第三章 動き始めた運命 (1)
1998年
帰ってきちまったか……日本に。
疾風はノスタルジックな気持ちになりながらハイヤーの窓から見慣れた街並みを眺めていた。
あれから3年……
もう気持ちの整理はついている。それを忘れるべく、がむしゃらに仕事をやってきた。
ニューヨークの実力社会で散々もまれ、仕事に対して自信も付け、男としてもひとまわりもふたまわりも強く、大きく成長したと思える。
だからもう、あの二人に会っても大丈夫だ。全ては過去の事だ。
3年も経ったんだ。もしかしたら結婚でもしているかもしれない……。
それならそれでいい。いや、そうであって欲しい……そんな気さえする。
祝福してやれるさ……。あいつなら、安心して朋美をゆだねられる……。
朋美は自分の意思であいつを選んだんだ、今更俺がゆだねるも何もないがな……。
疾風がそんな事を思っていると、
「疾風様、到着しました」
と運転手が丁寧な言葉づかいと敬意を表した態度でドアを開けてくれた。
「ああ、すまない。だけど俺を疾風様なんて呼ばなくていいよ。あなたの方がずっと年上なんだから」
疾風はそう言って、少し微笑んだ。
「かしこまりました。ではなんてお呼びしましょうか?」
運転手は困り果てた顔をしている。
「なんでもいいさ。何なら呼び捨てでも構わない。ただ、坊ちゃまだけは勘弁してくれ」
疾風は屈託なく笑った。
「はい、では遠慮なく、疾風さんと呼ばせていただきます」
初老の運転手は親しみをこめた微笑を見せた。
「じゃあ」
疾風は懐かしい屋敷へと入っていった。
一度は捨てたはずのこの空間……。親の決めたレールの上を歩くのが嫌で、自分の力を試したくて、自力で生きていきたくて捨てたはずのこの空間。
だけど皮肉にもそのレールの上で生きる事を自分は選び、そして開花してしまった。
武者修行と称してニューヨークへ渡り、日本に帰ってきた疾風のポストといえば、父親の会社の重役だ。
その地位は確保されている。
ふー……疾風は小さくため息をついて、玄関のドアを開いた。
「疾風さん、お帰りなさい。まあ~すっかり見違えちゃって!!」
母の綾乃が満面の笑みで疾風を出迎えた。
「ただいま、母さん」
「お父様がお待ちよ。さっ早く顔を見せてあげなさいな」
「ああ」
「おー疾風! やっと戻ったか! 随分とたくましくなったもんじゃないか! もう、どっから見ても一人前の男だな。これから楽しみにしてるぞ。ニューヨーク直伝の仕事っぷりをたっぷり見せてもらおう」
疾風のニューヨークでの仕事っぷりを聞いているから、父の高徳も機嫌は上々だ。
「おーい! 凌我疾風が帰ってきたぞ! 早く降りてきなさい!」
高徳はガラにもなく大声を張り上げた。
「そんなにでかい声出さなくたって聞こえてるよ」
凌我は呆れ顔で階段から降りてきた。
「よ! アニキ。久しぶり、元気そうじゃん」
「おお、お前も相変わらずだな」
疾風は凌我と軽く視線を合わせた。
疾風より4つ年下の凌我は22歳だが一浪しているので今でもれっきとした大学生だ。4年生の凌我だが就職先は親の会社に決まっているので何の就職活動の苦労もなく、お気楽な生活を楽しんでいる。
次男特有の楽天的ともいえるその性格は、疾風とはむしろ正反対のものだったが二人はとても仲がよかった。
「疾風、お前からコイツに何とか言ってやってくれ。コイツと来たら毎日遊んでばかりいるんだ。緊張感のない暮らしをしているよ。
まったく、お前みたいに親元を出て自分の力でやっていくって、親に刃向かうって根性が少しでもないのかねえ。
お前がそう言い出したときはけしからんと思ったが、こうもふがいない姿を毎日見ているとコイツこそ世間に放り出してしまおうかと思うよ」
高徳は豪快に笑った。
「何言ってんだよ! どーせオヤジは自分の思うように俺達を動かしたいんだろ? 俺はアニキみたいに逆らわないで素直に聞き入れてやってんじゃねーか」
「物はいい様だな、まったく。あー言えばこー言うだ。口ばっかり一丁前になりおって」
数年ぶりの家族の会話。
こうして話していると、それも案外心地いいもんだと疾風は思っていた。
数時間そんなひと時を過ごした後、疾風は懐かしい街並みを歩いてみようと外出する事にした。
3年前にここを旅立って以来、一度も帰ってきたりしなかった。
いや、帰ってこれなかったといった方が正しいだろう。
司と朋美の事を、二人の劇的な裏切りを、自分の中で消化して立ち直れるようになるにはそれ位の時間が必要だった。
それ位、あの二人に与えられた傷は大きなものだった。
金持ちの家に生まれ、成績優秀スポーツ万能だった疾風が、初めて味わう自分の力ではどうする事も出来ない大きな挫折だったかもしれない。
だから傷は大きく、余計に立ち直るのに時間が必要だったのかもしれない。
そんな事を思いながら街を歩き出す。
苦い思い出だったと笑みがこぼれる……。
たいして変わり映えしないその見慣れた風景。
離れてみて初めて気付くこの街のにおい。
いろんな事を一つ一つ確かめながら疾風は歩みを進めた。
どうしているんだろう、アイツら……。
二人の家はすぐ近所。嫌でも自分が帰ってきたことが二人の耳に入るだろう。
ならば自分の方から帰って来たと言うべきかもしれない。
もういいんだと、全ては遠い過去の出来事だよ、と。
もう気にしちゃいない。二人を許せる。
そんな気持ちがあるのだからそうした方がいいのだろう。
未だにあの事を引きずっていると思われるのも癪だ。
連絡取ってみるか……。
疾風は携帯を取り出した。
「疾風じゃないか?」
声に驚いて振り向くとそこには司の姿があった。
「よお!」
自分でも意外なほど自然な、満面の笑みで疾風は微笑んでいた。
「久しぶりだな~!! いつ日本に帰ってきたんだよ? 連絡の一つもよこしてくれりゃいいのに」
司は本当に何事もなかったように昔の友に会えた喜びを表現している。
「つい数時間前だよ。ちょうど今、お前に連絡取ろうと思ってたトコだった」
「そうかー! 疾風時間あんだろ? 久しぶりにゆっくり話でもしようぜ」
「ああ、そうだな」
疾風も親しみを込めて答えた。
俺達はきちんと話し合わなければいけないよな……。
腹を割って。
でないとウソになるだろ?今こうやって何事も無かったかの様に話している事が……
お互いに笑顔を見せ合っていることが……。
友人に戻るには、それを省く訳にはいかない。
友人に戻ってもいいと思えるようになったから……。
疾風は心の中でつぶやいた。
でも本当は、それが精一杯のプライドなのかもしれない。
傷付けたままと二人に思われるのだけは耐えられない。
それに、ああなってしまった事に対して自分に全く落ち度がなかったかといえば、そうではないから。
朋美に寂しい思いをさせてしまった自分にも責任があると解っているから。
二人は近くのオープンカフェに来ていた。
10月の午後、そよいでくる風はとても心地いい。
コーヒーを啜った後、司は言った。
「疾風、3年前はほんとに悪かったな……。あんな事……」
「いいさ、もう終わった事だ。何も気にしちゃいないよ」
疾風は軽く言った。
自分でもホントは半信半疑だった。あの二人に会って冷静でいられるだろうかと。
でも実際会ってみれば、自分で気をもんでいたよりずっと自然に振舞える。
いや、思ったより何てことないんだと思う。きちんと立ち直れていると。
二人を許せていると。この心の中はきちんと整理がついている。
「そう言ってもらえるとホント嬉しいよ。もう口も利いちゃもらえないだろうと思ってたからな」
「そんなガキじゃないさ」
俺は二人が幸せにやっていてくれるなら、それでいい。
自分の犠牲の上に成り立った愛だから、絶対幸せになって欲しい。
俺がしてやる事が出来なかった分、司には朋美を幸せにしてあげて欲しい。
そして、コイツならそれが出来る男だと思う。司のよさは自分が一番よく知っている。
だから逆に良かったのかも知れない。
コイツになら、負けてもしょうがないと思える……。朋美が心変わりしても、しょうがなかったと……。
それにしてもいざ朋美の名を口にしようと思うとなかなか勇気がいる。
「お前、今どうしてんだよ? まだあの家に住んでんのか?」
遠まわしに聞くのが精一杯だ。
「まさか! いつまでも親と一緒には住んでらんねーよ! 近くにマンション借りてる」
「そうか。仕事の方は? ちょっとは昇進したか?」
「ああ。メチャクチャジャンプアップだよ。今人事部長。
ったく、いくらオヤジの会社だからって、この歳でいきなりそんなポストじゃ、周りは納得しねーよな。ボンボンがって陰口叩かれてるよ。親ばかだからな。所詮」
「それなら家だって一緒さ。俺なんか重役だぜ。バカさ加減ならむしろ家の方が上手だな。ぼんぼんって言われるの、覚悟しとくよ」
二人は笑った。
「それにしてもお前、ホント変わったな~。たくましくなったって言うか、大人になった。顔つき違うぜ。あの頃と。俺が言うのもなんだが……」
「お前だってそうじゃねーか。すっかり立派になっちまって。大人の余裕ってモンが感じられるよ!」
疾風は言った。
疾風の4年前の姿を知る人間が、今の疾風を見たら間違いなく口をそろえて立派になったと言うだろう。
自信に満ちた雰囲気。しっかりと落ち着いた態度。
荒削りな青年から出来る大人の男へと成長を遂げた。
司の方もなかなかどうして、柔らかい物腰はそのままに、いやますます磨きがかかってそれでいて大人の男として洗練され尽くした雰囲気で、人々を包む包容力が養われている。優しいが頼れる大人へと変貌を遂げた。
その後たわいもない会話が続き、それでも昔を取り戻したみたいで二人は楽しく語らっていた。
ただ、疾風は司の口から一向に朋美の名前が出てこない事に、多少の苛立ちを覚えていた。
俺に気を使って司は朋美の名前を口にしないんだろうか……笑って話してくれりゃあいいのに……
話の途中で、何度となくそんな事を思った。
「そいでお前、この先どーすんの? しばらくは親元で暮らすのか?」
司が言う。
「いや、近いうち出ようと思ってる。やっぱ窮屈だからな……。それに、こんな歳にもなって親に面倒見てもらうなんて一人前じゃねーだろ?」
「出た出た! 疾風のポリシー!!」
司がはしゃいで言った。こんな風にしていると、3年前の出来事も、3年のブランクも全部嘘の様だ。
「うるせえ! 笑うなよ!」
「ワリイワリイ。そうか……まあ、この近くに住めよな。また楽しくつるもうぜ!」
「そうだな……ところで朋美は? 元気にしてるんだろ?」
しびれを切らした疾風はとうとう口にした。
俺に気を使って司が言い出しにくいなら、俺のほうから話を振ってやるさ。
のろけでも何でも聞いてやれる確信が持てたよ、このひと時で。
「たぶんな……」
司は表情を曇らせた。
「多分て、お前付き合ってるんじゃねーのかよ?」
何となく心がざわつくのを感じながら疾風は言った。
「付き合ってねえ。お前が行っちまってから一年もしないうちに別れたよ。
お前に大見栄きったワリにはアッケなかったもんだ。たしかどこぞの二代目と、婚約したって話だぜ」
「そうなのか……」
疾風は顔色が変わってしまいそうなのを必死でこらえた。
胸の中にどす黒い何かが広がっていく。
俺の思いは……3年前、俺がどんな思いでニューヨークに発ったと思ってるんだ……
そしてどんな思いでこの3年間やってきたと思ってるんだ……。
やっと立ち直ったってのに……。お前ならしょうがないって、やっとの思いで納得させたのに……。
それなのに、たった一年で別れただと?
俺から朋美を奪っておいて別れただと?
なんて無責任なんだ……。お前は言ったはずだ。
朋美は俺が幸せにすると。なのに……。
「それよりよ、今度もっと時間がゆっくり取れるとき、俺のマンションに遊びに来いよ。おもしれートコなんだ。大家さんがすごくいい人たちでさ……住人同士もみんな仲良くてしょっちゅうガーデンパーティーとかやってるんだ。お前も顔出してみろよ。どんな知り合いつれてきたって誰もヤな顔なんかしねーから」
司はバツが悪くなって何となく話をそらした。
「ああそうだな……。今度行かせてもらうよ……」
今までの穏やかな優しい思いなど一気に吹き飛んでしまった。
ただどす黒い何かが激しく渦巻いて心を支配している。
疾風は司の眼を見据え、口元だけで笑った。