蕾のまま、春
春が来る、と誰かが言った。
けれど、窓の外にはまだ雪が残っていた。
「もうすぐ桜、咲くね」
そう言ったのは、隣の席。
別に仲良くもない。ガリ勉の田中。
私は片耳のイヤホンを外す。
残る片耳で流れているのはお決まりの卒業ソング。
もう何年もこの曲は定番になってる。
「……ええ。そうね」
少し考えた後、私は至極淡々と応じた。
いつかは咲く。
事実、それはただの事実だ。
「ああ」
田中は秀才で、いつも一人でいた。
人伝に聞くに、どうやら医者を目指しているらしい。
「伊勢さんは、どこに進学するんだっけ?」
田中が尋ねる。
「ああ、近くの高校。友達はみんなそこにいくからね」
田中は机の端に視線を落とした。
彼は有名な進学校にいくらしい。
その中でも特進コースを受験したって聞いた。
あの学校からは、毎年何人も東大合格者が出ている。
「お医者さん。目指してるんだって?」
自然に、そんな問いが口から溢れる。
「あ……。ああ」
田中が答える。
「すごいなあ。誰かを救うって」
素直にそう思った。
私は、違う。
誰かの命を背負って生きるなんて。
そんな重たい覚悟が要る人生なんて、まっぴらごめん。
私には荷が重い。
だから、彼がそんな道に憧れると聞いてひどく尊敬する。
「そ……そうなのかな?」
「何言ってんの? そうに決まってる」
「……うん」
「あの高校に、行くんでしょ? おめでとう」
「あ……」
「いいよ、みんなが噂してる。知ってるもん」
「そうか……。みんな知ってるんだ……」
田中は寂しそうに答える。
彼ほどの秀才でも、地元の学校に進めないことが寂しいのかもしれない。
「うん。応援してる」
私はそっと田中に答えた。
「伊勢さんはさ……」
「うん」
「伊勢さんは、何になりたい?」
「……え?」
「伊勢さんには……何か、夢はあるの?」
「あ……」
私の夢。
夢か……。
「ううん。まだ決まってない」
「そうなのか……」
寂しそうに、田中が肩を落とす。
「でもね……」
不思議と、口が開いていた。
「今はまだいいの」
「え……?」
「“蕾”だから」
私はそう言って、外したイヤホンの片耳を差し出す。
田中はそれを受け取って耳に寄せた。
一つのコードで音楽を分け合う。
聞こえてくる歌詞には、やっぱり何度聞いても共感はできない。
だって、“私に見えてる景色”と違いすぎる。
「いいんだ。まだほら、咲くのはずっと後なんだから」
私が指さしたのは、校庭の桜。
「うちの校庭の桜は、本州よりも遅いんだよ」
私は言う。
北海道の桜は、GWの頃に咲く。
卒業式には間に合わない。
「だから、まだいいの」
まだ雪の残る三月の校庭。
同じ日を迎えたって咲かない花はある。
私はそれを知っている。
「散ったんじゃない。まだ咲いてないだけ」
田中がイヤホンを落とした。
重さでコードが引っ張られて、私は隣に視線を向ける。
飛び込んでくる田中の横顔。
彼は泣いていた。
「どうして泣いてるの?」
私が尋ねる。
「い……いや、別に……」
田中はごしごし頬を袖で拭って、恥ずかしそうに顔を背けた。
男の子って、卒業なんかで普通に泣くんだな。
共感できない歌詞を耳に、私はそんなことを思う。
「ありがとう」
田中がそう言った。
寒さに擦れた頬が少し赤い。
まるで、桜のような桃色。
どこか吹っ切れたような瞳は澄んでいた。
初めて、田中のそんな顔を見た気がした。
その瞬間、何かが私の胸の奥で“蕾”になった。
「なんで感謝されたかはわからないけれど、どういたしまして」
そう言って勉強道具を鞄にしまう。
言葉と一緒に吐き出した息が白い。
私はもう帰ることにした。
ただなんとなく、少し居心地が悪かったから。
もう会えなくなる人に、いまさらこんな感情を抱くのは嫌だった。
鞄を肩に、私は席を立つ。
「あの……伊勢さん」
田中の声が、背中から私を呼び止める。
その声を、私は聞こえないふりをした。
イヤホンをまた両耳に戻す。
薄っぺらな歌詞でもいい、この耳に蓋ができるなら。
「じゃあね、田中くん」
振り返らずに歩き始めた。
なぜだろう。少し視界が歪んでいる。
私って、卒業なんかで普通に泣くんだな。
共感できない歌詞を耳に、私はそんなことを思う。
「またいつか」
口からこぼれた言葉は、いったい誰に何を言いたかったんだろう。
蕾のまま春を通り過ぎようとする桜が、まるで私みたいだった。




