2-3
金蛇と呼ばれる隣町にいる知り合いの音色師をたずねて、任務の内容を話して、協力を求めた月夜が帰ってきたのは、夜八時過ぎのことだった。
月がふっと翳った。ふと、視線を上げると、一人の男が立っていた。月夜より少し年上の、きつい雰囲気のスーツの男だ。
「……なんの用だ。こんな夜分」
男は何も言わずに月夜に近づく。月夜は、バイクを片付けて、それと対峙して目を細めた。
「長老の言伝だ。これ以上逃げ回るのならば、われわれもそれなりの策を考えさせてもらう」
「やれるものならやってみろ」
中指を突き立てて月夜が笑う。男は、無感動に月夜を見返して、腕を一閃させた。指を鳴らして、その一閃での攻撃を無効化して、月夜は人差し指を男に突きつけてにらむ。
「やろうってか? 上等だ」
その言葉に反応するかのように月夜の周囲に風がまとわりつく。
「……」
男の一瞬の判断は実に冷静だった。腕を一閃させて異界へと帰ったのだった。翻った男の袖を見ながら、月夜はそっと息をついた。
「まったく」
藺藤一族宗家の血筋にいてなおかつ、犬神を出せるのは月夜だけだった。血統主義の一族の長老は、月夜を捕まえて意地でも正統な宗家にしたいのだ。
さっきの男は、その長老の刺客だった。確か月夜の四つ上のはとこだったはずだ。
「俺はそんな暇じゃねえっつーの」
消えた背中を見つめながらそう呟いて、月夜はがくりと膝をついた。
月明かりでは見えないが、明るいところにいれば、一目瞭然だろう。月夜の顔色は真っ青を通り越して真っ白だった。
夕香や他人の前には見せてはいないが、いまだ月夜の体を瘴気が蝕んでいた。このように不意に訪れて月夜の呼吸を阻む。
「っあ、はっ、はあっ」
途切れがちな呼吸を繰り返して地面に着いた手で地をかいて肩を怒らせた。
「っく」
闇に紛れながら苦しげな表情を隠そうともしないで、月夜はその嵐が過ぎていくのを待っていた。
「月夜?」
小さな声に飛び起きると、隣に夕香がいた。気がつけば、月は視界から消えて白みかけた空が見えた。
「……」
意識を失い今まで外に転がっていたという事実に月夜は顔をこわばらせた。
「どうしたの? ここに倒れてたけど」
かけられていた夕香の上着を返しながら月夜は胸に手を当てて、呼吸が出来ることを確認してから立ち上がった。
「なんでもない。……めまいがしただけだ」
そういって、歩こうとするが、足元がふらついている。ふらふらと歩く月夜の腕を取って、夕香は顔を覗き込んだ。
「めまいがしただけじゃないでしょ」
「べつに、平気だ」
そういって、月夜は夕香の手を振り払って歩いていこうとする。
「ねえ」
「平気だ。具合が悪そうだってわかってるなら話しかけんな」
そうあしらって、ようやくしっかりとした足取りで進めると思った月夜は、そのまま二、三歩歩いて、意識を飛ばした。
ぐらりとかしいだ体に夕香がすばやく駆け寄ってそれを受け止めた。
「月夜!」
倒れこんできた体は冷たく、顔を見ると真っ白だった。浅く閉じられたまぶたは小刻みに震えて眉が寄っている。
「……瘴気? 何で?」
月夜の呼気から漂うにおいに夕香が反応して首をかしげた。そっと、月夜の薄い胸板に手を当てて月夜の体にわだかまる瘴気を確認して息を呑んだ。
「嘘、こんなんで……」
体を蝕む瘴気は相当なものだった。普通ならば、倒れて寝込んでいてもおかしくない量の瘴気。
ぎりぎり夕香の手の負える範囲で浄化できる量だが、それでも普通に動いていた月夜に夕香は唇をかみしめた。そして夕香は、月夜を背負って急いで寄宿寮に急いだ。
寄宿寮の裏口から中に入り月夜の部屋へ向かう。はじめていくはずの月夜の部屋は探さないでも着いた。
「ここ」
目の前にあるのは黒い扉。金属製の、マンションやホテルにも劣らないオートロック式の最新型だ。果たしてあいているのだろうか。
じっと、見つめてゆっくりと扉の取っ手に手をかける。ふ、と香る古書の匂い。いつぞやに月夜の香りだった。
がちゃりと音を立てて開く扉に驚きながらも一歩玄関に足を踏み入れた。
ふわりと包み込むような古書のにおい。かすかに香るミントのような爽やかな香りを嗅ぎながら靴をそろえずに中に入る。
白と黒に統一された家具とその配置、カーテンは落ち着いた茶色で、一目で月夜のセンスがとてもいいと思えた。適当に安い家具を部屋に詰め込んだ夕香とは大違いだ。
月夜のベッドを探し当てて、そこに月夜を入れて汗にまみれているその前髪をかきわけてやって、白いまぶたにそっと触れた。
「……」
ひんやりとした肌の感触に目を伏せた。すうすうと寝息を立てている月夜の首筋に手を当てて熱を測って整理の行き届いた部屋を見回した。