いってらっしゃい。
出版社へ行った翌日、ヴィエルディナ王国がラシード王国に宣戦布告したことが公となった。
リオネルが予想した通り、わたしの住むフォルジェット王国は友好国であるラシード王国へ兵を送ることも決まっていたそうで、それも広く伝えられた。
ちなみに出征志願については、既にお父様達にも伝えてあるそうで、リオネルはその準備ももう終わらせているらしい。
「いつでも出立する用意は出来ている」
と言っていた。
それでも出征までは半月ほどあり、その間、リオネルは普段通りに過ごしているようだった。
我が家にも数日に一度は来て、わたしの小説を読む。
出版の件は、あの日以降、一度キャシー様が侯爵家を訪れて作家業についてお父様達に説明してくれた。
おかげでお父様達の理解も得られたし、残りの三冊を読み終えたキャシー様からも「とても面白かったですわ〜!」と褒めてもらえたし、わたしとしてもやる気が出る。
その後は書面でのやり取りが主になっている。
誤字脱字に関してはリオネルが前もって読んで指摘してくれていたのでほぼなかったが、表現や描写などについての指摘が多く、加筆修正に追われていた。
……でもこれがまた楽しいんだよね。
本にするための作業だからというのもあるだろうけれど、出版社の人に読んでもらい、指摘してもらうというのは非常に勉強になる。
しかも驚くことにわたしの担当はキャシー様だ。
娯楽部門の統括が目をかけてくれている。
話によれば、文章や内容の確認のために他に二人ほど担当についていてくれる人達がいるそうだ。
そのうち、二人を連れて改めて挨拶に来たいという手紙がキャシー様から送られてきたので、わたしは是非と返事をしておいた。
リオネルも同席したそうだったけれど、それよりラシード王国へ出発する日のほうが早かった。
出発前日、リオネルは我が家に挨拶に来た。
「リオネル君、無事に戻ってくるのよ……」
と、お母様は不安そうな顔でリオネルに言った。
屋敷にいることの多いお母様はリオネルのことを昔から知っているし、何度も話したことがあるから心配なのだろう。
お父様もお兄様もリオネルに声をかけていた。
「娘のためにも、君自身のためにも、無理はするんじゃない。最も大事なのは生き残ることだ」
「リオネル、死なないでくれよ」
それにリオネルはしっかりと頷いた。
わたしが言いたいことはみんなが言ってくれた。
「リオネル」
名前を呼べばすぐにリオネルがわたしを見た。
「エステル、向こうに着いたら手紙を送る。だが、手紙の内容は一度検閲されるから、大したことは書けないが……」
「大丈夫。手紙があるだけで、それを書く余裕はあるんだなって分かるよ。それより、忙しい時は無理して書かなくていいから、休んでね」
リオネルは優秀だが、真面目すぎて働きすぎてしまうところがあるので、そちらのほうが心配だった。
周りに頼られすぎてリオネルが潰れないか。
そうなった時、周りはリオネルを非難するだろう。
そのようなことにはなってほしくない。
さすがに距離があるので指輪で会話するのも難しい。
そして手紙のやり取りも、多分、そう頻繁には出来ないだろう。
……次にリオネルと会えるのはいつになるのかな。
そう思うと寂しい気持ちが湧き上がってくる。
ふ、とリオネルが微笑んだ。
「俺が戻るまで、新しい小説を書いて待っていてくれ」
リオネルらしい優しさだと思った。
ここで待つしか出来ないわたしのために、そうやって目標をくれるのだ。執筆中はそれだけに集中すると知っているから。
わたしは出来る限りの笑顔で頷いた。
「うん、頑張る」
そうして、ポケットからハンカチを取り出した。
「リオネルにあげるね」
それはわたしが刺繍をしたハンカチだった。
特別上手くもないが、下手でもないというわたしの刺繍だけれど、これだけは丁寧に一針ずつ刺した。
ハンカチを受け取ったリオネルが目尻を少し下げる。
「これはライオンか?」
「そう、リオネルとエステル」
リオネルという名前の意味は『若いライオン』で、エステルという名前の意味は『星』である。
同時にエステルには『輝くもの』という意味もあり、少し照れくさいけれど『輝く星を目標に帰ってきてほしい』という意味を込めて二つを刺繍した。
だから刺繍のライオンは常に星を見ている。
そこまでの意味は伝わらなくてもいい。
ただ、離れていても気にしていると分かってくれればいい。
伸びてきたリオネルの腕に抱き寄せられた。
「……ありがとう」
言葉は短かったけれど、沢山の感情が込められている言葉に潤みそうになる目を何度も瞬かせる。
「どういたしまして」
一度だけギュッと抱き締め返し、体を離す。
「あ、あと、土地が変わると水も変わるらしいから、お腹を壊さないように気を付けてね。初めて食べるものはちょっとずつ食べるんだよ? ラシード王国は暑いから水分補給も忘れないようにね」
「お前は俺の母親か?」
少し呆れた顔のリオネルに見下ろされる。
「だが、分かった。気を付けよう」
「お土産はいらないからね」
「それは催促か?」
そして、どちらからともなく噴き出した。
……リオネルはあんまり緊張していないみたい。
そもそもリオネルが緊張することがあるのかどうかも疑問だけれど、いつも通りなのがホッとする。
「いってらっしゃい」
「ああ」
リオネルは大事そうにハンカチをポケットへ仕舞う。
前日はさすがに忙しいようで、挨拶を終えるとリオネルは馬車に乗って帰っていった。
その馬車が見えなくなっても、しばらくの間、わたしは玄関から動けなかった。
「さあ、エステル、中へ入りましょう」
お母様の声はとても優しかった。
* * * * *
ラシード王国への出征から一週間が経った。
わたしの生活は、リオネルと会えないこと以外は変わりなく、毎日ほぼ小説を書いて過ごしていた。
最初はちょっと苦戦して使っていたガラスペンも、一週間も使い続けていれば羽ペンより上手に扱えるようになった。
でも、それを褒めてくれる相手はいない。
そのことに気付くと寂しくて、胸にぽっかりと穴が空いてしまったように物足りなさを感じる。
……ずっとリオネルとは一緒だったしね……。
しかし、出来るだけ普段通りに過ごしていた。
気落ちしたり、ぼんやりしたり、いつもと違う様子を見せたらお父様達が心配するだろう。
何より今わたしが悩んでも意味がないのだ。
とにかく、リオネルが帰ってきた時に笑顔で出迎えて、何かしら良い報告が出来るように、執筆を頑張るしかない。
それに今日はキャシー様が担当の二人を連れて挨拶に来てくれるというので、気分転換にもなるだろう。
キリの良いところまで小説を書き上げてから片付ける。
手の汚れを拭き取りながら、だいぶインクの色が付いてしまったな、と感じた。
リオネルが来ている時は手が汚れるとすぐに教えてくれたけれど、今はそういうことがないので、ふとした瞬間にリオネルを思い出してしまう。
……ううん、気をしっかり持て、エステル!
ぱちんと両手で軽く頬を叩いて気合いを入れ直す。
ベルを鳴らし、侍女を呼んで、来客用のドレスに着替える。いつもより少し華やかなものにして気分を持ち上げた。
せっかくキャシー様達が来てくれるのに、暗い顔をしていては気遣わせてしまう。
ドレスを着替え、髪を整えてもらい、化粧も直す。
身支度を整え終わる頃、予定の時間通りにキャシー様達は侯爵家に到着し、メイドに声をかけられて応接室へ向かう。
……リオネルがいないからこそ、しっかりしなきゃ。
応接室の前で小さく深呼吸をして、扉を叩く。
中へ入ればキャシー様達が立ち上がって出迎えてくれた。
ソファーにはキャシー様がいて、その後ろに二人の女性が立っていた。片方は二十代くらいで背が低く、もう片方は三十代から四十代前半くらいで女性にしては背が高い。
「本日はお時間を取っていただき、ありがとうございます」
キャシー様の言葉にわたしは笑顔で返した。
「こちらこそ、お忙しい中来てくださり、ありがとうございます」
どうぞ、と手で示しながらわたしは一人がけのソファーに腰掛けた。
キャシー様は三人掛けのソファーに座ったものの、後ろの二人は緊張した様子で立っている。
「よろしければ、お二人もこちらへお掛けください」
「え!?」
「いえ、そんな……」
と、二人が慌てて両手を振った。
こういう時はゴリ押ししたほうがいい。
「ずっと立たれていると落ち着かないので、わたしのためにも座っていただけませんか?」
「お嬢様がこうおっしゃってくださっているのだから、あなた達も座りなさい」
わたしとキャシー様とで言ったからか、二人は恐る恐るといった様子でソファーに腰掛けた。
ソファーに座った瞬間、その柔らかさに目を丸くしていて、それが可愛らしかった。
「ご挨拶が遅れましたが、こちらがル・ルー先生の担当をしております、リーネとアエラですわ」
「リーネ・ディエゴと申します」
「アエラ・セヘルと申します!」
背の高いほうがリーネ、背の低いほうがアエラというそうだ。キャシー様の話によるとどちらも平民なのだとか。
ついでに教えてもらったが、キャシー様はこう見えて子爵家の三男らしい。
それなのに男爵家の次男であるリオネルに丁寧に接していたのは、やはりリオネルが出資者だからなのだろうか。
「初めまして、ルオー侯爵家の長女、エステル・ルオーと申します。リーネさん、アエラさん、これからよろしくお願いしますね」
二人は「はい!」と元気の良い返事をしてくれた。
「よろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします、先生!」
先生と呼ばれて驚いてしまった。
……あ、そっか、本を出版するなら作家として『先生』と呼ばれるようになるんだ……。
そう思うと照れくさい気持ちになる。
最初は緊張した様子のリーネさんとアエラさんだったけれど、本の話を始めると緊張はすぐに解けたようだった。
二人とも仕事に熱心で、多分、本が好きなのだろう。
前にキャシー様に渡しておいた『幸福の青い薔薇』を読んでの感想を聞かせてもらえたし、本の装丁デザイン、文字の雰囲気、挿絵についてなど、色々なことを質問された。
「題名にある通り、青色を主に使用していただけると嬉しいです。もし出来るなら、所々に薔薇があると更にいいと思います」
という、わたしの要望には二人も頷いてくれた。
リオネル以外と小説について語るのは初めてだったけれど、出版社の人達だけあって、文章の表現について触れる部分も多くて勉強になる。
あれこれと話しているうちに、予定していた二時間はあっという間に過ぎていった。
話に夢中になっていたわたし達を止めたのはキャシー様だった。
「さあ、そろそろ時間になりますから、私達はお暇させていただきましょうか」
キャシー様の言葉にリーネ様とアエラ様が残念そうな顔をして、それがわたしには嬉しかった。
「あらまあ、もうそんなお時間ですか?」
「ええ〜!? もっと先生とお話ししたいのに……!」
「それについてはまた話す機会もあるでしょう。何より、あなた達は先生の素晴らしい小説を出版するという大切な仕事をしなさいな」
二人がハッとした表情をした後に頷いた。
「そうですね」
「他の人達にも読んでもらいたいですもんね!」
ということで、今日の集まりは終わることになった。
「またお時間のある時に予定を合わせて、お喋りしましょう」
そう言えば二人は嬉しそうに頷いてくれた。
三人にお菓子を持たせ、お見送りをして、ふと頭に浮かんだのはリオネルの顔だった。
……今頃、ラシード王国に着いてるのかな?
夏場でただでさえ暑いのに、更に暑い砂の国なので体調を崩していないか心配である。
ラシード王国まで一週間はかかるので、到着しても、今度はヴィエルディナ王国との国境まで行く必要があり、落ち着ける場所に着くのはもう少し先だろう。
自室に戻り、なんとなく定位置の椅子に腰掛ける。
意味もなく、いつもリオネルが座る席を眺めた。
先ほどまでは小説の話に夢中になっていたが、こうして一人になり、ここに座ると、当たり前のようにリオネルを思い出す。
恐らくリオネルはお父様やお母様、お兄様よりも長くわたしの部屋で時間を過ごしているだろう。
……手紙、早くくれないかなあ……。
指輪でこっそりお喋りをしていたこともあり、声すら聴けない状況というのは思いの外、寂しさを感じさせる。
立ち上がり、リオネルがいつも使う椅子の背もたれを手でなぞる。
……とりあえず着替えて、また小説を書こう。
ベルを鳴らし、侍女を呼んで普段着のドレスに着替える。
リオネルからも何か貸してもらっておけば良かった。
そうしたら、もう少し寂しさは紛れたのかもしれない。
「……早く帰ってきてね」
リオネルの顔も声も忘れないけれど。
わたしの右手はどんどん汚れてしまいそうだ。




