「儚夏露 -ハカナツユ-」
あの夜、夏は肌にまとわりついていた。浴衣越しに伝わる熱、屋台から漂う揚げ物の匂い、遠くで鳴る太鼓の低いビート。
世界の輪郭は少しずつぼやけていき、僕の意識はただ一人に縛られていた。あなたに。
「見て、あの花火。」
あなたが指さす夜空に、大きな玉が破裂した。煙と光が混じり、横顔が白く浮かび上がる。
「綺麗だね。」僕は声をかけた。けれど声は小さく震えていた。
「うん。夏っぽいでしょ?」
あなたは笑った。白ワインの泡みたいに軽やかな笑い声が、ざわめきに紛れて僕の胸へ溶け込んでいく。
「浴衣、似合ってるよ。」思わず口にすると、あなたは少しだけ頬を赤くして視線を外した。
「そう?……ありがとう。」耳にかかる髪を指で直す。その仕草ひとつに、僕は心を奪われる。
屋台を抜けながら、僕は言葉を探していた。けれど声よりも先に体が動き、ただ隣を歩くので精一杯だった。下駄の鼻緒が食い込み、小さな痛みが自分の頼りなさを教えてくれる。
「ねえ、これ食べる?」
あなたが買ってきた串を差し出す。
「ありがとう。」受け取るとき、指先が触れ合った。その一瞬の熱が、胸をかき乱す。
花火が次々に打ち上がる。夜空を裂く光に、あなたの表情が刻々と変わる。
「ずっと、こうしていられたらいいのに。」僕はつい口にしてしまった。
あなたは少し間を置き、首を傾げるように笑った。
「……そうだね。でも、来年って言えるかな。」
その言葉に僕の胸は跳ねた。冗談のように軽く、それでいて深い影を落とす声色。
「どういう意味?」僕は問い返した。
「仕事のこととか、引っ越すかもしれないこととか。……分からないの。」あなたは夜空を仰ぎながら弱く笑った。「今は楽しいけど、先のことまでは約束できない。」
僕は言葉を失った。未来を描きたい僕と、未来を断ち切るあなた。その距離は、言葉ひとつで形を持ってしまった。
「そう……だよね。」かろうじて口にした声は、自分でも頼りなかった。
すれ違いはほんの一瞬だった。でも確かに、二人の間に溝を刻んだ。僕は横顔を盗み見た。花火に照らされる瞳は楽しげで、それでいて遠くの世界を見ている。僕の隣に立ちながら、心は別の時空にいるようだった。
その後の沈黙は重く、けれど手は離せなかった。
川沿いに出たとき、あなたはふいに立ち止まり、小さな紙片を差し出した。花火の半券のように薄い切符だった。
「これ、明日の仕事で使うんだ。……終わったら、また会えるかもしれないから。」
「うん。」僕は受け取った。指先が触れた温もりを手のひらに閉じ込めるように。
——翌日。
駅前のカフェで、僕は切符を胸ポケットに入れたまま待っていた。時間が過ぎ、コーヒーは冷める。けれどあなたは現れない。携帯を何度も見返すが、通知は来ない。
「来ないのかな……」つぶやく声は、風に消えた。
数日が経ち、僕は再びあの祭りの通りに立った。人混みの中で見覚えのある浴衣を見つけ、心臓が跳ねる。駆け出そうとした瞬間、その姿は群衆に飲まれて消えた。僕は立ち尽くすだけだった。
後日、友人に話すと軽く笑われた。
「そんなのよくあるよ。夏の恋だろ?」
僕も笑ってみせた。けれど胸の奥では違った。あの夜の手の温もりも、耳に残る声も、僕には本物だったのだ。
——季節は巡り、夏は遠ざかる。
僕は引き出しの奥からあの切符を取り出し、川沿いに立った。紙は少し黄ばんでいたが、触れるたびにあの夜の匂いが蘇る。
「もう一度会いたい。」自分に問うと、答えはいつも同じだった。
僕はその紙片を風に任せた。ふわりと舞い、水面に落ちてゆく。
夜空を見上げると、小さな花火が一つ、孤独に咲いて散った。
世界はあなただけを映してはくれなかった。けれど、そこで芽吹いた情花は今も僕の中で咲いている。散る定めでも、咲いたことは確かだったのだ。
僕は少しだけ笑った。切なさと温もりが混ざる笑みを、誰にも見せることなく。
本作は、夏祭りという舞台を借りながらも、根底には僕自身が過去に体験した感情や、欲望と金銭が飛び交う夜の世界の光景を重ねています。
夜の嬢とお客、その関係性には、刹那的でありながらも確かに存在する「熱」と「距離感」があります。約束できない未来、交差しては消えていく思い。そんな矛盾を、夏の花火の儚さと重ね合わせて描きました。
表面的には淡い恋の物語でありながら、裏側には「すれ違い続ける関係の構図」が流れていることを、少しでも感じ取っていただければ嬉しいです。