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とても楽しかった。
先輩に全部決めてもらってしまったけど、なんだか特別扱いされているようでこれまでの何よりも嬉しかった。
先輩との関係はとても良好。
年が違う、学年が違う。
わたしと先輩はどこも交差する場所なんてない、はずだった。
だけど、こうして先輩との縁は重なり、今はきっと同じ方向に進み始めているとわたしだけかもしれないけど勝手に思い始めている。
先輩はわたしの前で色々な表情をしてくれるようになった。
前はつまらなそうにこちらに一瞥をくれるだけでわたしのことをしっかりと見てくれていなかった。
けど、今は違う。
慌てていたり、恥ずかしがったり、拗ねたり、とても豊かな表情をわたしに見せてくれる。
先輩がこんなにも表情豊かだなんて知らなかった。
映画を見ているときの先輩の顔はとても素敵だった。
だって、とても真剣で見たことのない表情だったから。
多分、先輩だったら、自分でどんな演技をするのか、どうやってこの演技をしているんだろうかとか考えていたのかもしれない。
きっとそうに違いない。
決めつけであるけど、先輩はそういう人だから、きっとそうに違いない。
そうした楽しい時間はあっという間に過ぎていく。
先輩と過ごした週末は過ぎ去って、あっという間に梅雨の時期は目の前に迫ってきていた。
先輩はいつものように芝居の稽古をやっていたのだが、わたしに気が付いてからは何故かこちらを気にするように視線を送ってくるのだった。
「邪魔でしたか?」
「い、いえ、そういうわけではないんですが!」
強い否定の言葉が来たのだが、拒絶という感じではない。
いつもと違う先輩の態度に戸惑いを少しだけ覚える。
態度は少しばかり違うのだが、それでもしっかりと自分のことをやっているのを見ていると、先輩は舞台に対しては真面目なんだなって思う。
わたしのことを気にしてるけど、それはそれ、これはこれ。
しっかりと分けて考えてくれている。
そんな先輩を見るのが好き。
真面目に取り組んでいる先輩の雰囲気や顔が好き。
わたしも頑張らないといけない、先輩に負けていられないなって。
頑張っている先輩に置いて行かれてしまうのはやっぱり少し、ううん、嫌だ。
先輩に置いて行かれたくない。
今の先輩はそんなことをしないとは思うけど、わたしが嫌なんだ。
だって、わたしは先輩の後ろでも前でもなく横に並んでいたい。
それがきっとわたしたちの関係でいい位置なんだと思う。
先輩はどう思っているか分からないが。
「そう言えば、望さんは七月の二周目の休みは暇でしょうか?」
先輩がいつもやっていることを終わらせて、さっきのよく分からない態度でチラチラと視線だけわたしに向けて聞いてきた。
きっと、遊びに誘われているのかもしれない。
ここは、はいと答えたいのだけど、そうもいかない事情がある。
「その日は無理です」
断らないといけない。
大事な日だからだ。
わたしにとって、とても。
「そ、そうですか……」
先輩が目に見えて落ち込んでいる。
さっきまで緊張で伸び切っていた背が、丸まってしまっている。
「先輩、そんなに落ち込まないでください。大会ですから」
「……大会?」
「はい、そうです」
先輩の背が徐々にまっすぐに伸びていった。
最初の頃からは大分違って見えるのだが、こういう先輩は少しだけ可愛いと思う。
「それはどういう……?」
「普通に夏の大会です。空手の」
それから先輩はしばらく考えた末に、スマホを取り出した。
何かのアプリを使って、調べていたが、すぐに顔を上げた。
「それは見に行っても大丈夫ですか?」
「え、あ、はい、大丈夫かと思いますよ? 親とか来る人もいるので」
「そうですか……そうですか」
口元に笑みを浮かべて、何かを打ち込んでいる。
先輩がどんなことを打ち込んでいるのかわたしの方から見ることは出来ない。
けど、きっと悪い事ではないと思う。
「その日だけでしょうか? それともその次の日まで?」
「どうだったかなー……」
去年はわたしは大会には出ていなかった。
先輩たちが出る大会。
そういう認識だった。
最上級生がいなくなって、気が付けばわたしも成長していて、選手に手が届くまでに力が付いていた。
同級生の中では、わたしだけだった。
頑張った成果がこうして目に見える形になるというのは自信にもなるし、次に繋がる。
だから、まだわたしは頑張れる。
先輩も応援してくれているから、もっともっと頑張れる。
去年は確か、一日だったよね。
だから、今年もきっと、そう。
予定通りであれば、だが。
「多分、その日だけだと思います」
「そうですか」
先輩の口角が上がる。
それを見ていると急に目付きが鋭くなった。
先輩はよく話してくれるようになった。
けど、やっぱり全部は話さない。
わたしとしてもそこまでまだ信頼を築けていないのだろう。
「その……大会の次の日って疲れていて、もし、わたしが誘っても大丈夫でしょうか……?」
先輩はわたしの顔を見ない。
ジッとスマホの画面に視線を固定してしまっている。
「疲れてはいるでしょうね……」
大会というのは、力を出し切れるかどうか分からない。
だけど、そう出来るようにわたしたちは練習を重ねる。
だから、きっと全力を出して疲れているはず。
普通ならここはしっかりと体を休めておく場面だろう。
けど、だけど、だ。
ここで、そうですねと答えたくなかった。
「けど、山に登ったりだとか、海に行ったりとか遠出みたいなことじゃなければ大丈夫だと思いますよ」
先輩の体が固まった。
それがどれだけ経ったのか分からない。
長い時間は経っていないと思うのだが、ゆっくりとスマホを操作し始める。
画面をタップしたところで、また動きが止まった。
「大丈夫です。駅の近くなので」
先輩がスマホを操作すると、画面が変わるのが見えた。
色鮮やかな画面からして地図アプリだろうか。
「……駅からさほど離れていないので大丈夫だと思います」
例え、大会で疲れていたとしても駅から多少歩いたところで問題はないのだけど、と心の中で思う。
ただ、わたしのことを真剣に考えてくれているのが嬉しかった。
喜びとともにふと、思った事がある。
今日は先輩、ずっとスマホの画面ばかり見ていて、まともに目を合わせてくれてなかったな、と。
だから、少しだけこちらに振り向かせたくなる。
「先輩」
先輩に声をかけてみる。
「……ごめんなさい、ちょっとだけ待ってもらっていいですか?」
けど、先輩はどうやら色々と操作に忙しいようでわたしの方を向いてくれない。
だから、先輩に言われたように待っていることにした。
急かしても結果は変わらないのは分かっているから。
そうしているうちに先輩はスマホの電源を切り、こちらに顔を向けてきた。
「それで何でしょうか?」
「いいえ、特に用事はありません。ただ――」
わたしが用事もないのに呼んでいたことに先輩は怪訝そうな顔をしたのだが、続く言葉があるので、すぐに顔が戻る。
「先輩の顔を今日は正面から見てなかったので、見たくなっただけです」
わたしがそう伝えると、先輩の顔が段々と顔が赤くなっていくのが見て取れる。
先輩の目の焦点が定まると同時に、わたしとジッと視線が重なる。
次の瞬間には、先輩が顔を背けてから俯いてしまう。
「そ、そんなこと言わなくても、顔位いつでも……いえ、わたしも今日はスマホばかり見ていたので悪いとは思いますが……」
ぶつぶつと先輩が言いわけのような言葉をつぶやいている。
「先輩」
わたしが声をかけると、先輩が呟きは止まり、目だけこちらに向けてきた。
「わたし、先輩の顔好きですよ」
先輩が息を吸う音が響く。
「そ、そう言うことを恥ずかしげもなく言うなんて……!」
先輩の言葉に疑問を覚えて、首を傾げる。
「本当のことを言っただけですよ?」
「だっ! い、いえ、も、もういいですからっ! そういうことは!」
言葉を詰まらせながらも言う先輩がちょっとだけ、いえ、可愛らしく思えた。
次の日から、わたしはより一層練習に打ち込んだ。
雨も続く季節に変わったのもあり、先輩に会える日も少なったのだが、寂しいとは思わない。
だって、先輩は来てくれるって言ってくれたから。
だから、その言葉を信じてわたしは頑張ることができる。
同級生たちには何かいいことがあったのかと聞かれることが増えた。
そんなにも顔に出ている物なのか。
自分の顔を摘まんだりしてみたがさっぱり分からない。
だけど、幸せで包まれていたと思う。
そして、浮かれていた。
外は雨。
床は湿気で濡れていて、滑りやすくなっていた。
わたしはタッタッと階段を駆け下りたところで、足を滑らせてしまった。
この時、どう対応するのが正解だったのか分からない。
わたしは片手をついてしまった。
雨が続いている。
あの場所に行けない日々が続いている。
それでもメッセージアプリによって繋がっているので、会えなくてもこうして繋がって入れらることに嬉しく思う。
人嫌いをしていたわけではないのだが、人と距離を取っていたわたしにとっては久しぶりの感覚だ。
なんだか好きな人とメッセージを送り合って、一喜一憂している恋する乙女にでもなってしまったみたい。
けど、今なら分かる。
恋する気持ちというのがどういうものか知らなかったが、今のわたしなら前以上の演技ができる確信が今ならある。
雨が続いているときでも、彼女は太陽のような明るさをしている。
メッセージから元気いっぱいなのが伝わってくる。
それを見るだけで、自然と口角が上がってしまう。
彼女はどうやら大会にレギュラーに選ばれたことで、一層練習に熱を上げているようだ。
だから、わたしは我儘を言うわけにはいかない。
彼女の頑張りに対しては、安直ではあるが「頑張ってください」としか答えられない。
そんな日々が続いていたのだが、ある日を境に彼女とのメッセージが途切れがちになった。
何かあったのかとか、わたしが何かをしてしまったのかと思って聞いてみたが彼女からは何もないと、何でもないと返事があったのだが、どう聞いても何か理由がある。
それをわたしには話しかけてくれない。
それがちょっとだけ悲しい。
わたしでは力不足ってことだろうか、それとも頼りがない、ということか。
ただ、どちらにしてもわたしには話してくれないのがしこりとしてある。
直接会おうにも、雨の日には彼女はこちらには来てくれないし、最近は晴れた日にも何かを理由を付けて会おうとしてくれない。
どうしてもそれにモヤモヤして、稽古にも手が付かない。
勉強も身に着かないし、メッセージも帰ってくるのに時間がかかる。
だから、週末になけなしのお小遣いを使って、実家に帰った。
実家にいる両親と犬は週末に来たわたしが久しぶりだったのか、驚いていたのだが心地よく受け入れてくれた。
だから、昔からの癖で、実家で飼っている犬を吸って、とりあえず心落ち着かせた。
ただ、実家から帰ってくるとやはり落ち着かない。
それに、それでもだんだんと彼女が言っていた大会の日が近づいてきていた。
だから、決着をつけないといけない。
大会のことについて彼女に尋ねないといけないことがあることを伝えると、相当渋られたのだが、それでもようやく約束を取り付けることが出来た。
久しぶりに彼女と会える。
それで浮かれていたんだと思う。
わたしはいつものように待っていると、ザっと土を削る音が聞こえた。
それに対して、顔を上げる。
「……久しぶりです、先輩」
暗い顔をした彼女がそこに立っていた。
そして、理解する。
あぁ、なるほど。
「その腕はどうしたんですか?」
「……怪我をしました」
「大会は大丈夫なのですか?」
「……いえ、無理です」
わたしは一息ついた後に、こう尋ねた。
「それで何時に行けばいいのですか?」
それでそんな顔をしているわけ。
ヒーローはみんなを助ける。
だったら、ヒーローは誰を助けるのか。
わたしの役目だ。
わたしが彼女を助けるんだ。
この役目は、この役は誰にも譲らない。
幕は上がった。
もうわたしも彼女も舞台から降りられない。