……わたしも勉強しないとダメだよね?
リオネルも祖国を大切に思う気持ちはあるだろうが、自分の全てを賭けるほど愛国心が強いふうには見えない。
けれども、リオネルはわたしを見て言った。
「ラシード王国にお前はいないだろう。もし、お前がラシード王国の高位貴族になりたいと言うのであれば考えるが」
リオネルの返答にわたしが目を瞬かせてしまった。
「……なんでわたし基準なの?」
「俺がお前を愛しているからだ。……何度も言わせるな」
少し照れた様子で不機嫌そうにリオネルが視線を逸らす。
セルペット様が困ったように眦を下げて笑った。
「リオネル君ってばず〜っとこの調子でさぁ。陛下と話をした時にも奥さん次第って言うから、今回、僕がその奥さんの為人を調べに来たってわけ〜」
「それ、わたしに言っていいんですか……?」
「隠しててもどうせバレちゃうことだしいいよ〜」
結構重大な話なのに緩い口調で言われるものだから、頭が混乱する。
……これ、返答によっては叛逆罪になるのでは!?
たとえばここでわたしが「ラシード王国の高位貴族になりたい」と言って、リオネルと共にラシード王国へ行ったとしたら、わたしは筆頭宮廷魔法士を国外へ流出させたことになる。
ルオー侯爵家は王家からの信を失い、他貴族からも相手にされなくなり、最悪わたしの代わりに責任を取って降爵させられるかもしれない。
そもそも、そこまでしてラシード王国の高位貴族になりたいという気持ちはない。
現状、侯爵家の娘で筆頭宮廷魔法士の妻という立場は十分、地位としては高いし、生活に不満もなかった。
「わたしはこの国にいます。家族もいますし、やりたいことも見つけましたし、何より、リオネルの努力を無駄にしたくありません」
リオネルはわたしを好きだと言ってくれた。
わたしと結婚するために筆頭宮廷魔法士になったという話だが、そんな理由だけでなれるほど筆頭の座は軽くないはずだ。
きっとわたしの知らない所で沢山努力して、魔法についても学んだり研究したりして、そういったリオネル自身の頑張りがあったからこそなれたのだろう。
そうまでして手に入れた立場を捨てさせるなんて出来ないし、させたくない。
「それでいいのか?」
「うん、わたしもリオネルも、何も捨てる必要なんてない。リオネルこそ、絶好の機会を逃すことになるけどいいの?」
「ラシード王国に興味はない」
と、リオネルはなんともアッサリとした返事をする。
セルペット様が「あはは」と笑い出した。
「あ〜、そっかそっか、君達そういうことなんだね!」
などと、よく分からないが納得された。
小首を傾げれば、計らずもリオネルと同じ仕草になってしまい、二人で顔を見合わせる。
「いやぁ、君達が他国に流れないなら安心だ〜」
「どこに安心していただけたのか分かりませんが、えっと、とりあえず良かったです……?」
「あ、でもリオネル君の奥さんにも誓約書を交わしてもらおうかな〜。そのほうがウィルも安心するだろうし」
セルペット様が魔法の詠唱を行い、魔法陣が出てくると、そこへ手を突っ込んで紙を取り出した。
「エステルも? それはやりすぎではないか?」
「それくらい陛下は君の実力を買っているということさ」
そのまま書類を差し出される。
リオネルがそれを受け取り、書面に目を通す。
横から覗いてわたしも内容を確認した。
大雑把に言えば『他国に属さないでね』『自国の不利益になることはしないでね』というものだった。
読んでいる間にセルペット様が魔法陣からペンとインクを取り出し、用意している。
リオネルが視線で問いかけてきたので頷き、書類を受け取り、セルペット様が用意したペンとインクを借りて書類にサインをする。
「ありがと〜」
ふわ、と書類とペンが浮いて、セルペット様の手元へ収まった。
「用件が済んだなら、帰れ」
と、素っ気なく言うリオネルにセルペット様が不満そうな顔をした。
「ええ〜? もうちょっとゆっくりさせてよ〜。僕個人としてもリオネル君の奥さんは気になるしさぁ」
「……」
「あ、もう、そういう意味じゃないってば。他人に興味なんてありませんって感じのリオネル君が心奪われちゃった子だよ? 誰だって興味が湧くでしょ〜?」
「ね?」と話を振られたが、反応に困る。
リオネルは疑いの眼差しはやめたものの、まだどことなく、セルペット様の真意を探るような視線であった。
その後、セルペット様から色々と質問されたのだが、趣味についてなど答えられない部分も多くてやはり困った。
でも、わたしが答えられなくてもセルペット様はあまり気にした様子はなく、リオネルと出会った頃からの話なども根掘り葉掘り訊かれて大変だった。
結局、セルペット様はお菓子を食べながら三時間ほど過ごし、残ったお菓子を持って「今日はありがと〜」と帰って行った。
「また来るね〜」
という去り際の言葉にリオネルがムスッとしていた。
「もし俺がいない時にアレが来ても屋敷へ入れなくていい」
どうやら、かなりご機嫌斜めになってしまったようだ。
……うーん、まあ、夫がいない時に男性を屋敷に迎え入れるのもちょっと問題だしね。
だがそうなるとキャシー様も問題になるのだろうか。
横を見ればリオネルと目が合った。
「分かった、リオネルがいない時に勝手に入れないようにする。……ここはわたし達の家だからね」
* * * * *
「ってことで、はい、リオネル君の奥さんから誓約書をもらってきたよ〜」
魔法で取り出した書類をアベルは友へ差し出した。
それを友──現フォルジェット国王ウィリアム・エル・フォルジェットは呆れた顔で受け取った。
「何が『ってことで』だ。詳しく説明せい」
「いやぁ、説明も何も、リオネル君の奥さんは地位や名声に興味がないみたいだよ〜。ラシード王国の勧誘話を聞いて驚いてたけど、それだけって感じ〜。まあ、そういうところはリオネル君と似てるかもね」
アベルの言葉にウィリアムは「ふむ」と考える。
「金で動くという可能性は?」
「どうかなぁ。侯爵家の別邸でリオネル君と暮らしているようだけど不自由してる感じもなかったし、かと言って贅沢を好むって様子でもないかもね〜」
「では色仕掛けに弱かったりは?」
その問いにアベルは大笑いしてしまった。
「あはは、そうだったとしてもリオネル君以上に見目の良い男なんて簡単に用意出来るかい?」
ウィリアムが眉根を寄せる。
筆頭の座が内定した際にウィリアムとリオネルは密かに場を設け、話をしたが、その時に『何故、筆頭になりたいか』とウィリアムが訊ねるとリオネルはこう言った。
「長年、想い続けている相手と婚約・結婚する条件として提示したのがそれだからです。私はエステル・ルオーと結婚出来るなら国のために尽くします」
誰もが振り返るほど整った顔立ち、幼い頃から優秀だと讃えられる魔法の才能、剣の腕前、長身でスラリとした体躯は均整が取れており、同じ男から見ても羨ましいと思うことがある。
そのような男が望んだのはエステル・ルオー侯爵令嬢。
王家主催の夜会で何度か見かけたことはあるが、落ち着いた色合いの茶髪をしており、他の令嬢に比べてふくよかなのが印象的だ。その濃い青色の瞳は美しかったものの、リオネル・イベールの横に並ぶとまるで大人と子供のような体格差だった。
社交界では『ふとまし令嬢』『物書き令嬢』と呼ばれているが、当のエステル・ルオーに関する情報はほとんど出回っていない。
影の者に経歴を調べさせたが、ハッキリ言ってパッとしない。
最近、娯楽小説の作家として活動を始め、なかなかに評判が良いことは分かったが、それだけだ。
どこにリオネル・イベールは惹かれたのか謎である。
「まあ、でも、こうして誓約書を交わしてくれたんだし、そんなに心配しなくても大丈夫だよ〜」
「それはそうだが……」
「男女の仲は周りが思うほど理論的なものじゃないし、色恋なんて自分自身でも理由が分からないのに相手を好きになっちゃうこともあるんだからさ〜、他人がどうこう言う話でもないでしょ」
昔から女性関係が途切れたことのないアベルの言葉に、ウィリアムは納得せざるを得なかった。
「僕としてはあの二人、可愛いから見てて飽きないんだけどね〜」
アベルがおかしそうに笑って頬杖をつく。
「お互いのことを気にかけて、大事にして、信頼してるのに、奥さんのほうは恋愛事にはちょっと鈍いみたいでね〜、リオネル君がそんな奥さんのそばで近づく男を威嚇してるの。リオネル君にもあんな可愛い一面があるんだね〜」
「お前の感想はともかく、離反の可能性は低いのだな?」
「うん、それは確かだよ〜」
友好を深めるためにラシード王国から使者が来る予定であるが、ラシード王国からは『是非、英雄にまた来ていただきたい』とリオネルを使者に指名されている。
それがリオネル・イベールを取り込みたくて言っているのか、本当に英雄がまた訪れてくれることを望んでのことか不明だが、わざと使者から外すのも友好関係に影響が出そうである。
使者の話し相手をリオネル・イベールに任せるしかない。
そして何事もなければ、今度はリオネル・イベールがフォルジェット王国の使者として短期間だがラシード王国へ向かうこととなる。
「……リオネル・イベールを使者とするしかないか」
「両国の友好関係を深めたいなら、それが一番だね〜」
そして数日後、ラシード王国との外交官数名の中に、リオネル・イベールの名が連ねられた。
* * * * *
セルペット様が家に来てから数日後。
リオネルはラシード王国との外交官の一人となった。
なんでも向こう直々のご指名らしい。
ラシード王国でリオネルは有名人だそうで、向こう独特の言葉もあるため、それなりに通訳の出来るリオネルが選ばれるのは自然なこと。……らしい。
「リオネル、ラシード王国の言葉が分かるの?」
「ああ、行く前にある程度は覚えておいて、現地で実際に話して正しい発音と使い方を学んだ」
天才は語学もすぐに覚えられるらしい。
「……わたしも勉強しないとダメだよね?」
使者が訪れた際には歓迎パーティーが催されるはずで、そうなれば、外交官は結婚している場合は夫婦揃って出席することとなる。
つまり、わたしもラシード王国の言葉を勉強し、覚える必要があるだろう。
「そうだな」
「うわー……覚えられるかな……」
前世でも外国語が苦手で、単語と意味とを別々に覚えるのが難しかった。
「覚える必要はあるが、困ったら俺に訊けばいい。夫婦で共にいることはあっても、お前が一人で使者と話すことはまずないだろう」
「なるほど。でもせっかくだから勉強しようかな」
「それなら俺が教えよう」
リオネルが席を立ち、寝室へ向かう。
ややあって、随分と分厚い本を片手に戻ってきた。
ドンとテーブルの上に置かれた本を見る。
「一応訊くけど、なんの本?」
「俺が学ぶ時に使った本だ。ラシード王国で使われているシェラルク語の、日常でよく出る単語と会話文が書かれている」
「……さすがにこの本の中身を丸暗記は無理……」
これで殴ったら人を昏倒させられそうだと思うくらい分厚い本に、思わずげっそりしてしまう。
リオネルはそれに「そうだろうな」と小さく笑った。
「まずは挨拶とその返しから覚えていけばいい。だが、本は読めよ。案外、他国の言葉を学ぶのも面白いぞ」
「うん、頑張ってみる」
テーブルの上の本に手を伸ばす。
分厚くて、正直それだけで尻込みしてしまいそうになるが、開くとすぐにリオネルの指が本の文字を辿る。
フォルジェット王国のフィアルン語の下に全く異なる、文字なのかどうかも謎な形の文字が書かれていた。
……一文字ずつの区別がつかない……。
文字の判別が出来ないので、当然読み方も分からない。
「一文字ずつは覚えられないだろう?」
それにわたしは大きく頷いた。
「だから形で覚えるんだ。読み書きは後回しにして、多少は受け答えが出来ないとまずい」
「ですよねー……」
リオネルの指が文字を辿る。
「『アッサラーム・アライクム』」
「アッサラーム……?」
「『アッサラーム・アライクム』──意味は『あなたに平安がありますように』で向こうでは『こんにちは』に当たる。歳下が歳上に挨拶をする時など目上の者に使う丁寧な挨拶だ。ラシード王国では目下の者が先に挨拶をする風習がある」
「あ、ちょっと待って」
机から何も書いていない本を持ってきて、書き込む。
「『アッサラーム・アライクム』は『丁寧な挨拶』……っと」
「返答だが、自分より上の者ならば同様に『アッサラーム・アライクム』、目下の者ならば『ワ・アライクム・アッサラーム』と返す。まあ、難しければ『アッサラーム・アライクム』で統一してもいいのかもしれないが」
「『ワ・アライクム・アッサラーム』は目下の者に使う……これの意味も『こんにちは』なの?」
「これも『あなたにも平安がありますように』といった意味合いがあるそうだ」
そうして、ラシード王国の使者が訪れるまでの一ヶ月近く、わたしはリオネルからシェラルク語を教えてもらうこととなった。
他国の言葉が出てまいりますが、国や言葉のイメージとして捉えていただけると幸いです。
もし言葉がおかしい、違和感がある際にはお声がけくださると大変助かります。
ただ、あくまでイメージですので、現存する国そのままの歴史や成り立ちなどを使用しているわけではございません。その旨、ご了承ください。
 




