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ソフィーは今馬車に揺られている。
マンスフェルド侯爵家の領地に向かう馬車に。王都から東南に馬車で二日でマンスフェルド侯爵領に入る。それから更に一日で侯爵家のお屋敷がある領都イーティッドに着く。
「奥様、あの丘を越えればイーティッドが見えますわ」
ソフィーは馬車の窓からヘレナが指さす方向を見る。王都のお屋敷には後ろ髪を引かれる思いを沢山残してきたが王都を離れて久しぶりの遠出に心が浮き立っているのも事実だった。ソフィーの両親が健在だったころは何度か子爵家の領地に連れて行ってもらったが叔父一家が来てからは屋敷の外に出る事さえ禁じられたソフィーだったのだ。
「奥様!とてもいいところですねぇ!景色のいい湖が近くにあるそうです。ぜひ散策に出かけましょう!サフィロースの花も今が見ごろだそうです。サフィロースの花畑は青い絨毯を敷き詰めたようでとても美しいと聞きましたわ!」
アビーは領地に行くのは初めてだそうでとてもうきうきしている。
「奥様はお仕事をしに来られたのよ」
ヘレナにやんわり窘められてちょっとしゅんとしたアビーにソフィーは微笑んだ。
「数か月滞在するからアビーお勧めの湖にみんなで出かけられたらいいわね」
ソフィーはルイスと共にマンスフェルド侯爵家の領地にやって来た。そのルイスは護衛騎士と共に騎馬で馬車に付き添っている。数か月前まで王宮で騎士をしていただけあってルイスは狭い馬車で移動するよりも馬に乗っていた方が楽しそうだった。
叔父一家が侯爵邸に押しかけた三日後、ソフィーはルイスと共に領地に行くようにレナードに命じられたのだ。侯爵家が手掛ける新事業の準備の為、とレナードは説明した。
新しい染料を使って染められた布、フェアリーブルーと名付けられた染料を使った布は先日の商談で好意的に受け入れられたようだった。いや、絶賛された。「これは流行りますぞ」と言われ生産体制を整えるべくルイスとその補佐としてソフィーも領地に向かうことになったのだ。
それはわかる。わかることだがソフィーは寂しい思いを必死で抑えた。
お飾りの妻であることはわかっている。仕事しかレナードに求められていないことも。だから与えられた仕事を頑張らなくてはジュードとソフィーは侯爵家で居場所が無いことも。
それでも数日前の会話がソフィーの頭をよぎってしまうのだ。
叔父一家が帰った後、レナードが具合悪そうだと伸ばしたソフィーの手は拒まれた。そうして鼻先で閉められたレナードの寝室の扉。中にはレナードとエイミーの二人だけだ。十歳以上年下の自分に比べエイミーは年回りもレナードと釣り合うようにソフィーには見えた。
メイドと主人だ、具合が悪くなった主人をメイドが世話するのは当然のことだ。それでももやもやしたものが残ってつい部屋に戻った時にソフィーは愚痴ってしまった。
「旦那様はマシューとエイミーのブランドンご夫婦の事をとても信頼していなさるのね」
「え?マシューさんとエイミーさんは兄妹ですよ」
アビーの言葉に唖然とした。ソフィーは同じ姓のマシューとエイミーを夫婦だと思っていた。だから近すぎるほど近いレナードとエイミーの距離も無理に納得していた。
「エイミーは結婚していないの?」
「マシューさんとエイミーさんのお父様が前々侯爵様の執事だったのでマシューさんとエイミーさんは幼いころからご主人様に仕えていたと聞いています。だからエイミーさんはあの年齢でメイド長なんです。エイミーさんは生涯ご主人様にお仕えできれば幸せだと言っていましたよ」
「アビー、奥様の入浴の準備をしてきてちょうだい」
ヘレナに言われてアビーが「はあい」と去って行く。
「奥様、エイミーさんはメイドとしてご主人様を崇拝しているだけですわ」
ヘレナにそう言われてもソフィーは「そうね、気にしていないわ」と微笑むことが出来なかった。
エイミーに何か言われたわけではない。彼女はソフィーを奥様としてよく仕えてくれている。
(私は旦那様を愛している?ううん、そんなことは無いわ)ソフィーは心の中で首を振った。できれば愛し愛されたいと思った。ソフィーの両親のように。でも心を通わせるほどレナードと話をしたことがソフィーにはない。初夜に拒まれて以来執務室で仕事について指示を受けただけ。大抵一言二言話をしただけで「下がれ」と冷たく言われる。
それでもレナードはソフィーとジュードに十分な環境を与えてくれた。侯爵家に来た当初は気が付かなかったのだがソフィーとジュードに与えられた部屋は十代の令嬢と七歳の令息が暮らせるように整えられていた。ジュードの部屋の家具はちゃんとジュードの身体に合うように調節されていたのだ。そしてソフィーに用意されていたドレスはソフィーにぴったりだった。
(私は旦那様のことを何も知らない。好きな食べ物は?好きな色は?何に喜んで何に興味があって何を求めているのか?エイミーはそれらをみんな知っているのかしら?)
ルイスの事だったら少しはわかる。そのくらいソフィーはルイスと一緒に過ごした。何でもよく食べるけど生のトマトは苦手でフォークを口に運ぶ速度が少し落ちる。身体が鈍ると言って早朝によく鍛錬をしているが鍛錬の終わりには普通より多めの蜂蜜を入れたレモン水を好んで飲む。嬉しいとちょっとたれ目がちな目じりがますます下がって、ソフィーが落ち込んでいる時には数度手を彷徨わせた後に躊躇いがちにポンポンと肩を二度叩いてくれる。天気がいいとお屋敷の庭の木陰で芝生の上に寝転んで転寝をしてしまうことや書庫で調べ物をしている時にはレナードと同じように眉間に皺が寄る。
「奥様着きましたわ」
ヘレナの声にソフィーは我に返った。レナードの事を考えていた筈なのにいつの間にかルイスの事を考えていたことに気が付いてソフィーは少し赤くなった。
使用人に迎えられてお屋敷に入る。
部屋に向かおうとルイスと歩いている時にパタパタと足音が聞こえた。
「ルイ!おかえりなさい!あ、ルイス様だったわ」
メイドのお仕着せを着た溌溂とした女の子だった。健康そうな小麦色の肌とぴょこぴょこ揺れるポニーテールが愛らしい。その子はルイスの前に来るとペロッと舌を出した。
「ポリーか!!懐かしいな!大きくなったなぁ」
「あら、もう十九になったのよ。ルイは相変わらず?」
「酷いな、これでも騎士団で鍛えて逞しくなったんだ。ポリーはもう結婚したのか?ああ、今ここで勤めてるっていうことは?」
「残念ながら花の乙女よ。あっ誤解しないで求婚者は沢山いるんですからね」
ルイスに向かってイーをするメイドをソフィーはボーっと見ていた。
「貴方はこちらのメイドかしら?奥様にご挨拶をするのが先ではないの?」
ヘレナの声にルイスはハッとしたようだった。
「あ、ソフィーさん、えーっとポリーだ。この屋敷でメイドをしている?で合っているんだよな。俺の乳母の娘で……んー、幼馴染みたいなものだ」
「えっと失礼しました奥様?ポリーと申します。ねえ、ホントに奥様?侯爵様より物凄く年下に見えるけど」
後半の言葉はルイスに向けたものだ。ポリーとルイスはかなり親しそうに見える。侯爵家の令息と使用人の会話とは思えない言葉使いだ。エイミーもレナードが幼いころから仕えているとソフィーは聞いていたがエイミーはレナードにこんな言葉使いで話しかけたことは一度も無い。エイミーは必ず使用人としての節度を守っていた。
「レナードの妻のソフィーです。こちらに滞在中よろしくお願いしますね、ポリー」
ソフィーはにこやかに微笑んで先に部屋に向かおうとヘレナとアビーを促した。
「あっソフィーさん、部屋まで送るよ」
「結構ですわルイス様、久しぶりの再会なんでしょう?積もる話もあるでしょうから」
「積もる話なんて―――」
「ねえルイ!奥様もああ言ってくださったんだからお話ししましょうよ。トミーやテッドが今何しているか知ってる?」
ポリーの甘えたような声が聞こえたがズンズン歩くとすぐに聞こえなくなった。
部屋に入るや否やアビーが憤慨したように言った。
「なあにあの子!礼儀無さすぎ!」
「そうね、使用人がご主人様一家にして良い言葉使いではないわね。それはあなたもよアビー」
ヘレナの言葉にアビーは「はあい」と首をすくめた。
(そうね、私がこんなにもやもやしているのはあの子の礼儀がなっていないからね。決してルイス様と親しそうだからではないわ)イライラもやもやに理由をつけることが出来てソフィーはホッとした。




