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第一章 羊の血

妹の失踪した訳を突き止めたい、という思いで刑事になろうとしている刑事見習い未央・・・ 彼女の家庭は冷め切ったものだった・・・



そんな未央、まだ見習いであるにも関わらず、彼女には2種類のウイルスが関わる恐るべき大事件が待ち構えていた。


果たして未央はその大事件を解決し、真相を明らかにすることができるのであろうか―


第一章 羊の血


とある夜のネオン街―

多くの若者がたむろする快楽の街。その一角で恐ろしいことが起こっていた。この街は細長い一つのビルにいくつもの店が入っていて、関係者以外は知らない団体の溜まり場となっている。警察は街をうろうろするだけで、各団体が何をしでかしているのかは調べない。調べないというより、路上の犯罪に振り回されて一つ一つ調べている暇がないのである。その街では、あるウイルスの蔓延が始まっていた。そのウイルスは日本ではまだ知られていないウイルス。早くも警察が察知し、このウイルスはhert-85Xと名付けられた。感染者は隔離幽閉され、犠牲となった警察官は三十二人、その他の犠牲者は百三十九人に及ぶ。



日本じゅうの警察署でこの事件の捜査計画が打ち立てられていたが、その街を包括していた府川署は他の署よりもこの件について厳重な捜査を行うことになっていた。

「ところで、このウイルスはどういったウイルスなのですか?」

今年刑事見習いになった緒方未央はこの件についてよく調査するように命令されている。未央はこの件について刑事に聞けることは今聞いておこうと思った。まだ見習いであるとはいえ邪魔者扱いされるのは御免だった。

「被害者の死体解剖の結果分かったことだが、このウイルスは心臓に作用してその人間の命を奪うらしい。」

未央の上司、山川 明である。この事件を担当している刑事だ。

「そういえば君は、今年司法試験に通った未央くんだね。」

「はい、私も犯人逮捕に向けて頑張りますので、よろしくお願いします。」

「僕は山川あらただ。こちらこそよろしくね。僕は妻も子供もいるからそうそうたやすくウイルスで死ぬわけにいかんですから。」

「山川さん、私は命をかけてでも戦うつもりです。」

未央は心にもないことを言った。

「それは心強い。」

冗談を言ったつもりだった山川はへへっと苦笑いをした。

「ところで、どのようにこのウイルスは人の心臓に作用するのかご存じですか?」

「それが、心臓を委縮させて命を吸い取るらしい。」

「心臓・・・だけですか?」

「そうだ、まるで死神のようなウイルスだ。」

山川は渋い顔つきをしてそう言った。

「つかぬことお聞きしますが、なぜ心臓だけしか侵さないのでしょう?」

「まぁその返答としては・・・、僕の精神論になってしまうが、人間の心臓は勝手に動くが、その動かす何かを侵してしまうんじゃないかってね。」


未央はその夜、アパートに帰宅し、そのままソファーの上にごろっとなり天井を見上げて考えた。

(私、死神に殺されるかもしれないのか・・・)

すると未央は急に多大な恐怖に襲われて思わず立ち上がった。恐怖に打ち震える彼女の目に、ある写真立てが映った。

「佳奈・・・。」

彼女の妹の中学生の時の写真だ。制服を着た彼女はこちらに向かって満面の笑みを向けていた。未央は眼の端をきゅっと上げ、手を握り締めた。

「私は死なんか怖くないわ。いつか必ず真実を突き止めるから。」

そしてその場で崩れるように座り込んだ。そして膝を抱え込んで妹と過ごした日々の記憶をたどった。

 

未央は高校一年生の時に妹を失った。妹が中三年生の時であった。ある日忽然と姿を消し、そのまま失踪してしまった。妹が家を出た数日後、未央は妹の自分宛ての手紙を見た。

―私はこの家から去ります。探さないでください。

未央はその時は妹の冗談だと思っていた。昔の彼女の妹はやんちゃでいたずら好きだった。まだ中学生だから調子に乗ってただ単に自分に甘えたくなったのだと思っていた。自分を見捨てることはないと信じていた。でも違っていた。それから3日経っても一週間経っても妹が姿を見せることはなかった。未央の家族は機能家族とはいえなかった。





母親も父親も神経症で彼女を本当に愛してはいなかった。愛するほど心の成熟した人間ではなかった。葛藤を抱えていて自分のことしか考えられない人間であった。小さい頃は周りの親を同じように面倒を見てくれていたが、中学校に未央が入学するころ、彼らは二人の子供の自己実現を妨げるようになった。未央にも友達がいたが、彼女の心の痛みを分かろうとしてくれる人間は一人もいなかった。その場その場をじゃれ合うだけの人間しかいなかった。だから、彼女は自分と同じ境遇に耐える妹としか心を本当に通わせることはできなかった。彼女は両親を心底憎んでいた。でも、その憎しみを口に出すことはなかった。妹を失ってからは・・・。自己主張の強い未央は昔から両親によく反抗していた。妹はその逆だった。両親の言うことをよく聴き、いらだってもそれを抑圧していた。未央は高校生になってからは勉強に夢中になっていたため、両親のことはあまり気にならなくなっていた。気になるのは妹の行先。お陰で彼女はいろんな刑事と知り合いになっていた。山川はその中の一人であり、よく未央の一生懸命な姿を何度も目の当たりにして彼女のことを買っていたし、彼女の妹の事情を知っているのは家族以外では彼一人である。未央もそんな山川を信頼していたため、自分が刑事になる場所として山川のいる府川署を選んだ。山川は今の所属でなかなかの地位を確保していた。彼はすでに奥さんも子供もいる時に司法試験の勉強を始めた。未央はそれを別の刑事から聞いた時、山川に「別を探します。」と受験生の時に言っていたが、結局彼女は彼の部下になっていた。未央は「そんな男なんて信用できない!」と言い張っていたが、山川に今だにそのことをなじられると「忘れました。」と知らん顔をしている。他がなかったのである。


―翌日

ソファーにもたれかかって寝込んでしまった未央は朝日の光で目を覚まし飛び起きて時計に目をやった。

「ひゃっ、まずい、遅刻だ!!」


未央から連絡を受けた山川はにかにかして刑事課の入り口で待っていた。

「おい、恐怖に慄いてたな。」

「山川さんも。」

未央はぶすっとした顔を山川に向けた。

「二時間遅刻だ。罰として今日は午前中の調査一人で行ってこい。その代わり手抜かりは許さないぞ。周辺の人間に協力してもらいなさい。こっちには別にやることがある。ま、緊急のこともあって丁度良かったんだがな。」

「分かりました、今後気をつけます。」

未央は山川から車のキーをもらいうけ、少しいらいらしながら車のエンジンをかけた。そしてウイルスが見つかった場所へと赴いて行った。


未央に知らされた行先の住所はあの街のウイルスが蔓延し始めた場所だった。未央の時計の針はそのころ午前十一時を指していた。ビルの九階、と手渡された報告書に書いてあるがエレベータは止まっていて階段で上る始末だった。未央は配布されたマスクをして立ち入り禁止のテープをくぐりビルの階段を上って行った。ウイルスは消毒剤で完全に除去されているとのことであったが、念には念を入れた対策だった。ビルはところどころひびが入っていてほこりでかなりくろずんでいた。

九階は小さな病院になっていた。

(・・・病院でウイルスが蔓延ってことは医療ミスってこと?)

未央はうすぐらい病院の中に入って行った。病院のフロントで幾人かのマスクをした警察官が調査にあたっていた。

「府川署の刑事見習いです。あなたも府川署の・・・。」

「はい、私は市村といいます。見習いさんですか。」

警察官は互いに驚きの顔をして見合った。

「ここはどうやら病院のようですね。」

「うん、見ての通り、こじんまりとした病院だけど、どこを調べてもこんな病院は存在しない。おそらく不法経営の病院でしょう。カルテ一つ見当たりはしない。経営者はすっかり片づけてどこかに立ち失せてしまった。」

「とりあえず指紋を採った方がいいでしょうね。」

「ここ何日も指紋を調べているんだが、まだ誰も犯人を特定できていない。恐らくこの病院ははじめから犯罪のためにここに作られたんだろう。ビルの雑居地帯にこんな場所があったとは知らなかった。」

するともう一人の警察官が割って入ってきた。





「こんなことができるんだから、おそらく野良犬どもと手を組んでいたんじゃないかね。」

「野良犬?」

「あぁ、この地区のヤクザってこと。」

さっきまで話をしていた警察官が未央に言った。

「たぶん、ここは始めは病院なんかじゃなかった。ここでいう`一般的’な店だったんだろう。それがいつのまにかこんなへんてこりんな病院になっちまったってわけだよ。」

するとさっきまで黙って調査をしていた少し若めの警察官が話に加わってきた。

「世の中手に負えないくらい物騒になってきてるから、休んでらんないっすよ。」

「私も病院を見させてもらっていいでしょうか?」

警察官は互いに顔を見合せて、未央の方を見てそろってうなずいた。

「この病院は九階にフロントがあって十~十一階に患者用の部屋、十二階に手術室がある。私から調査にあたっている捜査官に無線で伝えておくよ。」

始めに未央に話しかけた警察官が未央にそう言った。

(もし彼らの言うことが正解なら医療ミスではなさそうね・・・。)


未央は階段を上って十一階に行った。マンションの一部屋につながっているような黒の扉を開けると薄暗い短い廊下が現れ、両壁に三つずつ、突き当たりに一つ扉があった。未央は手前の左の扉を開けて中に入ってみた。そこは窓についたカーテンが完全に閉ざされ廊下よりも更に暗くなっていた。ベッドが一つだけ置いてあった。未央は中に入りカーテンを空けた。窓はくもりガラスだった。未央が振り返って中を見ると部屋中ひっかいた跡や血痕で一杯だった。この中で患者が暴れ回ったのだろう。心臓を委縮させられるのだ、無理もない、と未央は思った。デジカメで部屋の各所の写真を撮り、状況をメモし、未央は部屋の外に出た。そして、廊下の突き当たりの部屋の扉を開けた。そこは診察室だった。そこにも警察官がいた。未央は黙って調査を続けていたが内心安堵していた。フロントにいた警察官の言うとおり、資料は奇麗さっぱりなくなってしまっていた。さっきの部屋とは違い、普通の少しこじんまりとした診察室だった。

「一応言っておくが手術室は血まみれといっても過言じゃない。委縮した心臓が大量に見つかったそうだ。」

調査していた警察官の一人が未央に声をかけた。未央はメモを取りながらこう言い返した。

「犯人がわざわざ死体解剖するってことは、もしかしてここの患者は実験に使われたんじゃないですか?」

警察官はうなずいた。

「いかれた連中だ。」

そうつぶやいて調査を続けた。


未央はそこでも写真を撮ってから十階の病院を出て十二階に向かった。

その階にはさっきの警察官が言ったとおり、手術室があった。扉の先の空間の先に手術室と書かれた電光板が上に掲げられていた。未央は恐る恐るその扉を開いて中に入って行った。中は真っ暗やみであり、未央は携えていた懐中電灯の電源をオンにした。懐中電灯の明かりの先に見えるのはやはり血痕。手術台や壁が血だらけだ。心臓をひきずったような跡もあった。未央はその部屋の扉とその先の扉を全開にして中を明るくし、部屋全体の写真を撮り、更には懐中電灯を当てながら部屋の部分部分を写真に収め、メモを取った。

「こんなに血痕を残して捕まりたいのかしら・・・。」

未央は思わずつぶやいた。

未央は十一階の調査も行ったが、十一階の様子は診察室がないだけで、10階とほとんど同じであった。

調査を終えた未央はマスクを外して車に乗り、コンビニで買った昼ごはんを車の中で食べている間に写真屋に現像してもらった写真を手に署へ向かった。



署へ戻った未央を山川が待っていた。

「どうだ、調達してきたものを見せてみなさい。」

未央はうなずいて写真を山川に手渡し、報告をした。ほとんどの写真に赤黒い血痕が映っていた。

「これだけ血痕があれば簡単に犯人は見つかると思いますよ。」




「そうだな。お化け屋敷みたいだったろう。」

「そんな生易しいものではないですよ。」

未央は山川の意外な発言に少し困惑した。

そんな未央を差し置いて山川は自分のデスクに戻ってパソコンに向かった。

「ん?山川さん、パソコンに向かって何してるんですか?」

「こっちもちょっと忙しいんだよ。」

未央は山川のデスクに近づいた。

「ネット犯罪ですか?」

「そうだよ。今ウイルスの蔓延が深刻らしい。生物に感染するウイルスといいコンピューターウイルスといい・・まったくね。」

「やることってそれでしたか。」

山川はため息をついた。すると電話が鳴った。

「あぁまたか。とりあえず君はその写真を持って科学捜査課に取り合ってくれ。」

「分かりました。」


未央は二重に現像しておいた写真の一組だけ署の科学捜査課に手渡し、後で報告書を提出することを告げて刑事課に戻った。

「山川さん、私は報告書を作成するのでコンピューターの件は後でお願いします。」

「あぁ、そうしてくれ。」

山川は忙しそうに動き回りながら未央に言った。未央は自分のパソコンに向かって資料作成を始めた。



科学捜査課からの報告を待っている間、未央は山川の手伝いを始めた。とある昼、山川は未央を近くのうどん屋へ昼ごはんに誘った。事件のことで話があるということだった。

「今回の事件のことなんだが・・・。」

「hertですか?」

「そうそれ。コンピューターウイルスとそのウイルス、もしかしたら何か関係しているかもしれないと思わないか?」

「へ?なんでそれを署で言わないんです?」

未央ははしをにぎっている手を止めた。

「署じゃ適当なことは言えないからな。」

山川はもぐもぐしながらそう言った。

「そういうことですか。見習いの私なら話しても問題ないと。」

「君は口が堅そうだからな。」

山川はにっこり笑った。

「それより、どうしてなんです?関係しているとはどういうことなんですか?」

山川は少し溜めてはしをどんぶりの上に置き、腕組みをして机にもたれかかってから話し出した。

「この事件でウイルスを打たれた被害者は一人しかいない。おかしいと思わないか?どうして実験台にされた人間が一人で済んでいると思う?しかもその被害者の身元は全く不明なんだよ。」

「・・・つまりそれは、犯人がその被害者の身元を知っていたということでしょうか?」

「おそらくそうだろう。そうでなければ被害者の身元はすぐに分かるはずだよ。被害者自身が自分の身元を隠ぺいしたんだ。」

「被害者は死にたかったんでしょうか・・・。」

山川はその言葉を聞いてはっと何かを思いついた。

「どうしたんですか?」

「いや、いい。もうちょっとはっきりしてきたら君にも詳しく話すよ。」


山川は慌てる未央をさえぎって昼食代を彼女の分も支払い、未央を連れて店を出、署へと向かった。


二人が署に戻ると、その直後に科学捜査課の男一人が刑事課に訪れて来た。

「ちょっとうちの課に来てください。」

二人はその男についていった。


科学捜査課の小部屋でその男は二人に実験結果のファイルを開いてそれを見せながらその説明を始めた。






「調査を終えたのですが、驚きですよ。」

未央は身を乗り出した。自分の刑事としての仕事の前進を経験するのは初めてだったため、普段冷静な彼女も少し興奮していた。

「この血痕、人間のものじゃないんです。心臓も人間のものではなかったがね。」

「ひょっとして動物のもの・・・?」

未央は目を見開いて問い詰めた。

「その通り。ウサギやラット、マウスのものでした。」

その男は心臓のサンプルを二人の前に示した。どう見ても人間のものではなかった。

「僕たちの目をくらませようって魂胆か?もしくは嫌味・・・。」

山川は頭をかき、ため息をついて自分が座っている椅子の背もたれにもたれかかって腕を組んだ。

「とにかくそういう結果なので、これで捜査を進めてください。」

そう言うとその男はその場から消えた。

「戻るぞ、未央くん。」



それからしばらくは未央には電話対応の日々が続いた。ウイルスの蔓延のせいであった。未央はhert-85Xの事件を調査することになっていたが、そちらのことで山川が手に負えなくなったということだった。彼は内緒の捜査を進めていた。未央は「どうせ手柄が欲しいんだろう。」と冷たい目でその姿を見ていた。

とある日、未央は山川の好意で府川署の会議に参加することになった。そこで未央は、hert-85Xのワクチンがあちこちに出回っていることを知った。まだウイルスの蔓延は食い止められていなかったのである。しかも何者かがそのワクチンで金もうけをしている。だが、それは一時のことであり、hert-85Xはワクチンのお陰でいつのまにやら消え去っていた。しかもワクチンはすっかり無くなっていた。だが、未央はこれを決して許されざる犯罪であると受け止めた。

「ワクチンが目的ってことは医療関係者があやしいな。」

会議が終わると椅子から立ち上がった山川は未央に話しかけた。未央は椅子に座って正面を見たままこっくりうなずいた。未央は考え込んでいた。




―土曜日

外は秋晴れで青く晴れ渡っていた。都会の空の色なら緑の多い田舎のそれと同じだった。道路わきの草木がみずみずしく輝いている。未央はアパートで紅茶を飲んでくつろいでいた。テレビではhert-85Xのことで大騒ぎだった。

(日本中が大騒ぎね。きっといつか誰かが解決するわよ。)

未央はそう思った。

(でも私ができることはやっておきたいな・・・。)

そう思って紅茶を味わっていた時、未央ははっと気が付いた。バイブ音の鳴った携帯電話を開いた未央は急いで外出の準備を始めた。


未央が車で向かった先は・・・


未央が高校生だった時の同級生と約束した場所であった。その同級生は大学の医学部の専任講師になっていた。独身でバリバリ働いているということだった。名前は長谷川美紀。特に親しいわけでもなかったが、長谷川の友達とは親しくしており、彼女からその連絡先を聞き出したのであった。都会を抜けたところにある閑静な田舎町のおしゃれな街の青空と海の見えるカフェで会う約束をしていた。


「少し良い景色を見た方がいいでしょ。」

「そうね。」

未央は穏やかに笑う長谷川に苦笑いを浮かべた。

「最近どう?医療の世界も物騒になっているわよ。」

「まぁそれに比べたら大学は平和なもんだね。」

今度は長谷川が未央に苦笑いを浮かべた。

「未央が刑事見習いとはね。hertウイルスを相手に回してるとは大騒動よ。」

「怖くないって言ったらうそになるよ。」

「ウイルスについては医療の世界のあちこちで話題になっている。理学研究所の論文にそのウイルスのことが書いてあって今大騒ぎだ。」





「その論文、誰が書いたの?」

「やあねえ。警察はまだ調べ上げてないっていうの。知りたい?」

未央は身を乗り出した。

「西川雅彦って人。」

「西川?・・・」

「どうしたの?」

深々と考え込む未央に思わず長谷川は問いかけた。

「ううん、別に。それでその内容は・・・?」

「それがね。」

長谷川はそっと目くばせをした。

「人間にしかそのウイルスのワクチンが作れないっていうのよ。まぁ飽くまで仮説みたいだけどね。」

未央は唖然とした。

(そういうことだったのか・・・。)

長谷川はさらに話を続けた。

「ウイルスのことはとうの昔にベトナムで発見されていて、医学に通じている人間の間で話題になっていたんだけど、誰もそのウイルスについて研究しようとはしなかった。なにせ、感染後数秒で心臓が委縮するというおそろしいウイルスだからね。でも、理学研究所の研究員が研究を始めて、幾人もの研究員がその研究に携わって約二十年経てその構造を明らかにし、そういう仮説を打ち立てることができたらしいわ。もしよかったらその論文のコピーあげるわ。」

長谷川は論文のコピーを未央に手渡した。

「有難う。」

「じゃあ私はこれで。」

長谷川は会計を済まして早々と去って行った。未央はしばらくその場に残って考え事をしていた。

(つまり血痕の動物は実験動物で、犯人はその動物たちではワクチンが作れないことが分かった。その時この論文を見つけたんだわ。そして人間でワクチンを作った。だからウイルスを打たれた被害者は一人。)


未央は山川に電話をしたが、電源がオフになっていた。山川が愛妻家なのを未央が一番よく知っていた。

(仕方がない、月曜日に報告しよう・・・。)



―月曜日

署の朝礼の後、すぐに未央は山川に論文のことを報告した。

「知ってるよ。」

「へ?」

「理系某大学のネットワークを使って調べたよ。近いうちにニュースにもなるだろ。仮説とはいえ、証拠のある仮説だからな。正気ならそんなこと誰も試そうとはしないはずだ。」

「なんだ・・・。」

未央は肩をすくめた。

(私は刑事としてまだまだか・・・。)

そして少し腹立たしくもなった。きちんと報告してほしかった。

「人間にしか感染しない上、人間の血でしかワクチンが作れないなんてへんてこだな。」

未央は山川の言葉にはっとした。

「まるで死神の落し物・・・。」

山川は深くうなずいた。


未央は電話の音に気づき、電話に出ようとしたところ、山川はそれを遮った。そして別の人がその電話の対応を始めた。

「今日はちょっと手伝ってもらいたいことがあってね。」

「なんですか?」

「ウイルスのことなんだが・・・」

「hertですか?」

「そっちじゃなくて。」





「コンピューター。」

山川はうんうん、とうなずいた。

そしてパソコンの画面を未央に見せた。

「自殺のサイト・・・。」

「そう。そういうサイトに絞って調べてみたんだが、このサイト、ウイルス感染の罠が仕組まれていた。」

「・・・山川さんよく感染逃れられましたね。」

「まぁ詳しいやつがいてね。」

「それで、どうしてこのサイトを私に?」

「このサイトは書き込みができるようになっていて、その書き込みの履歴が閲覧できるようになっている。まぁどのサイトも閲覧くらいできるけど。この履歴を見てみて。」

その書き込みのやり取りが途中で終わっていた。しかもクライアントの返答なしに終わっていた。書き込みは

「―クライアント:俺はもうこの家族とは縁を切った。頭がおかしくなりそうだ、お前の好きなようにしてくれ

―サーバー:本社に来てください」

であった。

「この人ウイルス打たれた被害者!?」

未央は叫ぶように言った。

「うん、でもウイルス感染を平気でするやつがわざわざどうしてこの人間を自分のところまで呼び寄せたんだと思う?」

「その人間に来てもらわないと困ることがあった。」

「におうぞにおうぞ。」

山川は不敵な笑みを浮かべた。

「これ、hertと関係してる・・・。」

未央がそう言うと山川はにっこり笑ってうなずいた。

「ま、それとは別で・・・、この論文の西川というやつについて調べてくれ。」

山川も論文のコピーを手元に置いていた。

「理学研究所に行けということですか?」

「うん、西川ってやつの知り合いを片っ端から調査だな。」

「あの・・・。」

「なんだ?」

「時間をいただいてもいいですか?」

「あぁもちろんだ。時間は相当かかるだろう。」

未央がわざわざそう聞くのには深いわけがあった。未央は少し混乱していた。


未央が外出の準備をしているとメガネをかけ白衣をきた女が山川を訪ねてきた。二人は奥の部屋で何か話をしていた。そして間もなくしてその女と山川が部屋から出て来た。その女は山川におじぎをし、去ろうとしたところ未央の姿を見つけ話しかけた。

「今年刑事課でお世話になっている、未央さん?」

「はい、そうです。」

「山川さんには今伝えたことなんですけど、hert事件の例の被害者の死体解剖の結果、血液から中毒になるほどの覚せい剤が検出されました。これがその証拠の資料です。」

女は少し厚めの資料を未央に手渡し、

「それで捜査を進めてください。」

と言い残しその場を去って行った。

未央は刑事課を出ていく時にこちらを向いた女におじぎをした。


「覚せい剤で頭がおかしくなった人間を生けどりにしたってわけか。」

山川は資料を眺めている未央に話しかけた。

「閲覧履歴に`頭がおかしくなりそうだ’ってあったのはそういうことでしたか。」

「そうだな。おそらく、コンピューターウイルスを使って個人情報を盗み、覚せい剤を送りつけたんだろう。そして家族にも見放された。僕はあの周辺の検挙について調べてみるよ。」



未央は車を走らせて理学研究所に向かった。そして論文を書いたとされる西川雅彦の所属するウイルス学研究室を訪ねた。





丁度西川は自分の研究室で論文を書いているところだった。未央がイメージしていたのとは違って若若しく爽やかな顔つきにどこか学者らしい雰囲気を漂わせており、どちらかというとスポーツに向いた体つきをしていた。未央はもっと物静かな暗いおじいさんを想像していた。

「府川署の未央と申します。西川さんでいらっしゃいますか。」

西川は椅子にこしかけたままくるっと未央の方に向き直った。

「来ると思ってましたよ、どうぞかけてください。」

西川は本棚の下に隠してあった丸椅子を未央に差し出した。未央は「失礼します。」と言ってその椅子に座った。

「では、いきなりですが、質問に答えていただきます。」

「なんなりとどうぞ。」

「あなたの周辺にトラブルを起こした人はいませんでしたか?」

「うちは一人一人が全く違う研究をしているし、下の人間は他人をなじってる場合じゃないしな。あ、でもこんなのがお役に立つかも分かりませんな。」

西川は資料を未央に手渡した。そこには理学研究所の研究員が示されていた。どこの研究室で何の研究をし、何の業績を上げているかが示されていた。

「わざわざありがとうございます。ところで、あなたの家族は何人ですか?」

「おいおい、疑うのか?」

「捜査には偏った考え方は良くないので。」

「私含めて五人。」

「兄弟は誰が。」

「妹が一人と弟が一人。妹の方が年上。」

「二人のお名前は?」

「おい、なんで兄弟を疑うんだ?」

「いや、こういうタイプの事件には兄弟が絡んでいるケースが多いので・・・。」

未央は少しまごつきながら答えた。

「妹が真樹、弟が晃。」

(やっぱり・・・・。)

未央は下を向いて急に黙りこくってしまった。

「どうした?」

「あ、いえ、ちょっとここに連絡先と住所をお願いします。事情聴取や緊急の連絡に必要なので。」

未央はかばんから取り出した封筒の中の用紙を西川に差し出した。西川はうなずいてボールペンでそれらを記入した。

(西川晃、間違いない、同姓同名の人間がこんな風に一致するはずがない。)

未央はその後、その研究室の人間の一人一人と会って事情聴取をし、夜遅くなってから車で署に向かった。車を運転しながら、彼らの話、話し方、態度を思い出していた。

(あの研究室に犯人はいないだろう・・・。)

未央はその夜アパートに残業なしで帰らせてもらった。山川の気遣いであった。



―翌日

朝礼の時間になっても未央は姿を見せない。しかも今度は山川に連絡がなかった。だが、未央を信用していた山川は

(何か考えでもあるのだろう。)

と穏やかに構えて待つことにしていた。


未央は自家用車で西川の家に向かっていた。未央は少々焦っていた。この日はどしゃぶりで辺りは暗く視界が悪かったが、未央はできる限り車のスピードを上げて高速道路で車を走らせていた。


西川の家は土地が高く緑豊かで趣のある場所にあり、大きいが質素な木造の一軒家であった。未央は丁度良いじゃりの空地に車を止め、その家の庭で傘を差しながら花木の手入れをしている婦人に声をかけた。

「府川署の者です。」

「あぁ、息子から話は聞いています。中へどうぞ。」

婦人は白髪の少しまじった髪の毛を一つに結い、優しい笑顔が素敵な母親だった。庭にはさまざまな花木が植わっており、奥の方には温室もあり、ランの紫の花びらがそこからでもうっすら見えた。今日は冷え込んでいるため温室の壁が曇っていた。





「あぁすぐ署に戻らなくてはならないのでいいんです、ちょっとご兄弟の方に用がありまして。」

「真樹と晃に用ね。ちょっと待っていてください。」

その母親は開いたままの傘を地面に置き、縁側から家の中に入って行った。しばらくするとその母親と一緒に背丈の高い男が現れた。兄である雅彦をよく似て爽やかな顔つきにするどい目つきをしていたがどこかまだあどけなさを残しており、兄よりは背が低く学者らしさのある兄とはその点で大違いだった。灰色の長そでシャツの上に白いパーカーを羽織り、黒ズボンを履いていて質素な服装をしていた。するどい目をきょとーんとさせて未央の方を見ていた。

「今は晃一人しかいませんが。あのう、一つ言っておきますが、この子は人を殺すようなまねをするような子ではありませんよ。」

母親は少し心配そうに未央に言った。

「娘さんは?」

「仕事に出ています。」

「俺はフリーターだから。こういう日に休みになるとはついてないよな。」

晃はけっと吐き捨てるように言い、母親の方を向いて苦虫でも噛むような顔つきをした。

「晃さん、署まで来てもらっていいですか?」

「別に構わないけど、どうして俺だけなんですか?」

「こちらからお話しておきたいこともありまして。」

晃は少し考えてから

「じゃ、母さん、行ってくるわ。」

と母親に手を振って家の奥へと行き、ちゃちゃっと外出の準備を済まし、未央に言われて彼女の車の後手席に乗り込んだ。

「詳しい話は署でします」ということで車の中で未央は黙りっぱなしだった。少し陽気な声で晃は未央に話しかけた。

「hert-85Xって全部消えたんすか?」

少し黙ってから未央は

「そうです。それで金もうけをし続けたらいつかは警察に捕まりますからね。」

と答えた。

「じゃあ犯人の目的は・・・。」

「犯人が見つかれば分かることよ。」

「ま、どうせろくな人間じゃあない。」


未央はそっと晃の目付をバックミラーで確認していた。


そのあとは不況とその男の給料の話で持ちきりだった。未央はあまりきちんと聴いていなかった。


二人は車でおよそ一時間半かけて府川署にたどりついた。未央が晃を引き連れて刑事課の中に入った。その姿を見ていた山川は驚いた顔をして未央のすぐそばに近づいた。

「どういうことだ?」

「西川雅彦の兄弟に事情聴取だそうだ。」

晃が割って入ってきた。

「お姉さんは?」

「お仕事で外出中でした。私はこの男に特別の用があって。」

「おい、客に向けてその言い草はなんだよ。」

未央は晃の言葉を無視して話を続けた。晃に山川は穏やかな口調で話しかけた。

「ところで、君名前は?」

「西川晃」

「お、奇遇だね、僕と下の名前の読みが一緒だ。」

「そんなことどうでもいい話です・・・。ところで、」

未央は若干イライラしながら二人の話を遮った。刑事課の人間たちがびっくりして未央たちの様子を脇目で観察している。

「あなた、緒方佳奈を知っているでしょ?」

未央のその言葉を聞いて晃の顔つきが一気に変わった。

「君・・・まさか妹さんのことをこの男のせいにしようっていうんじゃ。」

「山川さんは黙っててください。」

晃の顔色はすっかり青ざめている。





「私は知っていますよ。あなたが佳奈の恋人だったってこと。」

「お前があいつの姉って知っていたら俺はここには来なかった。どおりでなんとなく似てると思ったんだ。」

「やっぱり。来てしまったからには私の話に付き合いなさい。」

山川は本当は止めさせたいところだったが少し様子を見ることにした。

「私の妹はあなたに冷たくされたせいで自分の人生を台無しにしたのよ!」

「そんなことウイルスには関係ないじゃないか。」

「どうせ日本一の大学に行った自分の兄に嫉妬してたんだわ。プライド高いくせに偏差値の低い大学に行ったそうじゃない。そういう性格してるくらいだから私の妹に憂さ晴らししたのよ、そうじゃない?」

「うるせえ!!お前に何が分かる!」

晃は未央の胸ぐらをつかんで怒鳴った。未央はひるむことなくその手を払いのけた。

「ウイルスだってあんたがばらまいたのよ!」

「未央くん!!」

山川は我慢しきれなくなって未央の肩を押さえて大きな声を出した。

「君、その判断は刑事として間違っている。冷静になれ。君らしくないじゃないか。」

「あんたが佳奈を見張っていてくれてたら・・・。」

そう言って未央は両手で顔を覆いその場で泣き崩れた。

「俺に子守はできない。冗談じゃない。帰らせてもらう。」

晃はすたすたとその場を去って行った。未央はもうそれを引きとめる気にはなれなかった。


「君がしたいのは真実を突き止めることだろ。いつか妹さんには会えるよ。」

山川は震えている未央の肩に手を置き、優しくそう言った。刑事課の人たちの何人かはふうっと安堵のため息をつき、改めて仕事に集中した。

それから、未央は理学研究所での事情聴取に明け暮れた。



―数日後

未央は休日を利用して実家に戻った。しばらく母親との昼食と会話を楽しんだ。未央は大学受験と大学での勉強を励ましてくれた母親とよりを戻していた。自分一人では拭いきれなかった過去の心の傷もいつの間にか癒えていた。しばらくしてから未央は妹の部屋に入った。もしかしたら、何か手掛かりがあるかもしれない、と思ったのだ。妹がウイルス事件に巻き込まれたとは思いたくなかったが、山川の言う通り未央は真実を突き止めてから妹に会いたいと思っていた。


未央は今まで開けたことのない妹のデスクの引き出しを開けた。その中に見覚えのある赤緒のお守りのキーホルダを見つけた。未央はそのお守りを取り出しまじまじと見つめた。

「これ・・・。」

晃が持っていたものとそっくりだった。晃はかばんにそれに似たお守りをつけており、緒の色は青色だった。そして未央はそのお守りの裏側に何か書いてあるのに気が付いた。

「・・・羊の血。」

未央はしばらくその場で考え込んでいたがそれを懐にしまった。母親はリビング隣のキッチンでリンゴの皮をむいていた。

「相手は殺人鬼なんだから気をつけなさいよ。」

「大丈夫よ。」

未央は軽くウインクしてみせた。


「ねぇ、お母さん。」

未央は飲み残した紅茶の入ったコップを手に取り電源の点いていないテレビの前のソファーに座って問いかけた。

「佳奈には西川っていう恋人がいたこと知ってる?」

「ええ、知ってるわよ。」

母親はリンゴの皮をむき終え、それを食べやすい形に切りながら言った。

「どこで知り合ったの?」

「佳奈から聞いてなかったの?」

「うん、恋人がどういう人かっていう話だけしか聞いてない。」

「中学一、二年生の時の同級生だったそうよ。一緒の係りで学校の花壇の掃除したり仲良かったみたいよ。」





「そう・・・。中学三年生の時は別々のクラスになっちゃって淋しかったんだろうな。」

未央は手元のコップを口に当てた。

ふと未央の脳裏に西川の家の庭で見た温室に咲くランの花びらが浮かび上がった。

(蘭の花ことばって何だったっけ・・・?)

未央はコップを手元に戻し暗いテレビ画面をじっと見つめていた。



―数日後

未央は研究所での事情聴取にうんざりしていた。これまでの数日間、未央は隙あらば刑事のふりをしてこっそりと妹の中学生の時の周辺の人間のことを調べ上げていた。

「あの、山川さん。」

「うん?」

「ちょっと外出してきてもいいですか?妹の中学の頃の同級生に事情聴取してきたいんです。」

「ん?君の妹がこの事件に関連しているんじゃないかと思うのか?」

未央はこっくりうなずいた。

「君の器用さは褒めてやるが、あの男に食ってかかったもんだから遠回りになったな。」

未央は山川のその言葉を聞いて後ろめたさを感じた。

「意味のない事情聴取はないよ。真実はひょんなことから明らかになるんだからな。」

「ありがとうございます。」

未央は山川に深々と頭をさげると急いでバックを手に取り上着を着ながら刑事課を出ていった。


未央が事情聴取で分かったこと・・・それは次のようなことであった。


佳奈と晃は中学一年生の時に図書館で知り合い、同じ係りになったのを機に仲良くなっていった。中学三年生になったとき、受験や日々のごたごたのせいで二人の距離が離れていった。ある日別の女と晃との関係が噂に広まり、意地悪な男子が佳奈にそのことをわざわざ伝えたという。



「山川さん、前私に見せていただいたサイト、見せていただけますか?」

「ん?三島に聞いてみて。彼ならとっておくだろう。」

未央は三島に頼み、その自殺サイトの書き込みを見た。未央は三日間も書き込みの履歴を調べていた。そこには衝撃的な書き込みがあった。

「羊の血」


(佳奈だ・・・・佳奈が中学三年生だった時の書き込み・・・、佳奈はどうしてこの策略に気が付いたんだろう。佳奈が死のうと考えたのは間違いない・・・。佳奈の部屋に警察が立ち入ったこともあるけど、覚せい剤の痕跡はどこにも見当たらなかったし、佳奈が覚せい剤を使用している様子なんて全くなかった。それなのに覚せい剤が送りつけられる前にどこかに佳奈が失踪したことも相手は知っている・・・。家に覚せい剤なんて送りつけられていない・・・。)


未央はさらに書き込みを調べてみた。

そして未央は「まさか」という顔をした。すっかり顔色は青ざめていた。



未央は山川のところへ行き

「押収したウイルスサンプルの一部を預からせてもらえないでしょうか?確かめたいことがあるんです。」

と申し出た。

「どういうことだ?」

「私の妹がこの事件に関わっています。私の妹は自分がキリストの血を持ってるって言ってるんです。」





山川ははっとした。

(・・・覚せい剤で頭がおかしくなった人間の書き込みかと思ってたが・・・)

「警視庁に指定の書類を提出しなくちゃ。今はそこの研究所やらに保存してあるらしい。この用紙をコピーして事情を書き込んで必要な証拠資料と合わせて提出しなさい。」

「分かりました。」


未央は山川に手伝ってもらい、警視庁からいくつかの訂正を強制されながらもなんとかサンプルを手にいれ、車で理学研究所に向かった。

「佳奈は悪人の食い物にされるくらいなら失踪した方がましだと思って遠くへ逃げたんだ・・・。本気で死のうとするなんて・・・。自分にウイルス耐性があるって分かったんだから、きっと佳奈がワクチン作成の犠牲になるところだったんだ。一人であんな最低な場所に赴くなんて・・・。」

未央はこらえきれずに涙を流しながら運転をした。



未央は研究所で血液を採取してもらい、それをウイルスにかませた結果、未央の血はそのウイルスを消滅させるタンパクを作ったということだった。その後分かったことだが、それは、そのタンパクをコードする遺伝子の作用によるのだそうだ。

その翌日の木曜日から日曜日まで、未央は有給休暇をもらった。血を抜きすぎて少し具合が悪くなっていた。未央は緊急でアパートに来てもらった母親に看病されながら四日間寝て過ごしたのだった。



―数週間後

「山川さん、検挙の方はどうですか?」

「お、今日は未央くん調子はどうだ?」

「もうすっかり絶好調です。」

「その意気だ。そっちはまだ洗い出せてないんだが、最近医院長がいなくなったという病院が数か所に絞られたんだよ。」

「山川さんの推測ですか。」

山川は不敵に笑ってうなずいた。

「こちら側から仮設を立てるのも大切なことだ。そのうちの一ヶ所が幾人かの看護師や医師もいなくなっている。」

「それは一体どこの・・・。」

「三重県の矢島病院だ。そっちは刑事に行ってもらう。君には危険すぎるからな。今日はちょっと見学しよう。三島くん。」

そこにくせっけで黒ぶちのめがねをかけ冴えない顔をした暗い青年が現れた。

「セキュリティー担当の三島恒彦くんだ。今日はこの人におとり捜査をしてもらう。この人は刑事見習いの緒方未央くん。」

「よろしく。」

声のトーンも冴えなかった。

「おとり捜査ってひょっとしてあのサイトに書き込みをしようってことですか?」

「違う違う。あれはもうすっかりたたんでしまっているサイトなんだよ。君の血液を使った実験を基に作られた論文を公表して相手のリンクを待つ。君の存在を向こうが知っている可能性があるから論文調査をしているかもしれない。悪いが少し嫌な形で君をおとりにしている。でも犯人が分かり次第すぐにその部分は削除するから。」

「さては情報を盗む、ということですね。相手は手ごわいと思いますが・・・。」

「やってみないと分からないだろ。もう罠仕掛けはしてある。架空の人間を論文の著者にしてあるし君の身辺のことも伏せてあるから大丈夫だ。」

「なんか皮肉ですね。」

未央は思わずつぶやいた。

「捜査っていうのはそんなもんだ。静かな所で捜査しなさい。じゃ僕はこれで。」

そう言い残し山川は自分のデスクに戻った。未央は下向き加減でゆっくりとした歩調で奥の部屋に向かう三島の後について行き、小声で三島に

「相手が被疑者とはいえ、情報盗んで大丈夫なんですか?」

と問いかけた

「君は何を言ってるんだ。ばれなきゃいい嘘もあると知らないのか。」

「え?よく聞こえない。」





三島はぼそぼそとしゃべるじめじめした感じの青年であった。

部屋のソファーに座り、持っている最新型ノートパソコンのバッテリーのコンセントを電源につなぎ、ネット回線を接続し、パソコンを開いてその電源をオンにした。未央はその隣に座り、パソコンのデスク画面をじっと見つめた。セットアップが完了するとデスクトップに黒いボックスが現れていた。

「かかってる。」

三島はにんまりと笑った。

(?)

三島はそのボックスに猛烈なスピードで暗号の打ち込みを始め、ネットワークに送り始めた。未央にはちんぷんかんぷんな暗号ばかりだった。しばらくすると、三島のパソコンに住所録や電話帳、ワクチンの作成方法などの様々な情報が大量に送りつけられてきた。それを見た未央は思わず

「きっとあのサイトの罠にはまった人たちの情報だ!」

と三島の横で騒いだ。

「いいから静かにしていてください。ミスが命取りになるんで。」

未央は口をつぐんだ。

(ひえ~。気味の悪い人だとは思ってたけどこの人ウイルス作る人だとは。昔ネット犯罪したのかも・・・。)

未央は疑わしげな目で三島を見つめた。

その後三島と未央は奥の部屋から出て、三島は自分のデスクに戻り山川に提出する資料作りを始めた。三島のお陰で、共犯であるヤクザの集団が逮捕され、被害者の体内から見つかったものと同じ成分の覚せい剤が押収され、ネットワークの情報から主犯も確定した。

犯人は山川の推測した通り、矢島病院の医院長であった。



医院長の名は矢島洋平という名だった。警察が取り調べにあたり、山川をはじめとする刑事や未央もその調査に協力した。その結果犯人の居場所が暴かれ、逮捕状が裁判官から発せられた。


―逮捕予定日

未央はこっそり警察の後を追っていた。妹を追い込んだ犯人をこの目でしかと見届けようと思っていた。実はその後をバイクで晃が追いかけていた。未央にばれないようなるべく距離を置いてバイクを走らせていた。晃は兄から羊の血の話を聴き、今のアルバイトをやめてその日から未央の行動を偵察していたのだった。


未央の車が高速道路下から十字路を左折した直後に信号が赤になり、晃は待ちぼうけを食わされることになってしまった。すると、十字路の右道路わきに停まっていた黒色の乗用車が目の前を通り過ぎて行ったが、晃はその車が気になって仕方がなくなった。運転手は一人でサングラスをしていてたばこを吸いながら運転をしていた。晃は何か嫌な予感がしていた。晃は焦る気持ちを押さえて信号が青に変わるのを待っていた。


信号が青に変わると晃は猛スピードで十字路を左折し、その道を道なりに走って行った。すると、晃の視界に未央の車とあの黒い乗用車が現れてきた。晃はしばらく様子を見ていたが、その黒い乗用車は未央の車の後ろをついて離れない。晃は心を決めてバイクのスピードを上げ黒い乗用車を追い抜き、その前でバイクを止めた。すると、さらに後ろの幾台もの車がクラクションを鳴らした。警察はそれに気が付き、数台あるうちの一台だけ道路わきに停まり、未央もそれに気が付きバックミラーを見た。黒乗用車から現れた男は一目散に細い脇道へと逃げ出した。晃はバイクを道路わきに放り、ヘルメットをかなぐりすてると一目散に走り出しその後を追った。未央もバックミラーに見覚えのあるそのバイクの男を目にし、車を停めた。車から出てきた二人の警察官は後ろの道路が渋滞している様子を見て困り果てた顔をしていた。そしてそのうちの一人が何やらトランシーバーで話し始めた。そしてもう一人に向かってうなずき、まだエンジンのかかっている黒乗用車を道の脇に移動させるためにその車の中に入った。未央は車の中にいない方の警察官に話しかけた。

「私は府川署の刑事です。」

「刑事?」

警察官は少し考えてからびっくりした顔をした。

「まさか、君、失踪した緒方佳奈の姉?」





「ついてきてしまって申し訳ないです。この車は私を追っていたんだと思います。きっと犯人の仲間です。」

警察官はそれを聞くと、黒乗用車に向かって叫んだ。

「その車で今逃げていった奴を追え!! ウイルス事件の共犯者だ!! まだ残っていたんだ!!」

黒乗用車は細い道路に入り高スピードで走っていった。未央も警察官も晃と犯人が走っていった先にかけていった。

走りつかれた未央がその周辺を三十分ほどうろうろしていると、その目の先に黒乗用車が現れた。目付の悪い赤いTシャツを着たサングラスをかけた男が手錠をかけられていた。その男の脇で警察官がトランシーバーで何やら話をしていた。そこにもう一人男がいた。黒づくめの格好をし、ほてった顔をした晃だった。

「お疲れ様です。」

未央が警察官にそう言うと、警察官は目で未央にあいずちを打った。

「君は西川晃くんね。」

未央は晃に微笑みかけた。

「俺はお前を助けようとしたんじゃない。」

「佳奈のためでしょ。」

未央は晃の肩にポンと手を置いた。晃は顔を赤らめて下を向いて黙っていた。そこにパトカーに乗ったさっきの警察官が現れ、そのパトカーと黒乗用車は自分の署へと向かっていった。


未央は晃を後手席に乗せて、警察官たちに教えられた場所に向かった。

「まさか主犯の逮捕まで君がやろうって気じゃないでしょうね。」

「俺はそこまで馬鹿じゃない。」

未央は

「ははは」

っと軽快に笑った。未央は真剣な顔つきでバックミラーで晃の顔を伺った。幾分顔が擦切れていて、殴られた形跡があった。腕にはナイフで傷つけられた跡があった。犯人と激しく乱闘したのだろう。晃は「お前こそ」と言いそうになったのを抑えていた。


主犯である矢島洋平は警察官によって無事逮捕された。未央も晃もしっかりとその顔を見届けたのだった。未央は晃を病院に連れて行き、警察官にバイクをそこまで運んでもらって「経費は署から出る。」ということを告げ、両親にきちんと報告することを悟してから家へと戻って行った。



―翌日

珍しく山川がかんかんに怒っていた。

朝礼が終わるとすぐに未央に大股で近づいてきた。

「君の行動は何を意味しているのか分かるかね。」

普段はきょとんとした丸い目の端がつり上がり奥が黒光りしていた。

「もう二度としませんから。ごめんなさい。」

(どうせ経費が余分にかかってるから怒ってるんだ。)

と思いつつも、

未央は深々と頭を下げた。

「ごめんで済めば」

「警察はいらない。」

山川はふうっとため息をつくと自分のデスクに戻った。未央はそんな山川についていって躊躇することなく話を始めた。

「今回の事件に妹のことが絡んでいたのですが・・・。」

「ん?」

山川は野太い声をあげた。なんだよ~、という目付をしていた。

「この事件の解決を利用してマスメディアを通じて私から妹にメッセージを送ってもいいでしょうか?」

山川は少し真剣な顔つきになってしばらく考えてから

「・・・。君が見習いじゃなかったら許してないところだが・・・。」

とつぶやいた。

「だが?」

「今回ばかりは許すとしよう。」





「やったー!!」

はしゃぐ未央のそばで山川の目もとは少しゆるんでいた。




未央はテレビ、ラジオ、新聞、あらゆるマスコミを利用して、ウイルス事件に妹が関わっていたことが分かり不憫で仕方がないこと、姉として妹の気持ちに気づいてやれなかったことへのお詫び、今の思いを世間に公開した。

その甲斐あって、妹から警察署に連絡があり、そのことを聴きつけて妹に関する情報を手に入れた未央は妹のいる島に向かった。佳奈は離れ島でとある家族に養ってもらっていた。


再会し互いに涙を流し抱擁し合った二人は、海岸を前にして塀に座りこんで思い出話にしばらくふけり、未央は

「何かに巻きこまれたとは思っていたけど、こんな恐ろしい事件に佳奈が巻き込まれていたなんて・・・。」

とウイルス事件の話を切り出した。佳奈はうなずいてからその恐ろしい体験について語り始めた。

「私があの場所へ行った時、ワクチンを打たれている人がいたの。」

「!?ワクチンはもうすでに出来上がっていたということ?」

「そうじゃないの。未完成のワクチン。そちらは抗体ではなくて弱毒ウイルスらしくって。人間の血でワクチンが作られるなら弱毒化したウイルスを注入すればその人間を生かしたままワクチンが作れるんじゃないかって考えたのよ。

それが医院長一人で秘密に行った実験らしくって、その人が手術室からドアをこじあけて出てきたもんだから、そのせいで手術室の前にいた看護師たちや周辺の人間たちがどんどんウイルスに感染していったわ。」

「佳奈は耐性遺伝子を持っていたからその難を逃れた。」

「そうよ。あのね、お姉ちゃん、私は一回死のうなんて馬鹿なこと考えてあんなサイト作った人間の言われるままにしてしまったけど、死のうと思ってあそこに行ったんじゃないの。何かしでかしたら警察につきだしてやろうと思ったの。だからナイフや包丁を懐に携えていたんだから。でも、自分がそういう人間だって分かって、一目散に逃げ出したわ。」

「それを聞いて私、ほんの少し救われたよ。もうそんな危険なまねはしないで。

・・・・それに、その人が外に出ようとしなくてもウイルスはきっとばらまかれたわ。ワクチンの効力を確かめるために。」


「あ、そういえば。」

重い空気を消し去るように未央はにっこり佳奈に笑いかけ、ずぼんのポケットに手をやり、中から潜めていたものを取り出した。

「それ・・・。」

未央が佳奈のくりくりした目の前にかざした赤緒のキーホルダーが海を照らす太陽の光できらきら輝いた。

「これと色違いのおそろを肌身離さず持ってる人がいたんだよね。」

佳奈の目が次第に潤んできた。

「そうだ、私そんなものでお姉ちゃんに・・・。」

「私は図太いから大丈夫よ。」

未央は佳奈に手を差し出させて、その手のひらにお守りを置いた。佳奈はそれをしばらくじっと見つめていた。そして

「晃、今どうしてるの?」

とそれを見つめたまま未央に問いかけた。

「うん、フリーターやってて、昔佳奈が見せてくれた写真に写っていた姿とほとんど変わらない。すくすくと成長しただけでね。こんなに年月が経っても佳奈を想ってるんだから、相当佳奈のことが好きだったのね。」

「私すっかり受験勉強で頭がいっぱいになっちゃって。本当は晃のこと大好きだったんだ・・・。」

佳奈は下を向いたまま目をつむった。そして一筋の涙を流した。そして

「お姉ちゃん、ありがとう。」

と更に続けた。

「ん?」

「お姉ちゃんにばっかり苦労させちゃって、私はこんなところに隠れてて、本当に悪いと思ってるよ。」




「私は今ここで佳奈に会えてとびっきり幸せよ。」

未央は優しくうつむいている佳奈の肩を抱いた。少しばかり傾いてきた陽射が温かく二人を包んだ。


未央はその日、佳奈をかくまっている家に一晩居候することになった。六人家族の二世帯であり、四歳と六歳の男兄弟がいて、二人とも佳奈をよく慕っていた。佳奈には実はいいなづけがいて、願わくば結婚を考えているということだった。未央は佳奈に再会したら一緒に暮らすつもりでいたため、それを知ったときは多大にショックを受けたが、再会と絆の喜びを胸に一人東京に戻ることを決意した。


―数日後

「未央くん、妹さんはどうだった?」

山川は未央のデスクの手をやり、資料作成をしている彼女に朗らかに問いかけた。

「はい、元気にしていました。これで私も残りの人生歩いていけそうです。」

未央は山川の方を向いてにっこり笑った。

「でも、仕事は今まで通りしっかりやってくれよ。じゃないといつまでも見習いのままだぞ。」

「へ~へ。」

未央は半ばいらだちながらも妹との再会前と同じ調子で仕事を続けた。でも、その胸は温かい思いと安堵感で一杯になっていたのであった。




―END―







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