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最終話です。
ソフィーとレナードの時は優しく過ぎて行ったが、周りを取り巻く環境は様々な変化があった。
パーティーからつまみ出され悪態をつきながら帰宅したグレンフィル子爵代理、いやヒューイット準男爵は子爵邸に戻るとその辺にある物を投げつけた。妻クレアと娘マイラも酷い荒れようでラッカルはメイドたちに部屋から出てこないように厳命した。
「おい!お前の親分はどうした!!」
ヒューイット準男爵の寝室の前で見張りをしていた子分に怒鳴りつけるが手下はきょとんとしている。彼の親分はヒューイット準男爵たちとパーティーに出かけたのだ。実はとっくにルイスたちに捕まっていたのだが寝室の前で見張りをしていた子分にわかるわけがなかった。その子分も酒を飲んで居眠りしていたのは内緒だ。
「くそう……くそう……」暫く唸っていたヒューイット準男爵は不意にニヤッと笑った。こっちにはあの書類があるのだ。ソフィーがサインした爵位譲渡の書類が。
「明日の朝一番で王宮に書類を提出してやる。後で吠え面かくなよ、ソフィー」
次の朝、吠え面をかいたのはヒューイット準男爵の方だった。
「無い……無い……」
どこを探してもひっくり返しても爵位譲渡の書類が無いのだ。部屋の前には常に見張りがいた。金庫の鍵は肌身離さず持っていた。それなのに書類が忽然と消えてしまったのだった。
ラッカルに食って掛かったヒューイット準男爵は「私が貴方様のお部屋に侵入できるわけがありません」と一蹴された。その次にターゲットになったのは寝室を見張っていた子分だ。
「そうか、お前が盗んだんだな。お前の親分があっちに寝返ったのか!」
ヒューイット準男爵はゆらりと立ち上がる。手にはペーパーナイフが握られていた。
ペーパーナイフなので大した殺傷力は無いが鬼気迫る迫力に子分は逃げ回る。程なくラッカルから知らせを受け駆けつけた憲兵に両者はあっさり捕縛された。
後日であるが、ソフィーの届け出により次期子爵がジュードに決まり後見はソフィーになった。子爵代理はラッカルにお願いした。ラッカルは恐縮していたが。
調査のために訪れた王宮の官吏により、ヒューイット準男爵が勝手に子爵家の財産を私物化して売り払っていたこと、代理の仕事を未成年であるソフィーに押し付けていたことが発覚し(使用人たちがこぞって証言したので)ヒューイット準男爵は収監されていた牢屋からまた別の牢屋に護送された。
叔母のクレアとマイラは子爵家を追い出された。彼女たちも身分を詐称していたのではあるが、彼女たちは本気で子爵夫人、令嬢になったと思っていたので、屋敷を追い出されただけで済んだ。ほぼ無一文で放り出された彼女たちが市井で生きていけるのかはわからない。クレアは元々場末の飲み屋で働いていたそうだから案外しぶとく生きていくかもしれない。
その騒動が収まって数日後、ジュードが子爵家に帰ることになった。
「本当に大丈夫?私もなるべく行くようにするけど何かあったらすぐ知らせてね」
ジュードを抱きしめソフィーが言うとジュードはぎゅっとソフィーに抱き着いた後一歩離れた。
「僕は大丈夫だよ姉様。リオンもついて来てくれるって言ったし侯爵様が勉強も続けられるようにしてくれたんだ」
そこにはこの侯爵邸に来た時の怯えた少年はいなかった。上手く言葉も話せずソフィーの手をぎゅっと握っていた少年は半年余りの間に驚くほど成長していた。
二人で静かにレナードの寝室に入る。
「……行くのか、ジュード」
レナードは起きているようだった。
「はい、今までありがとうございました。ステキなお部屋や美味しい食事をありがとうございました。僕に色々な事を勉強させてくれてありがとうございました。それから……僕と姉様を守ってくれてありがとうございました」
ジュードは深々と頭を下げた。
「……ジュード……強くなれ。お前の姉を守れるくらい強くなれ……」
「はい。侯爵様みたいに強くなります。侯爵様みたいな強くて優しい大人になります」
顔を上げたジュードの頬は濡れていた。
「……私みたいに……なると……嫁の……来てがいなくなるぞ……」
ジュードはレナードの言葉に泣き笑いの表情を浮かべた。
それから数日、レナードは起きていることがほとんどなくなり意識も混濁していることが多くなった。
「……チェルシー」
呼びかけられたソフィーはレナードのベッドの脇の椅子に座った。
「チェルシー……来てくれたん……だな……」
「はい旦那……レナード様」
「……そうか……今度……僕の乗馬を見せてあげよう……もうすぐ君を乗せて走れる……くらい……大きくなる……から」
「ええ、楽しみにしていますね」
その時———レナードの部屋にはソフィーとルイスがいた。
勿論エイミーとマシュー、専属医師もいる。
マシューはルイスの補佐や様々な仕事でいないことが多かったがエイミーはほぼ付きっきりでレナードの世話をしていた。それでいてソフィーがいる時には部屋の隅に控え、ソフィーとレナードの語らいを邪魔したことなど一度も無い。使用人としての範疇を一度も逸脱したことが無かった。
「ルイス」
近頃は無かったはっきりした声でレナードが呼びかける。
ルイスとソフィーがレナードのベッドのそばに寄った。
「ルイス、マンスフェルド侯爵家を頼む。お前なら心配ないと思うが」
「ああ、兄上のようにはいかないけれど俺なりに努力するよ」
「それから……決心がついたら私のクローゼットの奥にある小箱を開けてくれ」
「え?何の決心?」
それには答えず、レナードはソフィーを見た。
「ソフィー」
「はい」
「お前を男としては愛するつもりは無い……だけど……愛している」
「はい。私も旦那様を愛しています」
レナードは宙に瞳を向けた。
レナードの青い瞳は氷なんかじゃない、とても美しい、そうフェアリーブルーの瞳だとソフィーは思った。
「チェルシー……ありがとう……僕の……」
微笑んだままレナードの瞳は光を失った―――
レナードの葬儀から三か月が経った。
「ソフィー、どうしても子爵邸に戻るのか?」
「はい。こちらも落ち着いてまいりましたしグレンフィル子爵家に戻ってジュードを支えようと思います」
「「奥様……」」
涙目のアビーと寂しげな微笑みのヘレナに近寄って二人の手をぎゅっと握る。
「二人ともありがとう。貴方たちがいてくれて良かったわ。楽しかったし教えてもらうことも沢山あった。私は子爵家に戻るけれどあなたたちは友達だと思っているの。だからさよならじゃなくてまた会いましょう」
「奥様、お待ちしております」
「お元気で。偶には遊びに来てくださいね!」
二人は頭を下げた。
ソフィーはルイスにも礼をしてお屋敷を出ようと向きを変え―――
ルイスに手を掴まれた。
「ソフィー!俺は!できれば君と―――」
「ルイス様、時間が必要なんです」
ソフィーは微笑みながらルイスの手をやんわりと外す。
「時間が……」
「はい、旦那様に対するこの想いを昇華する時間が」
レナードを妻として女性として愛していた訳ではない。それはレナードも同じだと思う。だけどソフィーは確かにレナードを愛していた。最後の十数日間、確かに二人は想いを通わせた。情と言った方がいいのかもしれない。その想いをじっくりと時間をかけて昇華していきたいと思ったのだ。
「そうか」
「不器用なのかもしれません。私のことなど忘れてしまっても構いません」
ルイスの手はもう一度ソフィーの手を掴んだりしなかった。
「俺は諦めない。初恋を二十年近く貫き通した兄上の弟だからね。待っているよ」
ソフィーは微笑んで侯爵邸を後にした。
三年の月日が流れた―――
ソフィーとジュードはリオンを伴ってマンスフェルド侯爵領のイーティッドを訪れている。
領都イーティッドの小高い丘の上にレナードの墓があるのだ。
その丘の上に続く小道をソフィーは歩いていく。
辺りには一面にサフィロースの花。レナードの墓の周りをサフィロースの群生地にしたらしい。
青い絨毯の中をソフィーとジュード、リオンが歩く。
三年の間にソフィーはレナードとの会話や色々な出来事を何度も何度も思い返した。そうしてゆっくりゆっくりと想いは昇華して思い出になった。後に残ったのは消えない想い。今なお恋い慕う人。
もう遅いかもしれない、将来を誓い合う人が出来たかもしれない。それでもソフィーはその人に今の気持ちを聞いて欲しかった。
三年で変わったこともあった。マシューは王都のマンスフェルド侯爵邸でルイスの補佐をしているがエイミーは領地のお屋敷のメイド長になったそうだ。領地のお屋敷の前のメイド長は仕事を辞め、ポリーも辞めた。ルイスの乳母だったポリーの母に強制的に連れ戻されて商人に嫁がされたそうだ。
エイミーはレナードの近くに居たかったのだとソフィーは思う。レナードのお墓の管理はエイミーが行っているそうだから今もレナードに仕えているのだろう。
「姉上、早く早く!」
三年でグンと身長が伸びたジュードが丘を駆け上がる。生意気にも「姉様」から「姉上」に呼び方を変え少し大人ぶっている。
レナードの墓に花束を供えた。サフィロースの花が周りを囲んでいるのであえて赤や黄色の花で花束を作った。青い絨毯の中で赤や黄色の花はとても映えた。
(旦那様……いえ、レナード様、ありがとうございました。時間はかかりましたが自分の中の変わらない想いがわかりました。遅いかもしれませんが生涯共に歩んでいきたいと思う人にあたって……砕けちゃうかもしれませんけど見守って下さいね)
「姉上、これからマンスフェルド侯爵邸を訪ねるんだよね?楽しみだなあ。ルイス様がこっちに来ているって聞いたよ。会えるといいな」
『下がれ』
レナードの声が聞こえた気がした。
ああ、よくそう言って執務室を追い払われていたわ。きっとレナードは痛みをこらえていたのだ。ソフィーに気取られないように冷たいふりで部屋から追い出した。
その当時は冷たいと感じた声音だが、今はその底に暖かさを感じる。
『もう下がれ。お前を迎えに来た奴がいる』
え?とソフィーは来た道を振り返った。
金に近い栗色の髪が見えた。長身で逞しい体つきの男の人が丘を登ってくる。ポケットに忍ばせているのはレナードの寝室のクローゼットの奥、小箱に入っていた青い宝石のついた指輪だ。
その男性はソフィーに気が付くとフェアリーブルーの瞳を細めてクシャッと笑った。
―――(おしまい)———
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