……それだけは嫌だな……。
そんなわたしにリオネルは小さく息を吐いたものの、それ以上何かを言うことはなかった。
あはは、と苦笑していると三人のご令嬢が近付いてくる。
「ルオー侯爵令嬢、イベール男爵令息、ご機嫌よう」
話しかけてきたのはパジェス公爵家のご令嬢だった。
鮮やかな金髪に深い紫色の瞳が蠱惑的で、細身ながらにスタイルは抜群に良い。華やかな紅いドレスがよく似合っている。
……確か、レベッカ・パジェス公爵令嬢だっけ?
普段関わることがないので一瞬『誰?』と思ってしまったが、何とか微笑みを浮かべて返事をする。
「ご機嫌よう、パジェス公爵令嬢」
「……良い夜ですね」
リオネルの淡々とした声にパジェス公爵令嬢は気付いていないのか、うっとりとした眼差しをリオネルへ向ける。
それにリオネルが僅かに眉根を寄せて視線を外す。
「本日はお招きいただいて、とても光栄に存じます。楽団も会場も華やかでさすが公爵家ですね」
わたしが話しかけると公爵令嬢が扇子を広げ、顔の下半分を隠す。
「この程度、公爵家ならば当然ですわ」
「そうかもしれませんが、わたしは滅多に夜会に出ませんので、このように華やかな夜会は心躍ります」
「あら、侯爵家のご令嬢ともあろう方がこの程度で喜ぶなんて……」
小さく鼻で笑われても別に痛くも痒くもない。
わたしは笑顔のまま答えた。
「婚約後、リオネルと初めて出席する夜会ですから緊張していたのです。けれどパジェス公爵ご夫妻に温かく出迎えていただき、緊張も解けて、本当に素晴らしい夜を過ごしております」
扇子を広げたまま公爵令嬢が不快そうに目を細める。
……明らかにわたしのこと敵視してるよね?
パジェス公爵令嬢の後ろにいる二人のご令嬢にも睨まれる。
でもあれこれ言ってこないところを見る限り、同格の侯爵家かそれより家格が下なのかもしれない。
「そういえば、最近社交界で流れている噂をご存じ?」
唐突な話題の転換にわたしは小首を傾げた。
「噂でしょうか? 申し訳ありません。わたしは社交が苦手で、あまり存じ上げなくて……」
「とある上位貴族のご令嬢が、その身分を使って下位貴族の殿方を無理やり婚約者にしたそうよ。どれほど爵位が高くても権力で縛った婚約なんて長続きしないでしょうし、そのような行いをする者は心が卑しいと思いませんこと?」
……それってもしかしなくてもわたしのこと?
横でリオネルの機嫌が悪くなったのが気配で分かった。
でも、リオネルとは反対にわたしのテンションは爆上がりした。
この噂についての話、要は『侯爵家という身分を餌にリオネルと婚約したわたしは卑しい女』と言っているわけだ。
……ええ、嘘、本当にこんなことする人いるの!?
少女漫画とかにある、ヒロインとヒーローがくっつきそうになると嫌がらせして引き離そうとする悪役がまさにこのような感じである。
「そうですね、そのような行いをなさる方はどうかと思いますが、身分差の愛というものもあるでしょう。どのような経緯で婚約を結んだにせよ、家と本人達が納得しているならば他人が口出しすべきことではないかと」
リオネルがわたしを見たので、わたしもリオネルを見る。
目が合うとリオネルがふっと笑った。
わたしもそれに笑い返せば、ベキ、と音がした。
その音に釣られて顔を戻すと公爵令嬢の持つ扇子が微妙に曲がっているような気がして、目を瞬かせてしまう。
……え、もしかして扇子壊しちゃったの?
繊細な作りの扇子が強く握られている。
「……ルオー侯爵令嬢は純粋な方ですのね」
そっとリオネルに抱き寄せられる。
「ええ、エステルはとても純粋で、それでいて賢さもあり、とても魅力的です。だからこそ婚約したいと私のほうから打診をさせていただきました」
公爵令嬢が驚いた様子で小さく声を上げた。
「まあ! 婚約の打診はイベール男爵令息からされたのですか? ルオー侯爵令嬢からではなく?」
「はい、私から彼女と婚約したいと両親に願い出て、ルオー侯爵家に打診をしてもらったのです」
リオネルがよく通る声でハッキリと公爵令嬢に告げる。
その声は目の前の三人だけでなく、わたし達の様子を遠巻きに眺めていた他の貴族達の耳にも届いただろう。
デブで爵位しか良いところのない令嬢が、家の権力を使って優秀で見目も良い男爵家の次男に無理やり婚約させたという噂はこれで消える。と、思う。
そもそも、本当にそんな噂が流れているのかどうかも定かではないが。
「イベール男爵令息は騙されていらっしゃるのではなくて? ルオー侯爵令嬢が社交界で何と呼ばれているがご存じありませんの?」
そこでようやく後ろのご令嬢達が口を開いた。
「そうですわ、社交界で『ふとまし令嬢』と呼ばれたり、いつも書き物ばかりして『物書き令嬢』とも呼ばれているのですよ?」
「貴族の令嬢なら、美しくあるために努力を怠るべきではありませんわ」
ご令嬢達がわたしへ視線を向け、それから見比べるようにパジェス公爵令嬢を見た。
公爵令嬢は扇子を閉じて上目遣いにリオネルを見上げる。
パジェス公爵令嬢は美しい。誰もが美人と認めるだろう。
リオネルと並べば美男美女として人々の視線が集まりそうだ。
「確かに貴族の令嬢は美しさを維持する必要があります」
リオネルの言葉に後ろの二人のご令嬢の口角が上がる。
パジェス公爵令嬢も頷いて笑みを浮かべた。
「それは自分の価値を高めるためという意味合いも強いでしょう。美しくなれば、より高い家柄の者と結婚出来る可能性が高まりますから。もちろん、美しくあろうとする努力は素晴らしいと思います。……しかし、世の中には結婚相手を外見で選ばない者もいるのですよ」
ピシ、と三人のご令嬢の動きが固まる。
……うわあ、リオネルの声が冷え切ってる……。
最後のほうは少し吐き捨てるような言い方だった。
空気が凍りついたのを感じ、慌てて三人へ声をかける。
「た、確かにわたしはこのような見た目で皆様のように美しくはありませんし、それについては努力を怠っていると言えますね。今後は美容についてもっと勉強いたします」
苦笑いしているとリオネルに更に抱き寄せられる。
「前にも言ったが、お前はそのままで十分魅力的だ」
「ちょっと、リオネル……!」
……火に油を注ぐんじゃありません!
そう言いたいけれど、公爵令嬢の前では言えない。
公爵令嬢がまた扇子を開いたが、少し歪だった。
「他にもご挨拶をしなければならない方がいたのを忘れておりましたわ。それではルオー侯爵令嬢、イベール男爵令息、ご機嫌よう」
怒った様子でパジェス公爵令嬢は踵を返し、二人のご令嬢を連れて人混みの中へと消えていく。
こちらの返事を待たずに行ったということは相当、腹に据えかねているようだ。
……わたしもちょっと大人気ない言い方したけどさ。
パジェス公爵令嬢も確かわたしと同じ年頃のはずで、もう成人して婚約もしているのだから、いつまでもリオネルに執着するべきではない。
そうは言っても、好きな相手を簡単には諦められないのだろう。
「ちょっと可愛いご令嬢だったね」
わたしの言葉にリオネルが「は?」と体を離した。
「どこが可愛いんだ?」
「好きって気持ちに振り回されてるところ? 家が決めた婚約者はいるけど、気持ちの踏ん切りがつかない感じが若いなあって」
「パジェス公爵令嬢とお前は同い歳だろう」
冷静につっこまれて「そうなんだけどね」と困った。
貴族の令嬢で恋愛結婚出来る者は少ない。
どうしても家同士の利益を優先して政略結婚が多いのだ。
恋愛結婚が忌避されているわけでもないけれど、どちらかと言えば、結婚後に愛情を育む夫婦か後継者を産んだら後は互いに干渉せずに好きに生きるかといった感じである。
公爵家の令嬢ならば、本来は相手を選べる立場だ。
だからこそ、余計にリオネルへの想いが断ち切れないのだろう。
「あ〜、パジェス公爵令嬢ともっとお喋りしたかったなあ」
あの悪役感をもう少し堪能したかった。
リオネルは何とも言えない顔をする。
「時々、お前の感性が理解出来ない」
「そう? 結構単純だよ?」
「お前の中ではそうかもしれないが、俺には複雑に感じる」
「何でも分かったらつまらないんでしょ? それなら、何考えてるか分からないほうが面白いんじゃない?」
リオネルがそれに僅かに口角を引き上げ、わたしを見ると、長い指がわたしの頬にこぼれていた髪をそっと耳にかけた。
「ああ、全くもってその通りだ」
……キザっぽいのにリオネルがすると何でも似合うなあ。
「あ〜、えっと、少しお化粧直してくるね」
抱き締められそうな気配があったので、思わずそう言って逃げてしまった。
舞踏の間を出て、公爵家の使用人に声をかけて化粧室まで案内してもらい、ダンスで少し乱れた前髪を鏡を見ながら手で直す。
リオネルはカッコイイのでどうしてもドキッとすることがある。
でも、わたし達の婚約は契約でしているだけだ。
もしわたしがリオネルに恋愛感情を持てば、女性に騒がれたり想いを寄せられたりするのを嫌がっているリオネルは失望するだろう。友人関係も終わってしまうかもしれない。
「……それだけは嫌だな……」
リオネルのいない生活なんて、もう考えられない。
大切な友人で、家族みたいな感じで、もしリオネルとの関わりを断つことになったとしたら、悲しくて、きっと凄くつらい。
……リオネル以外に友達いないし。
だからわたし達の婚約は契約のままでいい。
* * * * *
エステルがするりと逃げるように舞踏の間を出て行く。
抱き寄せようとしたのを勘付かれてしまったらしい。
……普段は鈍いくせに、こういう時は鋭いな。
婚約発表のパーティーの時も、今夜も、ダンスを踊っている最中、リオネルは自身の心臓の音がエステルに届いてしまうのではないかと心配になった。
それほど胸が高鳴った。
エステルとのダンスは楽しくて、けれども触れている手やいつもより近い距離に落ち着かなくて、エステルへの想いに気付いた頃の気持ちを思い起こさせる。
彼女のふとした言動に心が乱される。
喜んだり、悲しんだり、不満を感じたり、充足感を得たり。エステルと共にいると退屈しない。
……思ったより柔らかかった……。
触れた手も、抱き寄せた肩も、リオネルと違い柔らかい。
これまで女性関係のなかったリオネルにとって、その感触は未知で、それでいて酷く魅力的だった。
掌を眺めていると声をかけられた。
「やあ、イベール男爵令息」
そこにいたのはどこぞの伯爵家の嫡男だった。
顔を見かけたことはあるものの、面識はない。
だが親しげに話しかけられてリオネルは、またか、と内心でうんざりした。
人より多少見目が良い自覚はあった。女性達に黄色い声を上げられることも多いし、想いを告げられることもたまにある。
けれど、それと同じくらい貴族の令息から話しかけられることも多い。
大体はリオネルと親しげにすることで、令嬢達から声をかけられるのを狙ってのことだった。
そういう目的で近付かれるのも、妬まれるのも面倒くさい。
「何かご用でしょうか?」
「そう邪険にしないでくれ。ただ少し世間話でもしようと思って声をかけただけさ」
わざとらしく肩を竦めてみせる伯爵令息に、リオネルは内心で溜め息を吐いた。
「君ほどの容姿と優秀さであれば、もっと上位の方々と縁を繋げただろう。まあ、ルオー侯爵家もかなり家格が上だから『逆玉の輿』とも言えるね」
「何がおっしゃりたいのですか?」
「いや、大したことではないさ。僕も以前、ルオー侯爵家に婚約の打診をしたことがあってね、あの風変わりなご令嬢の心をどうやって射止めたのか気になったんだ」
そう言いながらも伯爵令息は不愉快な笑みを浮かべている。
男爵家の次男に過ぎない男が、その容姿で侯爵令嬢を落として婚約した気分はどうか、と訊きたいのだろう。
「まあ、婚約の打診はあくまで建前みたいなものだったし、ルオー侯爵令嬢は正直僕の好みではないから婚約せずにすんでホッとしているけれどね」
笑う様子は明らかにこちらを見下したものだった。
どれほど見目が良くとも男爵家の次男。伯爵家の嫡男よりも身分は下で、相手にとってはそれが愉快らしい。
「勘違いしておられるようですが、私は侯爵家との繋がりが欲しくて彼女と婚約したわけではありません」
「ははは、ここでの会話は誰にも言わないから無理はしなくていい」
「無理などしておりません。この婚約は家同士の利益は関係なく、私は彼女と結婚したくて婚約を打診したのです」
伯爵令息が更におかしそうに笑う。
「まさか、あの太くて地味な『物書き令嬢』だぞ?」
それが酷く不愉快だった。
エステルは人より少しふくよかだが醜いと言うほどではないし、肌や髪もきちんと手入れをしており、身嗜みにも気を遣っている。
書き物をしているせいで右手はインクの色が残ってしまっているものの、リオネルからすれば、それはエステルの小説への情熱や努力を感じさせるものだ。
仕事で報告書などの文章を書く機会を得てから知った。
エステルが本一冊を書き上げるためにどれほど力を注いでいるのか。時には寝食も忘れていることもあり、それほど何かに夢中になれるというのは一種の才能だと思う。
その努力の結晶をリオネルは読ませてもらっている。
彼女の頭の中にある世界の多さに驚嘆する。
リオネルは黙って伯爵令息を睥睨した。
冷たい視線を受け、伯爵令息が半歩下がった。
「本気であんな令嬢に気があるのか?」
伯爵令息が「どうかしている……」と呟く。
人にどう思われようと構わないが、エステルのことを悪し様に言われるのは非常に腹立たしい。
「たとえ誰が何と言おうとも、私の唯一は彼女だけです」
失礼、と断りを入れてその場を離れる。
腹立たしいが、ここで騒ぎを大きくしたらエステルに伯爵令息の言葉を聞かせることになってしまう。
……エステルは気にしていないふうだが。
それが本当に気にしていないのか、そう装っているのかリオネルには判断がつかない。
エステルは昔から予想外のことをするし、理解出来ない言動をすることもあり、リオネルにとっては不思議な存在でもあった。
舞踏の間の出入り口付近に移動して待っていると、しばらくしてエステルが戻ってきた。
気付かなかったのか横を通りすぎかける。
「エステル」
名前を呼べばエステルが振り返る。
「あ、ここにいたんだ」
目尻を下げて穏やかにエステルが笑う。
昔から、この穏やかで柔らかい笑みが好きだ。
これからもその想いは変わることはない。
十年もずっと望んでいた立場に、リオネルはやっと収まったのだから。
* * * * *