の名刺が絶大なる効果を発揮する事を知っていた。何しろ大企業の専務、要は御曹司なのだから。
これからの事を考えると、小百合の両親にも気に入られなければならない。
絶対に不快な印象を与えてはいけない。
「立派な工場ですね」
疾風が付け加えると、「ああ。どうも」と小百合の父親は名刺を見もしないでポケットにしまいこみ、疾風にキツイ視線を投げた。
それは"娘に関わるな”強い敵意がこもった視線だった。
疾風は自分の策略を見透かされたようで一瞬ドキッとしたが、そんな事はありえないと冷静になり、表面だけの笑顔を取り繕った。
「ちょっとお父さん……」
さっさと立ち去る父親の背中に小百合が言った。
「ごめんなさい。疾風さん。父は何か誤解したみたいで……。せっかく送ってくれたのに、不快な気持ちにさせてしまって……」
小百合が困ったように言った。
「君は一人娘だろ? 変な虫がついたんじゃないかって心配なのさ。娘をもつ親ならみんなそう思うよ。俺は気にしないから」
「ほんとにごめんなさい……」
小百合が思いのほか暗く沈んだ表情で言った。
「そんな顔しないで。せっかくの美人が台無しだ」
疾風は目一杯明るい口調で言った。すると、疾風の言葉に小百合がニッコリとした。
「ほら、君はその方がいい」
「ありがとうございます。送ってもらったお礼に、今度何かご馳走しますね」
「おおそれはありがたい。その際はぜひともまたこの愛車で。車もまた美人を乗せられると喜んでるよ」
「疾風さんってほんとに面白い人」
「じゃ、あんまり君を引き止めとくと父君にいたぶられそうだから、俺はこれで失礼するよ」
「ほんとにありがとうございました。助かりました」
「じゃ」
疾風は車を走らせた。
ま、今日はこんなもんだな……。
小百合の感触は、決して悪くない。いや、間違いなく好印象を持っているはずだ。
しばらくは地道にこんな事を繰り返して司に出遅れた分を巻き返さなければならない。一刻も早く馴染んで、心を開かせなければならない。
あの女を手に入れたときにこそ、俺の復讐は成就する……。
疾風は冷たい瞳で目的だけをしっかりと見据えていた。