とりあえず、健康でも願っておこうかな。
野営の準備が整う頃には、太陽は砂丘に沈みかけていた。
昼間はあんなに暑かったというのに、夕方になると少し強い風が吹くと共にどんどんと気温が下がってくる。
太陽が完全に沈み、空が濃いオレンジ色から深い藍色へと変化していく様は美しい。
だが、あっという間に肌寒くなった。
「エステル、こちらへ」
リオネルに手を引かれて焚き火のそばへ行く。
岩地にいくつか焚き火が灯されており、辺りはそれによって明るく照らされている。
地面に敷かれた布の上に促されて腰を下ろすと、リオネルは一旦その場を離れ、すぐに戻って来た。
肩に毛布がかけられた。
「夏場でも夜は冷える」
「ありがとう」
リオネルも横に腰を下ろす。
今は騎士達が夕食を作ってくれているようだが、ワディーウ様達との楽しげな声が聞こえてくる。
昼間は暑くて気力がなかったフォルジェット王国の使節団の人々も、涼しくなって元気が出たのか、ラシード王国の使節団と交流している。
使節団について来ていた使用人や護衛達も、互いに交流を深めているようで、皆、楽しそうだ。
「明日の昼前頃には次の街に着くそうだ。この速度で進めば、予定通り二日後には首都へ辿り着けるらしい」
「そっか」
パチ、と小さく薪が爆ぜる。
少し離れた場所ではもうラクダ達が休んでいた。
見上げた空は、他に明かりがないせいか、星が綺麗だ。
わたしの視線に釣られてリオネルも夜空を見上げる。
「空が広いね」
「そうだな」
空を眺めていると冷たい風が吹いた。
……毛布をかけてても少し寒いなあ。
横を見れば、リオネルは平気そうな様子である。
「リオネルは寒くない?」
「問題ない。……まだ寒いか?」
「ちょっとね」
リオネルがわたしの肩にかかっている毛布に手をかけ、片方を広げるとそこへ入ってきた。
毛布の下で抱き寄せられ、密着する。
「こうすれば暖かくなる」
確かに、しばらくするとリオネルの体温が伝わってきて、毛布の中が暖かくなってきた。
……リオネルは体温、高めなんだよね。いいなあ。
大きな手がわたしの手を握る。
そうしてリオネルで暖を取っていると騎士の一人が両手に器を持って近づいて来た。
わたし達の馬車を護衛してくれる騎士の一人で、わたしが密かに小説のネタにしようとしていたあの女性騎士である。
あとでリオネルが教えてくれたが、一応、リオネルの部下の一人らしい。筆頭宮廷魔法士『オニキス』部隊の一員なのだとか。だから今回、警護として来てくれているそうだ。
「筆頭、奥様、お食事をどうぞ。熱いので気を付けてお召し上がりください」
真面目そうな外見通りの人だった。
「ああ」
「ありがとうございます」
器とスプーンを受け取る。木製の器がじんわり温かい。
わたしの腰から手を離したものの、リオネルはわたしに身を寄せており、若干向き合うような体勢だ。
器の中身は赤い。少し辛そうな匂いもする。
女性騎士は一礼すると下がっていった。
試しにスプーンでスープを掬ってみると、濁った黄色っぽい感じで、一瞬カフワを思い出した。
干し肉が入っているが、他の具材はよく分からない。
掬ったスープを恐る恐る口に入れた。
意外にもまろやかな甘さと肉の味、芋か何か、根菜類っぽいものが入っていて、ハーブと香辛料の香りがガツンとくる。そして一拍遅れて辛味が訪れる。
……あ、結構辛いけど美味しい。
元々、辛いものは平気なので問題なく食べられる。
不思議なまろやかさはミルクのような感じがするが、食べたことのない不思議な味だ。ラクダの乳だろうか。
ハーブと香辛料の香りが暑さに負けていた食欲を思い出せてくれる。
寒い時に辛いものは、体を温めてくれるから嬉しい。
リオネルも黙ってスープを食べている。
底のほうにビスケットが沈んでいたようで、汁気を吸ってふやけたそれをスプーンでつついて砕き、食べる。
小麦とバターの甘さがスープの辛味をより優しくしてくれて、柔らかいけれど、たまにビスケットのザクザク感が残っている部分もあって食感が楽しい。
「もう一杯いかがですカ?」
ワディーウ様が小鍋を持って声をかけてきた。
わたしが首を振る横で、リオネルが器を差し出した。
「いただきます」
「はい、ドウゾ」
ワディーウ様がおたまでリオネルの器にスープを注ぎ、大きめのビスケットを一枚入れた。
「これはなんという料理ですか?」
「ああ、いえ、名前はありまセン。あるもので作りまシタ」
「そうなのですね。初めて食べる味で美味しいです」
「良かったデス。砂漠の移動は大変で、少しでも美味しいものを食べて力をつけないと倒れてしまいますカラ」
ニコリと笑い、ワディーウ様は他の人にも同様におかわりの声をかけて回っていた。
リオネルがスープをまた食べ始める。
空気は相変わらず冷たいものの、温かくて辛いスープのおかげもあり、体の内側からぽかぽかしている。
少し離れたところにいる侍女達もスープを頬張っていた。
昼間は暑く、夜は寒く、寒暖差で体調を崩さないように気を付けなければ。
「あ」
見上げた夜空に小さな光の筋が走った。
リオネルがこちらを見る。
「今、流れ星があったの。お願いごとすれば良かった」
「何か欲しいものでもあるのか?」
「うーん、そう言われると特にはないんだけど……」
この世界でも『流れ星に祈ると願いが叶う』という逸話があるので、何か願ったほうがいいのかなという気持ちだった。
「とりあえず、健康でも願っておこうかな」
「それは祈るより自分で気を付けたほうが確実だろう」
「まあね」
スープを食べ終えたのか、リオネルが器を脇へ置き、わたしが持っていた空の器を取って、それへ重ねた。
温かくなったけど、なんとなく二人で寄り添ったまま空を眺める。
星の名前をもつわたしだけど、詳しくはないから、夜空を眺めても星座などは分からない。
ただ、綺麗だなあと眺めているだけだ。
それにしても、ラクダの上に乗っているだけなのに疲れた。
お腹が満たされ、温かくて、目を閉じると疲れた体に心地好い眠気がやってくる。
その眠気にウトウトしているとリオネルの腕が背中に回り、リオネルへ寄りかかるように誘導される。
「明日も早い。眠れる時に寝ておけ」
と、囁く声に体を預ける。
……食べてすぐ寝ると牛になる、って……。
そう思いながらも、瞼はもうくっついて開かない。
感じる眠気と暖かさに身を任せて細く息を吐く。
リオネルの腕の中は安心出来て、心地好かった。
* * * * *
肩にかかる重みが増した。
慣れない旅でよほど疲れていたのだろう。
結婚してから今まで共にベッドで寝ていたが、普段はリオネルのほうが先に眠りに落ちていた。
すぅ、すぅ、と心地好さそうな寝息が聞こえてくる。
周りの賑やかな声でも起きる気配がないので深く眠っているようだ。
起こさないようにそっと腕を回し、慎重に抱き上げて、足の間に移動させる。毛布の前をしっかり合わせればもっと暖かいだろう。
横向きなのでエステルはリオネルの胸元に寄りかかっている。
旅行用のドレスは簡素な上に、暑いラシード王国へ行くことを考えて普段着ているドレスより生地も薄い。ローブを羽織っていても、エステルの柔らかな体つきが感じられた。
エステルを抱き締めると癒される。
……もう少ししたら天幕へ移動するか。
眠るエステルを抱き締めたまま焚き火を眺めていると、ワディーウがカップを両手に近づいてきた。
エステルが眠っていることに気付くと微笑ましげな顔をする。
「バタル、飲み物をドウゾ」
「ありがとうございます」
片手でカップを受け取ると、ワディーウが横に腰を下ろした。
「夫人はさすがに疲れてしまいましたカ」
「初めての旅行ということもありますが、ラシード王国に入ってから、初めて経験することが多くて常に興奮していたので、それもあるでしょう」
「確かに、夫人はずっと目を輝かせていましたネ」
綺麗な深い青色の目を輝かせながら、忙しなくあちこち見て回ったり、初めてのものを口にしたり、興奮と気疲れと慣れない環境のせいで体力が尽きたのだろう。
家にこもり気味なエステルにしては、よく頑張ったほうである。
「それに皆も夫人がいるおかげかいつもより楽しそうデス」
「妻を歓迎してくださるのはありがたく思います。しかし、私の妻なので構うのはほどほどにしていただきたいのですが……」
「バタル自身が我が国では人気者ですから、その夫人がスアードの使者となれば、皆、声をかけずにはいられないのデス」
好意的に接してもらえるのはありがたいものの、エステルに自分以外の男達が近づくのは、リオネルにとって少し面白くなかった。
恋愛感情があろうとなかろうと男は男だ。
これが嫉妬と言うのなら、そうなのだろう。
奪われる不安というより、エステルのそばにいるのが、目に映るのがリオネルではないということが面白くない。
……嫉妬ではなく、これでは独占欲だ。
あまり縛りつけるとエステルは離れるかもしれない。
リオネルはこぼれそうになった溜め息を、カップに口をつけることで誤魔化した。
「ところで、ずっと気になっていたのですが『ウンム・クルスーム』とはどのような意味の言葉ですか?」
ワディーウもラシード王国の使節団も、そしてラシード王国の人々も、エステルを見ると笑顔でそう呼びかける。
シャマルの街の露店を回った時にもそう声をかけられた。
悪い意味ではないことはなんとなく察せられたが、リオネルが出征で訪れた時には一度も聞いたことがない単語であった。
エステルも「気になるけど、意味を訊く機会を逃しちゃって訊けなくて」と数日前にこぼしていた。
ワディーウが小さく笑った。
「ウンム・クルスームは愛称のようなものですネ。幸運の女神スアードのようにふくよかな女性や子供に対し、話しかける時の呼びかけデス。呼びかけに使う場合は『ふっくらほっぺちゃん』となりマス」
リオネルは小さく噴き出した。
つまり、今までエステルは「ふっくらほっぺちゃん」と呼びかけられていたわけである。
「とても好意的な呼び方ですヨ。幸運の女神に似た特徴を持つ女性やふくよかで可愛らしい女性、頬がぷっくりした可愛い子供は大抵こう呼ばれマス。我が国では名前よりも愛称や役職で相手を呼ぶことが多いノデ」
女性や子供に対しては好意的な愛称となるが、ふくよかな男性に使うと蔑称になるため、基本、成人男性には使われない言葉らしい。
エステルには意味を伝えないほうがいいかもしれない。
今でさえ「わたしって子供扱いされてるよね」とぼやいていたので『ふっくらほっぺちゃん』などと呼ばれていることを知ったら、微妙な顔をするだろう。
「そういえば、説明していませんでしたネ。我が国では痩せている者が多いので子供によく使う言葉ですが、女性への最上級の褒め言葉でもありマス。幸運の女神のような女性という意味ですから、英雄の夫人には相応しい愛称ですヨ。ふくよかな女性は成功や豊かさの象徴でもありますカラ」
「なるほど」
家が裕福か、夫の稼ぎが良ければ自然とふくよかになる。
だから、ふくよかな女性を妻に迎えることが好まれる。
その家の成功や豊かさにあやかりたいということだ。
「……ラシード王国では、愛する女性への特別な呼び方はあるのでしょうか?」
「ありますヨ。バタルの場合は夫人へ呼びかけるなら『ハヤート』が一番合うと思います。意味は『私の人生』デス。出征の時にバタルは『愛する女性と結婚するために筆頭宮廷魔法士になる』とおっしゃっていましたし、普段のバタルの様子からして、その言葉が良いと思いマス」
「ハヤート……」
確かにその言葉は最も合っていると感じた。
エステルと出会ってから、リオネルの人生は色付き、筆頭の座になることへの意欲が湧き、欲しいものが出来た。
「教えていただき、ありがとうございます」
……ハヤート。俺の人生。
腕の中にいるエステルをギュッと抱き締める。
結婚してから、エステルへの気持ちは強まる一方だ。
朝、同じベッドで彼女を抱き締めながら目覚める。
共に朝食を摂り、見送られて出仕し、仕事を終えて帰ると必ず食事をせずに待っていてくれる。
共に夕食を摂り、エステルの部屋でゆっくり過ごし、寝る支度をして、同じベッドで眠りにつく。
家に帰るとエステルがいるという生活は、それだけで充足感を覚え、癒されるのだ。
最初は隣り合って眠っているだけだったが、うっかり寝ている間にエステルを抱き寄せてしまったことがあり、エステルが嫌がらなかったこともあって、それ以降はいつも抱き締めて眠っている。
小さくて、柔らかくて、いい匂いがする。
抱き締めると不思議なほどよく眠れる。
眠るエステルの頭にそっと口付ける。
……どうか、俺を好きになってくれ。
顔を上げると夜空に流れ星が一つ、駆け抜けていった。
* * * * *
 




