こ、これが精一杯です……。
翌日の午前中、わたし達は宮殿の訓練場を訪れた。
朝食後に特に予定もなく過ごしていると、わたし達の担当らしき、ラシード王国のメイドと共に兵士が部屋に来た。
どうやら英雄が来たと話が広がり、会いたい、手合わせをしてみたいという兵士達が多く、良ければ訓練場に来てもらえないかとお願いをされたのである。
リオネルも頷き、わたしもこの国の兵士を間近で見てみたかったのもあり、受け入れた。
『皆、英雄殿と夫人が会いに来てくださったぞ!』
とわたし達のところへ来た兵士が声をかければ、訓練場にいた兵士達がバッとこちらへ振り向いた。
わたし達を見ると途端に歓声を上げた。
いや、歓声というより雄叫びに近いか。
あまりに大きかったので驚いてしまった。
兵士達が集まり、整列する。
『英雄殿と夫人に、平安と神のご加護がありますように!』
全員が声を揃えて言う。
『平安と神のご加護があなたがたにもありますように』
『平安と神のご加護が皆様にもありますように』
リオネルとわたしも返答をした。
『本日は英雄殿が手合わせをしてくださるそうだ! 腕に自信のある者は名乗り出ると良い!』
兵士がそう言うと、並んでいた兵達の一人が手を上げた。
『英雄殿に勝てば夫人から祝福をいただけますか?』
それにリオネルと顔を見合わせたが、リオネルは口角を引き上げると頷いた。
『俺に勝てたなら、その栄誉を与えよう』
「ちょっと、リオネル……!」
兵士達がワッと嬉しそうな声を上げる。
数名がすぐに挙手したので、慌ててリオネルの腕を軽く引っ張ったが、リオネルは笑みを浮かべたままわたしの手に自分の手を重ねた。
「勝てばいいだけの話だ。心配するな。負けはしない」
いつも通り、堂々として自信に満ちあふれたリオネルの態度に、仕方ないなあ、と苦笑してしまう。
リオネルは有言実行の人なので、こう言った以上は負けないために全力を尽くすだろう。
リオネルは服の上着を脱ぐとわたしへ渡した。
「俺が勝ったら褒美をくれ」
「褒美って?」
「俺にも祝福がほしい」
それにキョトンとしてしまった。
そして、思わず笑ってしまう。
「リオネル、ちょっと屈んで」
膝をついて素直に屈んだリオネルの頬に両手を添える。
ちょっと恥ずかしいが、リオネルの額にわたしの額をそっと合わせ、数秒おいて離す。
『平安、そして神のご慈悲と祝福があなたの上にありますように』
目を開けると、リオネルが驚いた顔でわたしを見ている。
「リオネルには特別に大きな祝福をあげるよ。……まあ、本当にわたしに幸運の女神様の加護があるとは思えないけど──……」
立ち上がったリオネルにギュッと抱き寄せられた。
周りにいた兵士達が『おお!』とどよめいた。
「お前の祝福があれば、俺は負けない」
体を離したリオネルが身を屈め、わたしの額に口付けた。
一拍遅れてそれを理解し、顔が熱くなる。
リオネルはわたしを離すと腰に下げていた剣に手をかけた。
『妻の愛は俺のものだ。祝福が欲しければ俺を倒してみろ』
剣を抜いたリオネルの言葉にまた兵士達が雄叫びを上げる。
……わあ、なんかとんでもないことになってない?
訓練の手合わせのはずが、趣旨が変わっている気がする。
しかし、ここで止めるのも野暮な話である。
とりあえず、わたしはリオネルを応援することにした。
『リオネル、頑張れー!』
リオネルが背を向けたまま手を上げた。
そうして、兵士達の中へリオネルは入って行った。
* * * * *
ワディーウ・シャーヒーン・ナジーブ・アル=アダウィーは歩きながら、斜め前にいる人物に話しかけた。
「まったく、ダウワース様、私がいない間にまた悪さをしたようですね。あまり好き放題にしていると陛下に叱られますよ」
そこには、この国の男性にしては長い白銀の髪に水色の瞳にやんちゃそうな、けれども整った顔立ちの青年がいる。よく日に焼けた褐色の肌に白と黒の衣装、瞳に合わせた水色や青の装飾品で華やかだが、非常に似合っていた。
「うるっさいな〜。ちょっと宝物庫に入っただけじゃん。そりゃあ、一つ二つ出して遊んだけど、元に戻したんだから別にいいだろ」
「良くありません。よろしいですか、国宝は民の税から出来ていると言っても過言ではないのです。しかも王族ですら儀式の際にしか身に付けないものを、踊り子に触らせるなど──……」
「だから付けさせはしなかっただろーが」
と面倒そうに手を振るのは、このラシード王国の第二王子ダウワース・アルサラーン・アリー・イヴン・アル=バンダークである。
昔から悪戯好きで少々やんちゃが過ぎるところはあるが、勇猛で、剣や体術も優れており、勉強嫌いな点さえ克服すれば天才と呼ばれてもおかしくはない。
だが、残念ながらその勉強嫌いが酷すぎる。
兄の第一王子はその点、剣や体術など戦士としてだけでなく、勉学も優秀で、次代の王の治世も安泰だろうと既に囁かれているほどだ。
……まあ、ダウワース様は玉座に興味がないようだが。
兄弟で玉座を巡って争うことは多いが、第一王子と第二王子の間ではそのような問題はない。
次代の王となるべく努力を欠かさない兄と、玉座に興味がなく自由気ままな弟。この二人はそれもあってか仲が良い。
悪びれた様子のないダウワースに、ワディーウが更に小言を重ねようとして、ふと聞こえてきた歓声に足を止めた。
「……なんだ?」
ダウワースも気になったらしい。
聞こえてくる歓声に釣られ、廊下を外れて歩き出すダウワースにワディーウは小さく溜め息を吐き、ついて行く。
どうやら歓声は訓練場から響いているようだ。
訓練場へ着くと、中央に人集りが出来ている。
ダウワースとワディーウはその人集りに近づいた。
「何してんだ?」
「ダウワース様!」
ダウワースの声に振り向いた兵士達が慌てて礼を執るが、それを手で制し、左右に分かれて道を作った兵士達の間をダウワースとワディーウは通った。
そこには兵士と英雄がいた。
英雄リオネル・イベールと兵士が剣を交えている。
近くにいた兵士からこの状況について聞くと、兵士達に請われた英雄が手合わせを行っているとのことだった。ちなみに、英雄に勝つと夫人から祝福をもらえるらしい。
ちなみに今戦っているのは五人目で、英雄は一度も負けていないそうだ。
『リオネル、頑張れ〜!』
フォルジェット王国の言葉で夫人が英雄を応援している。
ダウワースが夫人を見て「へえ」と楽しげに目を細めた。
それが悪い予兆であることをワディーウはよく知っていた。
だが、ワディーウが止める間もなく、ダウワースは近くの兵の手から剣を奪うと駆け出し、手合わせをしている二人へ向かって行った。
「黒髪、オレと勝負しろ!!」
横から飛びかかってきたダウワースの剣を、英雄はとっさに自身の持つ剣で受け止めた。
相手をしていたはずの兵士は割って入ったのがダウワースだと気付くと、残念そうにしながらも下がる。
せっかく英雄と手合わせが出来る、数少ない機会を奪われたのだ。面白くはないだろう。第二王子だから身を引いたが、もし他の兵士が同じようなことをすれば、只事では済まなかっただろう。
いきなり飛び込んできたダウワースに夫人が英雄の名を呼ぶ。
ワディーウは慌てて夫人のそばへと寄った。
『夫人』
『! ワディーウ様?』
夫人がワディーウと、戦っているダウワースと英雄とを戸惑った様子で交互に見る。
『ご安心ください。あの方は我が国の第二王子殿下です。強い者と戦うのが好きな方でして……』
最後まで言わずとも理解したようで、夫人は『ああ……』と困ったような顔で二人を眺めた。
それでも、先ほどの兵士の時よりも荒々しい戦いに、夫人が心配そうに英雄へ目を向けている。
英雄は夫人に愛を乞うていると言っていたが、こうして見ても、十分夫人は英雄を愛しているように思うのだが……。
ワッと歓声が上がり、夫人も『あ!』と声を上げる。
見れば、ダウワース様が地面に座り込んでおり、英雄がダウワース様の眼前に剣を突きつけていた。
英雄の勝ちである。
『リオネル!』
夫人が思わずといった様子で英雄に駆け寄った。
それから慌ててハンカチを取り出し、小柄な体で背伸びをする。英雄もすぐに察して少し屈んだ。夫人が英雄の汗を拭う。
その仲の良さそうな夫婦の姿に周囲の兵達も微笑ましげに、けれども、どこか羨ましそうに眺めている。
我が国では女性は男性の後ろを歩き、あまり出しゃばらず、控えめであることが望ましいとされており、人前で必要以上の接触は夫婦でもあまりしない。
だからこそ、二人の仲の良さが羨ましいのだろう。
『大丈夫? 怪我してない?』
『ああ、問題ない』
『良かった……』
話している二人の脇で、放置されたダウワースが地面に座り込んだまま、面白くなさそうに自身の膝に頬杖をついている。
「あー、くそ、こんなあっさり負けるとはな。さすが英雄と呼ばれるだけはあるってことか。……それでも負けるなんて久しぶりだ」
「いきなり他の者の手合わせに無理やり割り込むからですよ。英雄殿も夫人も大事な国賓なのですから、きちんとご挨拶と謝罪をなさってください」
「はいはい、分かったよ」
ダウワースが立ち上がれば、英雄と夫人が振り向く。
そしてダウワースが礼を執り、挨拶をした。
「改めて、ダウワース・アルスラーン・アリー・イヴン・アル=バルダール、この国の第二王子だ。いきなり邪魔して悪かったな。強そうだったから、つい戦いたくなってよ」
謝罪というには軽い言葉にワディーウは溜め息が漏れた。
「謝罪を受け入れます。改めまして、リオネル・イベールです。フォルジェット王国では筆頭宮廷魔法士オニキスの命をいただいております。こちらは妻のエステル」
「エステル・イベールと申します」
英雄と夫人が我が国の礼を執る。
「よろしくな。……それにしても、ふっくらほっぺちゃんの祝福をもらえなかったのは残念だな。女神の加護がありそうだったのに」
ダウワースの言葉に夫人がハッとした顔で英雄を見た。
そしてすぐに気恥ずかしそうに視線を逸らす。
『……勝ったご褒美、何がいい?』
『祝福を授けてくれ』
『さっきあげたのに? まだ欲しいの?』
『お前から触れてもらえるなら、いくらでも欲しい』
英雄の言葉に夫人の頬がほのかに赤くなる。
夫人が口元に手を当てて、内緒話をしたそうな仕草をすると、英雄が身を屈めてそこへ耳を寄せた。
背伸びをした夫人の手が英雄の顎に触れ、英雄の頬に夫人が口付けた。おお、とダウワースと周囲の兵がどよめく。
予想外だったのか、ぽかんとした表情の英雄の服の裾を掴みつつ、夫人が俯いた。
『こ、これが精一杯です……』
暗い茶髪から除く色白の耳は赤くなっていた。
そんな夫人を英雄が抱き寄せる。
『もう一回してくれないか?』
『無理無理! 恥ずかしくて死ぬ! というか、人前ですることじゃなかった……!!』
『人目がなければしてくれるのか?』
『ほんっと前向きだよねリオネルは!!』
英雄が嬉しそうに夫人を抱き締め、夫人は恥ずかしいのは騒ぎながらも英雄の胸に顔を押しつけて隠している。
ワディーウにとっては帰国の道中で見慣れた光景だが、他の者はそうではない。
この国では人にあまり見せない夫婦の時間を目の当たりにして、若い兵は顔を赤くしているし、年嵩の兵は微笑ましげにしており、ダウワースは少し呆れた顔をしていた。
「オレも特別な祝福が欲しかったぜ」
ダウワースのその言葉に英雄が顔を向ける。
「挑戦でしたら、いつでもお受けします」
「負ける気はないってか? 大きく出たな」
「勝ち続けることで妻を独占出来るなら、努力は惜しみません」
英雄が早口で言うので、夫人は聞き取れなかったらしい。
『リオネル、なんて言ったの?』
『いつでも挑戦を受けると言った』
『え、それは困る』
夫人がコソコソと英雄に耳打ちし、英雄が満足そうに口角を引き上げ、ダウワースに言い直した。
「ただし、妻との時間は優先させていただきます」
「それを邪魔すると言ったら?」
「次がないよう、力の差を叩き込むために全力で戦うことになります」
「はは、友好国の王子に言う言葉じゃねえだろ」
ダウワースはおかしそうに笑い、肩を竦めた。
「まあ、夫婦の時間は大事だろうしな。邪魔しないよう、配慮はしてやるよ」
「お気遣いありがとうございます」
「じゃあ、また夜の宴でな」
とダウワースが手を振り、歩き出したので、ワディーウも英雄と夫人に会釈をして慌ててその後を追う。
「ダウワース様」
「お小言はもう十分だって。それにしても、フォルジェット王国の魔法士は剣の腕も立つんだな。お互い本気じゃなかったとは言え、負けたのは予想外だった」
「英雄殿も本気ではなかったと?」
「ああ。あの男、戦っている間も表情一つ変えなかったぜ」
ワディーウも先の戦争に参加していたし、英雄の武勲も目の当たりにしたが、魔法の才能に秀でているだけでなく、剣術の面でも才能を持つとしたら、まさしく英雄である。
「フォルジェット王国には筆頭宮廷魔法士が他に四人もいるんだろ? 英雄に負けず劣らず強い奴らなら、戦ってみてえなあ」
ダウワースの悪い癖に、ワディーウは三度目の溜め息を吐いた。
* * * * *




