いいのかなあ……。
ふと目が覚めるとリオネルの顔が視界にあった。
ぼんやりする頭で眺めていると、視線に気付いたリオネルに見下ろされる。
そこでようやく膝枕をしてもらっているのだと気が付いた。
慌てて起きあがろうとしたけれど、額に触れたリオネルの手によってそれは止められた。
「まだ横になっていろ」
普段よりも優しい声に肩の力が抜けた。
リオネルの話によると、あの後、わたしは気絶してしまったらしい。緊張の糸が切れたのだろう。
わたしを部屋まで運んでくれたのはリオネルのようだ。
「ワディーウ様は……?」
「安心しろ。先ほど無事傷の治療が終わったと報告があった。ワディーウ殿は生きている」
「……良かった……」
……前世の記憶があったからこそ出来た。
もし、わたしが前世の記憶のないただの令嬢だったなら、心臓マッサージなんて知らなかっただろう。
まだ掌に色々な感触が残っている気がする。
思い出すと、じわりと涙が滲む。
手でそれを拭っているとハンカチが押し当てられた。
「怖かっただろう」
リオネルの静かな言葉に頷いた。
「人の生き死にに関する時というのは誰でも恐ろしいものだ。それでも、お前は諦めずにワディーウ殿を助けた」
「っ、わたしはただ、死んでほしくなかっただけで……!」
「ああ、お前は勇敢に死に立ち向かった」
リオネルの手がわたしの頭をそっと撫でる。
こぼれる涙をハンカチで拭ってくれた。
それ以上の言葉はなかったけれど、頭を撫でる手が、涙を拭う仕草が、労わるように優しくて胸が震えた。
目を閉じると腹部を赤く染めたワディーウ様の姿を鮮明に思い出してしまう。
……魔法がある世界だからこそ救えたのかも。
この世界は医学もそれほど発展していないし、もし魔法もなかったら、ワディーウ様は助からなかったかもしれない。
「……そういえば、なんであのメイドはワディーウ様を刺したの……?」
宮殿に来てから、ずっとわたし達の担当の一人としてついていたメイドだった。
まだ若いメイドで、多分、わたしと同年代くらいだった。
リオネルが小さく首を振る。
「その経緯についてはまだ聞いていない。今、取り調べている最中だ」
「そっか……」
体に力を入れて、ゆっくりと起き上がる。
リオネルが背中に手を添えて起き上がるのを手伝ってくれた。少しだるいし、泣きすぎて目の周りが腫れている感じがするけれど、大丈夫そうだ。
起き上がるとリオネルに抱き締められた。
「こんなことを言うとワディーウ殿には悪いが、お前が刺されなくて良かった……」
縋るように回された腕にギュッと力がこもる。
リオネルの背中に腕を回し、抱き締め返す。
「よく分からないけど、あのメイドの狙いはわたしじゃなくてワディーウ様だったみたい。一番近くにわたしがいたのに、ワディーウ様にまっすぐに向かっていったの」
「そうなのか」
ワディーウ様が刺される瞬間を思い出し、体が震えた。
人が人を凶器で刺す場面なんて、普通に生活していたら見るはずのない光景だ。思い出すだけでも怖い。
震えるわたしの背を、リオネルが優しく撫でる。
低い声で「大丈夫だ」と囁かれると震えは止まった。
しばらく抱き締め合っていれば、部屋の扉が叩かれた。
侍女が応対し、王太子殿下とジャウハラ様、そして第二王子殿下の来訪を伝えられる。
リオネルから体を離し、互いに頷き合ってから、入室を許可した。
まず、ジャウハラ様が駆け寄ってきて、遠慮のない勢いで抱き締められた。
『エステル様、ああ、なんとお礼を言えばいいのか……!』
ジャウハラ様の震え交じりの声に、そういえばワディーウ様とジャウハラ様は親戚同士だったということを思い出す。
そっとジャウハラ様を抱き締める。
『ワディーウ様を助けられて良かったです。わたしはわたしに出来ることをしました。だから、お礼は要りません』
『しかし、恩人に対して礼をせぬなど……!』
『いいえ、夫が出征している間、ワディーウ様にはとてもお世話になったと聞いています。その恩返しと思ってください』
それでもジャウハラ様は眦を下げたままだ。
ジャウハラ様の肩を王太子殿下が抱く。
『ワディーウは我が国の大切な民であり、外交官の一人でもある。それに私やダウワースにとっては良き師でもある。どうか、礼をさせてくれ』
そこまで言われてしまうと困ってしまう。
リオネルがわたしへ声をかけた。
「それなら、カッファ豆を定期的に送ってもらうのはどうだ? エステルはカッファを気に入っているだろう?」
「いいのかなあ……」
「今、そう言っておかないともっと高い物を渡されるかもしれないぞ」
「う、それはそれでちょっと困る」
リオネルがシェラルク語で三人へ伝えてくれた。
何故か三人とも小さく笑って、でも頷いてくれた。
『カッファ豆だけでは礼にならない』
『エステル様、本当にそのようなものでよろしいの?』
『ウンム・クルスームは変わってるな』
と言われたが、正直、あまり高価な物を渡されても扱いに困るのだ。
多分、カッファ豆だってフォルジェット王国で手に入れようとしたらそんなに安くはない。
それを定期的にもらえるならありがたいことだ。
……コーヒーを飲みながらなら執筆が捗りそう。
『わたしはカッファが好きなので嬉しいです』
『妻もこう申しております。私も妻も宝飾品などにはあまり興味がありませんし、我が国ではカッファ豆を手に入れようとすると難しいので、それを定期的にいただけるのであれば十分です』
と、リオネルと共に伝えれば、王太子殿下が笑う。
『分かった。良い豆を定期的に送ろう』
高価な物を渡される心配がなくなり、ホッとする。
紅茶も美味しいけれど、毎日そればかり飲むのも飽きてくるのでカッファ豆をもらえるのは嬉しい。
「それで、あのメイドについてだが、どうやら何者かに脅されていたようだ」
王太子殿下の話では、あのメイドには両親と幼い弟達がいて、わたし達が到着する数日前に召使いの一人から手紙を渡されたらしい。
そこにはメイドの家族について事細かに書かれており、フォルジェット王国の使節団が到着したら指示に従ってラシード王国の使節団長を殺さなければ、家族の命はないとも書かれていたそうだ。
メイドが慌てて家に帰ると家族はいなくなっていた。
家族を救うためにはやるしかない。
そして召使いの一人から毒の塗られた短剣を渡された。
機会を窺っていたところ、わたしとワディーウ様が散歩に出たのでメイドとしてついて来て、実行したのだという。
『メイドの家族は探させているが、恐らくはもう……』
王太子殿下が言葉を濁す。
……恐らく、メイドの家族は生きてはいないだろう。
それだけの数の人間を監禁し続けるのは難しい。
押し入り、連れ去り、その先で殺してしまったほうが楽だし、メイドには生きていると思わせておけば脅迫の種に使える。
『なんて酷い……』
ジャウハラ様も想像がついたのか口元を手で覆って呟く。
シンと静まり返り、重い沈黙が落ちる。
『本来ならばフォルジェット王国の使節団に脅されたと言い訳をするよう手紙には書かれていたそうだが、ワディーウを刺したことで恐ろしくなったらしい』
メイドの心中を思えば、どちらにしても地獄である。
『あのメイドはどうなりますか?』
『脅されていたとは言え、フォルジェット王国との友好を繋ぐ重要人物を殺そうとしたのだ。重罪と判断されるだろう』
家族を守るために殺人を犯そうとしたが、既に家族を失っていたと知った時、メイドは絶望するだろう。
もし自分が同じ立場だったらと思うと苦しくなる。
しかし、ここはフォルジェット王国ではない。
その国にはその国の法律があり、それに他国の者が口を挟むのは許されない。
『そうですか……』
『痕跡を辿り、メイドを脅した者を探しているが、メイドに手紙と短剣を渡した召使いも街の貧民街の子供から金と共に渡されただけで中身は知らなかったと言っている。犯人を捕まえるのは難しいだろう』
『実行したメイドが全ての罪を負うことになるのですね』
いわゆる、トカゲの尻尾切りである。
いや、実際は脅されていたのでトカゲ自身の体でもなく、真犯人は傷一つ負わないのだろう。
メイドは情状酌量で罪が軽くなったとしても、殺人を実行しようとした罪は消えず、家族も失い、希望はない。
『まあ、とにかく、今はワディーウが死ななかったことに感謝しようぜ。あいつが死んでたら大騒ぎだったしな』
『今でも十分大騒ぎだがな』
第二王子殿下の言葉に王太子殿下が苦笑を浮かべた。
『妻と共に見舞いに行きたいのですが……』
『ああ、そうだな、きっとワディーウも喜ぶ。宮殿内の治療所にいるから、明日、ダウワースに案内させよう』
『え、オレ? まあいいけどさ』
王太子殿下と第二王子殿下のやり取りに笑いが漏れる。
横で、リオネルがホッとした様子でわたしを見る。
……心配かけさせちゃってたんだ。
大丈夫、ありがとう、と意味を込めてリオネルの手を握れば、しっかりと握り返してくれた。
『事件については今後も調査を続ける。何か分かり次第、貴殿らにも伝えよう。夫人も今日はゆっくり休んでくれ』
『はい、お気遣いありがとうございます』
『いや、こちらこそ改めて礼を言う。ワディーウを救ってくれてありがとう。あれは我が国に必要な男だ』
そうして三人は帰って行った。
とても疲れてしまって、わたしは早めに入浴して、少しだけ果物を食べてすぐ眠ることにした。
夜中に夢見が悪くて飛び起きたけれど、リオネルがずっとそばにいて、手を握って「大丈夫だ」と優しく宥めてくれた。
安心感と共にドキドキと胸が高鳴る。
……わたしは、やっぱりリオネルのことが……。
* * * * *
すぅ、すぅ、とエステルの静かな寝息が響いている。
それを聴きながら、リオネルは自分のものより小さな手を起こさない程度に緩く握った。
夢見が悪かったのか先ほどは飛び起き、顔色の悪かったエステルだが、今は穏やかに眠っている。
昼間のエステルの行動には驚いた。
いつだってリオネルの予想外の行動をするエステルだが、いきなりワディーウの胸を押し始めた時は何をしているのか分からなかった。
だが、治癒魔法を促されて、ワディーウを助けようとしていることだけは理解出来た。
一定の速度でワディーウの胸部を圧迫し続けるエステルの瞳には強い光が宿っており、どこか鬼気迫る様子に誰も止めることはなかった。
そしてワディーウは息を吹き返した。
出征の際、戦場でもたまに死んだはずの兵士が息を吹き返すことがあったが、何故そうなるかは不明だった。
眠る前に訊いたが、エステルが行ったのは心臓の代わりの動きらしい。
心臓が止まると脳や内臓などの重要な臓器に血液が回らなくなり、それにより、息を吹き返したとしても後遺症が残ることがある。
そして心臓が動き、血が巡れば息を吹き返すこともある。
だからエステルはすぐさま心臓を体の上から押すことで、全身に血を巡らせた。
ワディーウの場合、恐らく毒によって心臓が止まったものの、エステルの『心臓マッサージ』とやらのおかげで血が巡り、もしかしたら臓器が動き出して息を吹き返したのかもしれない。
もし、あのまま何もしなければワディーウは死んでいた。
必死に『心臓マッサージ』を行っていたエステルだが、ワディーウが息を吹き返すと茫然とした様子で座り込んでいた。
あれを行ったのは初めてだったらしい。
震える両手を握り締めて泣く姿は痛々しかった。
目の前で知り合いが刺され、人の死に直面し、成功するかも分からない救命行為をして、精神的にも疲弊したのだろう。
抱き締めると気を失ってしまった。
兵士達にその場を任せ、部屋へ戻った。
それから兵士が来て、ワディーウの回復を伝えられたが、エステルが目を覚ましたのは二時間後だった。
精神的に不安定になっているのは言うまでもない。
出征に参加する覚悟を決めたリオネルですら、戦場の光景を見た時は精神的にきつかった。
エステルは何の心構えもなかったし、こんな状況に陥るはずがなかった。この事件は想定外のことだった。
ラシード王国の王太子は『犯人を探す』と言っていたが、フォルジェット王国の使節団がラシード王国にて、その国の使節団を害したとなれば、両国の友好関係は崩れるだろう。
フォルジェット王国とラシード王国の交友関係が崩れることで、最も得をするのはヴィエルディナ王国だ。
確証はないが、あの国ならばやりかねない。
恐らく王太子もその可能性に気付いている。
だが、証拠がないので黙っているのだろう。
「……よく頑張ったな」
眠るエステルの頬に触れる。
泣きすぎて瞼が腫れてしまっていて、眠る前にも冷やしたが、もしかしたら明日も少し腫れが残るかもしれない。
その額に静かに口付けを落とす。
「お前のほうが英雄だ」
あの時、リオネルは諦めた。もう助からないと思った。
しかしエステルは諦めずに行動した。
そのおかげでワディーウは今、生きている。
人を殺し、傷付けて英雄と呼ばれるより、人の命を救ったエステルのほうがリオネルからすれば英雄であった。
「本当に、お前は凄いな……」
昔から、自分にはない才能のあるエステルが好きだった。
新しい面を知る度に惹かれていく。
きっと、これからもそうだろう。
エステルの寝息を聴きながら、静かに夜が更けていった。
* * * * *




