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慰霊碑

作者: 安城要

寅さんを知らないか、とミステリー研究会の部室に入った途端肩を叩かれたのは、伊藤達彦が、ちぃ~す、のいつもの軽い挨拶をする前だった。

振り返る。

同じ経済学部の親友、南海薫の見飽きた顔がそこにあった。

「寅さん?」

なんだよ先に来てたのかよ、探したんだぞ、と軽く罵った後、達彦は聞き返した。

「さあ、ここんとこ会ってないな」

というよりも、部の先輩である寅さんこと村上信也とのつながりはほぼ部内に限られ、在学時間のほぼ半分以上、部活中はほとんど一緒にいる薫に改めて聞かれるほどに、彼との関係があるわけではない。

「ていうか、あの人、いない方が多いだろ。てか、なんで探してるんだ?」

いや、とちらっと部室内を見回した達彦に顔を寄せて声を落とした。

「ちょっと、いいの、を回してもらう約束しててさ」

スケベめ。

「それが、全然連絡取れなくなってさ。ラインも既読つかないし、電話もメールも反応なし」

「逆に、寅さんらしいって気もするがな」

いやさ、薫は再び部室の中を小さく見回した後、更に声を落とした。

「なんか事情あって、俺だけがブロックされてるだけのことならいいんだけどさ、ちょっと日が気になってさ」

「日?」

「23日の夕方からなんだ、連絡とれないの」

23日?とそれがどうしたと眉根をしかめた達彦は、あ、と口を開いた。

わかったか、とでも言うかのように、薫も顔をしかめた。

「まさかとは思うけど、あの人、マジで“例のところ”に行っちゃったんじゃないか」

まさか、と言い切れないのが、寅さん、村上信也という人間であった。






絶対大手マスコミに入ると豪語していたらしい寅さんは、就職活動前半でほぼ撃沈すると、やっぱ親父の会社継ぐわ、と落ち込んでいたが、そうと決まればそれまでの間は学生生活を満喫する、とすぐに切り替え、計画、いや無計画留年に入ったと聞いた。あと数年居るし、と全く授業には出ずにバイトをしてはその金を握り締めてふらりとどこかに旅に出かけ、またふらりと戻ってくる。その自由人過ぎる生き様に、某映画の主人公のあだ名を尊称されるようになったらしい。ちなみに、その風貌は某俳優とは似ても似つかないラガーマンであった。

彼の実家は造り酒屋をしており、焼酎ブーム以降その経営は低空飛行を続けていたが、折からのインバウンドブームの中、外国人の好みのニッチな観光地をいくつか抱えていた彼の故郷の唯一の地酒の造り酒屋として、最近はそれなりの羽振りとの噂である。

新歓コンパで一人怪気炎を上げていた寅さんは、どこが気に入ったのか数日後に二人を自分のアパートの部屋に招待をして、実家の酒を勧めてくれた。いえ、未成年ですので、と断ったが、今日を1月1日と思い込め、そしてこれはお屠蘇とそだ、と訳の分からない理屈でとりあえずに二人に小さなグラスで一杯ずつ飲ませた後は強いては勧めてこなかった。

なるほど造り酒屋の息子だ、と納得できるほどに美味しそうに湯呑を傾ける寅さんを見ながら、この人と一緒に飲めば確かに楽しいだろうな、とわずかに好感を持った。

そして、新歓コンパの時は謎の上級生でしかなかった寅さんの生き様について存分に聞かされた後、したたかに酔った寅さんは、今にも横様に倒れて眠り込んでしまいそうな怪しい目つきでふらふらと自らの手帳を開いて二人に掲げながら『これを達成するまでは大学に居る』と宣言した。

そこには『卒業するまでにやりたい7つのこと』との殴り書きの下に、文字どおり7行の文字があった。そしてそこには『東海道を東京から大阪まで歩く』という現実的なものから『幽霊を見る』という、この人は本当に卒業をする気があるのか?とはなはだ疑わしいものまでが記されていた。

ただ、幽霊の方がそれほど非現実的な夢物語ではない、少なくともある程度の当てがあって書かれたものであることを間もなく達彦は知ることになる。

大学の敷地の一角には、慰霊碑が立っていた。

それが、二十数年前に起こったバス事故の犠牲者の霊を慰めるためのものであることを達彦が知ったのは入学式の翌日であった。

その時は、へえ、そんな事故があったんだ、程度で軽く聞き流したが、部室で車のキーを無くした、という先輩に、たまたま部室に残っていた達彦と薫が泣きつかれ、数時間の大捜索の後、暗くなった道を帰りながら、その先輩が遠くに慰霊碑を見ながら、単なる噂も交じってるがと前置きした後、更に詳しい話を聞かせてくれた。

犠牲者は法学部のゼミの三回生と四回生、そしてゼミの准教授、計十八人。

ゼミの旅行でスキーに行く途中、冬備えをしていなかった車の事故渋滞に巻き込まれ、大幅に時間が遅れた運転手があせってスピードを出し過ぎてカーブを曲がり切れず崖から落ちたという単純な事故だった。

ただ、ここからいろいろな話が出てくる。

まず、これはスキー部に所属していた四回生が強引に企画したもので、現地で四回生の卒コンもやるから、とスキーが出来ない者も半ば脅迫的に参加を強制されたという。

そして、雪が強くなってくる中で、峠道に入る前のガソリンスタンドで運転手が店主に見込みを聞くと、行けないことはないかもしれないが自分は勧めない、とアドバイスされていたにも関わらず、またしても件の四回生が強固に続行を主張したらしいこと。

また、崖から転落と言ってもそれはそれほど高いものではなく、崖を滑り落ちたバスは下の沼に柔らかく受け止められて即死者はおらず、沈み始めたバスからからくも抜け出して崖を這い上った者もいたらしい。しかし、温かいバスの中で薄着をしていた彼らは吹雪の中後続の車をずっと待ち続けた挙句に、全員凍死したという。肩を寄せ合うようにして完全に雪に埋まっていた彼らを発見したのは翌早朝通りかかった除雪車のオペレーターだったという話だ。

そしてここからが、とその先輩は声を落とし、達彦は唾を飲み込んだ。

出る、というのだ。

事故のあったのは1月23日。

毎月の23日の夜。

慰霊碑の向かいの校舎の窓。

慰霊碑の傍に立って校舎の方を見ると、その窓にずらりと、死んだ彼らの霊が恨めしそうに慰霊碑の方を見つめているという。

そして彼らの姿を見た者は、彼らに連れて行かれ、彼らの一員としてその窓に立つことになるという。

ほい、と言いながら薫が手を挙げた。

「見た奴は全員連れて行かれるんですよね?だったら見た人間はいなくなるわけじゃないですか。どうして幽霊が出るとか、知られてるんですかね」

だからさ、と先輩は笑った。

「だから噂だよ、う・わ・さ。どこの学校にもある奴だよ」

そうだろうか、と達彦は月明かりに照らされた慰霊碑と、その周囲の高い柵を見つめた。

夕方になると毎日しっかりと門扉に施錠される柵に、何事かとは思っていたがまさかそんないわれがあろうとは。

先輩、と達彦は少し先を薫と並んで話す彼を呼び止めた。

「単なる噂にしては、ちょっと物々しくないですかね、あれ?」

ああ、と彼は少し怯えたような達彦の反応に満足したのか鷹揚に笑うと、ああでもしないと、夜中に忍び込んで肝試しをするオロカモノが出てくるからだろ、と軽く言った。




「寅さんが、23日の夜に慰霊碑の柵を越えて忍び込んで校舎の窓を見、あの世に連れて行かれたっていうのか?」

あの世かどうかは知らねえけどさ、とずっと立ったまま話していたことに気づいた薫が軽くあごをしゃくって近くの椅子に誘う。

「でも、“やった”可能性は高いと思わないか?」

椅子に座って額を押さえて俯いた達彦はため息をついた。

寅さんだからなあ・・

そこでふと気づいた達彦は薫を向いた。

「そういえば、七つのコト、の中に、携帯の電波が届かない離島で一週間過ごす、ってのなかったか?」

ああ、とめんどくさそうに薫が手を振る。

「電波届かない離島なんてないって。そういうとこの方が電波入るんだよ。海の上でも漁師、携帯で話してるし、よっぽど沖合の無人島にでも行かない限り無理だって」

何の話してるんだい、と同じ1回生の部員、桐生祐一が少し離れたとっころで二人を見つめていた。

小柄で色白の女顔で、眼鏡をかけた顔がどこか秀才タイプの祐一は大人しく寡黙なタイプであった。学内でも誰かと一緒にいるところは見たことがない。達彦も薫も積極的に彼に話しかけることはないが、人恋しいのか祐一の方からは時々話に入りたそうに話しかけてくる。

薫は彼のようなタイプは生理的に合わないのかあまり絡むことはないが、達彦はごく普通に接していた。

「桐生くんさ、最近寅さん見たかい?」

達彦の問いに、寅さん?と顎に手をやって考えた祐一は頷いた。

「先週ここで見たよ」

いつ?と軽く腰を上げた薫に、祐一は再び顎に手をやった。

「木曜日の夕方だよ」

カレンダーを見る。

それは6月23日だった。

そ、その時の、達彦もつられたように椅子から立ち上がった。

「寅さん、どんな様子だった?」

どんなって、と二人の勢いに驚いたように祐一は一歩退いた。

「なんていうか、楽しそうだったよ」

楽しそう?

「今日、俺最後まで残るから、って聞いてもいないのにニヤニヤしながら話しかけてきて。なんかこの後、とびっきりとのいたずらでもするみたいに」

うわああ、と達彦とは薫は頭を抱えて悶えた。

確定だよ・・これ・・・

絶対やったよ、あの人・・・

いや、とそこで二人は顔を見合わせた。

同時に口を開きかけた二人は祐一を振り向くと、ありがと、参考になったよ、ともう用済みと言わんばかりに手を振った。

祐一はさして不快そうでもなく、またなんかあったら聞いてよ、と近くの本棚から本を手に取ると机に向かって座り開いた。

それを見届けてから、二人は祐一にやや背を向けるようにして顔を寄せた。

(行ってるよな、これ、絶対行ってるよな?)

(ああ、でも問題はそこじゃない!)

俺も気付いた、と達彦は頷いた。

(これって・・噂は噂じゃなかったってことになるんじゃないのか?)

待て待て、と薫は必死に手振った。

(行くぞ行くぞ、と匂わせをして、失踪したふりをして身を隠して俺達をビビらそうとしてる可能性だってあるぞ?)

(それにしたってもう一週間だぞ?それに、寅さんが慰霊碑に行った可能性に気づいているのって俺らだけじゃないのか?イタズラならもっと皆にもわかるようにイクイク宣言するだろ?)

う~む、と腕を組んで首をひねった二人は、しばらく考えた後ため息をついた。

幽霊については、実は二人とも信じていない。それは互いに知っていた。

しかし、寅さんがなんらかのイタズラのつもりで身を隠していると考えるのは少しお粗末すぎるような気がする。

しょうがないな、と薫はため息をついた。

「部長にでも相談するか?」

「そうだな。これってミステリーで、俺ら一応ミステリー研究会だもんな」

「一応言うなよ」




お待たせ、と美咲空が小さなテーブルの達彦の前に大盛にチャーハンを盛った皿を置いた。

一度キッチンと一体になった廊下に消えた空は達彦の半分ほど量の皿を持って再び現れると達彦の向かいに座った。

ちょっと待っててと言いながら空がつけたテレビのニュースをなんとなく眺めていた達彦は、ありがとう、と言いながらテレビを消すと座りなおして空の顔を見た。

どちらからともなく笑顔になった二人は、いただきます、と手を合わせるとスプーンを手に取った。

まずは一口。

ゆっくりと噛みながら、達彦は空を見て頷いた。

「うん、おいしい」

ほんと?と、自らのスプーンを手に持ったままどこか不安そうに達彦を見つめてた空が笑顔になった。

「初めて作ったから不安だったんだけど」

言いながら自分の皿から口に運んだ空は、おおう、と頬を押さえた。

「なるほどお、おいしいねぇ」

と嬉しそうに笑う。

達彦と空が出会ったのは入学式の日、サークル展示会の場であった。

入学式よりも早く、4月になるとすぐにアパートに入った達彦は、俺もいよいよ大学生かとキャンパスを散策中に薫と出会った。あきらかにおのぼりさんの空気を漂わせて歩いていた達彦に同じく散策中だった薫が声をかけてきたのだ。

お互い孤独で不安だった中の出会いで、こいつを放すまいという気持ちも働いたのか、入学式の日までには一度ずつ相互の家に泊まりに行くほど意気投合した二人は、とりあえず全部のサークル見に行こうぜ、あ、ガチの体育会系除いてな、と言った薫に引きずり回された達彦がミステリー研究会に居た時、後から見学に来たのが空だった。

それは、正直ここはパスだなと思いながら、早く解放してくれ、とおっとりとし口調で活動について説明していた部長の岡田にうんざりしていた時だった。

そもそもミステリーの定義ってなんなんだ、と思うほどに、そこは雑然とした部屋だった。

本棚にはアガサ・クリスティーをはじめ最近の日本の推理小説までがぎっしりと詰まっており、おお、確かにミステリーだ、と思ってひょいと横を見ると、伝説的な超常現象雑誌『〇ー』の、達彦が生まれる前のバックナンバーが並んでいる。いや確かにこれもミステリーだね、と思いながら目を走らせると小学生向けにしか見えない昭和の時代の心霊写真本もある。

別の棚には、たとえデッキがあっても再生不可能としか思えない、背中のラベルが日焼けしてタイトルも読めず剝がれかけたVHSのビデオテープが並んでいる。なんとか読めるものからタイトルを見るとテレビのUFO特番、ケネディ暗殺の特集まで、こちらも統一感がない。

一体ここの人々は“ミステリー”の定義をどこに置いているのか、と嘆息しながら、まだ続いている岡田ののんびりした声を聴いていた時に友人らしいもう一人と一緒に入ってきたのが空だった。

なんとなく入り口に動きを感じて目を向けた途端、はっと息を飲んだ。

それは空の方も同じだったようだ。

わずかに目を見開いて達彦を見つめた空は、狼狽したように視線を外すと、近づいてきて岡田の説明を一緒に聞き始めた。

その間も、空が自分を意識していることを感じた。いや、空の方も、達彦が意識してることを感じているようだった。

長い岡田の説明が終わった途端、二人の視線が絡んだ。

あ、あの、と小柄な空がはにかんだ固い笑みを浮かべて達彦を見上げた。

「こ、ここ・・あの、入部はいられますか?」

あ、と達彦は狼狽して視線を泳がせた。

「あ、さ、さあ。どうしようかなって。友達もとりあえず全部の部を見ようって・・・」

そのまま二人とも黙り込む。

その様子をじっと見つめていた薫が、同じように二人を見ていた岡田に向かって、ほい、と言いながら手を挙げた。

「おれ入部はいります」

言った後、ぐっと達彦の首を固めて引き寄せる。

「こいつも入部はいります」

な、なにを、と言いかけた途端、空が勢い込んだ口調で、わ、私も入部はいりますっ、と叫んで友人の目を見開かせた。

空が“打ち明けて”来たのは大型連休の前だった。

随分と積極的な子だな、と思ったが、すぐにそれが彼女にとって一世一代の勇気であったことがわかった。

空は気が小さく、奥手な少女であった。女性ではなく、少女と呼ぶのがふさわしいそんな子だった。自ら語ることはなかったが、言葉の端々に、どうやら中高とイジメを受けてことが伺えた。それも彼女のキャラクターに大きな影響を与えていることも。

空は極めて自己承認が低い人間であった。自分というものに全く自信を持っていなかった。

ただ、それでいうならば達彦も決して自分に自信があるタイプではなかった。

初めて空のアパートを訪れた時に、なんか、自分の部屋に男の人が来てるなんて不思議な気分です、としきりに照れた空に、いや、女の子の部屋に自分が一人で来ていることの方が奇跡だよ、と謙遜でなく思った。空と出会ってなければ、卒業するまで彼女ができない自信があった。知らない女の子と二人だけにされたら、何をどうしたらいいかわからなくなって逃げだしたくなる、という自信も。

運命ではなく、これは運だった。

色白=美人という極めてシンプルな美的感覚を持つ達彦の前に、怖くなさそうな人=優しくて素敵な人、というこれもシンプルな感性を持つ空が偶然に現れた、これは運だった。

俺のおかげだぜ、とニヤニヤと笑いながら言う薫だったが、見た目だけならもっといい子いくらでもいるのになんで彼女?と囁いて達彦に仏頂面にさせるとともに、空の容姿から、陰ではこっそりとコケシちゃん、と呼んでいた。

初めて来た時はクッションに座ってもその柔らかさのせいだけでなく尻の座りが悪かったが、さすがに2か月経った今は、空の部屋でも存分にリラックスできた。

チャーハン単品というシンプルな夕食も、“彼女の手料理”という名のスパイスを得て達彦の腹を存分に満足させた。

「寅さん先輩、どうしちゃったんでしょうね」

空はまだ達彦のことを、伊藤くん、と呼んだ。言葉遣いも“彼女”が“彼氏”に語り掛けるにはあまりにも丁寧だった。

なんか、慣れなくって、と恐縮する空に、そのうち自然になるから、と達彦は慰めた。ただ、達彦の方も空“さん”だった。

さあ、と達彦は首を振った。

「寅さんは同期の友達もみんな卒業して全国に散っちゃってるみたいらしいし、講義も取ってるけど初めっから出てないから、学校とのつながりってミス研関係者だけみたいらしいね。連絡が取れなくなっていることに気づいてる人も少ないみたいで、部長から実家の方にも問い合わせしたらしいけど、まだ消息はわからないみたいだね」

やっぱり、あれですかね、と流しに食器を置いてきた空は再び達彦の前に座ると泣きそうな顔で言った。

「南海くんが言っていたように、あのバス事故の呪いとか」

賭けてもいいが、ここで、多分そうだろうね、などと言おうものなら、空はしばらくの間、遠回りしてでも慰霊碑の近くは通るまい。

さあ、と達彦はとぼけて見せた。

「ぼくは、幽霊とか信じてないから。幽霊に連れて行かれとか言われてもね。実は」

と達彦は空に向かって片目を瞑って見せた。

「実は、呪い説を触れて回っている薫も、幽霊信じない派なんだけどね。あいつ面白がっているだけだよ。逆に」

そう、逆に。

「寅さんの失踪を冗談にしてしまっていることこそ、あいつが寅さんが戻ってくることを信じているからだと思うよ」

あ、とほっとしたように空は頷いた。

「そうか、そうですよね」

呪いとか、私何言ってるんだか、と空もおどけた様に自分で自分の頭に軽くこぶしをくれた。

「そうですよね、信じてないと」

うん、うん、と自分に言い聞かせるように何度も頷いた空は、そこで達彦を向いた。

「ところでもうすぐ夏休みですよね」

その前に、人生初めての大学の期末考査という大イベントを控えてるけどな、と思いながら達彦は頷いた。そしてそれは来週のことだ。

じゃあ、空はうれしそうに言った。

「夏休みになったら、何かしませんか」

何か?

「何かって、何?」

「ええと、何か、恋人っぽいこと、です」

恋人、のところで真っ白い空の顔の肌が鮮やかなピンクになった。

シンプルに、わかりやすかった。

恋人らしいこと・・・

テーブルの表面をじっと見つめた達彦は、しばらく固まった後、空を向いた。

「恋人っぽいことって、例えば?」

あ、え、と空は狼狽した。

「あ、別に嫌なら」

待て待て、待ってくれ、と達彦は慌てて手を振った。

「いや、嫌とかそういうんじゃなくって、急に恋人っぽいこととか言われても、イメージできなくって。例えばどんなことがあるかなって」

そ、そうですよね、と空は少し考えこんだ。

「ほ、ほら、例えば遊園地に行くとかどうですか?」

遊園地・・・

達彦は頷いた。

「小さい頃に親に連れて行ってもらってからだから、久しぶりに楽しいかもしれないね。あ、でもジェットコースターとか大丈夫?」

びくっと、空は慌てて首を振った。

「高いのとか、早いのはちょっと。高所恐怖症なんです」

じゃあ、観覧車とかも無理か、と考え込む。

「お化け屋敷とかは?」

一瞬で血の気が引いた空は必死に首を振った。

「む、無理無理無理っ、暗闇の中で背後からコトって音がしただけで死ねます、死ぬ自信ありますっ」

二人は同時にため息をついた。

「じ、じゃあ動物園とかはどうですか?」

「へえ動物好きなの?」

「全然」

再び二人して黙り込む。

「水族館・・・とかは?」

「魚好き?」

「食べるのは」

三枚に下した魚は泳げない。

じゃあ、と今度は達彦は頷く。

「美術館とかは?」

へえ、と空が嬉しそうな笑顔になった。

「絵、好きなんですか?」

「あ、いや、別に」

再びの沈黙。

恋愛初心者の二人の恋は、既に前途多難な様相を呈している。

ただ。

二人にとっては、このママゴトのような非生産的な時間こそが貴重でたつとかった。





来たよ。

「何が?」

来たよ、来ましたよっ!と達彦の問いを無視して、部室の皆に聞こえるように叫んだ薫は、奥の方の席で古い〇ー誌を眺めていた部長の岡田に小走りに駆け寄った。

「部長、部の活動について提案があります!」

色白の細面、おっとりとした性格の岡田は、ほう、とどこか楽しそうに、びしっと敬礼した薫を見上げて頷いた。

「聞きましょう。せっかくですから皆にも聞こえるように話してください」

はっ、とびしっとなぐるような仕草で敬礼を解いた薫は、部室の中をぐるりと見直した。

「今日は7月21日ですっ!」

「そうですね、昨日が20日でしたから、今日は21日ですね」

なんか、すげー温度差を感じる会話だな、と達彦は半眼になって二人を見つめた。

「そこで提案です。我がミステリー研究会は、学内の伝説に挑戦してみてはどうでしょうか!」

ほう、と岡田が眼鏡を直しながら頷いた。

「して、その学内の伝説とは?」

「それはもちろん慰霊碑の一件です」

ざわっと、全員入れても総員20人程度の半分しか来ていない部室に、それでもざわめきが広がった。

しばらくじっと達彦の顔を見つめた岡田が、いいでしょう、と頷き再び部室がざわめくと同時に、Yes!と薫がガッツポーズする。

「では南海くん、せっかくですので提案者のきみがチームリーダーを務めていただけますか?」

わかりました、と薫が再び敬礼する。

では、と岡田が部室の中をゆっくりと見回した。

「チームのメンバーを指名します。ちなみに拒否権はありませんので承知ください」

何時になく横暴なことを言い出した岡田に、部員達が今日一番にざわめいた。

「メンバーは、南海くん、以上、終わり」

一瞬部室が静まり返り、次の瞬間爆笑が起こった。

してやったり、という満足そうな顔で、岡田はわずかに目と口を開いて立ち尽くした薫に頷きかけた。

「有益な報告をお待ちしています。よろしくお願いしますね」

そして、これで全て終わったと宣言するかのように再び〇ー誌に目を落とす。

むっつりと達彦の所まで戻ってきた薫は達彦の肩を抱いた。

「お前は手伝ってくれるよな?」

「暑苦しいからまずは離れろ」

言いながら肩を揺すって薫の手を振り払ってから、達彦は椅子ごと達彦を向いた。

「具体的に、何をやらかす気だ?」

ふっふっ、と薫はわざとらしく笑った。

「それは言えんな。ただ、俺には秘策があるんだ」

「だからその秘策って何なんだよ?」

「それは明後日俺について来たら見せてやるよ」

パスと達彦は言下に言い捨てると頬杖をついてため息をついた。

「今それどころじゃないんだよ、ほんと」

なんだよ、と薫は達彦の顔を覗き込んだ。

「なんか面白い話かよ」

あ、と達彦は頬杖を解くと薫を向いた。

「そういえば、お前女の子とデート行くならどんなとこ行く?」

なんだよ、コケリンのことかよ、と薫が不満そうに顔をしかめた。コケシちゃんは、薫の中で最近コケシのコケリンに進化していた。

ちらっと部室の中を見回して、今日は空が来ていないことを確認してから、薫は達彦に顔を寄せた。

「よし、俺が女の子にモテる秘訣を教えてやる」

ほう、と達彦も薫に顔を寄せた。

「それは?」

女ってのはな、と達彦はしたり顔で頷いた。

「時において、彼女よりも男同士の友情を優先するような男にグッと来るもんだ。そういうもんだ」

言いながら薫は再び達彦の肩を抱いた。

「お前もたまにはそんな男らしいところをコケリンに見せてやれ、な?」

「それは随分とお前にとって都合のいい男らしさだな、おい」

まあ聞けよ、と再び肩を揺すって薫の手を振りほどこうとした達彦に、薫は逆にぐっと力を入れて引き寄せながら囁いた。

「あの慰霊碑の噂はうそっぱちだ。絶対ノーリスクだって」

「その根拠は?」

胡散臭そうに言った達彦に薫は頷いた。

「前に加納カノさんからこの件聞いた時に俺が聞いたろ?“見た”奴らが全員連れて行かれるなら、校舎の窓に立つ亡霊を見た奴なんていないはずなんだ。死んだはずの奴が校舎の窓越しに立っていた、なんてのはどこの学校にでもあるステレオタイプ化された怪談なんだよ」

わからんぞ、と達彦は顔をしかめて薫を見た。

「今、お前が俺を誘っているように、二人で行って、一人が慰霊碑から校舎を見て、もう一人が少し離れたところから何が起こるか確認してたのかもしれない」

おお、一緒に行ってくれるのか親友ともよ、と握手するように差し出された薫の手を達彦は思いっきりはたいた。

肩を抱いた手を解いてイテテと手を押さえた薫は、しかし懲りずに再び肩を抱く。

「けど、それだと“なに”が見えたかまではわからんだろが」

「“消える”前に叫んだのかもしれん。校舎の窓に亡霊が並んでる、ってな」

あの、という声に振り返ると、いつの間にか桐生祐一が傍らに立っていた。

「ぼくも止めた方がいいと思うよ」

言いにくそうに、祐一はおずおずと言った。

「噂には一抹の真実が含まれているっていうしさ、君子危うしに近寄らずだよ」

別にお前誘ってねえよ、お前は死ぬまで石橋叩いてろよ、と独り言のように小さく毒づいた薫にため息をつきたい気分で、達彦は祐一に笑顔を向けて軽く手を挙げた。

「ああ、わかった。ありがとな」

うん、といつもながらの薫の塩対応に別に不快そうでもなく祐一はすぐに背を向けた。

(ほれほれ、桐生大先生もああおっしゃっておられるぞよ)

あいついい加減ウゼえんだよ、と再び口汚く小さく罵った薫をいなしながら、達彦は短く、はっきりと言った。

「ともかく、俺は手伝う気はない。桐生の言い方じゃないが、危うきに近寄らず、だよ」

なんだよ、と薫の口調が明らかな不快を示した。

「言ってるだろ、“危うき”なんてねえんだよ。噂は噂、なんだ。それを確かめるだけだろが。お前だっていつも幽霊なんていないって言ってるだろが」

俺は、と達彦は薫の手に自らの手を重ねて引き寄せる手を解き、薫を向き直った。

「俺は、確かに幽霊は信じていない」

「だったら」

待て、という風に薫に向かって手を挙げてから達彦は続けた。

「けど、その一方で俺は寅さんの失踪にあの慰霊碑の噂が絡んでるんじゃないかっていう嫌な予感がして仕方がないんだ。だから俺は行きたくない。正直」

と薫に向かって頷きかける。

「正直、怖い」

何時の間にか部室の中が静まり返り、素知らぬ顔をしながらも皆が二人の会話に耳を澄ませているのがわかった。

「怖いのがなんだよ!」

机を叩く音と共に薫が小さく叫んだ。

「お前は寅さんがこのまま居なくなって納得できるのか?」

「幽霊なんていないんだよ。寅さんが幽霊に連れて行かれたとかない。寅さんが心配なのは俺も同じだけど、お前は見当違いなことをやろうとしている」

それさっきと違うじゃねえか、と薫が再び小さく叫んだ。

「お前、このまま何もしないつもりか?」

村上信也と長期に連絡がとれないことは岡田から彼の実家にも連絡され、両親が来てアパートも確認し、警察にも捜索願が出されたが、放浪癖があるという彼の人となりを聞いて、警察も微妙な顔をしたという。

失踪から早ひと月。思いついたように現れるその大きな体が部室にないことも、既に日常になりつつあった。

「寅さんいつも言ってくれてたよな」

と薫は天井を見上げた。

「俺らが酒飲めるようなったら一緒に飲もうって。誕生日には実家の酒好きなだけ飲ませてやるって、いつもさ」

歯を食いしばる音が小さく響いた。

「このまま約束反故とか、絶対ないから。そんなの許せねえから。そのためには、俺は自分が納得できるまでできることは全部するから」

さて、と大きな声が響き、部室の皆が一斉に岡田を振り返った。

にっこりと、彼は部室の中を見回して頷いた。

「議論も白熱してきたところですが、今日の部活はこれで終わりにしましょうか。前期の活動は25日が最後ですから、その日はできるだけ参加をお願いします。それと南海くん」

その笑顔が薫を向く。

「きみだけ、この後ちょっと残ってくれますかね。あ、他のみんなは帰ってください。さあ、さあ」

部長、と三回生の副部長、佐藤奈津美が疑わしそうな目で岡田を見た。

「南海くんだけとか、何か、また何かの悪だくみですか?」

はいはい、と岡田はうれしそうに頷いた。

「もちろんです、ええ、もちろんですとも」

だあ、と部室の中に一斉にため息が響いたが、岡田の性格からもう放っておくしかないことを知っている皆は直ぐに帰り支度を始めた。

こちらも一つため息をついた達彦は、薫の顔を覗き込むようにして見ながら、悪かったよ、と小さく言った。

ああ、俺もな、と視線を逸らすようにして言った達彦は岡田の方を向くと、はあいっ、なんですか部長っ、ともうヤケクソのような明るい声で大きく手を振りながら歩いて行った。

もう一度ため息をついた達彦は、薫の背中に一瞥をくれてからリュックを肩に背を向けた。

それが薫を見た最後の姿になることなど、この時達彦はまだ知る由もなかった。





えっ、と、う~ん、いい匂い、と鼻をうごめかした後空は驚いたような声を出しながら首を伸ばして、空のアパートの台所で調理中の達彦を見た。

「南海くんが、あの慰霊碑の亡霊に挑戦するんですか?」

うん、と味噌汁の味を確かめてから、達彦はそれをお椀に入れてトレーに乗せて運んだ。

「これで終わり。じゃあ食べようか」

はい、と頷いてからテーブルの上を見回した空は、でも、と小さく笑った。

「なんか、朝食みたいですね」

ご飯と目玉焼きとミニトマトのサラダ、そして味噌汁。

確かに一般的な家庭なら朝食のメニューである。

頭を掻きながら、達彦は申し訳なさそうに空を見た。

「料理って、休日に朝食作るくらいしかしたことがなかったから。ごめんね」

「いいえ、美味しそうです」

いただきます、といつもの丁寧な礼をしてから、空は箸を手に取った。

しばらく食を進めてから、空が突然じっと達彦を見つめた。

ヘタを取ったミニトマトを口に放り込もうとして空の視線に気づいた。

「どうしたの?」

いえ、と空は小さく首を振った。

「南海くんて、アクティブだな、って。私なんて、そんなこと絶対できないな、って」

また、空の口癖の、私なんて、が出たなと、達彦は心の中で嘆息した。

もっと自信を持ってもいいのに。

かつて“なにか”はあったらしいが、大学では友人もできて楽しそうに過ごしているし、入学してすぐに彼氏も、まあ、周囲に誇れるような男ではないにしろ、できているんだし。

期末考査の結果も、後で部室で答え合わせをした際にも、うっ、と達彦と薫を青ざめさせるほどには手ごたえがあったようで、決して頭も悪そうではない。

後は、もっと自分を認めてやることだけだと思うのだが、と達彦は思っていた。

そうすれば、もっと空のことを好きになれる、いや、不安になるか。そうなって魅力を増した空に次々に誘惑が忍び寄ってもう自分のことなどかまってくれなくなるのではないかという不安が。

たわいもない話をしながら夕食を終えた二人は、二人で食器を洗った後並んで壁にもたれてなんとなく連続ドラマを見ていた。

エンドロールが流れたタイミングで空が時計を見上げた。

「もうそろそろ帰らないと終電になりますね」

うん、と達彦は頷いた。まだもう少し余裕はあるが、達彦は大学から二駅離れたところにアパートを借りており、二人の逢瀬の時間はシンデレラよりの早く終焉を迎えるのが常だった。

テレビを消した空は突然達彦に肩を寄せ、彼の顔を下から見上げるように見ながら、からかうように、探るように言った。

「今日、このまま泊まっていきますか?」

い・・・

不安そうに、探るような視線でじっと達彦を見つめている空に、達彦は慌てて視線を逸らせた。

「い、いや、今日は着替えも持ってきていないし、ほら、汗もかいてるし」

言いながら達彦はポロシャツの腹部を引っ張って伸ばしてから空を向き直った。

あ、そうですよね、と残念そうに言った後、空は黙ってじっと達彦を見つめた。

すぐに、それが何かを待っている顔だとわかった。

あ・・・

じっと見つめ合った次の瞬間、達彦は空を引き寄せながら顔を寄せていた。

唇が触れ合うだけの稚拙なキスだった、それでも体が震えるのがわかった。

そして、こういうものなのか、とどこか冷静な頭の一部で思った。

恋愛などというものは、運と、そしてタイミングなのだと。

努力しなくても一度回り始めた車輪は回り続け、その時は来るのだと。今のキスも、ここまでの時間で自然に造成されたものが結実したというか、気の充実というか、やがて来るべきものが自然にやってきたそのタイミングだったのだと。

あんなにあこがれていた初めてのキスは、あっけないほどあっさりとやってきて、あっさりと終わった。

短いキスを離すと、うっとりと閉じていた目を開いた空が潤んだ瞳で達彦の顔を見つめたが、すぐに慌てた様に時計を見上げた。

「あ、あの、終電・・」

達彦が肩を掴んで引き寄せるともう一度のキス。

再び達彦に体重を預けた空は、先ほどよりも長いキスの後、嬉しそうに目を細めて達彦を見つめた。

やっぱり、とこちらも空を見つめながら、達彦が探り探り言った。

「やっぱり、今日泊まろうかな?」

破顔した空が、でも、と達彦の胸に顔を寄せた。

「やっぱり、確かにちょっと汗臭いですね」

わざとらしく顔をしかめて肩をすくめた達彦を見て、空は更に朗らかに笑った。

玄関までに見送りに出た空に、達彦は笑顔で頷いた。

「そうだ、この前話してた件、また相談しようか。グズグズしてたら夏が終わっちゃいそうだから」

はい、と空はうれしそうに頷いた。

「でも私は、あれをしようか、これをやろうか、って考えながら伊藤くんと話をしているだけで楽しいです」

「うん、ぼくもだよ」

そこでにっこりと見つめ合った二人に、達彦は未練がましくもう一度空を引き寄せようと手を伸ばした。

固いものが手に触れ、あっと声にならない悲鳴をあげた空は慌てて左手を背後に隠した。

達彦は、わずかに青ざめたような空の過剰な反応に驚いたように目を見開いた。

あ、あっ、と狼狽したようにそうっと左手を背後からに出しながら、ごめんなさい、と謝った空に、達彦も驚きの気持ちを押し隠して微笑みを作りながら、軽くあごをしゃくって空の左手を指した。

「ううん、こっちこそ御免。それ、家でもいつもしてるけど、大切なものなの?」

空はいつも男物の大きなダイバーズウォッチを左手にしていた。細すぎる空の手首にはベルト穴が合わないのか、いつも真っ白リストバンドをしてその上に時計を付けている。

あ、と空はその時計を隠すようにして右手で左手首を押さえながら、高校の時の友達の誕生日プレゼントで、と小さく言った。

ここまで交わした友人が少なかった過去を語った空との会話から、高校の時にそこそこ高価なプレゼントを交換するような友人がいたのか、と少し驚いた達彦は逆に安心もした。

あっと声をあげた空は、顔を赤らめながら、慌てて手を振った。

「も、もちろん女の子ですよ、女の子の友達!」

あ、とそこは思ってもいなかった言い訳が出てきて、達彦は笑い出したくなった。

うん、と頷いた達彦は今度は優しく空の肘に手を添えて引き寄せ一瞬触れるだけの軽いキスをした。

どちらからとも微笑み合った後、達彦はドアノブを掴んだ。

「また連絡するね」

「はい、待ってますね」

扉が閉まり、名残惜しそうに佇んだ気配の後ゆっくりと足音が遠ざかる気配を聞いてから空は目を見開くと、その場に座り込んだ。

危なかった・・・

声にならない呟きを漏らしたその肩が小さく上下に息をした。

しばらく見開いたままの目で床を見つめた空は、不意に涙ぐんだ目で天井を見上げた。

もしかしたら・・

そう、もしかしたら。

もう、私、大丈夫かも。

ぐったりと座り込んでいたところから信じられないような俊敏な動作で立ち上がった空は、トイレと一体になった洗面所に駆け込んだ。

鏡の中の顔をじっと見つめながら、さきほど達彦の唇が触れた自らのそれをそっと撫でながら、うれしそうな、泣きそうな笑みを浮かべた後、空は目を見開くと意を決したようにゆっくりと左手首を見下ろした。

ぐっとベルトを引っ張って時計を外した空は、わずかに震える右手でそうっとリストバンドをめくった。

とたんに、グヒイっ、と喉の奥で叫んで慌ててリストバンドを戻した空は、右手で手首をしっかりと押さえた。

そこには、新しいものではないものの、かなり深いとわかる傷跡が幾条、残されていた。

ウエッ、グエッと洗面台に顎を乗せてえずいた空は先ほど食べた夕食を一気に吐き出していた。

グエ、グエ、と体を痙攣させて自らの肩を抱きながら、血の気が失せた顔にはすぐに涙があふれた。

そのまま力無く背後の扉にもたれかけ、しっかり閉まっていなかった扉にそのまま廊下に後頭部を打ち付けながら倒れた空は、震える体を抱き締め、カチカチと歯を打ち鳴らしながら、伊藤くん、と呟いた。

伊藤くん、伊藤くん、伊藤くん、伊藤くんっ、伊藤くん・・・・・・

ゼイゼイと今にも止まりそうな息の下、歯を鳴らしながら呪文のように達彦の名前を呟き続ける空の顔に、やがてゆっくりと赤みが戻ってきた。

体の震えも徐々に収まり、おそらく痕がついていることは間違いないだろうほど肩に食い込んでいた指を離した空は、そこではっと体を起こすと、這いながら部屋まで移動し、倒れ込むようにしてスマホに手を伸ばした。

伊藤くん・・伊藤くん・・・

まるでその名を呟いている間だけなにか恐ろしい呪いから身を守れるかのように、肩で息をし必死に呟きながら、スマホを操作した空は、達彦と二人で撮った写真を出すと拡大した達彦の顔の画面を愛おしそうにそっと撫でた。

ほっと溜息をついた空の異常がやっと収まったように見えた次の瞬間、顔をくしゃくしゃにした空は涙を流しながらスマホを抱き締めた。

大丈夫・・大丈夫・・・だってもう私には伊藤くんがいるんだから・・・

そう。

伊藤くんさえいてくれれば、私は大丈夫・・・大丈夫・・大丈夫・・・

まるで自分自身に言い聞かせるかのように、空はいつまでも達彦の名前を呟き続けた。

そして数分後には、その顔はいつもの穏やかさを取り戻してた。

突然コールが鳴ったスマホに、きゃっ、と言いながら抱き締めていたそれを放り投げた空は、一度間もなく日付が超える時計を見上げた後、その画面を恐る恐る覗き込んだ。

岡田涼、とミス研の部長の名前がそこにあった。

え、と間違いなどあろうはずない時計をもう一度見上げて確認してから、空はスマホを拾った。

こんな時間に、今まで一度も電話など寄こしたことのない部長から?と頭に???を並べながら、はい、とおずおずと応答すると、この時間にしては元気な、そして何時になくテンションの高い岡田の声が、やあ、こんな時間にすみません、と言った。

(早い時間だと、伊藤くんがいるかもしれないと南海くんが言うものですから。あ、まさか今日伊藤くんがお泊りということはないですよね?)

下衆げすいことを言う、という感覚は、空にはなかった。

はい、お泊りはありませんが、と素で返した空に、電話の向こうから苦笑する気配がした。

(それは重畳。いや、こんな時間に本当にすみませんね。実は準備に余り時間がないもので)

準備?

(伊藤くんから、何か聞いてませんかね。南海くんのこと)

何かと言われれば、“あの”件しか思い浮かばなかった。

はい、と空は頷いた。

「なんでも、慰霊碑の謎解くとか、そんな話を聞きましたけど?」

それだけご存じながら結構、と岡田は満足そうに言った。

(実はその関係で美咲さんにも協力をいただきたいのです。あ、これは伊藤くんには絶対内緒ですよ?明日は23日ですから、明日の早いうちに打ち合わせをしておきたいのです。できたら朝一番で部室に来てもらえませんか?)

え?

ち、ちょっと・・と言いかけた空に、実は、と岡田は続けた。

畳みかけるように語り続ける岡田の話を聞き続けるうちに、あ、でも、そんな、と短く返すことしかできない空の顔が、次第に青ざめていった。




けたたましいスマホのコールが達彦の眠りを破ったのは、世間的にはともかく達彦にとっては“早朝”だった。

(伊藤くん?)

誰の声だ?と顔をしかめて画面を見る。

桐生祐一、の名前があった。

「ああ。どうしたの、こんな朝から?」

くどいようだが、こんな朝、は達彦にとってだけだ。

泡をくらったような口調で、きみはっ、と祐一の声が上ずった。

(今日の夜中から朝までの間で、ミス研の誰かと連絡をとったかい?)

夜中から早朝?

そんなことするわけないだろ?と思いつつカレンダーを見上げた達彦は、そこで初めて今日が何の日か思い出した。

そして何でこれほどまでに目覚めが悪いのかも。

昨日の夜、そう、23日の夜、じゃあ行ってくるぜえ、とラインを送ってきた薫に、生きて帰って来いよ、と返した後、ふと寅さんの顔が浮かび、これはお前の誕生日まで預けておくからと、そんな気もないくせに寅さんが預けていった一升瓶を取り出して眺めていたら、美味しそうにそれを湯呑に注いでいた寅さんの姿が思い出され、なんともいたたまれない気分になって、彼がやっていたのと同じように自らも湯呑を持ち出して注いでいたのだ。ただ、ふと我に返ってみれば、一度注いだものを瓶に戻すこともできず、かと言って捨てることもできず、確かアルコール0.1%未満は酒じゃないよな、と寅さんに負けない理屈をつけて大量の水と一緒にそれを飲み干した後、不意に襲った睡魔に薫のその後を確認することなく寝落ちしてしまったのだ。

いやっと、スマホを握りしめながら達彦は立ち上がった。

「薫に何かあったのか?もしかして連絡が取れないのか?」

いや、と言って間を切った祐一の声がもどかしかった。

(南海くんだけのことだけならいいんだが)

なんだと?いいわけあるか!

(ミス研のほとんどと連絡が取れないんだ)

ぞわっと、嫌な予感に毛が逆立つのを感じた。

どうやら、と祐一がうわずった声で詰まり詰まり続けた。

(深夜のグループラインのやり取りを追ってみるとどうやら南海くんは慰霊碑に忍び込んだ後、直接見るのではなく、動画で校舎を撮影したらしい。そしてその画像を自分で見る前に、インスタにあげたらしい)

達彦は目を見開いた。

秘策、ってこのことだったのか?

直接見なければいいとか、安直すぎるだろが!

体に走った悪寒に自分が唾を飲み込む音が大きく部屋に響いた。

内輪受けのネタしか上げておらずほとんど閲覧が伸びてはいなかったが、薫がインスタをやっていることは部の全員が知っていた。

(どうしよう、見ようか、怖いな、みたいな書き込みが続いた後、じゃあ、せーのでみんなで一斉に見ようか、という書き込みの後、書き込みが途絶えている。あ、いや、夜久さんだけ、ねえみんな見た、とか、冗談やめてよ怖いよ、とか投稿を続けても反応がないんで、怖くなって夜明けを待ってラインに名前のなかったぼくに電話してきたらしい)

夜久というのは空と一緒にサー展に来ていた空の友人であった。

俺より桐生の方が頼りになるってか、とずれたところで憤慨しながら、達彦は体が冷たくなるのを感じた。

「きみは、その動画見たのか?」

見るもんか、と桐生は叫ぶように言った。

(この状況で誰が見るもんか。と、ともかく直ぐ部室に来てくれないか。直接会って相談したいんだ)

ああ、ああ、とがくがくと頷きながら返したとたん、向こうから切れた。

震える手でスマホを操作した達彦は、思わず手で目を覆った。

深夜の大量の書き込みの中に、空の名前があった。

空さん・・・空さんっ!

薫に対してはっきりと殺意を感じた。そして、その殺意の対象も既にこの世にいないかもしれないことも。

自分でも面白いほど震える右手の手首を左手で握り締めながら、必死に空に電話する。

出てくれ・・出てくれ・・・

いくら待っても応答の無いスマホを机に置いて呼び出し続けながら、達彦はトランクスの上からジーンズを履いた。Tシャツからは明らかな汗臭がただよっていたが、着替える心の余裕はなかった。

アパートの部屋を飛び出し、次の電車の時間はと必死に考えながら自分の足ではぎりぎり間に合わないと駅の方向を睨んだところで、同じアパートに住んでいる、同じ大学の三回生の沢井が駐輪場からバイクを引き出すのが目についた。

事情は話せないが大学まで乗せて行ってくれ、と必死に頼む達彦に、沢井はバイクにつけたもう一つのヘルメットを外して投げて寄こした。

かぶったとたん漂った化粧と香水の香りに、これは彼女用だったのか、と顔も洗っていない自分に沢井に対して申し訳なさを感じたが、それも承知の上、といった風の沢井は、早く乗れと、短く言った後、大学のクラブ棟にバイクを横付けしてくれた。

本当は今すぐにでも空のアパートに駆け付けたかったのだが、それは言えることではなかった。

「桐生くんっ!」

受付で鍵を乞うと、既に持出簿には桐生祐一の名が記されていた。部室の扉を叩きつけるように開くと、中にいたのは祐一一人だった。

これを、と言いながら小走りに走り寄ってきた祐一が、タブレットパソコンの画面を達彦に向けた。

そこには、動いたせいでぼやけてはいるがはっきりとわかる街灯に照らされた慰霊塔の静止画が映っていた。

再生回数は17となっていた。

校内の街灯は22時にタイマーで消灯するが、10円玉で蓋の開ける近くの分電盤を調整すればその一角だけ時間をずらせることを確認していることを薫から聞いていた。

23時の最初の見回りの後は2時頃まで慰霊塔付近には宿直が来ないこともだ。

インスタへの投稿時間は日付を超える少し前だった。

「夜久さんは?」

と部室を見回すと、祐一が頷いた。

「かなり参っているみたいで、まあ徹夜もしたらしいし、気分が悪いって家で寝てる。井田さんが様子を見に行ってくれることになってる」

半分幽霊部員の井田は祐一からの連絡を受けて驚いたらしいが、直ぐに駆け付けてくれることになったらしい。

「あれからもみんなに連絡を取り続けてみたけど、ラインに名前のあった人とは誰も連絡がとれないままなんだ」

た、たとえば、と達彦は祐一の肩を掴んだ。

「例えば、同じサイトを見ていて・・薫の投稿した画像から何かのウィルスに感染してみんなスマホが使えないとかは?」

祐一は直ぐに首を振った。そんなわけがなかった。

「部長と加納さん、今田さんはアパートにも行ってみた」

じゃあ、と達彦はふらふらと近くの椅子に腰掛けて俯いた。

じゃあ、なんなんだ・・・

ぐるぐると頭の中ではにかんだ空の笑顔が回った。達彦にとっては、部のみんなが消えたではなく、空が消えた、であった。それが一番大きかった。

なんなんだ、これ・・・

幽霊なんているはずない、いるはずなんてないんだ・・

しかし、全てが一つの方向を指していた。

薫は“なにか”を撮ってしまった。

そして、それを見た人が全員消えた。

空も。

「何が・・一体・・」

「みんなに何があったかは、直ぐにわかる」

え?

涙ぐんだ目で、達彦は祐一を見た。

「なにを・・言って・・・」

今から、と達彦はタブレットの画面を達彦に向けた。

「今からぼくが、南海くんが投稿した動画を見る」

達彦は目を見開いた。

「伊藤くんはぼくに一体何が起こるのか、見て、できれば動画に取って記録に残してくれ」

だ、だめだ・・

淡々と言った祐一に、達彦はよろよろと立ち上がった。

「だめだ、桐生くん。危険すぎる・・・」

どうしたんだい、と祐一は青ざめた顔でからかうように言った。

「幽霊なんていないんだろ?」

確かに幽霊はいないかもしれない。

だが、だけど・・・

今回のこれだけは、危険すぎる。

「早いところ白黒つけようじゃないか」

言いながら祐一は腕まくりした。

「もし、今回の件が慰霊塔と関係ないなら、別の可能性を考えなければならない。その場合、対応が早ければ早いほど、みんなを助けられる可能性があるかもしれない」

どうしたんだい、早くやろう、という祐一を呆然と見ながら、いつもどこか見下していたこの小柄な生白い男のどこにこんな度胸が潜んでいたんか、と達彦は呆然と彼を見つめた。

皆を助ける可能性・・・

それは空を助ける可能性のことだ。

今すぐ駆け付けて確認したい、空のあのアパートの扉が、当然のように、あの笑顔が迎えてくれる可能性を。

達彦は俯いた。

「俺・・俺がやる・・」

え、と祐一が眉根をしかめた。

「なんだって?」

ぼくが、と顔を上げた達彦は祐一に頷きかけた。

「ぼくがやる、動画は俺が見る」

そうさ、とふと思った。たかが動画を見たからといって、何があるというのだ。これは何もない、ないんだ。

でも。

空を助けるヒントがそこにあるかもしれない。そしたら空を助けられる。

もし、万が一にも噂が本当なら。

そしたら、俺は空と同じ所に行くんだ。

そうさ、そうだ。

どっちだったとしても、空に会えるんじゃないか?

そう考えた途端、気が軽くなった。

「俺が見る。桐生くんは俺に何が起こるのか、見届けてくれ。そして、もし何かあったら、その原因がわかったら」

そこで一度言葉を切る。

「俺を」

空を。

「助けてくれ」

じっと達彦の顔を見つめた祐一は逆らわずに直ぐに、わかった、と頷いた。

じゃあ、と達彦を開いたままの入り口を背後に立たせる。

「逆光になるからそこに立って。うん、いいよ、そこで」

じゃあ、と自らのスマホを構えながら祐一は達彦に頷きかけた。

「撮影を始めた。きみは、きみのいいタイミングで動画を見てくれ」

よし、と自らを奮い立たせながら達彦はタブレットを見下ろした。

見ると心が決まってしまっていたから早かった。

達彦は画面をクリックして少し前に掲げた。

激しく揺れた画面が固定された。

はーい、と慰霊塔を背景に薫が陽気に自撮りを始めた。

『んじゃあ、ミステリー研究会夏の大企画、慰霊塔の謎に挑め、をはじめま~す』

あまりにも脱力した雰囲気に、こいつめ、こっちの気も知らないで、と腹立たしくなった。

『んじゃあ、今から校舎撮ってきまーす』

ゆっくりと薫の背後に校舎の角が現れ、達彦は唾を飲み込んだ。

窓が視角に入ってくると、自分が唾を飲み込む音が何度も聞こえた。

ゆっくりとスライドしていく窓には。

何も映っていなかった。

陽気に振舞っていてもやはり一抹の不安はあったのだろう。緊張した面持ちでじっとスマホの画面を凝視していた達彦の突然破顔すると、はいっ、と陽気に言いながらカメラを指差した。

『残念でしたっ!やっぱり何もありませんでしたっ、と。わかってるかあ、お前今騙されてることっ!』

ふう、と額をぬぐった達彦はもう一度安堵のため息をついた。

幽霊の正体見たり・・か。

わははは、と画面の中の薫がまだ笑っていた。

『わかってるのかって聞いてんだよ!達彦っ!』

は?

突然背後から肩を突つかれた達彦は、ひいっと声をあげながらよろめくと、尻餅をつきながら背後を見上げて後ずさった。

部室の入り口に、緑色に塗った変な形のヘルメットを被った空がプラカードを持って申し訳なさそうに立っていた。

突然、わあっ、と叫びながら、行方不明のはずのミス研部員達の顔が一斉に戸口に突き出された。

そのままそれが爆笑に変わる。

な・・・

『どっきり!』と書かれたプラカードを持って泣きそうな顔で立つ空の背後から、はっはっ、と笑って拍手をしながら部長の岡田が現れた。

いやあいやあ、と頻りに言いながら、岡田が満足そうに頷いた。

「いやあ、期待以上の見事な反応でしたよ、伊藤くん」

は?

は?

は?

助けを求めるように祐一の方を見ると、祐一は申し訳なさそうにちらっと達彦を見た後背を向けた。

は?

実は、と泣きそうなまま言おうとした空を押し止めて岡田が一歩前に出た。

「いや、実はですね、夏休みに入る前に前期の部活の総括としてその年に入った新入部員の一人にドッキリをしかけるというのが我が部の伝統でして」

伝統だからしかたないよね、ぼくのせいじゃないよね、というニュアンスたっぷりに岡田がいやはやと首を振った。

「というわけで悪しからず」

部員達が部室に散ると、あちこちから隠し撮りをしていたスマホを取り出した。

「はあい、じゃあ、各々撮った画像をぼくのパソコンに入れておいてくださいね、編集して明日の最終日に配りますから。夏の部活休み中はそれでも見ながら無聊を慰めてくださ~い」

なんちゅう悪質な・・・

ごめんなさいっ、とプラカードとヘルメットを投げ捨てた空が泣きながら伊藤にすがりついた。

「本当は私嫌だったんです・・こんなことしたくなかったのに、無理やり・・・ごめんなさい、ごめんなさい・・」

そのまま空はずるずると座り込んで両手で顔を覆って泣き始めた。

「・・だから・・お願いですから嫌わないでください・・・お願いです・・お願いですから・・・私を捨てないで・・・」

部室の中が静まり返り、一部の者はどこか青ざめた顔で、衆人環視の中で錯乱したように叫び続ける空を見つめた。

捨てるなんて、とにこやかに言いながら肩に置かれた岡田の手を、いやっ、と言いながら空が払いのけた。

じっと払いのけられた自らの手を見つめた岡田は、肩をすくめるようにして言った。

「よく考えてください美咲さん。本当は動画を見て苦しみだした桐生くんを見せて伊藤くんを驚かすはずが、可能性は10%以下とみんなが言っていた、伊藤くんが自ら動画を見ると言い出したのかを」

にっこりと、岡田はすすり泣き続ける空を見下ろした。

「それはひとえに、美咲さん、あなたを助けたい一心からだったのですよ。そんな伊藤くんが美咲さんのことを嫌いになるわけがないじゃないですか」

ホント?という表情で顔を上げてじっと見つめてきた空に、まあ、と達彦は照れたような仏頂面でこめかみを搔きながら岡田を睨んだ。

うれしいっと、達彦にすがりついた空を見てから、にっこりと、岡田が達彦に微笑んだ。

この岡田という部長は、その人の好さそうな顔に反して相当な食わせ者のようであった。

空の髪の匂いを鼻腔に感じながら、ああ、ここに空がいるんだと実感した達彦は、そこで朝からの緊張が切れるのを感じながら、腰が抜けた様にして座り込んだ。




空の家を辞したのはまだ日の高い内であった。

いつも以上に、こちらが照れるほどに執拗に、空は甘えてきた。

何度も引き留める空の部屋の去り際にキスを求めてきた空に応えてやり、ゆっくりと歩みながら駅に向かっていた達彦はそこでふと午前中の出来事への怒りがふつふつと湧き上がってきた。

そう。

何よりも腹が立ったのはやはり薫であった。

はい、皆さんお疲れさまでした、これはぼくの奢りですよ、と岡田が隠していた菓子とクーラーボックスの飲み物で歓談している席に薫の顔が無いことに気付いた達彦が、まだ何か隠しているかと岡田に問うと、いえいえ、と彼は手を振った。

(いえ、さすがにもう何もありませんよ。そこまで準備する時間はなかったですから)

そこに薫の顔が無いことを問うと、大して気にするようでもなく、はて、と言った後、確かに変ですね、彼はこういう場面が一番好きそうなのに、確かに朝から顔が見えませんでしたし、と首をひねると、まあ、昨日“大活躍”でしたから、疲れて寝ているんですかね、と頷いた。

ラインしたが、流石にこれだけの大仕掛けで騙した後だと決まりが悪いのか、返信はなかった。

駅までの道を歩きながら確認したが、やはり既読はついていなかった。

あの野郎、と達彦は踵を返すと、もう間近に見えていた駅とは反対に向かって歩き始めた。

最後に、今回のドッキリは薫が考えたのか、と問うと、いえいえ、と岡田は慌てた様に手を振った。

(これは完全にぼくのアイデアですよ。本当は南海くんをターゲットにしてほとんど準備できていたんですよ。あ、一年生の皆には内緒にしてたんです、特にいつも一緒にいる伊藤くんなんかは、うっかり口を滑らしたり、裏切る可能性もありますし、そうでなくとも南海くんに気づかれる可能性もありましたから。ただ、南海くんから慰霊碑の件を聞いた時に不意に思いついたんですよ)

岡田が薫一人を呼び止めて皆を帰した時の上級生達のため息は、既に準備を終えていたものにちゃぶ台返そうとした岡田の意図を予感してのものだったのか、と今更ながらに気付いた。

薫が首謀者でないことはわかった。

しかし、と動画の中から達彦を指差しながらきゃはははと笑っていた薫の声を思い出して、彼は憤然と足を速めた。

学校に近いため、半数以上が同じ大学の生徒が入っている少し古いアパートにたどり着いた達彦は、ドアノブを掴んだ。

鍵は開いていた。

そうっと開くと、玄関には薫がここ最近愛用している靴が脱ぎ散らかしてあった。

クーラーを使っているのだろう冷気が廊下まで漂っていたが、室内からはコソの音もしない。岡田の言ったとおり疲れてこの時間まで寝ぼけているのかもしれない。

そこで一度深呼吸して顔を叩いた達彦は、わざと憤然とした表情を作ると、薫、入るぞ!と叫ぶように言いながら足音高く上がり込み、勢いよく部屋の扉を開いた。

う・・・

そこから流れてきた異臭に達彦は反射的に手の甲で鼻を押さえた。

なんだ、この匂い?

生物が腐ったのとは違う、もっと青臭い、いや泥臭い匂い。

クーラーをつけているにも関わらず、部屋の中も何かじっとりと湿ったように嫌な感じがする。

そして部屋の主はいなかった。

そこで達彦はカーテンが閉まったままの部屋の灯りがついていることに気付いた。

カーテンの隙間から夏の夕方の赤黒い残光が容赦なく差し込む部屋は、まるで夜中のうちに慌てて出かけた後閉め切っていたようななんとも奇妙な雰囲気を漂わせ居ていた。

唾を飲み込みながら一歩踏み込んだ達彦は、倒れていた椅子を起こしたところで、ふと変なものを見つけた。

蛍光灯を付けたままの机の上に置かれた、画面の開かれたノートパソコンの脇に、充電時以外、アパートの前の自動販売機に行く時さえ手放さない薫のスマホがぽつねんと佇んていたのだ。

なんだ・・・?

スマホの片側が開いていた。SIMカードやマイクロSDの入っているあそこだ。

パソコンのマウスを軽く握っただけで、パスワードなど設定しているなどあろうはずのないずぼらな薫のパソコンは直ぐにセーフモードを解除して元の画面を映し出した。

あ・・・

映し出されたフォルダには、特大に設定したアイコンが二つ、並んでいた。

一つは見覚えがあった。

今朝、じっとりと汗ばんだ指でクリックした、“あの”慰霊塔の動画であった。その最初の場面、慰霊塔がサムネイルになっている。

もう一つは真っ黒の画面から始まっているようだ。

これは?

クリックしたとたん、それほど待たせずに再生を始めたのは、プレイヤーアプリが立ち上がったままになっていたからだろう。

カン、コンと固い音、時々微妙に差し込んくる光、そして、ちっ、とかくそっ、という小さく罵る声を聴いた達彦は、カメラのアプリを立ち上げたまま胸ポケットに入れていたせいで、塀を乗り越える作業の途中で画面が押されて勝手に録画を始めたのだ、ということに気付いた。

一度うっすらと光に照らされた画面が激しく揺れ、着地の足音と、ふうという薫の声が聞こえてきた。

そして、ポケットから取り出されたスマホの画面が手にぶら下げられたとわかる位置で止まった。

とたんに顔を強張らせた達彦は、全身を走り抜けた寒気にはっと室内を見回した後、悲鳴をあげながらパソコンを少しでも体から離すように押しやりながら、椅子から転げ落ち、尻で這って壁にへばりついた。

あいけね、と言いながらスマホを覗き込んだ薫の顔と共に映像は切れた。

そのまま静まり返った部屋の中に、達彦の荒い息だけが響いき続けた。

突然、くひいいっ、と今にも息が詰まるのではないかというような声でうめきながら、イヤイヤをした達彦の目から涙があふれだした。

ちくしょう・・・ちくしょう・・・・

薫の奴っ!!!

ぐううとうめきながら達彦は壁がへこむほど殴りつけた。

なんで・・あの野郎・・・

一瞬手にぶら下げれた瞬間に写された校舎の窓には、ずらりと並んだ人影が恨めし気に薫の背中を見つめて立っていた。




終わった・・・

画像を見た瞬間感じた悪寒が、恐怖故だけのものでないことは既にわかっていた。感じた。

まるで冷たい水の中に一瞬漬けられたような、あるいは吹雪の道で雪に埋もれたような。

様々な寒さが、悪寒が、ないまぜになったような、自ら抱いた体の体温自体が下がってるのがわかるような、それは悪寒。

わかっているんだろうな、とその悪寒が叫んでいた。

今から迎えに行くからな、と。

見た途端スイッチが入ったのだ、とはっきりと感じた。

悪寒は、その警告だった。

はっ、と涙を流しながら達彦は笑った。

終わった・・・終わったんだ・・・

“その”瞬間は、恐怖を乗り越え意を決してタブレットの画面をクリックした時ではなく、好奇心ともいえぬ惰性で友人のパソコンを覗き見た瞬間にやってきた。

あはははと笑いながら、達彦は涙を流し続けた。

やっぱり、あの嫌な予感は当たっていた。

噂、は噂だけではなかったのだ。

それは、先輩達が残してくれた警鐘だったのだ。

それまでに、これまでにどれ位の学生達が犠牲になったのか。

一瞬、それも全体の一部の窓だけだったのに、窓際に立っていた人の数は数えきれないほどであった。

もう、これで・・俺は・・・

俺も、その一員になるのだ。

そこで達彦はゆっくりと立ち上がりながら、スマホを取り出した。

電話を開くと、着信履歴の一番上の桐生祐一の名前が目に飛び込んできた。

あいつかよ・・・

もしかしたら俺が最後に話をするのがこいつかよ、と笑いだしたい気分で靴を履きながら、クリックする。

いや、と外に出た達彦は足を速めた。

そんなことあるもんか。

そんなことをさせるもんか。

そう、俺が最後に話をするのは・・・

今朝のことがあって躊躇したのか、少し待たされた後、祐一が出た。

(いや、伊藤くん今朝は悪かっ)

「寅さんを見つけた」

電話の向こうがしばらく沈黙した。

返事を待たずに達彦は続けた。

「薫の奴、あの夜2本の動画を撮っていた。一つはインスタに上げた奴、もう一つに、窓際に立つ無数の人影が映っていた。18人なんてもんじゃない、凄い数だった。その中に寅さんもいた」

そう、あのトレードマークのような空色のポロシャツと大きな体は、少し揺れる画面の中でも見間違うはずなかった。

ち、ちょっと、と電話の向こうの祐一の声が慌てた。

(あ、あのさ、ゴメン、何言ってるのかわかんないんだ・・・あ、あのさ、もしかして今朝のこと怒っててその仕返し・・)

いいか、と達彦が祐一声に声を強めて被せると電話の向こうが沈黙した。

「薫の部屋のパソコンに2つの動画が保存されている。一つはインスタの、そしてもう一方が見てはいけない方だ。絶対見るな、見ると」

そう見ると。

俺のようになる。

「いいかい、そのファイルは見ずに、完全に削除してくれ、頼む、頼んだ」

ちょっと、と言いかけた声を聞きながら達彦は通話を切ると、そのまま再びスマホを操作した。

はあい、という嬉しそうな甘えた声が応じたのを聞いただけで、自分の唇に笑みが浮かぶのを感じた。

「あ、ぼくだけど、今からもう一度会いに行ってもいいかな?」

ハアハアと息を切らしながらなんとか言うと、うん、と空のうれしそうな声が聞こえた。

(うれしいっ、じゃあ待ってますね)

激しい息遣いを不審に思いつつ、自分の所に駆けてくる達彦の姿を思い浮かべたのだろう空の声ははしゃいでいた。

うん、と達彦の唇の間に白いものが覗いた。

「じゃあ、直ぐに行くから」

そう言ってスマホを切った達彦は更に足を速めた。

自分にどれくらいの時間があるのかわからない。

ただ、それがそれほど長いものとは到底思えなかった。

薫の部屋の様子から、薫はあの動画を見たまさにその瞬間に“連れて行かれた”のだとわかった。

自分の場合と何が違うのかわからない。

しかし、自分は助かったのだとは微塵も思えなかった。

すぐ背後にその手が伸びているのをはっきりと感じるほどに。

なのに、それなのに。

今すぐにでもその角から岡田が現れ、いいですねえ、その表情、と笑いながら握手を求めてきそうな気がする。

突然茂みから薫が飛び出してきて達彦を指差し、お前って奴は何度騙されれば気が済むんだよ、と笑いながら肩を抱いてきそうな気がする。

もう駄目なんだ、助からないんだ、とわかっていても、実感がない。

まだ、死ねない。

そうだ、そうなんだ・・・

だって俺は、まだ人生最大の楽しいイベントを残している。

空の家にたどり着けば、待ちかねた空が笑顔で飛び出してきて抱き付き、そしてキス・・・

それが先だ、死ぬ前に、まだそんな楽しいことが待っている。

その後どうなるかなんて知るもんか、まずそれだ。

死への恐怖はなかった、いや忘れた、忘れようとした。

楽しいことしか考えないようにした。

俺はそこに向かって走ってるんだ、と。

ああ・・・

西に向かって走る達彦の目に、この時期にしては珍しい鮮やかな夕焼けが写った。

ああ・・綺麗だ・・・

綺麗な空だ。

私、空が好きなんですよ・・・

言いながら何もない青空に向かって笑いながら何度もシャッターを切っていた空の姿が浮かんだ。

ほら、名前と一緒だから・・・

そんなことがあってから、達彦も度々空を見上げ、美しい空の景色を写真に撮っては空に送った。

スマホを取り出した達彦はそれを夕日に向けた。

完全に沈みかけたわずかに頭を覘かせた夕日の最後の光芒が鮮やかだった。

これが、空への最後のプレゼントになるかもな・・

時々立ち止まって夕日にスマホを向けながら、達彦は必死に走った。

見えた。

達彦はアパートの駐車場を横切り、ゼイゼイと空の部屋を目指した。

夕日が完全に山に没した。

とたんに。

むっとした泥臭い匂いが達彦の周囲に漂った。

うっ、嘘だろっ!

こんなっ!

そらっ、と声にならない声が叫んだ次の瞬間、足元が消えて無くなったように達彦の体は音を立てて水中に没した。

必死に空に向かって伸びた手が宙を掴み、やがて水中に引きずり込まれるようにして消えた。

後には何事もなかったかのような夏の日に焼かれたアスファルトが残されていた。

「伊藤くんっ?」

嬉しそうに叫びながら扉を開いて飛び出してきた空が不思議そうに辺りを見回したその先で、カランと音を立てて落ちたスマホが地面を滑った。

驚いたように見つめたそれが見覚えのあるものだと気づいた空の顔から、ゆっくりと表情が消えた。





美咲さん、と呼ぶ声に振り返った空の目の前の机に、マイクロSDのカードが置かれた。

視線の先で、どこか泣きそうな桐生祐一が空を見下ろしていた。

「昨日、頼まれたもの、撮っておいたよ」

うん、と白い肌の目の周りを黒く染めた空は、目一杯の愛想笑いを浮かべて祐一に頷きかけた。

「ありがとう、無理を頼んじゃったね」

言いながらそのSDカードを大切そうに手の中に握りしめた空は、ゆっくりと立ち上がるとミス研の部室の扉まで歩いた。

そこから覗くと、まだ夏休み期間で学生の少ない静かな校内に、カンカンと足場を組む高い音が響き渡っていた。

3人の学生が連続して失踪したという岡田の訴えが効いのか、それとももっと前から怪しい噂に嫌気が差していたのか。

大学当局は夏休み中の期間に慰霊塔から見える校舎の窓全てに目隠しを付けることを決定した。

その工事が8月24日の今朝から始まったのだ。

事前にそれを知った空に、選択肢は一つしか残されていなかった。

「いと・・いや彼が教えてくれたことから、動画は危険だと思ったから、一定時間ごとに写真を撮るようにセットして慰霊塔に置いておいた。ただ、写真だから安全だってことが確認されているわけではなくって、ぼくも中身はまだ」

もういい、とでも言うかのように、空は微笑んで手を振った。

「うんわかってる。ここからは一人でやるから。じゃあもう私帰るね」

言いながらかばんを手に立ち上がった空に、あ、あの、と祐一は手を伸ばした。

「あ、あの、送って行こうか。いや、もう少し美咲さんと話がしたくてさ」

じっと祐一の顔を見つめた空は、うん、と笑顔で頷いた。

ただ。

その道行は祐一にとって楽しいものではなかった。

楽しそうに、嬉しそうに鼻歌を歌う空は、まるで完全に自分の世界に入り込んででもいるかのように、おずおずと声をかける祐一の呼びかけには一切応えようとはしなかったのだ。

伊藤達彦と南海薫の失踪から早一か月。

空がアパートの駐車場で見つけたスマホは、やはり伊藤達彦のものであった。

そこには祐一との最後の通話記録と数枚の写真が残されていた。

鮮やかの夕日の写真の最後に、まるで空に向かって手を伸ばすような一枚の写真が残されていた。

この写真は、とそのアングルに不審を抱いた岡田が何度も現場を検証したが、体が地面の下にでもない限りにそういう風には写らないという奇妙な結果しか導き出せなかった。

そして、達彦からの最後の電話の内容を岡田に伝えた祐一は、二人で訪れた薫のパソコンに残されていた動画を慎重に削除した。

数日後、岡田は大学当局に面談を申し込み、慰霊塔の危険性を主張した。それに立ち会った祐一は、居並ぶ大人達に堂々と語りかける岡田を見ながら、あのひょうひょうとした彼にこんな一面があったのか、と驚いた。

決まった日に慰霊塔から校舎を見ればあの世に連れて行かれる、という噂はきいていたのだろうが、その危険性を真顔で主張する岡田の荒唐無稽な話を鼻で笑った彼らであったが、では、と来月の23日の夜、ぼくと一緒に慰霊塔に立ってくださいますか、とにこやかに言った岡田に嫌な顔をした。

やっぱり、あれが効いての工事なんだろうな、と空の後をついて歩きながら祐一はぼんやりと思った。

アパートの扉の前で、空は全身で祐一を振り返って手を振った。

「じゃあ、ほんとうにお世話になりました。元気でね、桐生くん」

まるで、永遠のサヨナラの言葉だった。そして、それが“まるで”ではないことを二人は知っていた。

あ、と言いながら手で目を覆った祐一は、あの、と続けた。

「も、もうちょっと、もうちょっとでいいから、あの・・」

わずかに指を開いた隙間から、祐一は空を見た。

「もうちょっとだけ、一緒にいていいかな。あの、なんかさ、このままサヨナラとか、やっぱり寂しくって」

じっと無表情に祐一の顔を見つめた後、うん、と空は目を細めた笑顔で頷いた。

「少しだけならいいよ」

上がって、と扉が開かれたとたん、祐一はわずかにうっと顔をしかめた。

空の部屋の中からは何かが腐ったような饐えた匂いがした。まるで何か月もゴミの処分をしていない、無精者の男子学生の部屋の匂いであった。

上に上がって部屋を覗いたとたん、祐一は再び小さくうめいた。

カーテンを閉めたままの部屋の中には、壁に叩き付けられたとわかる傷と一緒に、陶器やガラスの破片が散乱していた。

敷いたままになっていた布団の上にまで、ガラスの破片があった。

そして、手足や首を引きちぎられた縫いぐるみも。

慄然と立ちすくむ祐一をよそ目に、楽しそうに鼻歌を歌いながら机に向かって座った空は、パソコンの電源を入れると、アダプターに入れたマイクロSDをスロットに差し込んだ。

そして、古く起動が遅いパソコンの画面を見ながら、早くっ、早くっ、とリズムを取りながら嬉しそうに体を揺らす。

あ、あの、とその背中におずおずと手を伸ばしながら、祐一は息の詰まったような声を絞り出した。

「や、やっぱり止めよう、ね、やめようよ、お願いだ、美咲さん。危険だよ」

楽しそうに揺れていた空の体が止まった。

空の反応があったことに力を得たのか、祐一は、あ、あのっ、と続けた。

「あ、あのさ、こ、こんな時にこんなこと言うの卑怯からもしれないけどさっ、あの、ぼく、前から美咲さんのことっ」

知ってた、と空の背中が静かに言った。

「あ、え?」

知ってた、と空が繰り返した。

ゆっくりと椅子ごと祐一を振り返った空の顔は目を見開き、歯を剥いてニヤニヤと笑っていた。

「だから、桐生くんミス研に入ったんだよね。だから、伊藤くんに近づいたんだよね?私達の仲を裂くために」

い、いや違う・・そんな・・

だから、と涎でも垂らしそうに空は笑い続けた。

笑った形の目の奥の瞳が、全く笑っていなかった。

「あの日も、わざと私が伊藤くんに嫌われるように、あんなこと、させたんだよね?」

ちが、違うっ、あれは部長が・・・

だからね、と突然自分の両頬を手で覆った空は、ほうっと嬉しそうにうっとりと宙を見つめた。

「だからね、私今から伊藤くんのところに謝りに行くんだ・・・伊藤くん優しいから、きっと私のこと許してくれるよ、そしてやさしく抱き締めてくれるんだ・・・」

突然椅子を回転させてパソコンを抱き締めた空は、涙ぐみながら、だからっ、と青白い血管をこめかみに浮かせて唾を飛ばして祐一を睨んだ。

「だから出てけっ!ここからは私と伊藤くんだけの時間なんだっ、出てけっ!出てけよ下衆野郎っ!」

祐一は手で顔を覆った。

狂ってる・・

それは空か、それとも世界そのものか。

指の間から、すぐに涙が滲んだ。

もう無茶苦茶だ・・・

無力感によろめきながら、部屋を出た祐一が玄関の扉を閉まるのを確認するまで、フーッ、フーッと荒い息を吐いて祐一が去った方向を睨んでいた空は、扉が閉まる音が響いたとたん急に優しい笑顔になると抱いていたパソコンを開いた。

じゃあ、と言いながらマウスを握った空は頷いた。

ふんふふん、と再び自分でも何の曲かわかっていないのだろう鼻歌を楽しそうに歌いはじめた空は、フォルダを開いて写真を一枚ずつ確認していった。

頬杖をついて無理な角度に曲がった左手首の白リストバンドが、ちょっと擦りむいた、ではない量の血でゆっくりと染まりはじめた。古傷からの出血のはずがなかった、それは明らかに最近できた傷からのものであった。やがてぐっしょりと濡れて血が滴り始めても、空は全く気付かないかのように、写真をスライドしていった。

「伊藤くんは、どっこか、な~っ、と」

無機質な校舎建物以外何も写っていない写真が、何百枚も空の目の前を流れていった。

そのじらされている時間そのものを楽しんでいるかのように、空は流れる血でだんだんと青ざめていく顔で楽しそうにパソコンの画面を見つめていた。

その手が止まると同時に、ゆっくりとその目が見開かれた。

ぞくっと悪寒が全身を走り抜けた。

あ、ああ・・

その時になって、初めて自分が何をしていたのか気付いたかのように、空は立ち上がると怯えた表情で部屋の中を見回した。

い、いや・・・

空は怯えた表情で壁にへばりついて目を見開いた。

部屋の空気に強く泥の香りが匂った。

「い、嫌だっ、こ、怖いよ伊藤くんっ・・・い、伊藤くんっ・・た、助けてっ、いと」

ぽちゃん、と水音が響いた。




夕闇の中で、一瞬の幻のように空の達彦を呼ぶ声が聞こえたような気がして、空の部屋の前にうずくまって座っていた祐一は顔を上げた。

先ほどまで扉を通してかすかに聞こえていた空の鼻歌が止んでいることに気付いた祐一は、両手で顔を覆って嗚咽を漏らした。

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