それ、ハンカチの意味なくない?
* * * * *
王都から出立して数時間。
リオネルは外交官の一員として使節団の皆と共にラシード王国へ向かっている。
馬車の中にはエステルも共におり、楽しそうに車窓を眺めていた。
エステルいわく「王都の外に出たのは初めて」だそうで、ただの森の景色ですら、彼女にとっては特別に見えるようだ。
外から差し込む光が反射して、青い瞳が輝いている。
そろそろ昼休憩をする頃だろうと思っているうちに、馬車の速度が緩やかに落ちて停車する。
「あれ? 何かあったのかな?」
「いや、休憩のために止まっただけだ」
森の中の少し開けた場所に両国の使節団の馬車を停め、先に馬車から降り、エステルに手を貸した。
馬車から降りたエステルは辺りを見回す。
すぐにその視線がラシード王国の使節団に定まり、使節団の者達に手を振られると、近づいて行く。
リオネルもその後を追う。
『ウンム・クルスーム、一緒に昼食を食べましょう』
『はい、いっしょ、食べます』
使節団の者の誘いにエステルが拙いシェラルク語で返しながらニコニコと楽しそうにしている。
使節団の者達も釣られて笑顔になっていたが、リオネルの視線に気付くと少し焦ったような顔で頭を掻いた。
エステルは「彼らに恋愛感情はない」と言っているが、ラシード王国の美人の条件に当てはまる彼女が拙い言葉で一生懸命に話し、笑顔を見せる姿に、使節団の者達の頬を緩ませていることは分かっていた。
そこに恋愛感情がなかったとしても面白くはない。
……俺の妻に必要以上に近づくな。
使節団の者達が苦笑し、ワディーウが小さく笑った。
『我々は英雄殿から夫人を奪うつもりはありませんよ』
『もしそのような者がいたら容赦しません』
『そうでしょうね。ですが、夫人は幸運の女神スアードの特徴を持っておられますし、このように気立ても良いので、我が国に入ればもっと声をかけられるかと』
リオネル達の言葉が聞き取れなかったのか、エステルが小首を傾げて見上げてくる。
青い瞳と目が合ったので、リオネルはその頭を撫でた。
「日差しが強い。俺達は少し話があるから、お前はそこの木陰で休んでいろ」
「うん、分かった」
エステルは素直に頷き、近くの木陰に入る。
すぐに侍女が近づいて水筒を渡していた。
視界の端にエステルを捉えつつ、リオネルはワディーウに顔を向けた。
『目立たない方法はありませんか』
『残念ながらないでしょう。そもそも、英雄殿が目立つのですから、共にいる夫人も自然と人目を引きます。何より、お二人とも我が国の者とは容姿が違いますから』
『……そうですね』
他の木陰で昼食の用意がされ、両国の使節団の者達とで共に昼食を摂ることになった。
部下に声をかけられ、リオネルが手招けば、エステルが近寄ってくる。
そうして、地面に敷いてある布の上にリオネルが座ると、フォルジェット王国の他の使節団から少し隠れるように反対側にエステルは腰掛けた。
『良い天気に恵まれて何よりですね。この時季、我が国では天気が崩れることも多いので』
『確かに我が国でもこの時季は比較的、雨が降りやすいです』
『出来れば、旅の間はこの天気が続いてくれると良いのですが』
両国の使節団同士で話している間も黙っている。
……こう見えて、意外と人見知りなところがあるからな。
ラシード王国の使節団の何人かはエステルに話しかけたそうにチラチラとこちらへ視線を向けている。
サンドイッチを食べているエステルにリオネルは声をかけた。
「疲れていないか?」
「大丈夫、長時間座るのは慣れてるから」
顔を上げたエステルが、そこでようやく、使節団の者達の視線に気付いてニコリと微笑んだ。
それに誘われるように使節団の者達が話しかけてくる。
『英雄殿とウンム・クルスームは首都を訪れるのは初めてですよね? 良ければ、空いている時間に街をご案内しましょうか?』
『美味しい料理の店も我々なら紹介出来ますよ』
『美しい装飾品の店も知っています』
エステルが『ありがとうございます』と返事をする。
……俺は二人で見て回りたいんだが……。
『優しい、うれしいです。でも、夫と二人で、出かけたいです』
エステルの言葉にリオネルは驚いた。
てっきり提案を受け入れると思ったのだが。
『新婚旅行なので』
そう言われてしまえば、それ以上は言い募れない。
使節団の者達は『ごゆっくり楽しんでください』と言い、エステルが嬉しそうに頷いた。
見上げてきたエステルが口元に手を添えたので、リオネルは体を傾けてそこに耳を寄せた。
「出かける時間、ある?」
「取れなくはないだろう。外交官と言っても俺はあくまで指名されたから選ばれただけだ。話し合いに参加する必要はない。だが、案内を断って良かったのか?」
「うん、案内してもらうのも楽しそうだけど、小説のこととか話せないし、リオネルと一緒にいるのが一番安心出来るから」
二人でこそこそと話しているとラシード王国の使節団の者達が微笑ましげな顔をする。
『英雄殿と夫人はとても仲がよろしいですね』
エステルが目を瞬かせた。
『ラシード王国の、夫婦は違うのですか?』
『我が国では、妻は夫の所有物の一つです。夫婦と言っても対等ではありません。それに人前で過度な触れ合いや近い距離で接することも少ないです。普通、妻は夫の後ろに付き従うものです』
『わたしも、そうしたほうが良いですか?』
エステルの問いに使節団の者達は首を振った。
『いいえ、英雄殿が夫人と対等な関係であるのなら、並んでいたほうがいいと思います。皆、英雄殿に敬意を持っています。その英雄殿が横に立つことを許したあなたに、皆も敬意を持って接するでしょう』
ラシード王国は実力主義であり、だからこそ、リオネルは歓迎されているのだが、気性が荒いところもある。
そしてフォルジェット王国とは価値観も違う。
女性は結婚するまでは父親の所有物で、結婚後は夫の所有物と見なされる。結婚後の女性の生活は夫がどこまで許すかによって左右されるらしい。しかも女性の恋愛結婚はまずない。男性に見初められ、父親が許した相手と結婚する。これはワディーウより聞いた話だった。
ラシード王国の使節団の者達はフォルジェット王国に来て、まず、男性が女性に対してかなり紳士的であることに驚いていた。
それについて手短に説明するとエステルも驚いた様子であった。
「あ、でも、基本は政略結婚って考えれば普通なのかも?」
と小首を傾げた後に納得したふうに頷いていた。
その後、使節団の者達と話をしながら昼食を終えた。
ちなみに、馬車に戻るとエステルは聞いたばかりの話を本に書き記していた。
「政略結婚から始まるじれったい恋の話もいいけど、異国の戦士と貴族の令嬢のお話も異文化交流的な感じでいいよね!」
異国への不安よりも、小説への情熱のほうが優ったらしい。
好奇心旺盛なのは構わないが、普段は滅多に動かないくせに、たまに驚くほどの行動力を見せることがあるので気を付けなければ。
……エステルは予想外のことをするからな。
* * * * *
一日中馬車に乗るというのは思いの外、疲れるらしい。
宿に到着して、リオネルと共に部屋に通される。
夫婦なので同じ部屋であることに疑問はない。
侍女と侍従が荷物を運び入れている間に窓から外を眺めると、もうすぐ日が沈むところだった。
王都と家の造りはさほど変わらないはずなのに、どことなく、王都とは違う雰囲気を感じさせる街並みだ。
「何か面白いものでもあるのか?」
リオネルも窓辺に寄って、外へ目を向けた。
「ううん、特にはないよ。でも、王都じゃないんだなあって思って。何が違うんだろう?」
「……王都に比べて背の高い建物が少ないな」
「あ〜、確かに」
リオネルの言葉に納得した。
貴族の大きな屋敷もなければ、教会の塔もない。
普段見ている景色と言われてみれば違った。
さっそく本にメモしているとリオネルが呆れた顔をする。
「手が汚れているぞ」
そう言ったリオネルがハンカチを取り出し、それを見て、何故かハンカチを懐に戻した。別の場所からもう一枚取り出した。
……え、なんで今戻したの?
新しく取り出したハンカチで右手を拭われる。
「ありがとう」
思わず、最初に取り出したハンカチが仕舞われている懐を見れば、わたしの手を拭きながらリオネルが言う。
「お前が刺繍をしてくれたハンカチを汚したくなかった」
「それ、ハンカチの意味なくない?」
「無意味なことをしている自覚はある」
まじまじとリオネルの顔を見てしまった。
普通のハンカチはズボンのポケットに入れているのに、わたしが刺繍をしたハンカチは上着の内ポケットで大事にしてくれている。
その事実が少しくすぐったくて、心地好い。
「無意味じゃないよ。大事にしてくれて凄く嬉しい。……他のハンカチにも刺繍、してもいい?」
「それは構わないが……」
「普段使うハンカチは名前だけの簡素な刺繍にするから、そっちは気にせず使ってほしいな」
「……分かった」
リオネルはハンカチを渡した時に喜んでくれていたが、まさか、使わずに持っているだけだったのは予想外である。
……リオネルのためなら何枚でも縫うのに……。
そこまで思ってドキッとした。
集中することは好きだ。刺繍も嫌いじゃない。
しかし、何枚も縫うほど大好きというわけでもない。
……それなのに、今、わたしは……。
コンコン、と扉が叩かれてハッと我に返る。
「お湯をいただいてまいりました」
声をかけると、侍女と侍従が桶とお湯を持って入ってきた。
食事に関しては各自、好きな時間に階下の食堂で摂るか、部屋で摂るということになっていて、わたしとリオネルは後で部屋で済ませる予定だった。
先に旅の汚れを落としたほうがゆっくり食事が出来るだろうと、気を利かせてくれたのだ。
「二人とも、ありがとう」
部屋の角、窓から死角になる位置に二つ桶が置かれ、壁際に置いてあった仕切りを立てれば完全に見えなくなる。
……でも、同じ部屋の中で裸になるってことだよね!?
同じベッドで眠っているものの、まだ、わたし達はそういうことはしていなくて、お互い肌を見せたこともない。
「お前は衝立の向こうで汚れを落とせ。気になるなら、俺は背を向けておく」
衝立の向こうから桶を一つ持って、リオネルが言う。
侍女と共に衝立の向こうへ移動し、手伝ってもらい、旅行用のドレスを脱ぐ。
お湯で濡らした布で体を拭くと少しホッとした。
衝立の向こうでリオネルも同じことをしているらしい。
なんとなく、気まずい雰囲気が漂う。
会話もなく汚れを落とし、簡素なドレスに着替えて髪を整えてもらい、衝立から出ると、リオネルはベッドの縁に腰掛けて律儀にこちらへ背を向けていた。
「もういいよ」
と声をかければリオネルが振り返る。
侍女と侍従が桶などを持って出ていく。
「なんか疲れたー……」
ベッドへ寝転がり、匍匐前進でリオネルのところへ移動すると、少し呆れたような顔をされた。
「ずっと小説について話していたからな」
「おかげで小説ネタが増えたけどね」
リオネルと小説について話す時間は楽しすぎて、いつもあっという間に過ぎていく。
そっと、リオネルの手がわたしの頭に触れた。
意味もなく頭を撫でられる。
悪い気はしないので、そのままにしておこう。
「具合は悪くないか?」
「ん? 特になんともないよ?」
「環境が変わると体調を崩す者もいる。少しでも違和感を覚えたら、すぐに言え。使節団の中には医者も同行している」
「うん、分かった」
侯爵家の別邸のベッドに比べると硬いけれど、ずっと座りっぱなしだったので、両手足を伸ばして体を解す。
リオネルの手が頭から離れた。
「少し触るぞ」
その手が背中の、腰の辺りに触れる。
軽くグッグッと押されると気持ちがいい。
「うあ〜……、そこです、先生」
「何が先生なんだ」
「いや、なんとなく、その場のノリで」
なんてくだらない会話をしつつも、リオネルはわたしの腰をマッサージしてくれるので、体の力が抜けた。
「……あとでわたしもやってあげるね」
「いや、それはいい。お前の力だと足りない」
「そっか〜……」
腰の辺りの血行が良くなってきたのかポカポカする。
つい目を閉じると、顔を見ていないのに「寝るなよ」と釘を刺されてしまった。
部屋の扉が叩かれ、リオネルが応えると侍女と侍従が今度は料理を手に戻ってきた。
その後、わたし達は部屋で食事を摂り、二人を早めに下がらせて少しのんびりと過ごしてから、早めに就寝したのだった。
ちなみに宿の食事はシンプルだけど美味しかった。




