1-2
そして、夕刻。
夕香たちが寮と呼んでいる施設の表には月夜と先ほどの男性、道明が夕香を待っていた。
「おし、きたね」
「……」
夕香があくびをしながら外に出ると、道明がふっと笑って、月夜が目をそらした。そんな月夜にムッとしながら、夕香は、道明が運転する車に乗り込んだ。
「……で、封じられていたのは、何の神だ?」
「他愛ない神、民間の祈りを受けて神格化された猫だよ。まあ、古いらしいから、もしかしたら、猫又になってるかもっていうことだな」
「……そうか」
静かな月夜の声と飄々とした道明の声が狭い車内を行き来する。夕香は一人、後部座席に座って、その会話を黙って聞いていた。
「ほら、ついたぞ」
程なくして、車を止めて道明が外に出ながら言った。目の前には、深い杜。
むっとするような深い枯れ草の臭いと湿った臭いに、眉を寄せながら夕香は、背筋を撫ぜるものに身を震わせた。
「いくよ」
道明が、余裕な表情で森の中に入っていく。その後をついていこうとするが、月夜の表情がない。
「どうしたの?」
「……べつに」
言葉少なげな彼に目をそらして道明の背を追った。すぐ後ろを月夜がついてくる。
「ずいぶん、簡単な道ね」
「複雑にしても意味がないからだろう。ここら辺は昔、山だったからな。ここだけを残して、家にされちまったんだよ」
そういって、崩れた祠の前に立った三人は神がいた痕跡すら残していない杜をそれぞれに見回していた。ふと、月夜が膝を折って、祠の中から注連縄を巻いた石を拾い上げた。
「依代だ。……かなり前に暴かれたんだな」
呟くその声を聞きながら、夕香の耳が何かをとらえた。
「伏せろ!」
夕香の頭を押さえつける道明の大きな手。伏せた頭上すれすれに走る風刃。
「荒御霊」
月夜の呟きがやけに響いた。視線を上げると、立ち並ぶ木と大差ない大きさの猫が、体勢を低く構えていた。
「道明さん」
静かな月夜の声に導かれて隣にいたはずの道明を見ると、猫のはるか後ろにいた。
吹っ飛ばされたのだろうか。木にもたれかかって裂けた額から血を流して意識を失っている。
「……おい、狐」
「……」
立ち上がった月夜が夕香の前に立つ。ゆらりと上る陽炎は、炎の形状を表している。
「火性?」
「道明さんのところに行け」
静かな声と共に、剣印が空を切り裂く。炎が刃となって猫の目をつぶす。
一瞬で意図を察してその隙に夕香は迷わず猫のまたの下を通って気を失っている道明のところにいった。
「道明さん」
肩をゆするとかすかにうめいた。軽い脳震盪だろう。
そう判断して夕香は月夜の手助けをするために猫またの背に向かいなおった。何かを閉じ込めるように手を内側に合わせて指で格子を作り握る。
「ノウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ワンタラタカンマン……」
静かで低い夕香の声が辺りを浸食するように響いていく。じわじわと動けなくなっているらしい猫又の苦悶の叫びを聞きながら、あくまでも静かに夕香は霊縛法をかけていく。
「バン・ウン・タラク・キリク・アク。 我が真名において、汝を封ず。急急如律令」
滑らかな動きで月夜が五芒星を描く。同時に夕香の霊縛法が完成した。月夜の手にある石が二つに割れた。
「……。オン」
石を放り捨てて腰から札を取り出して、猫又に飛ばした月夜は両手で印を結んで眉を寄せた。
「仮だ。道明さん連れて逃げるぞ」
その言葉にうなずいて、夕香は猫又が完全に動かなくなったことを確認してから、術を解いて倒れたままの道明を背負った。
月夜が場を封じる障壁を築いたのを見届けて、森から抜け出して道明が運転してきた車にのりこんだ。
「帰るぞ」
月夜が手馴れた様子でエンジンをかけてサイドブレーキを解除してきた道を戻り始めた。
「あんた、車」
「無免許だから、どうにかおまわりに見逃してもらえる言い訳考えておけ」
そういいながら月夜は、片手でハンドルを操作して、普通に走っていた。
「何でそんなにうまいのよ」
「ゲーセンでどうにか」
不機嫌そうにぼそぼそ呟く月夜の声を聞きながら、夕香は意識を失ったままの道明の具合を見た。
たいしたことはなさそうだが、急いだ方がいいかもしれない。
そう告げると、月夜は肩をすくめて、ポケットから、一粒の丸薬を取り出した。
「口の中に放り込んでやってくれ。すぐに気がつくだろう」
「気付け薬?」
「ああ」
小さな丸薬で本当に効くのだろうかと思いながら道明の口をこじ開けて丸薬を突っ込むと、一呼吸もしないうちに気がついた。
「お前っ」
むせている道明に夕香は首をかしげて月夜を見た。月夜は、車のポケットに入れてあったらしいタバコに手を伸ばして指の一振りで火をつけてにやりと笑った。
「兄貴の薬はよく効くでしょ? 道明さん」
タバコの煙を吐き出しながら、月夜は言うと路肩に車を止めて、運転を道明と交代した。
「またお前は、タバコ吸って」
「おいてあるんだし、いいじゃないですか」
くわえたタバコを取り上げられながら月夜が唇を尖らして言う。どこか子供っぽいのはなぜだろうか。
「……ガーゼか何かあるか?」
まだ血を流し続けている額に手をやりながら道明が言う。その言葉に月夜がまたもやポケットから袋入りのガーゼを取り出して道明に渡した。
「うまくなったな」
「使い続けてもう何年だと思ってるんですか?」
そんな憎まれ口を叩きながら、月夜はシートを倒して道明に背中を向けた。
「寝るか?」
「準備も何もないまま術使ったから疲れた」
「そうかい、おやすみ」
そういいながら、道明はアクセルを吹かして何もなかったように運転を始めた。
「大丈夫なんですか?」
「ああ。大丈夫だよ。こいつが言ったように、こいつには兄貴がいてな、薬師をやっているんだが、そいつはよく効くんだ。さっき食わされたのもそれで、口に含んだ瞬間に臭くなるっていう悪趣味な奴で」
「うわ」
「まあ、昌也の奴も腕を上げたな。優也のよりずっと効くのが早い」
ポツリと呟くその声を聞きながら、夕香はそっと目を伏せた。昌也は、おそらく月夜の兄。優也は月夜の父だ。そして、優也は。
「優也さんて」
「こいつの父親で、……高位の狐に殺された。天狐ならば、名前は聞いたことはあるだろうが」
「長老から聞いたことがあります。……私も、見かけたらとらえるようにと」
「ほう、そちらではそんなことを?」
「人の世に害をもたらすのは一番の禁忌ですから。まあ、とらえるても、殺してもよし。 でも、藺藤一族当主を倒すほどの力の持ち主を、相手できるかは、別ですけど」
「君ならできるのでは?」
「天狐の中では力が強いといわれますが、私はまだ未熟です」
きっぱりという夕香にはどこか思いつめたものが漂っていた。
「君は、捕らえたいのかね?」
「……私の手でできるのであれば」
静かな夕香の声に、道明が笑った。片手をハンドルに残したまま、夕香の頭を撫で回す。
「なにすんですかっ」
わしゃわしゃとかき回すその手を振り払って乱れた髪を戻すように頭を振る夕香に道明が奇妙に凪いだ表情を見せた。
「一人で抱え込むなよ? やりすぎると、これになるぞ」
と指されたのは、寝息を立てている月夜。どこが思いつめているのだろうか。<そう視線で問うと道明はさびしく笑った。
「この子も、父を殺した狐を追っている。理由は単純だ」
「道明さん」
静かな月夜の声に確かな怒気が含まれている。その声を聞いて道明は目を丸くしてにやりと笑った。
「ああ、起きてたか」
「余計なこと、言うなよ」
「余計か? 自分じゃ言いにくいかと」
「こいつに、言うつもりはない」
きっぱりとした言葉に道明はそっとため息をついて、バックミラー越しに夕香に目で話しかけた。またあとでと。
「悪かったな、ほら、もうすぐつくぞ」
不機嫌な月夜がシートを戻して、ふてくされてドアに頬杖をつく。
「そうふてくされんなよ」
「ふてくされるに決まってるだろ。ざけんじゃねえよ」
そういいながら、車が止まった途端出て行き寄宿舎に戻っていった月夜の背中を見送りながら、夕香はそっとため息をついた。
「……、報告は俺からする。帰っていいよ」
そういう道明の言葉に甘えて夕香は車を降りて、寄宿舎にある自分の部屋に戻っていった。