1-12
「何でだと思う?」
「……恐怖」
ぽつり呟いたその答えに教官は静かに月夜を見返した。
「だけではない。確かに恐怖からくるものもあるが、いつ、襲われるかわからないという緊張、パニックを起こすことを恐れている節もあったな」
「……」
無言になった月夜に教官はそっと目を閉じてため息をついた。
「でも、それがない。……なぜか。お前は日向の存在を認めた。少なくても肩の力が抜ける存在だと思っただろう」
「……」
「だからそれは収まった。ほかの狐にもそうであったのであれば、 あの一件でお前に受け入れる態勢が出来た。それだけだ」
「それを、狙ったんですか?」
「まさか。可能性としては頭にはあったが、ここまでうまくいくとは思わなかった。 ……うれしい誤算だな」
「死にかけたんですけど」
「死にそうになっても、私が許さんよ」
「教官ならやりかねませんね」
笑う月夜の表情に教官は笑ってふっとため息をついた。
「私の話は以上だ」
「はい」
やわらかい月夜の声音に驚いたように教官が顔を上げる。だが、月夜は背中を向けて去っていく。
「……」
虚を突かれたような顔をした教官だったが、うつむいてふっと笑って胸元を押さえて目を閉じた。
手に絡まっているのは、一つのロケット。その中にはどんな写真が納まっているのだろうか。
「ようやく、歩みだした」
しみじみとした呟きは、月夜たちが来る前に教官に指導を受けていて、伸びていた小さな狸が聞き届けていた。
部屋を出た月夜は、しばらく廊下を進んでふっと足を止めた。
「瞬」
言霊一つで顕現する犬神。大犬の姿のそれに、夕香の部屋を探させて壁に背中を預けた。
「……」
一人しかいない廊下で、月夜は教官の言葉を反芻させていた。
「……拒絶、か」
呟く月夜はそっと腕の中の体に目を向けた。熱を出しているであろうその肢体は細く、たおやかで力をこめればすぐに折れそうだった。
「すまなかったな」
そういってしばらくしてから、らしくないことを言ったなとふっと苦笑をした月夜に犬神が戻ってきた。
犬神はその鼻面を押し付けて、ふっと身を翻して尻尾を振った。
「そっちか。……ああ、あそこか」
歩を進めようとした月夜に犬神が見てきたものを頭に直接送り込んできた。
背中を離して月夜はぐったりとした夕香の体をしっかりと抱きながら、歩き始める。そして犬神に導かれるまま歩き着いた部屋は、日当たりのいい建物の端っこの部屋だった。
無言で一歩入って足を止めた。ふわりと香ってきたのは優しく、甘い匂い。
懐かしみのあるその匂いが白檀の匂いであることに気がついてから、月夜はふっと表情を緩めた。
靴を脱いで、六畳二間の部屋を見渡して、隣の部屋にベッドがおいてあるのを確認してベッドに歩き出した。
犬神が外で足踏みをして待っているのを見てため息をついて、異界に戻してやってから、夕香をベッドの中に入れてやった。
ベッドと必要な家具、たんすしか置いていない寝室に、月夜は興味深そうに眺めて、肩をすくめた。
夕香の額に手を伸ばして、触れた。夕香の額は温かいが、それは月夜の手が冷たいせいもあるだろう。自分の額にも手を伸ばして、月夜は目を細めた。
「わかんねーな」
ぼそっと呟いた言葉に自分自身で苦笑した。むしろ、自分の方が熱が高いように感じたのだった。
月夜はふっとため息をついて、玄関があるほうの部屋に移動し、おいてある小さな冷蔵庫うにたくさんある氷で氷枕を作って小脇に抱えた。
「タオル、どこにあるかな」
ぼそぼそと呟きながらキッチンの食器棚の引き出しをあさってふきんのような、手ぬぐいのようなものを取り出して、水でぬらしてもって、夕香の元に戻った。
まず、夕香の額にタオルをおいて、氷枕を夕香の頭の下においた。その冷たさに、まぶたをを震わせた夕香を月夜は静かに見下ろしていた。
「藺藤?」
「気がついたか」
その瞳が焦点を結んでから声をかけて覗き込んだ。
「ここは?」
「お前の部屋。……勝手にすまない」
そっと手ぬぐい越しに夕香の額に触れて月夜はふっと表情を緩めた。
「なんか、ほしいもの、あるか?」
やわらかい月夜の声に夕香が不思議そうな顔をしたが、ふるふると横に首を振った。
「食べられないものはないな?」
首を縦に振ったを見て月夜はそのまま額に触れていた手で夕香のまぶたを覆った。
「ならいい、……ゆっくり休め」
「……うん」
搾り出されたようなしおらしい声に月夜はそっと目を細めてふっとうつむいた。