1-1
序、
深い杜が広がっている――。
ぴしりと、何かがひび割れる、オト。不穏なその音に、杜の木々がざわめく。
腐った葉の臭いと、木の臭い。ふっと白い狐が現れて消える。その瞬間だった。
がしゃんと、何かが崩れる音。土煙と共に崩れたのは一つの小さな祠。とたん、光りがあふれ空へと消えた。
白狐がそれを見届けるようにもう一度ふっと現れる。
禍々しく光る目をそれを見送って九つの尾でぴしりと地面を叩き、杜の空気の中に消えていった。
――そしてこのときから、神はその土地から姿を消してしまった。
一、
「失礼します」
一糸乱れぬ男女の声が、重厚な部屋に、響く。
「入れ」
部屋にいたらしい一人の女性の声が聞こえた直後、扉が重々しい音を立てて開かれ、黒髪で色白の少年と、胡桃色の長い髪を持った少女が共に、ブレザーの制服姿で入ってきた。
「何か御用でしょうか? 教官」
露骨に少女を避けながら、少年は教官と呼んだ女性に目を向けた。童顔が厳しい表情に彩られている。
「そう邪険に扱うな、藺藤〈いとう〉」
「……」
無表情になった彼に女性はあきれたようにため息をついて、少女に目を向けた。胡桃色の髪を持った少女はどこか不機嫌そうにそっぽを向いている。
「お前たちに用がある。……お前たち、今日から最終過程に入ったことはわかっているだろう」
「ええ。……まさかと思いますが?」
語尾を釣り上げた少年に女性は一つうなずいた。
「その通りだ。今日から、お前たちで任務を遂行してもらう」
「は?」
ここまで無言だった少女と、無表情だった少年が嫌な顔をしてまぬけな声を上げた。
「それだけだ。評議会の承認も出た。異論はないな」
「教官」
厳しい低い声の持ち主は少年。険しい表情を強張らせて女性を、担当の教官をじっと見ている。
「なんでですか? 俺は」
言いかけた言葉を教官の手の一振りが消す。少年の握られたこぶしは少しだけ、震えている。
「実際の任務では、そんなことはいってられないだろう」
その言葉にうっと詰まる少年。それを見つめながら教官はそっと目を伏せた。
「本当に任務に支障をきたすのであれば、私の権限で変える。これで文句はないな」
「……ですが」
「バカでもこいつは天狐の姫だ。神狐の気を押さえてもらえばどうにかいられるだろう。 これ以上の文句は受け付けない。日向もいいな」
「はい」
日向と呼ばれた少女は不機嫌そうにうなずいて肩をすくめた。
少年はまだ、何かを言いたそうに教官を強い視線をむけていたが、教官がその細い眉を片方だけ釣り上げるのを見て、口元をへの字にして不服そうに鼻を鳴らしながらも目をそらした。
「私からは以上だ。そう、それと、任務については道明に聞け」
その言葉を最後として、教官は用がなくなったと言いたげに机の上に積まれた書類を片しにかかった。それを見て、二人は軽く頭を下げて、部屋を出ていった。
「……」
部屋を出て、少女をけん制するようにじろりとにらむ少年の顔色はなく、額には冷や汗がにじんでいる。
「ちょ」
少年は何も言わずにひらりときびすを返して、足早にその場を去っていった。
「……気を悪くすんな。ああいう子なんだ」
いきなり聞こえた大人の男の声に振り返るとすでに消えた少年の背中を目を細めてみる、三十過ぎの男性がそこにいた。
「道明さん」
「すまんね。月夜が君の気分を害したのであれば、俺が謝ろう。……あいつは、父親を目の前で狐に殺されたんだ。
その反動かはしらないが、狐の妖気や神気に過敏に反応するようになった。 ……酷ければ、気を失う」
「何で」
「さあ。……そのときの恐怖を思い出すからじゃ、ないかな。そこらへんは聞いたことがないな」
そういう男性は、肩をすくめてうっすらと笑った。その様子に少女は、日向夕香は目を伏せた。
「どうせ、そこらへんの野狐じゃないんですか? それと私たちを一緒くたにされるのは、私たちの矜持にもかかわるんですけど?」
「それもそうだ。だが、たしか、優也を襲ったのは、九尾だったような気がするな……。 そこらへんの野狐では、あいつの父親は殺せんよ」
「そんなに?」
「ああ。あいつは、母方、つまり月夜の祖母さんが陰陽師の一族で、爺さんが犬神の一族。
まあ、術者としてもかなり恵まれた血筋だな。……もちろん、優也だけじゃなく、月夜自身も犬神遣いであり、術者としての能力も申し分ない」
先ほどの少年、藺藤月夜の父親、優也が異形のものに殺されたのは、夕香たち術者の中では有名な話だった。
術者とは、この世にいる、あの世にもいる、一般の人々には見えない化け物と人々を橋渡しする、中間にいるものだ。
その姿は、人であったり、化け物、妖であったり、はたまた、妖と人との合いの子であったりと種族はさまざまだが、一様に術者を統括する組織に所属し、仕事をあたえてもらい生計を立てている。
「任務についてだが、お前たちの学校を中心にして北東の方向に、祠がある杜があるだろう?」
「ええ。古い土地神の鎮座するところですよね?」
「ああ。そこで、その祠が暴かれて、神が消えたそうだ」
「それって、熟練した人が受けるもんじゃないですか?」
「俺もそう反対したが、お前たちならできるだろう。むしろ、お前たちだからできるだろうという判断だ」
「あたし、あんま天狐の神気使いたくないんですけど?」
「使うか否かはあっちを見てくれ。まあ、俺も補佐に回る」
ふっと笑う男性に、夕香はじと目をしてから切り替えるようにため息をついて、彼に背を向けた。
「何時ですか出発」
「夕暮れ、かな。表に出ていてくれ」
「わかりました」
そういって、夕香は胡桃色の髪をなびかせて、自分の部屋とあてがわれている寮に戻った。
夕香は、術者の中では特異な分類に入る。なぜなら、夕香は、天狐と呼ばれる、狐の神に分類される異形の者の合いの子だからだ。
合いの子だが、そこらの天狐より力が強いために、実力主義の天狐の里の狐たちから姫と呼ばれ、敬われているのだ。
「だからって、あれはないよね」
全身で拒絶を表す月夜にポツリ呟いて、部屋に入り、つかの間の休息に身をゆだねた。