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「……綺麗」
目の前に広がる光景にソフィーは見とれた。
空を切り取ったような青い絨毯。明るいブルーの花が咲き誇るサフィロースの花畑の中に足を踏み入れるとまるで空の中に立っているようだ。ソフィーとルイスはサフィロースの花農家を訪ねていた。
以前は観賞用でしか栽培していなかったサフィロースはある金属の媒染剤を使うことで明るく鮮やかなブルーに布を染めることが出来る。それを開発したのがこの領地の職人で、侯爵家主導で事業を立ち上げたのが一年前だという。やっと試作が出来上がり先日レナードがルイスを伴って売り込みをかけたのだ。布問屋をバックアップしている伯爵家も問屋の代表も非常に乗り気で大量の予約を取り付けた。今期の布は少量だが次の花の時期からは大量生産に入る。その為ルイスは数か月領地に滞在して生産体制を整えるのだ。
「うん、この倍は、いや、三倍はサフィロースの花畑を広げて欲しいんだ」
「ウチはこれで手一杯だぁ。前より倍に増やしたからよ。隣のビリーんとこにも声かけていいかね、坊ちゃん」
「いいよ。他にもやりたい人がいたらテッドが纏めてくれ。サフィロースは侯爵家が全て買い取る。後日担当の者を寄越すから。それよりテッド、坊ちゃんは止めてくれ」
「そうかい、坊ちゃんも立派になったなあ。こーんな綺麗な奥方様を貰ったんだもんなあ」
隣でメモを取っていたソフィーは顔を上げた。
「違うよ、ソフィーさんは兄上の奥さんだ」
真っ赤になって否定するルイスにつられてソフィーも赤くなった。
「レナードの妻のソフィーと申します。領地の事は学び始めたばかりですがテッドさん、よろしくお願いしますね」
「こっちこそおねげえしますだ。はあそれにしてもお綺麗で優しそうな奥様だぁ、坊ちゃん幸せもんだな」
「だから、ソフィーさんは兄上の―――」
言いかけてルイスはため息をついた。
サフィロースの花束を貰ってソフィーとルイスは花農家を後にした。
「サフィロースの花畑、ジュードにも見せてあげたかった」
ソフィーがポツリと呟くとルイスは恒例になってしまったソフィーの肩をポンポンと二回叩く仕草をした。
「次の花の季節にはジュードも連れて来よう。兄上も許可してくれるさ」
ジュードは王都の侯爵邸でお留守番をしている。ソフィーが侯爵家の領地に行くことをジュードはもっと嫌がるかと思っていた。ソフィーの予想に反し寂しそうな表情を浮かべたもののジュードは嫌だと言わなかった。「僕、お勉強頑張るから。姉様が帰って来るまでに出来ることをたくさん増やしておくんだ」
そう宣言したジュードの頭をリオンがよしよしと撫でて「ジュート様、俺もいっぱいいっぱい協力しますからね!」と力こぶを作っていた。ジュードはソフィーが旅立つまでの数日いつにも増してソフィーにべったりくっついて眠ったが「行かないで」とは一言も言わなかった。
ルイスは順調に仕事をこなしていった。ソフィーも微力ながら一生懸命補佐を務めたがある程度下準備は整っていたとはいえ染色工場の手配やサフィロースの運搬、布や媒染剤の手配、染色した布を王都に運ぶ体制など手際よくさばいて行く様はルイスの優秀さを物語っていた。人材も集まって来てこの事業が軌道に乗れば更にマンスフェルド侯爵領は発展していくであろう。
「ふう、凄いですわルイス様」
ソフィーが感嘆を漏らすとルイスは嬉しそうにクシャッと笑った。
「ソフィーが支えてくれるから」
「私なんて……大して役に立っていません。ルイス様の足を引っ張らないようにするのが精いっぱいで」
「ソフィーは自己評価が低すぎだよ。君が書類を整えてくれて各関係者への連絡を齟齬が無いように徹底してくれて打ち合わせの時も円滑に進むよう気を配ってくれた」
「それは当たり前のことです」
「そう?打ち合わせの時にさりげなく相手の好物を調べて持参したり、子供や孫の誕生日を調べてささやかな贈り物をしたり。だから職人の頑固じじいや荷運びの厳ついおっさんたちの人気者なんだよ、ソフィーは」
ルイスはそう言ってくれるがそういう気遣いはソフィーにとって当たり前のことだった。
「ニールおじさぁん、おじさんの好物、お土産に持ってきたわよー!」
ソフィーの脳内に亡き母の元気な声が響く。幼い頃数度連れて行ってもらった子爵家の領地。ソフィーの母は領地に行くたびに領民にお土産を持っていったり誰それのお子さんの誕生日だったわねとプレゼントを持っていったりした。決して高価なものではなくリボンだったり手作りのクッキーだったりほんの些細なプレゼント。でもその気遣いが嬉しいと領民たちはいつも喜んでくれた。採れたての野菜を籠一杯持たせてくれたり搾りたてのミルクを飲ませてくれたり。いくつかの村と町、小麦畑と野菜畑と牧畜、そんなささいな領地だけどソフィーの両親は領民を愛し領民も領主を慕っていた。
「ルイス様こそ!領地の皆さんに慕われていることが凄く良く分かります!」
不意に両親を思い出して涙腺が緩みそうになったソフィーは慌てて言った。
「俺はここで育ったから」
「それでも慕われているのはルイス様の人徳ですわ」
「俺よりソフィーだよ」
「ルイス様こそ」
ルイスとソフィーは顔を見合わせて吹き出した。
「やめよう。褒め褒め合戦は背中がむず痒くなる」
ルイスとの仲は前にも増して近くなり、そう、ルイスがソフィーさんからソフィーと呼ぶようになるほど。ソフィーは毎日が楽しかった。それでも時折心を引き締める。ソフィーはレナードの妻なのだ、白い結婚とはいえ。だからソフィーからルイスに触れたことは一度も無いしルイスが触れるのはポンポンと肩を叩くときだけだ。(ルイス様は義弟、身内だから優しくしてくださるだけ)毎朝心の中でそれを唱えるのがソフィーの日課になりつつあった。
その夜、ソフィーは両親のことを考えていた。
ソフィーの母はバイタリティーあふれる美人だった。母は額に大きな傷跡がある。それを隠すでもなく気にするでもなく堂々と晒していた。初対面で母の傷を見てギョッとする人も母があまりに明るくポジティブなのでしばらく付き合っているうちに気にならなくなるらしい。父は穏やかな人だった。いつも微笑んで母やソフィーを見守ってくれた。
ソフィーは一度母の傷について聞いたことがある。
「名誉の傷跡よ」
そう言って母は笑っていた。
「チェルシーは美人だからな。外見も美人だけど中身はもっと美人だから傷の一つや二つ気にならないよ」
愛おしそうに母を見つめ父は母の額にキスをした。
愛と笑いに溢れた幼少期だった。領地でも王都のお屋敷でも。
使用人たちとも気さくに話し、悩みがあれば真摯に相談にのる母だった。執事のラッカルの誕生日にはサプライズパーティーをした。目を丸くしたラッカルの表情が面白かった。
「お父様、お母様ごめんなさい。グレンフィル子爵家を手放してしまいました。……でもジュードの事は絶対に守りますから」
ようやく眠りについたソフィーの頬は濡れていた。隣に小さなぬくもりが無いことが酷く寂しかった。
「ルイ!おかえりなさい!あのね今日ね―――」
ルイスとソフィーが仕事から帰るといつもポリーがすっ飛んでくる。
「ポリーさん、奥様にご挨拶が先ではありませんの?」
ヘレナに言われて「ひゃ、怒られちゃった」と首をすくめてルイスに縋りつくまでがルーティンだ。
ソフィーはため息をついて出迎えてくれたヘレナと共に部屋へ向かう。
「あ、ちょっと待ってソフィー」
今日は珍しくルイスがソフィーを呼び止めた。
「明日行く商業ギルドなんだけど」
「ああ、それでしたら―――」
ソフィーがルイスと打ち合わせをしている間ポリーは苛立たしそうに足踏みをして待っていた。
「ねえルイ、まだぁ?」
「ポリー、これは大事な打ち合わせなんだ」
数分打ち合わせをしてソフィーは部屋に行こうと歩き出した。
「尻軽」
すれ違いざまに囁いたポリーの言葉に唖然としてソフィーは振り返った。
「ねえねえ聞いて、今日はね―――」
ルイスの隣りをぴょんぴょん飛び跳ねるように歩きながらポリーが去って行くのをただ黙って見ていた。
「少し目に余りますわね」
ヘレナの低い声が聞こえた。




