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そして、数日後。二人はもう一度、あの森に訪れていた。まだ、任務は終わっていない。そう、教官にしかられたのだった。
平日、誰もいない真昼間。本来ならば、月夜も、夕香も、学校にいるべき時間帯だ。だが、逢魔ヶ時と呼ばれる日暮れの時間帯に行くのも危険が伴い、朝では人通りが多すぎるという判断で今の時間帯に遂行することになった。
何も言わずに月夜が森に足を踏み入れる。その後を夕香がついていく。
そして、森に足を踏み入れた瞬間だった。
――ざわりと、森が騒いだ。
「封印が、解けているか」
ぼそりと漏らした月夜が剣印を薙いだ。人避けの結界を張って月夜は森の様子など気にも留めずに歩を進めていく。
祠のある中心部では、大きな猫が爛々とした目で月夜と夕香をねめつけていた。
「解いたら、まずいことになるな」
「どうする?」
と、猫が動き出した。同時に月夜が後ろに大きく吹っ飛ばされて杜の木々に叩きつけられた。
「藺藤!」
一時退散するかと飛び退った夕香だったが、猫の目が周りを見渡してうっそりと目を細めたのを見てやめた。第一に優先すべきは周りの人間の安全。
「くそっ」
吹っ飛ばされた月夜が一瞬で戻ってくる。受身を取ってダメージを最小限にとどめたらしい。
「我、求むるは火性の力」
月夜の周りに陽炎が揺らめき始める。
「言霊……」
「我望むは我らに害なす荒ぶる神の穢れをはらう」
『よく言うわ。そなた人間の分際で』
「射よ、来たれ、月の炎」
その言葉と同時に青い炎が具現化して猫の方に飛んでいく。だが、猫は尾の一振りでそれを弾き飛ばす。
「……!」
声を上げなかったものの月夜が顔をこわばらせた。同時にまた、月夜が吹っ飛ばされる。遠くに行くのを見届けて、夕香は、猫と一対一で向き合った。
『ほう、そなたは天狐か。合いの子とはまた珍しの』
「話がわかるお人でよかった」
夕香はそう呟いて、軽く剣印を薙いだ。同時に夕香の姿が淡い蒼い光りに包まれ始める。
『これは逸材。そなた、天狐の長か?』
「いずれは。まだ、長老は隠居していないもので」
にこりと笑う夕香の表情はどこか荘厳なものが漂っていた。
「なぜ、貴方様は、怒れる? それを聞きたく思います」
そう夕香が言うと猫又が口を開こうとした。同時に月夜の術が飛んでくる。
「うるっさい!」
夕香が月夜に向かって剣印を薙いでにらんだ。術がかき消された月夜は吹っ飛ばされ、さらに、上から下に叩きつけられた。
「これでしばらく黙っていると思います。申し訳ございません」
『血の気の多い人の子よの。術師には珍しい』
「自分の力を過信しているだけにございます」
そういって夕香はピクリとも動かなくなってしまった月夜にやりすぎたかなと顔をしかめた。それを見て、猫又はお座りの格好をして耳の裏をかいた。
『死んではおらんよ。そうそう、なぜ、か? だったな。見てわかるだろう。かの祠が壊されたからだ』
「それだけで?」
『それだけではないが。神がここから消えてしまった』
「殺された?」
『わからぬ。私自身も、祠が暴かれてから封じが取れたのでな』
大きな尻尾をぴしりと打って大きな眼が夕香を見る。夕香の周りはひんやりとした空気が漂っている。
「では、貴方様は?」
『そうだ。ここに封じられていた妖だ。異界に戻らせてもらえれば』
「異界にいられなくなるようなことしたのではないですか?」
『少し魚をいただいただけだよ。それだけで人界に落としやがって』
そういう猫又にふっと笑って持っていた数珠を宙に放って両手をぱっと開いた。水晶の珠が宙に散って猫又の首の周りにきらめく。
「貴方様の強い力を封じさせていただきます」
『それで帰れるか?』
「人界優先ですのであちらで目立ったことをしなければお咎めはないはずです」
そういって夕香は両手を閉じて猫又の首にその水晶の数珠をはめた。同時に猫又の大きさも小さくなり、普通の猫ぐらいの大きさになった。
「さあ、お帰りなさい」
夕香が小さく異界への入り口を開くと猫はするりとその中に入っていった。
同時にざわめいていた杜も静まった。
「おわったー」
夕香はその場に座り込んで深くため息をついた。ぐっとこぶしを握ってきつく目を瞑った。
ほっとして気が抜けてしまった。
夕香はその場にぱたりと倒れこんで何事もなかったようにすうすうと寝息を立て始めた。
同時に投げ出されていた月夜の足がピクリと動いた。
「あの馬鹿狐、最大出力で叩きやがって」
そうぼやきながら、月夜は体を起こし額に手を当てて頭を振った。
そして、ふと、静まった杜と妖の気配がなくなっていることに気づいた。
「祓ったのか? あいつが?」
祠に目をやると、くたりと延びている夕香がいた。立ち上がって駆け寄ると、夕香はただ眠っている。
「驚かすなよ」
静かな声でぼそりと呟いて月夜はそっとしゃがみこんだ。
狐の気配に反応して体が小刻みに震えて、手や額に冷や汗がにじみ始める。
小刻みに震える指を血の気のない夕香の頬に伸ばしてみる。滑らかな温かい肌の感触が伝わる。
脳裏に何かが閃く。
それは、待ち続けた少女、否、妹の物語。
朝に発つ兄を送り、夜に戻る兄を待つ生活を繰り返し、挙句の果てには兄に捨てられ、独りになり知り合いも何もいない世界で育った少女の物語。
月夜は、うめいた。父親の母の血が、こんなときに出てくるなんてと。
父親の母、つまり月夜の祖母は、吉凶を占う陰陽師の生まれだった。
それなりに占いも得意で、女性でなければ彼女が家を継いだだろうといわれた逸材でもあった。それゆえに祖母の力も少しながら受け継ぎ月夜自身も占いや祓いが得意だった。
「起きろよ、狐」
出てきた肩をゆするが、起きる気配はない。直感が働いたことによる動揺を押し隠しながら肩にかけた手を離した。
「おにい、ちゃ」
小さな声に、虚を突かれた。
ひくりと息を呑んだ月夜を、夕香はふっと瞳を開いて綺麗に赤みがかった茶色の瞳がぼんやりと見上げた。
射すくめられたように月夜の動作が止まり表情が強張った。
「いか、ないで」
小さな声でささやかれる、小さな少女の祈り。着たシャツの袖口をきゅっとつかんで夕香は、月夜に兄を重ねて、願うのだ。
震えが止まっていた。
月夜は、戸惑いながら、左の袖口を握っている夕香の小さな手をとって握り締めた。
ただ、それだけだった。
夕香は、満足気に微笑んで、また、くうくうと眠り始めた。
小さな手を握り締めながら、月夜は、戸惑いに強張った表情で、夕香の寝顔を見下ろしていた。
杜の中心で、茫然としゃがみこむ少年が一人。その手が握っているのは横たわる少女の細い手。
そして、少年の表情は、戸惑いではなく、ただ、どこか哀しげな何かが漂っていた――。