わたしもリオネルに甘いのだろう。
そして翌日からリオネルの態度が変わった。
わたしへの好意を隠すのはやめたらしい。
新婚だからと三日ほど休みをもらえたそうで、一日中、わたしのそばにくっついている。
比喩表現ではなく本当にべったりなのだ。
さすがに小説を書いている時はいつも通り、向かいにある椅子に座っているが、ソファーでお茶をしたりちょっと散歩したりする時は常に横にいる。
好きな人と一緒にいたいというのは分かる。
多分、触れ合っていたいというのも分かる。
分かるのだけれど、ただ、一つ言いたいことがある。
「リオネル、暑い!」
季節は夏。ドレスを着ていたら当然、暑い。
それなのにわたしより体温の高いリオネルにべったりくっつかれているので、余計に熱がこもる。
「もう少し簡素な服に着替えればいいだろう」
「いや、だってリオネルくっついてくるし、薄着だと色々恥ずかしいし……」
「恥ずかしがるお前も可愛らしい」
こういうことをサラッと言うようになった。
侍女達は甘い言葉を囁くリオネルに『仲がよろしくて微笑ましい』という顔でニコニコしている。
そして、そういうふうに恥ずかしげもなくあれこれと言われるとわたしのほうが気恥ずかしくて困ってしまう。
けれども、嫌かと訊かれると嫌ではない。
リオネルの言葉はいつだってわたしを肯定するものだ。
だからこそ『やめて』とも言えないのだが……。
「……うーん、背に腹は代えられないか……」
* * * * *
エステルがドレスから簡素なワンピースへ着替えてきた。
寒いのは比較的耐えられるようだが、暑いのは苦手らしく、扇子でパタパタと扇いでいる。
夏用のワンピースは室内だからか手袋もつけておらず、普段は隠している白い腕も惜しげもなく出ており、ドレスよりも確かに全体的に薄着であった。
ソファーに戻ってきたエステルの腰を抱き寄せる。
ドレスのしっかりとしたコルセットとは違い、もっと薄い生地で出来たコルセットは柔らかく、エステルが気にするように柔らかな感触がより分かりやすく感じられる。
それに近づけば髪から香油の花のような香りもする。
友人として付き合ってきた時はこれほど近付くことはなかったので、婚約して以降、リオネルはむしろ今までよりずっと我慢をしている。
……もっと触れたいと言えば怒るだろうな。
エステルの柔らかな体に触れると気分が良い。
ずっと手に入れたいと願ってきたエステルと結婚した。
これで他の男に奪われる心配が減り、エステルの心を振り向かせるための時間も得られる。
「可愛らしいワンピースだな。淡い水色が涼しげだ」
やや不満そうな顔をしていたエステルであったが、ワンピースについてそう言えば、パッと明るい表情で顔を上げた。
「そうなの、このワンピース凄く可愛いでしょ? わたしもデザインを見た時、夏にぴったりだなって思ったの」
嬉しそうに話すエステルが可愛らしい。
ワンピースは可愛らしいが、リオネルが『可愛い』と言っているのは中身のエステルのことである。
可愛いエステルが着ているから可愛いのであって、もし同じ服を他人が着ていても、リオネルは何も感じないだろう。
「白いスカートが軽やかでいいな」
「うんうん、やっぱりリオネルは分かってるね!」
機嫌が良さそうなエステルに、リオネルも笑みが浮かぶ。
こんな何気ない日常のひとときで心穏やかになれるのも、楽しいと思えるのも、相手がエステルだからか。
「だが、外に出る時は手袋をつけたほうがいい」
「腕、日焼けしちゃうもんね」
「それもあるが、他の男にお前の肌を見せたくない。結婚式のドレスもよく似合っていたが、肩や背中が開いていて、実は気になっていた」
そう伝えればエステルがキョトンとした顔で見上げてくる。
「え、でも、リオネルもあれがいいって言ってたよね?」
「俺が見る分にはいいが、他の人間が見るのは面白くない」
「何それ我が儘〜……」
呆れたような顔をしているが、エステルの頬は少し赤い。
エステルは自身への評価が低いため、リオネルは頻繁に誉めているのだけれど、なかなか自分を下げる癖が抜けないようだ。
……気にするほど太っているとは思えないが。
エステルにも言ったように、ほどよくふくよかな体型はリオネルから見れば女性的で、全体的に小さくて丸みがあって可愛らしい。
美しいと表現することが多いが、実際は可愛らしい。
出征の間に互いに一つ歳を重ね、エステルは十九歳になったものの、小柄で童顔で、守りたくなるような外見だ。
それでいて、ふくよかな曲線が魅惑的だった。
リオネルの硬い体とは全く違う。
いつまでも触れていたい柔らかさである。
エステルが軽く手を振り、使用人達を下がらせた。
「リオネルって実は嫉妬深かったりする?」
エステルに問われてリオネルは考えた。
「エステル以外の者を好きになったことがないから分からないが、他の男とお前が親しくしているところはあまり見たくはないな」
「わたしのことそういう目で見るのはリオネルくらいだと思うけど」
「お前は恋愛ものの小説を書いているわりに、男を知らなさすぎる。紳士面で近付いてくる男がいても、本性もそうだとは限らないだろう」
「ふぅん?」
ジッと見つめられて少し気まずくなる。
その目に『リオネルみたいに?』と言われた気がした。
そばにいるために長年友人面をしていた自分のことを引き合いに出されると、反論が出来ない。
友人という立場を利用していた後ろめたさはある。
「じゃあリオネルも本性は違うの?」
そういうことを躊躇いなく訊いてくる辺り、エステルは素直というか、純粋というか、人を疑うことを知らないのではと思う。
「……それを俺に訊くか?」
「ん〜、でも、リオネルは本性は違うとかなさそう」
「お前がそう思うならそういうことにしておいてくれ」
友人関係にありながら、長年想い続けて、その挙句に少し拗らせている自覚はある。
純粋な気持ちだけでの恋愛ではない。
大切にしたいと思う一方で、骨の髄まで食べてしまいたいと感じることもあり、怖がらせないためにそのような感情は抑えているが、そのせいで余計に深みにはまっている。
頭で分かってはいても感情を意識的に動かすのは難しい。
我慢すればするほど欲しくなる。
……俺はお前を傷つけたいわけではない。
エステルの笑顔が見たい。笑顔でいてほしい。
許されるなら、ずっと、一生、笑いかけてほしい。
エステルの顎に触れれば、あっさりと捕まえられてしまう。
無防備で警戒心の欠片もない青い瞳が見上げてくる。
「ただし男は皆、狼だ」
顔を寄せればエステルがギュッと目を瞑る。
そのようにされると本当に唇へ口付けたくなる。
ここで唇にしてもエステルは本気で怒らないかもしれないが、それはそれでヘコむので、リオネルとしても実はまだ唇にする勇気がない。
……何より、心が伴わなければ意味がない。
眉根の寄った眉間に軽く口付ける。
「他の男に隙を見せるなよ」
赤い顔で頷くエステルを見られるだけで、今は満足だ。
* * * * *
新婚の三日間はそうして何事もなく過ぎていった。
お父様達も「屋敷に来なさい」とは言わなかった。
三日間、とにかくずっとリオネルと一緒である。
……嫌じゃないけどね。
告白されて驚いたけれど、リオネルと一緒に過ごす時間は相変わらず穏やかで、物静かで、心が落ち着く。
リオネルもわたしの返事を急かすつもりはないらしい。
「お前が俺を好きになる努力をするように、俺もお前に好かれる努力をする。そうでなければ不公平だろう」
好意を隠さなくなったのはその一環のようだ。
リオネルの場合、言葉だけでなく行動でも表すタイプで、でも押しつけるのともちょっと違う感じがする。
自分の気持ちをわたしへ伝えるけれど、そこにわたしからの返事はさほど期待していないような気がした。なくてもいいというのもと違うが、多分、わたしを困らせないためなのだろう。
……そういう気遣いはちょっとむず痒い、かも。
気遣ってくれる気持ちは嬉しいが、その反面わたしの気持ちには興味がないのだろうかと思う部分もあって、でももし返事がほしいと言われても、きっとわたしは返答に迷う。
自分でもかなり我が儘なことを考えている。
……だけど、リオネルはもうわたしの『夫』なんだよね。
それなら夫婦で愛を深め合うのはおかしな話ではない。
だが、夫婦だから愛し合うというのは、なんだかリオネルの想いから逃げているようで違うと思う。
リオネルはわたしを好きだと言ってくれた。
だからわたしも、真面目にリオネルとのことを考えて、向き合って、自分の気持ちを確かめるべきだ。
仕事に向かうリオネルを別邸の玄関まで出て、見送る。
「仕事に行きたくないと思うのは初めてだ」
どこか名残惜しそうにする仕草に笑ってしまった。
「夕方には帰ってくるんでしょ?」
「ああ、そのつもりだ」
「帰ってくるまで夕食待ってるから」
もし先に夕食を摂ったら、とてもがっかりされそうだ。
手を握って「行ってらっしゃい」と言えば、しっかりと手を握り返したリオネルが「行ってくる」と背筋を伸ばす。
それでもやはり見つめられるので、手を離し、リオネルの腕へ促すように触れた。
「頑張って行ってきたら何かご褒美をあげる」
リオネルの表情が少し明るくなった。
「では、またハンカチに刺繍をしてくれ」
「出征前に渡したのと同じでいい?」
「ああ、同じものが欲しい」
それくらいのお願いならいくらでも聞こう。
「分かった。刺繍しながら待ってるね」
リオネルの手が頬に触れ、それから機嫌が良さそうに口角を引き上げたリオネルは今度こそ馬車に乗って王城へ向かったのだった。
後ろに控えていた使用人の一人、リオネルの侍従に声をかける。
「あとでわたしの部屋にリオネルのハンカチを何枚か持ってきてくれる? あの様子だと一枚じゃ足りなさそうだし」
「かしこまりました」
と、侍従が訳知り顔で頷いて下がる。
貴族の妻の仕事の一つに、夫のハンカチに刺繍を施すというものがあり、もちろんわたしもそうするつもりではあった。
しかしながら、あれほど嬉しそうにされるとこちらとしても手を抜けないというか、期待に応えたくなる。
……今日は作業はないから刺繍に集中しようかな。
帰ってくるまでに二、三枚くらいは刺しておきたい。
わたしの刺繍したハンカチが欲しいなんて、リオネルもわたしに負けず劣らず意外とロマンチストである。
けれども悪い気はしない。
部屋に戻ると侍従がリオネルのハンカチを持ってくる。
侍女達も糸や針などの刺繍道具を用意してくれたので、その日は貴族の夫人らしく刺繍をして過ごすことにした。
出征で渡したハンカチは普通のライオンだったけれど、リオネルは黒髪なので黒いライオンもかっこいいかもしれない。
イニシャルは見やすく青色で、黒い毛並みのライオンは目は金色、眺める星は淡い水色で。
一応、普通の毛並みのライオンタイプも刺繍しておこう。
同じ図案をチクチクと刺す。刺す。刺す。
三枚目に突入する頃には慣れて、一枚目より縫う時間も短くなり、刺繍も綺麗に刺せるようになってくる。
並べて見ると一枚目の刺繍はちょっと歪な感じがする。
「一枚目、渡すのが恥ずかしいからわたしが使っちゃおうかなあ。どう思う?」
と、侍女達に訊いてみると何故か満場一致で「お渡しするべきです」と返された。
やや歪な感じがするけれどいいのだろうかと思ったが、侍女達曰く「だからこそ良いのです」だそうだ。
段々と自分のために上手くなっていくところが感じられてリオネルはきっと喜んでくれる、ということらしい。
……出征の時に渡したハンカチも恥ずかしいかも。
あちらのほうが時間をかけて丁寧に縫ったけれど、初めて縫う図案だったので、自分ではなかなか上手に出来たつもりで渡したけれど、よく見たら歪んでいる可能性がある。
しかし今更返してと言うのも……。
……まあいっか。
「さて、そろそろリオネルが帰ってくるかな?」
夕方、空がオレンジ色になり、もうすぐ日も沈む。
刺繍道具を片付けてもらい、立ち上がって固まった体を延ばしていると、開けた窓から馬のいななきが聞こえてきた。
窓に寄って見れば、玄関前に馬車が停まっている。
リオネルが今朝乗っていった馬車だった。
すぐに部屋を出て、玄関へ向かえば、ホールでリオネルが別邸の執事と話をしているところであった。
「おかえり、リオネル」
こちらを向いたリオネルが目元を和ませた。
「ああ、今戻った」
そして、手に持っていた可愛らしいブーケを渡された。
ピンクと赤、白の薔薇で出来た人の頭くらいの小ぶりのブーケからは良い香りがする。
伸びてきた手がそっとわたしの頬に触れた。
「少し疲れているようだな」
「ずっと刺繍してたからかも。でもハンカチ出来たよ」
リオネルが嬉しそうに笑う。
「そうか、それは楽しみだ」
刺繍は大変だけど、嬉しそうなリオネルの笑顔を見ると疲れなんて吹き飛んでしまう気がした。
「夕食後に渡すね」
リオネルはわたしに甘いけれど、わたしもリオネルに甘いのだろう。
 




