…………え?
「フォルジェット王国の外交官の一人として、ラシード王国に行くことになった。向こうに滞在するのは一週間程度だ」
交流会の夜、王城から帰ってきたリオネルがそう言った。
ラシード王国までの道のりが一週間半と考えて、往復で三週間、滞在期間が一週間なら全体日程は一ヶ月近くなる。
……ちょっと寂しいかも?
「そうなんだ。まあ、でも、お仕事だもんね」
使節団の人々の様子からしても、英雄と呼ばれて好意的に接してもらえている様子からしても、リオネルが行くのは当然なのだろう。
「それで、ワディーウ殿が『良ければ夫人もご一緒にいらしてください』と言っていた。陛下も許可してくださった」
「…………え?」
……ちょっと待って。わたしも?
「他国に旅行が出来るいい機会だ。シェラルク語を学んでいた時に『行ってみたい』と話していたし、国の使節団と共に行けば警備もきちんとしていて安心だろう」
「それはそうだけど……。わたし邪魔じゃない?」
「邪魔だと思われていたら誘わないと思うが。それに外交官が配偶者を連れて行くのは珍しいことではない」
「そうなんだ」
……うーん、確かに気になるけど。
わたしは生まれてこの方、一度もフォルジェット王国から出たことがないので、他国への旅行というのは憧れていた。
特にラシード王国は雰囲気から察するに前世のアラビアに近い感じの国で、フォルジェット王国とは全く異なる文化と環境である。
そのような異国情緒のある小説も書いてみたいとは思っていた。
そういう点では、使節団について行って、ラシード王国の文化や環境などを体験出来るのは良い機会なのだろう。
「……分かった。わたしもついて行かせてもらおうかな」
そう答えるとリオネルが微笑んだ。
「お前と旅行をするのは初だな」
「うん、楽しみだね」
侍女達にラシード王国への使節団に同行すると説明し、急いで旅行の準備を整えてもらう。
一応、侍女と侍従などの使用人を数名連れて行く予定だ。
リオネルの話では、リオネルの部下も警備の都合で連れて行くそうなので、使節団は大所帯になりそうである。
ワディーウ様達ラシード王国の使節団が帰還する際に、こちらから使節団も向かうので、ワディーウ様達とはまだしばらく付き合いが続きそうだ。
それから出発までの五日間、わたしは毎日昼間は登城してラシード王国の使節団の話し相手として過ごしたのだった。
……昼は登城して、夜は執筆で、毎日忙しい!
でも、不思議と嫌な忙しさではなかった。
* * * * *
そしてラシード王国への出発当日。
朝早くから、荷物を馬車に積み込み、わたしもリオネルも旅用の軽装に身を包む。
貴族の装いとしてはもう少し華やかでも良いのかもしれないが、これから向かうラシード王国はここよりずっと暑い。
あまり着込んで体調を崩すようなことがあれば、周りに迷惑もかけてしまうし、旅程も遅れてしまう。
しかし、軽装でもリオネルにはよく似合っていた。
「フォルジェット王国内では宿に泊まれるんだよね?」
「ああ、何事もなければその予定だ」
初めての旅行でいきなり野宿はさすがにきつい。
……ラシード王国に入ったら野宿することになるらしいけど。
ほとんどが砂漠の国なので、点在するオアシスを経由して王都に向かう必要があるが、街や村もそう多くない。
ちなみにラシード王国の首都はリオネルも行ったことがないらしい。
前回の出征では開戦日が近かったこともあり、そのまま戦場へ向かい、そして帰還したそうだ。
ラシード国王もフォルジェット王国の兵達を歓待したかったようだが、首都に多くの兵が行ってもラシード王国に負担をかけてしまうし、兵達も一日も早い帰還を望んでいた。
だから、リオネルもラシード王国の首都には行ったことがない。
馬車に乗り、使用人達に見送られながら出立する。
まずは王城へ向かい、両国の使節団と合流し、そこからラシード王国への旅が始まる。
「これは新婚旅行って言えるのかな?」
車窓を眺めていたリオネルが固まった。
「……すまない」
「え? 何でリオネルが謝るの?」
「筆頭宮廷魔法士は気軽に他国へ出られない」
「わたしだって誓約書にサインしたんだから同じだよ」
これがラシード王国以外の国であったなら、わたしもリオネルもそう簡単には行けなかっただろう。
「ワディーウ様達には感謝しないとね」
誘ってくれたおかげでラシード王国へ行けるのだ。
「せっかくだから、ラシード王国で色々経験して、文化とか食べ物とかも知りたい! 雰囲気を掴んでおけば異国を舞台にした小説が書けるかもしれないし!」
「そうか、それは楽しみだ」
リオネルの顔に笑みが浮かぶ。
それにわたしも笑い返した。
「めいっぱい、旅行を楽しもう!」
拳を掲げたわたしにリオネルが笑みを深めた。
「カフワの断りなら任せろ」
リオネルが冗談を言うのは珍しいが、その柔らかな笑みにドキリと心臓が高鳴った。
前世で、恋に落ちた瞬間は分かると何かの本で読んだことがあったけど、何故それが分かるのだろうか。
こんなに何度もドキドキしているのに。
こんなに好きなところは簡単に見つけられるのに。
この胸の高鳴りが恋なのか、わたしは分からないままだ。
……いっそ、キスでもしてみたら分かるのかな……。
「エステル?」
名前を呼ばれてハッと我に返る。
無意識に伸ばしてしまっていた手が行き場を失う。
「あ、なんでもない……!」
引っ込めようとした手にリオネルが触れ、わたしの手を自分の頬に押し当てた。
「まさか、俺の顔に見惚れていたのか?」
「……うん」
図星を指されると恥ずかしくなってくる。
思わず俯いてしまったが、リオネルも何も言わないので、どうしたのだろうと顔を上げて、驚いた。
わたし以上にリオネルのほうが何故か照れていたのだ。
すり、とリオネルがわたしの手に頬擦りをする。
「……努力は実りそうか?」
「えっと、多分、蕾は出来かけている……かも?」
「随分曖昧な返事だな。……焦らなくともいい。変化があったなら、今はそれで十分だ」
もう一度、すり、と頬擦りをした後に手が解放された。
ドキドキと高鳴る胸に手を引き戻す。
それ以上、リオネルは何も言わなかったけれど、腰に回った手はしっかりとわたしを抱き寄せていた。
馬車が王城に着くと、両国の使節団も丁度準備を終えた頃だったようで、フォルジェット王国の使節団の人々にご挨拶もした。
ラシード王国との友好は重要なのだろう。
使節団長は公爵家の方で、国王陛下の甥だった。
警護を担当する騎士達や宮廷魔法士達にも挨拶をしたけれど、全員、ずっと直立不動だった。考えてみればリオネルは上司に当たる人なので、その妻に声をかけられても気を張ってしまうかもしれない。
あまり時間を使わせても申し訳ないと思ったので、早々に邪魔にならないよう挨拶を切り上げ、ラシード王国の使節団のところにも挨拶へ向かう。
ワディーウ様達はわたしを見つけると喜んでくれた。
「ウンム・クルスームも来てくださるのですネ! バタルと夫人がいてくださるなら、安心して帰国できマス。何より、お二人を我が国に招けるのは光栄デス」
「こちらこそ、使節団共々よろしくお願いします」
「誘っていただきありがとうございます。初めての旅行なのでとても楽しみです」
ワディーウ様の後ろで使節団の人々が小さく手を振ってくれたので、それに振り返すとワディーウ様が困ったように笑う。
「皆、ウンム・クルスームのことを好きになってしまったようデス。もしかしたらバタルより人気かもしれませんネ」
「……」
「バタル、そのように怖い顔をしないでくだサイ。夫人が誰の妻かは皆、よく分かっていマス。バタルに敵わないと分かっていて決闘を挑む者はおりまセン」
リオネルが眉根を寄せたまま黙った。
あの顔は色々と考えているけれど、絶対にそれを口には出さないと決めた時の顔である。
ああいう時、リオネルは何をしても絶対に口を割らない。
「おっと、バタルは意外と嫉妬深いタチだったのですネ」
「……否定はしない」
まだムスッとしたリオネルに苦笑してしまう。
「わたしの夫はリオネルだけだよ」
「恋人は?」
「それについては鋭意努力中です。と言うか、こんな美形な夫がいるのに他に恋人なんて作ると思う?」
「確かにな」
ワディーウ様がわたし達のやり取りに、ははは、と声を上げて笑った。
そうしていると時間になり、馬車へ戻る。
なんと国王陛下が直々に見送りに出て来てくれて、わたし達は国王陛下や国の重鎮、多くの騎士達に見送られながら王城から出発した。
王城を出て、王都を出るまでは馬車のカーテンをかけておいた。見物人も大勢いるようで「見世物になる気はない」とリオネルがすぐにカーテンを閉めてしまったからだ。
馬車が王都を出るとリオネルがカーテンを開けた。
外はもう小麦畑などが広がっている。
「うわあ、広いね……!」
考えてみれば、王都の外へ出るのは初めてだ。
乗馬を習っていれば都外へ出る機会もあったのだろうけれど、あまりそういうことには興味がなかったから。
街の風景より、畑や森の景色のほうが目新しく感じる。
「旅程について説明しよう」
まず、ラシード王国とフォルジェット王国との国境を目指し、馬車で移動する。毎日どこかの街や村で宿泊出来るので、国境まで野宿の心配はない。
大体、夕方頃に宿に着き、翌朝出立なので、街や村を見て回る時間はなさそうだ。
ラシード王国へ近づくほど暑くなり、地形も変わり、国境を越えた辺りからは砂漠が広がっているらしい。
国境からラシード王国の首都までは三日かかる。
恐らく、その三日の間に野宿をするかもしれない。
オアシスからオアシスまでは距離があるから、よほど近くない限りは一日二日の野宿はラシード王国では当たり前なのだとか。
あと、国境の街で馬車と馬を預け、砂漠ではラシード王国が用意してくれたラクダとソリで砂漠を移動する。
……そっか、砂漠で馬車は無理だよね。
荷物をソリに乗せて、人間はラクダに乗る。
「わたし、馬ですら乗ったことがないんだけど……」
「ラクダの乗り方は前回習ってある。二人乗りで問題ない」
「そうなんだ?」
ラクダは馬より力持ちで、何かと便利らしい。
馬に乗るより先にラクダに乗る経験をするというのも不思議な話だが、前世でもラクダは見たことがないので楽しみだ。
「首都に着いたら国王と謁見を行うだろう」
「まあ、そうなるよね。旅の間にワディーウ様達から、もっとラシード王国の礼儀作法について教えてもらおうかなあ」
「そうだな、俺もあちらの作法には疎い」
ガタゴトと馬車が揺れながら進んでいく。
護衛の騎士達が馬に乗り、それぞれの馬車を囲んでいる。
なんとなく窓に頬杖をついて近くにいた騎士を眺める。
女性の騎士は長い髪を後頭部の高い位置で一つに纏めており、キリリとした横顔は凛とした雰囲気があった。
わたしの視線に気付いたのか女性騎士がこちらを向く。
目が合って、思わず笑みを浮かべると、女性騎士も微笑み返してくれた。
…………女性騎士の主人公もいいかもなあ。
たとえばまだ小さな王子様の護衛騎士とか。幼い主君を守ることに人生を捧げている主人公で、王子様はいつもそばにいてくれる騎士のことが大好きで、その好きが成長するに従って恋愛感情に変わっていって──……みたいな。
そうなると主人公は王子のほうが面白いかもしれない。
そんなことを考えながらそれとなく顔をリオネルのほうへ戻せば、今度はリオネルと目が合った。
「今、小説のことを考えていただろう?」
「うん、よく分かったね」
「お前の考えそうなことは大体分かる。あの騎士のような者を登場人物にした小説でも書くつもりか?」
さすが、長年付き合ってきただけのことはある。
「それもいいかなあってね。幼い王子に長年仕える護衛騎士で、最初は姉のように慕っていた王子だったけど、段々と恋愛感情が芽生えていくの。でも騎士は王子を主君としか考えていなくて、なかなか王子は気持ちを気付いてもらえないの」
「その二人が結婚するのは難しくないか?」
「王子は第二王子くらいにしておいて、騎士は貴族の出で──……いっそ、ヤンデレ執着系王子にしちゃう? 外堀から埋めていく腹黒なら、生真面目な女性騎士と正反対で面白そう。騎士の前では清廉潔白そうな顔して実は〜的な?」
わたしの言葉に何故かリオネルが微妙な顔をする。
「その王子は誰かを参考にしているのか?」
「え? いや、してないけど……? もしかして、リオネルの周りにそういう感じの人がいたりする!?」
「ハッキリと断言は出来ないが、それらしい者は心当たりがある」
それは是非、話してみたいような気はするが。
……でも絶対、面倒くさいタイプだよね。
「そうなんだ」
リオネルが目を瞬かせた。
「興味なさそうだな」
「うん、まあ、小説の中の登場人物ならいいけど、そういう感じの人って実際に会ったら面倒そうだし。厄介そうなことには近づかないほうがいい気がする」
リオネルが僅かに口角を引き上げた。
「確かに」
「よし、忘れないうちにメモしておかないと」
座席の端に置いてあったバッグから本とペン、インクを取り出し、メモを取る。
リオネルがインク瓶を持ちつつ、二人でああでもない、こうでもないと話しながら設定を決める時間はいつも通りで、とても楽しかった。
そんなことをしていれば昼食の時間などすぐだった。




