きぬぎぬ
一
……ほどは雲井のあなたになりぬとも、契りしかたみの宿る袖、むかし見し人の香ぞする袂にぞ、天原空ゆく月の光こそ、こほり閉じられけむばかり、冴え冴え昇る雪げのうちに、つらき心の想ひ初めしは、誰がためにか白波の、寄せてはかへす龍田河、色には出でざれ、しるくは君が元にこそ、積もりてぞあるもみぢ葉の、くれなゐの錦瀬々に浮かび、流れてゆくなる飛鳥河、淵こそ深み、縁にもまたや……
春は曙の朝まだき。玉章の続くなる、長ければ果てまで読まず。「あらつたなの手、かはいらしいこと」、ころころと笑ふ口元は艶めきてゐたり。朋輩の女房横より差し覗き、「何と凝つたつくりの艶書だこと、浦山しい浦山しい」と此は岡焼きに非ずして冷やかしにてかかる。それへ返すは視線のみに、先達ての上機嫌はどこへやら、ついとい立ちて物も言はず奥へ隠れぬ。後に残したる玉章の結ひつけてありし黒き松が枝を、朋輩手にとりて思ふやう、不思議やなこの時期に他の相応しき木々も尽きざることに、異やうなる松が枝とは、と。さては待つといふ心にかけたるか、見え透いたもの、器用の人にはあらざらきな。
上京の貴顕に遣はれたる女房の中、伊予といふは才見目衆に秀でて下臈の者とは思へざるほどに才立ち器量好き女なれば、我が妾にせんと言ふて通はんとする旦那などもあれど、伊予はつれなくあしらひ返し文に寄る辺も見えざりければ、泣く泣く引き下がりしとは、もつぱら巷間の噂なり。
かやうに突慳貪なる振舞ひのみ聞けば、性根の悪しきやうなれど一目なりとも実見あれば愛敬満ち満ちて笑みはこぼれん許りなり。一笑一顰則ち傾城傾国に関はり、沈魚落雁、花も恥じらひて凋み月もその面を隠すとは佳人を讃へる古人の文飾、事柄流石に大仰に過ぐるが、眼は切れ長に芙蓉の貌、膚は清明かに衣通るかとぞ思ふ眩さ瓊玉の霊秀なるが如しと評したるは当世名高き何処かの風流人とかや。
さらばとて男ぎらひといふ訳でもなし、引く手のあまたとあるうちには気に入りさうな御仁のありさうなものなれど、いつかな靡く気配もなければあれは変人よ気狂ひよと謗る輩が五分、残りの五分はいやいやあれは心に決めた男のあるに違いなし、見上げた志のいみじさよと褒むる口なり。
斯く巷説にのぼる伊予の心中いかなりしや、知るものは伊予を於いて外に非ず。朋輩の横槍入るる暇があらばこそ、己が気持ちの自覚させらる次第といふもの。今朝の浮かれた態度に我ながら腹立ちぬ。忘れようと決めたことではないか。それを今さら蒸し返そうと何となるものではなし。綿々と恨み思ひ続けて詮方無きこと、それは先方とてわかつてゐように。その心中知つてか知らずか傍らより口伝てとどき、好き人より使ひ起こせるとぞ、と言ふは例の冷やかしせし女房なり。衛府の尉様は世評も悪からず好き男振り、しかも風の便りに聞いた所ではお前とは昔馴染みだといふではないか、あまりお高い家に嫁すのは窮屈で嫌だといふなら気の置けない仲の殿方こそよからう。どう考へてゐるのか知らぬがかやうな好機逃して又とあらじものゆゑ首尾良くやつた方が良いのではないかやと畳み掛ければ、「我に存念あり。彼の人と我と昔馴染みといふは真なれど、これとそれと話は別なり」、ゆゑに心配は無用と返し常の如くなり。
夜半、十六夜の月出でて皎たり。望月には似てしかも雲の闕を隠したる風情、あざやかに映ればその下の人も同じく、寥々(りようりよう)たる闇の内に月影軒より漏れ、渡殿に照らされたる伊予の姿あり。窈窕は目を惹き、ゆるやかに纏ひつく黒髪と裳と、見る者ありせば則ちはつと気をとらるる姿態、おもむろに運ぶ足取りの向かふ果ては釣殿の待ち人のゐる所なれば――ああ、女なりけりる身の恨めしさがこれほど沁みることのあらうか。我が男なりせばかやうな思ひは味ははずに済むものを。否、待つこともあらじ。待たずとも自在に往くこともできやうに。さう、あの男は自在に飛んでゆける。宮づかへのありやなしなんて関はらうか。女の身ほど世に持て余され、哀れなるものはなし。
小綺麗な格好の女童一人、待ち侘びたる風情にてゐつ。伊予を見ればすなはち躍りつかんばかりの勢いにて駆寄りて「兵衛様は明日明後日の宵にても、幾日の后になりぬとも必ずや見えんと言ひてし。妾は君の御返事を伝えよと承りて侍る」莞爾と咲ひて慕わしげなる面付き。往時の己を見る心地なり。
池に臨めば春風微かなれど水の紋さへ分明に見ゆ。片身には眼の覚ゆるやうにおぼえて、また片身には我ながら我とも思へず。ざつといふ葉擦れの音鳴ればゆらゆらと波立つ水面に映りたる月影も掻き暗みてはまた巡りて。
「去にし方は知らず。破鏡は再び照さずと古の人も言ひたり、と言伝てよ」
移りゆく雲のあはひより光るは今日の月かと疑ひ、懐ひの至るはいつなりしか鶏明の朝、夢かうつつか昔見し人の面影霞みつ。
二
「難しさうな御本ですこと、貴方は勉強家でいらつしやるといふ訳でもありませんのに珍しい」文読む声途絶えて少年つい居立ち、首を廻らして辺りを見れば格子越しに少女の顔あり。互いには竹馬の友、縁戚浅からず世間様より見ても釣り合ひのとれたる家格なれば筒井筒の行く末は成りなむと親も示し合はせたり。されどこの頃は顔を会はすも恥ずかしき年頃、常の態度を装へど音声は上滑つて定まらず。何と無く言葉も掛け難くすずろになりて、やり取りはしどろもどろなれば、少女は呆れて先程措きし文取り上げ、見れば文集にも非ず文選にも非ず公任卿の朗詠集なり。「やまと歌は嫌ひではなかつたかしら」と問はるるに、嫌ひではない、唯やまと歌は唐歌と違つて自分でつくるのが苦手なのだといふ返事をするのがようやつとなり。
視線を向くるのさへ気まづいのは、周囲の眼が面映ゆさの元となりたる所以か、ただ打ち過ぎる時を共にして、稚気のあふれるたはぶれ遊びとも程遠くなりぬことをのみ思ひつつ、或いは立ち或いは座し落ち着き挙動所作にあれど何かを覚りて呼応する気配のあれば。
時しも夕つ方近づき日傾きぬ。空模様やや暗くなりて彼方の山陰は気味の悪き景色、加えて蜩の声さえす。もうおいとました方がよろしくはございませぬかとは乳母の言。
帰り支度をする後ろ姿の黒髪の引かるる思ひなきにしもあらず、少年は私かに声潜めて「今宵、我から参らん。きつと待ちてよ」と微かに告げぬ。わかつたやうなわからないやうな顔つきを後目に、ばつと背を向けて奥に入りてその侭表にも出でざりけり。臥して天井を見上げつ――今宵は雲も無き望月なれば闇路に迷ふこともなかるべし。爾来行かむとすれど行けず、二の足踏みて進々なかりしが、怯懦は男子の業には非ず。煮え切らぬ態度は今後絶つべし。さうださうだ斯く悩みても詮のなきこと、物事は一気呵成に為し遂げねばならぬ。
外を見れば夕霧立ち込め、案に相違して暗き道程なれども一度固めたる考へを翻す気は到底無く、信用置きし下人一人を伴にて忍び出でるやつし姿、まさかにも正体覚られることなけれ、衆民と見分けもつかぬ微行なり。
三
私語がしきりに聞こえてゐた。少年に対する評は冷たい。まつたくけしからぬことである。いや、正確には当時の風俗として彼の訪ひは悪評蒙るといつた性質のものではなく、寧ろそれはごく一般的な行動に過ぎなかつたのだが、本来ならいまだ内密にすまされるべき私事を衆目に露見してしまつた点が非難されてゐるのである。
当然事は両家の家長が截断すべくなつたのはいふまでもない。少女の親は少年の粗忽を嫌ひ、爾後関はりを持たせないやうに裏から依頼することになつたし、そもそも少しまへに一家は念願叶つて富貴な任国へ赴くことが決定してゐたから仮に今回の事件がなくとも自然と二人の関係は絶たれる運びになつゐた。
「まあおまへが騒ぎたてたのもよくなかつたよ」と母親が言ふのを泣き腫らした眼で聞いてゐた少女は――夕風に乗る鴉の声さへ朝の鶏鳴と交はつて聞こえる。声だ声だ。音。やまと歌は嫌ひと言つてゐたから? 違ふ。逢ひ難いのはわかつてゐたから。いかでかは鶏の鳴くつて言つてゐたのは? 常磐なる松の緑。ああ、これも違ふ。さうだどうして忘れてゐたんだらう。文集の、夜半人無くささめごと、願はくはならん比翼の鳥。間違つてなんかゐなかつたんだ。互いに考へてゐたことが通じあつてゐなかつた訳はない。仄暗い中で互いの顔はずつとはつきり見えなかつた。消えかかつてゐる灯火をどうにかしようと少年が言つたと同時に、鳥の声がした。二人で眺めてゐた朧月はいつの間にか沈んでゐる。その音は曖昧で、婉転とした面立ちが対照的に浮かびあがつたやうな気がしたのは、微かに差し込んだ暁の所為である。痛みは骨髄深く、ああ誰が思つてゐたものか。狂つた鴉、狂つた鶏め。邪魔をするのみだけではないのか、時をつくるにはまだ早すぎる。思ひのたけはまだ闇の内なのに。