1-5
一歩飛び退って向かってくる月夜に剣印を突き出した。月夜の動きが止まる。
「汝、我に触れることかなわず、ただ、ひれ伏す」
神の言葉。月夜の奥で何かが震える。
「ひれ伏せ人間。我の元に。我が名の下に」
「行け」
静かな月夜の声が響く。白い犬神が夕香の背中から体当たりをした。
後ろに回りこんでいた犬神に気づけなかった夕香は思い切り月夜の胸に飛び込む形になってとっさに腕で体と顔を防ぐ。
だが、思った衝撃はなく、ただ、ぬくもりを持った体がそれを受け止めた。
「カウンター攻撃などしたら、殺し合いになる。ほら」
静かに肩に触れて立たせた月夜の手が震えていない。
その変化に夕香が月夜の顔を見ると、月夜は、いつもの無表情にあきれの色を見せて二歩後ろに下がった。
「たかが組み手でカウンター攻撃する奴はお前ぐらいしかいないぞ」
「うるさい」
ようやく、理解した夕香は、真っ赤になって一気に飛び退った。
そして、二人は申し合わせたように剣印を互いに向けて突き出していた。
「我願う。空は時雨れつ天隠し、光りひらめき落ちぬることを」
静かな月夜の詠唱が響く。夕香は頭上から落ちてきた雷を避けながら、剣印を横に薙いだ。
それを月夜の犬神が受ける。犬が吹っ飛ぶがふっと消えて、もう一度月夜の脇に現れた。
「行け」
月夜の声に反応して犬神がかける。夕香は犬神に手のひらを向けて握り締めた。
パンと音を立てて犬神の姿が消えた。月夜の表情が曇る。
「汝、凍えぬ。日に当たること叶わず、ただ、火の元を去り、氷の中に」
月夜の足元が凍っていく。月夜の目つきがふっと変わった。
「散ッ」
その叫び声が契機となった。月夜の周りに陽炎を生み、足元を凍らせた冷気が一瞬で掻き消える。
「げっ」
「残念だったな」
そういった月夜がにいっと頬を釣り上げた。剣印の切っ先が夕香ではなく天を向いている。
「汝、ただ乞い願う。紅蓮の炎に包まれ、責苦に合うて帰るべからず」
同時に夕香の周りに炎が具現化した。
「つ」
炎が夕香の腕をなめる。だが、服は燃えない。
「霊性の炎だな」
教官の呟き。つまり、妖や神気をもつものは焼かれてしまう。
それを理解してから一呼吸でわずかに漏れている神気を封じると、夕香の胡桃色の髪が漆黒に変わる。
「……」
月夜が目を細めて、術を解除した。炎が霧散し、夕香の神気も元に戻る。
「汝、凍えぬ。日に当たること叶わず、ただ、火の元を去り、氷の中に」
月夜が、夕香が放った術をもう一度詠唱した。夕香は月夜のように足元からではなく、手先、足先から、凍っていく。
「お前は水性だろう」
「御明察。でもね。こんなんじゃ、あたしは無理よ」
そういって、夕香の髪の毛がふわりと宙に浮いた。
「ここまでしてくれるなら、あたしもしないとね」
夕香の気配が一瞬で変わった。ふわりと漂う獣臭と共に、身をすくませるような凄絶な神気が辺りを噴き荒らした。
「……」
月夜の額に青筋が浮かんでいる。冷や汗がにじむこともなく、ただ、青筋だけが浮かんでいた。
「言いたいことはそれだけか?」
そういって月夜が地面を蹴った。
夕香が月夜に目を向ける。いつの間にか、月夜の瞳が青く、変わっていた。犬神の、それのように。
先ほどよりもずっと切れのある蹴りを受け止めながら、夕香は目を細めた。
「汝、動くこと叶わず」
「汝、言を紡ぐ事かなわず」
月夜の動きが一瞬鈍る。夕香はそこに生じたわき腹の隙を見逃さずに正拳を突き入れた。
軽い手ごたえ。的確にとらえたがための、手ごたえが夕香の腕に伝わる。
月夜の表情が、真っ白に変わる。だが、それでも、瞳の力は失わずに夕香の肩に同じように正拳を突き入れた。
夕香の息が詰まる。月夜の蹴りが夕香の腰に入る。
横様に吹っ飛んだ夕香をおって、月夜が先回りをして、回し蹴りで迎える。
吹っ飛ばされて受身も取れないまま、夕香は暴力の前に伏していた。痛みの嵐が腹や背中に襲い掛かる。
何も、音が聞こえない。考えられない。
そう思った時だった。体の中で、何かが外れた。
突如として、夕香の周りに風が吹き荒れた。月夜は気にもせずにまた吹っ飛んだ夕香を追うが、夕香の目を見て、足を止めた。
「日向?」
静かな問いは、かき消された。強い風が吹き荒れる。
覗き込んだ夕香の瞳は爛々と輝き、どうしようもない暴力衝動とケモノとしての本能がゆれ交じり動いていた。
夕香は静かに立ち上がり薄ら笑いを漏らしながら、ゆらゆらと月夜に近づく。
その表情に後ずさろうとした月夜だったが、夕香を正面に見据えて、走った。
「……」
その様子を教官が静かに見守っている。
夕香は目の前に月夜がいるとは思っていないらしい。
手刀で腹をえぐって、体を折った月夜を蹴り飛ばし仰向けにして、首を絞めにかかった。
同時に妖狐としての瘴気が二人を包む。
夕香の弱い握力の隙間からかろうじて呼吸をしていた月夜だったが、瘴気に呼吸を奪われて、だんだん白くなっていく。
「いい、加減にしろ、この、ばかぎつ、ね……」
絶え絶えであえいでも、力は弱まることはない。むしろ強まっていく。
夕香は冷たい笑みを浮かべながらがら、白くなっていく月夜を見ていた。だんだん月夜の目に焦点が失われ始める。
「目を覚ませ、日向」
静かな教官の声に抗いようのない威厳が含まれていた。はっと目を覚ました夕香は、弱い脈を繰り返す首筋から手を離した。
「藺藤!」
馬乗りになっていたのを降りてもう一度脈を見た。同時に月夜が咳き込むように呼吸を再開した。
「危なかったな。あと、数瞬遅れていたら、あの世に行ってたぞ」
荒い呼吸を繰り返す月夜の具合を見ながら教官が淡々と言った。
夕香は手のうちに残る、月夜の硬いのど仏の感触に顔を引きつらせていた。月夜は時々咳き込みながら息をしている。
「あたしは……?」
「狐の瘴気を吸わせた挙句に殺しにかかっていた。天狐の瘴気は強いからな。こちらの解毒剤では抜けん」
「……はい」
教官の言葉に素直にうなずいて、月夜を背負って立ち上がった。
「連絡はまた後ででいい」
「はい」
そういって、夕香は、近くにあるであろう天狐の里に急いだ。