平安、そして神のご慈悲と祝福が陛下の上にありますように。
午後、ティータイムの少し前ほどの時間に国王陛下の侍従がわたし達の部屋を訪れた。
まだ歳の若い、青年とも少年ともつかない侍従であったものの、丁寧な言葉遣いと落ち着いた様子からして実年齢はもう少し上なのかもしれない。
侍従の案内で宮殿の中を奥へ奥へと進んで行く。
ワディーウ様のいた治療所より、更に奥だ。
進むほどに人気がなくなり、逆に警備の兵の数が増える。
それでも更に進み、一つの扉の前に到着した。
侍従が扉を叩く。
『陛下、英雄様と夫人をお連れいたしました』
中から入室を許可する声がして、侍従が扉を開ける。
侍従に案内と扉を開けてくれたことへのお礼の意味を込めて目礼しつつ、室内へと入った。
白と金、赤を基調とした部屋は華やかだけれど、赤はどちらかと言えば深紅に近く、やや暗めの色合いなので全体的に落ち着いた雰囲気がある。
大きなカウチに国王陛下がゆったりと腰掛けていたが、リオネルとわたしを見ると立ち上がった。
『英雄殿、そして夫人よ、よく来てくれた』
リオネルについて近づいて行くと、陛下とリオネルが握手を交わす。
長身のリオネルより頭半分ほど陛下は大きかった。
そして、陛下がわたしを見て、手を差し出した。
まさか握手を求められるとは思わなくて驚いたが、間近で見る陛下は謁見の間でのどこか荒々しく厳かな雰囲気はなく、むしろ穏やかで、みどりの瞳には強い知性を感じられる。
差し出された手に触れると、そっと優しく握り返された。
『さあ、二人とも気楽にしてくれ』
陛下の座っていたカウチの斜め前にもう一つ、ソファーが置かれており、そこへリオネルと並んで腰掛けた。
ここまで案内してくれた侍従が小さなカップをリオネルとわたしの前へ置く。
もう中身が何か分かる。カフワだろう。
『まず、改めて先の戦では英雄殿に世話になった。戦が早期に終結したことで、我が国は未来ある若き戦士達を失わずに済んだ。そなたは我が国の恩人だ』
『勿体ないお言葉でございます、陛下』
リオネルがラシード王国式の礼を執る。
『そして夫人よ。そなたのおかげで私は友人を失わずに済んだ。ワディーウを生き返らせた手腕、見事である。まさしく英雄の妻に相応しい』
『身に余るお言葉にございます』
『ははは、夫婦揃って謙虚であるな』
陛下が明るい笑い声を上げる。
笑うと、厳しい顔立ちが一気に和らいだ。
大柄で厳しいけれど、決して粗暴ではない。
『夫人には治癒魔法の才能があるようだな。稀に死んだ者が息を吹き返すことはあったが、何故生き返るのかは分かっておらぬ』
陛下の言葉にわたしは首を振った。
『恥ずかしながら、わたしには魔力はありません。昨日、ワディーウ様に行ったのは【心臓マッサージ】と言い、医学の救命方法の一つなのです』
『なんと、魔法ではないと?』
『はい、止まった心臓を上から押すことで動かし、全身に血を巡らせるのです。そうすると心臓が止まった者でも動き出す可能性が高くなります。……ですが、必ず息を吹き返すわけではございません』
陛下が興味を示してくれたので、心臓マッサージについてわたしの分かる範囲で説明を行った。
意外にも、陛下は話を黙って聞き、説明が終わるといくつか質問をされた。答えられることは全て答えた。
実際、どういうふうにするのか見てみたいと言われ、ソファーにあったクッションを人体に見立ててやってみせると、納得した様子で何度も頷いていた。
『ワディーウは運が良かったのだな』
……そう、本当に運が良かった。
心臓マッサージをしながら治癒魔法をかけ続けたのも、きっと息を吹き返した理由の一つなのだろう。
『この【心臓マッサージ】とやらを我が国に取り入れても良いだろうか? もちろん、医者の判断を得てからになるが』
『はい、どうぞ。隠していることでもありませんので、これで誰かの命が救われるのでしたら、是非お使いください』
そもそも心臓マッサージ自体、わたしが考案したものでもないし、この世界の医学方面から見て問題があるかもしれない。
……昨日はとっさにしてしまったけど。
もし、治癒魔法のない前世の世界でも同じ行動が出来たかと問われると難しい。
肋骨が折れたり、怪我を悪化させてしまう危険性もある。
だからこそ、緊急の際には覚悟が必要だと知った。
『英雄殿が羨ましい。もし夫人が英雄殿の妻でなければ、息子達のどちらかの妻として迎えたかった』
リオネルが僅かに眉根を寄せた。
それに陛下がおかしそうに笑う。
『喩え話だ。恩人夫妻の仲を裂くつもりはない』
『私もラシード王国や陛下を敵に回したくはありません。両国の友好に傷を入れるのは好ましくないでしょう』
『そうだな、そのようなことになればヴィエルディナを喜ばせるだけ。あの国に得をさせてはならぬ』
それからリオネルと陛下が話し、横でそれを聞きつつ、カフワを一口飲んだ。
この漢方薬とも生姜ともつかない不思議な味にも慣れた。
お菓子を一つ取り、口へ入れれば、ザクザクとした食感とハチミツにもシロップにも感じる強い甘味が口いっぱいに広がる。
そこにカフワを入れると、やっぱり不思議と美味しい。
リオネルと陛下は話し込んでいる。
わたしの知らない単語が沢山出てきて、聞き取れない部分も多いので聞き流しておく。
……話に集中しているわりには手は離さないんだよね。
リオネルの片手はずっとわたしの腰に回っていた。
カフワはたまに飲むものの、お菓子は一切、手をつけていない。片手が塞がっていては食べにくいのだろう。
お皿から一つお菓子を取り、リオネルの口元へ持っていく。
すると、パクリと素直に食べた。
……なんか面白いかも?
普段甘いものはさほど食べないのに、差し出すと食べる。
しかもお菓子を食べたらカフワも飲んでいる。
でも、陛下のほうを向いて会話もやめない。
……いくつ食べさせたらこっち見るかな?
急に悪戯心が湧き上がってきて、お菓子を取ってはリオネルの口元へ差し出すという行為を繰り返す。
五つ目をリオネルが食べたところで、陛下がこらえきれないといった様子で噴き出した。
『本当に、そなたらは仲の良い夫婦であるな! 眺めていると微笑ましくなってくる。戦の神と幸運の女神もきっとそのように仲睦まじいのだろう』
そこでようやくリオネルがわたしを見た。
「もういい。口の中がかなり甘ったるい」
「残念、五つでお終いかあ」
「お前、俺で遊んでいたな?」
カップをテーブルへ戻し、リオネルが片手でわたしの頬を軽く抓った。痛くないけれど、むに、と頬が伸びる。
「だってリオネルが食べるから……」
「お前の差し出したものを断るつもりはないが、とりあえず食べさせてみるのはやめてくれ」
「ごめんごめん」
もう要らないという意思表示なのか、お菓子でベタつくわたしの手を置いてあったおしぼりみたいな布で、リオネルが拭く。
興味本位で食べさせていたのはバレていたようだ。
ついでにリオネルはカフワのおかわりを断った。
わたしも三杯飲んだので、断っておく。
『英雄殿は酒は飲めるか?』
『嗜む程度ですが飲めます。我が国のワインを持ってまいりましたので、よろしければご賞味ください』
『うむ、ありがたくいただこう』
リオネルが手を振ると、ついて来ていた侍従がずっと持っていた箱を国王陛下の侍従へ渡す。
開けるとほのかに白い煙のようなものが出た。
……冷やしてあるんだ。
陛下の侍従がそれに気付くとニコリと微笑んだ。
そしてその場でワインのコルクを開け、グラスに少し出し、毒見を行う。
ややあって何も問題がないことを確認すると、三つのグラスにワインを注ぐ。深みのある濃い暗赤色が綺麗だ。
まずは陛下が三つのグラスのうちから一つ選び、残りの二つはわたし達へ差し出された。
お酒は滅多に飲まないのだが、断るのも無粋である。
リオネルと共にグラスを受け取った。
『英雄殿と夫人と出会えた、この良き日に乾杯』
陛下がグラスを軽く掲げ、リオネルもそうしたので、わたしも真似て両手でグラスを少しだけ掲げた。
そっと一口飲むと甘口の赤ワインだった。
ほどよい渋みと甘さ、ブドウのフルーティーな香りと味が鼻へ抜けていく。
あまりお酒に詳しくはないけれど、良いお酒なのだろうなと予想はついた。多分、国で一番美味しい種類だと思う。
『おお、甘さもありつつ渋さもあり、まるで本物のブドウを頬張ったようだ。なんとも香りの良いワインよ』
陛下はどうやらこのワインを気に入ったらしい。
『何本かお持ちしました。ごゆっくりお楽しみください。もちろん、王太子殿下や第二王子殿下の分も別にご用意してあります』
『そうか、それならば遠慮する必要はないな』
陛下がワインを飲み、満足そうに息を吐く。
そうして教えてもらったのだが、この国のお酒は砂漠にあるサボテンから作られた酒気の強い酒が一般的なものらしい。
独特の風味が少しあるものの、ワインのような果物の芳醇な香りのお酒ではないそうだ。
他国の者には酒気が強すぎるので出さないのだとか。
この国ではワインは輸入するしかなく、高価で、輸入出来る量もそれほど多くない。
『酒気は弱いが味も香りも良い』
上機嫌な様子で陛下がワインを飲み進め、リオネルのグラスが空になると、なんと陛下自らリオネルのグラスへワインを注いだ。
ついでとばかりにわたしのグラスにも注がれる。
『ありがとうございます』
* * * * *
それから三十分後、リオネルはわたしに抱き着いて眠ってしまった。
……まさかお酒に弱いとは……。
ワインをグラスで三杯ほど飲んだところで『もう飲めません』とギブアップしたリオネルは、わたしに寄りかかるように抱き着くと、ややあって寝息を立て始めた。
ラシード王国の国王陛下の前で寝落ちしてしまうなんて。
慌てるわたしと眠るリオネルを見て、陛下は笑っていた。
『英雄殿は酒に弱かったのか。悪いことをしてしまったな』
『いえ、わたしも夫が酒に弱いと初めて知りました』
婚約、結婚して以降、思い返せばリオネルがお酒を口にしているところは見たことがなかった。
夜会ではわたしと同じものを飲んでいて、恐らくアルコールのないものだったのだと思う。
てっきりわたしに付き合ってアルコールのないものを飲んでいるのだと思っていたけれど、もしかして単に自分がお酒に弱いからアルコールのないものを飲んでいたのだろうか。
寄りかかられてちょっと重たい。
ソファーの上でずりずりと横へ移動すれば、段々とリオネルの体が傾く。そのままわたしの膝に頭を預けてしまう。
……寄りかかられるよりはいいか。
膝の上にあるリオネルの頭を撫でつつ、グラスの中身を飲み干した。
『夫人のほうが酒に強いとは意外だな』
『滅多に飲まないので、自分でもこれほど飲めるとは知りませんでした』
『はは、まあ良い。英雄殿とは十分話は出来た。我が国では妻や親族以外の異性と酒を共にすることはあまりない。たまにはこのような酒の席も一興である』
国王陛下が懐の広い方で良かった。
話している最中に酔って寝てしまいました、なんてとんでもなく無礼な振る舞いだし、相手が王族でなくとも良いとは言えない。
陛下がわたしのグラスへワインを注ぐ。
『夫人はフォルジェット王国で普段はどのように過ごしておるのだ?』
『ほとんど趣味に費やしております』
『ほう、趣味とは?』
『……娯楽小説を書いています。始めたばかりで拙いものですが、毎日小説を書きながら夫の帰りを待っています。夫はわたしの書く小説をずっと読んでくれて、出版も応援してくれているのです』
『他の方には秘密です』と言えば、陛下が『誰にも話さないと約束しよう』とウインクをしながら応えてくれた。
厳しい見た目とは裏腹に茶目っ気もあるらしい。
思いの外ウインクが似合っていて、笑いが漏れる。
『出来れば、夫のこの醜態も秘密にしていただけると幸いです』
『そうだな。英雄殿が酒に弱いと知れたら、酒を飲ませて寝込みを襲う輩が現れるかもしれん』
『そうならないように見張っていないといけませんね』
既にわたしも陛下もお互いにワインの瓶一本分近くは飲んでいるが、陛下は全く酔った様子は感じられない。
わたしは少し酔っているが、ほろ酔いといった具合だ。
リオネルがお酒に弱いというのはなんだか可愛い。
いつもは尊大なくらい自信に満ちあふれている態度なのに、お酒を飲むとこんなに甘えん坊になるとは。
わたしの膝に頭を乗せて気持ち良さそうに眠っている。
『まあ、多少は許してやるが良い。男という生き物は好いた女の前で見栄を張りたい一方で、甘えたいと思うこともあるのだ。英雄殿は多くを背負っているからこそ、酒でしか気を緩められないこともあろう』
どこか感慨深げに陛下がそう言った。
まるで自分もそのような経験があると言いたげだった。
『そうなのですね』
『女からしたら、男に甘えられても鬱陶しいかもしれんが』
『そんなことはありません。少なくとも、わたしは夫がこうして甘えてくれるのは嬉しいし、可愛いと感じます』
よしよしと頭を撫でると夢見心地のような声で「エステル……」とリオネルがわたしの名前を呼ぶ。
それに返事をしつつ、また頭を撫でればリオネルは静かになった。
『英雄殿も夫人の前ではただの男ということか。いや、これは面白いものを見せてもらった!』
ははは、と陛下が大笑いをするけれどリオネルは起きない。
……アルコール中毒とかではないよね?
ちょっと心配しつつ声をかければリオネルは目を開けたが、受け答えは酷く曖昧だった。
『本日はこの辺りでやめておこう。夫人も英雄殿と共にゆるりと休むが良い。今日は付き合ってくれたこと、礼を言う』
『こちらこそ楽しい時間を過ごさせていただきました』
先に一言断り、陛下のそばへ近寄る。
『平安、そして神のご慈悲と祝福が陛下の上にありますように』
そっと陛下の手の甲へ指先を当てれば、陛下がその手を胸元に当て、礼を返してくれた。
『そなた達の上にも平安、そして神のご慈悲と祝福があらんことを』
『ありがとうございます、陛下』
『何、儂のほうこそウンム・クルスームの祝福を授かれる良き機会をもらった』
会釈をし、リオネルに声をかけ、立ち上がったリオネルを支えながらふと陛下へ訊ねた。
『あの、ウンム・クルスームとよく呼びかけられるのですが、どのような意味があるのでしょうか?』
『フォルジェット王国の言葉で言うならば【ふっくらほっぺちゃん】という意味だ。ふくよかな愛らしい女や頬の丸い可愛らしい子供に呼びかける言葉で、我が国では好意的な愛称だ』
「ふっくらほっぺちゃん!?」
……え、わたし、使節団の人や立ち寄った街の人達からずっとそう呼ばれていたの!?
今日一番のショックを受けるわたしを見て、陛下は心底楽しくて仕方がないとばかりに弾けるような笑い声を上げたのだった。
ちなみにリオネルは部屋まで歩いて戻り、そのままベッドへ直行して眠ってしまった。
一応、しばらく様子を見たけれど、声をかければ何かしら反応があったので急性アルコール中毒で眠っているわけではないらしい。
三時間ほど後に起きて来たリオネルは憮然とした顔だった。
「まさか国王陛下の前で寝入ってしまうとは……」
その後、陛下から二日酔いに効く薬が届けられた。
リオネルはそれを何とも言えない表情で飲んでいた。




