1-13
そして、夕香が目を覚ましたのは夜中だった。
電気もつけられていない真っ暗な部屋で体を起こした夕香は伸びをしてから、立ち上がった。
「……」
手探りに歩いて、扉の方に向かうと冷たい手に手をとられた。
ひくりと息を呑んで顔を上げるとぼんやりと影が浮き上がってきた。ふわりと漂う、古書の甘い匂い。
「日向」
静かな低い声に、肩に入った力を抜いて顔の辺りをみた。
「藺藤」
「その声は、もう平気なんだな。……腹でも減ったのか?」
図星を指された言葉にうつむくと、そっと頭に触れられた。
「パン粥でいいなら、作ってあるが、食べるか?」
「パン粥?」
「パンをスープで煮たやつだ」
目がなれてきて月夜の白い肌が浮き上がってくるように見えた。
「とりあえず、そっちに行こうか」
肩に自然に手を回されて隣の部屋に、普段の生活スペースに場所を移された。
ソファにつれていかれ、夕香は腰掛けながらふっと消えた肩のぬくもりを目で追って、月夜がなに不自由なく電気をつけていて首をかしげた。
「夜目利くの?」
「ああ。犬神と感覚を共有しているからな。してなければ、視力は悪い」
「どれぐらい?」
「コンマ下だ」
「D?」
「しいて言うならばEだな」
肩をすくめる月夜に、夕香は引きつった笑いを浮かべてソファに背中をもたれさせた。
「まだしんどいか?」
キッチンにたって慣れた様子でコンロに火をつける月夜の姿を眺めながら夕香は首を横に振った。
「大丈夫」
月夜が一つのマグカップを夕香に差し出した。
「ミルクティー?」
「チャイだ。すこしシナモンを多めに入れたが、大丈夫か?」
「うん」
温かいマグカップを受け取ってふわりと揺れる湯気からの匂いにふっと表情を緩ませた。
「少しからいか?」
「ううん。おいしいよ」
「そうか」
月夜はまたキッチンに入って、なべの中身をかき回して、あらかじめ焼いていたらしいパンを切って皿に盛り付けている。
さくさくとしたパンが切られる音を聞きながら、夕香はマグカップの中身をすすってから時計を見た。
午前三時。
あまりにも遅い、むしろ、早すぎる朝に夕香が顔を引きつらせて月夜を見た。月夜は、夕香が意識を失う前の格好と同じだ。
「ずっとここにいてくれたの?」
「……必要なものをこっちの部屋からとるのに少し離れただけだな」
「そんな、もう遅いから」
「別にいい。明日もオフだ」
「学校!」
「お前からそんなことを聞けるとはね」
苦笑気味に言う彼に夕香は唇を尖らせて見ていると、そこのある皿に熱々のスープのかかったパンが入ったものを月夜が持ってきた。
「……大丈夫さ。ほら、くいな」
笑って夕香の前においた月夜は、夕香の頭に手を置いた。
「今、具合が悪いのは誰だ? 俺はもう大丈夫だ」
そう言い聞かす声がどこか深い。夕香が見上げて不思議そうにしていると月夜はぷいっとそっぽを向いて目をそらした。
「……て、俺の兄貴が言ってた」
遅れて付け足されたその言葉に夕香は、小さく噴きだした。片手で口元を押さえて小さく肩を震わせる夕香に、月夜はそっぽを向いたまま鼻を鳴らして夕香の頭を軽くたたいてキッチンの方に戻った。
「洗い物、片しておくぞ」
「え、そんないいよ」
「片付けはしない。鍋洗うついでに洗うだけだ」
そういって、手際よく洗い物をはじめた月夜を見ながら、目の前にある食べ物の誘惑には打ち勝てずに夕香は目の前に置かれた、優しい味のパン粥をほお張り始めた。
「ねえ」
「ん?」
返事の声が柔らかい。それにふっと笑いながら夕香は月夜を見た。
「ありがと」
ポツリとした言葉に、月夜は一つ瞬きをして固まった。
「……」
ぽろりと手にあった皿がシンクの中に落ちる。水の中に落ちた皿は盛大な水しぶきを上げて、月夜の袴を汚し泡だらけにした。
「わっ」
ようやく我に帰ったのか水がかかったところを振り払いながら、月夜はうつむいてそっぽを向いた。
「なんか、変なこと言った?」
月夜の様子がおかしいことに気づいた夕香が食べながら首をかしげた。
「いや、……っ。…………その、人から、礼言われるのって、久しぶりで……」
動揺しているらしい月夜はきょとんと見つめて、一拍遅い形で夕香は笑い始めた。
「そんな、何で動揺してんのよ」
白い耳を真っ赤にして月夜は腕で顔を隠しながらそっぽを向いている。
日も差さない朝早く、一つの部屋には屈託ない笑い声と、慌てたような声が響いていた。