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わたしのルーティンの一つにランニングがある。
ただ自分を鍛えるため。
体力が大事だから。
それにまだ体が出来上がってないわたしには気その一つ一つが大事だと思ってるから。
川渡先輩も大事にしている。
わたしが先輩に会いに行くとき、先輩はずっと基礎的なことばかりしている。
前の先輩だったら、そんなことをしていなかった。
けど、先輩は変わって、積極的にそういうことを行うようになった。
悪い事じゃない。
とってもいいことだ。
先輩にそんなことばかりして、他の練習はしなくてもいいのですかと聞いたら、
「基礎が一番大事でしょう?」
と至極当然と言った顔で答えられた。
わたしはちょっとだけ驚いたが、それ以上に嬉しかったと思う。
わたしもそう思ってるから。
派手な必殺技もあった方がいいのは分かる。
だって、そっちの方が見栄えがいいから。
けど、それを支えるための基礎がなければやっていけないと考えている。
一緒だな、先輩、と。
そんな先輩が最近ランニングを始めた。
最初は気が付かなかった。
だって、先輩がそんなことまで始めるとは思ってなかったから。
だから、普通に通り過ぎようと思って、そのついでにチラリと盗み見るように隣に目をやれば、苦しそうな顔をして走っている先輩がいて驚いた。
どうして、と聞けば、
「舞台は体力が一番大事だから」
真っ直ぐと進行方向を見つめたまま答えた。
嬉しいなって思った。
だから、先輩に一緒に走りましょうと提案した。
それからは、先輩と一緒。
先輩はわたしがペースを落として走っていることに気が付いている。
演技をやる人がそんな露骨に表情に出していいのかなとか思うのだが、今はまだ舞台の上ではないのでいいのかもしれないけど。
気が付いていて、何も言わないけど。
けどね、先輩。
そんな顔をしなくてもいいんだよ。
だって、わたしは先輩とこうして走れるだけでも、楽しく思うし、嬉しくなっているんだから。
何回か口に出そうと思ったことはある。
けど、きっと先輩は後ろ向きに捉えられるかもしれない。
先輩って結構後ろ向きなところあるから。
だから、言わないって決めた。
先輩がもっとポジティブになってくれたら言おう。
わたしが心に決めてからしばらく経つ。
突然先輩がこんな事を言い出した。
「もし、もしの話です。わたしが、誘ったら……?」
聞かれた時は、驚きすぎてどんな反応をしていたのか覚えていない。
けど、次の瞬間には嬉しさが一気に込み上げてきた。
自分が思っていたよりも、ずっとずっと嬉しかった。
だって、先輩はわたしのことをそういう関係だと思ってなさそうだったから。
上級生と遊びに行くことはある。
部活の先輩だけど。
だけど、渡川先輩は別だ。
他の先輩とは違うんだ。
理由は、ちょっと今は分からない。
考えたけど、理由はなんでだろう、よく分からない。
先輩は戸惑っている様子だったけど、わたしが楽しみだと言えば、困った様な顔をしていたけど、それでも眉を下げながらも、
「ええ、楽しみにしておいてくださいね」
先輩が言ったことを信じることにした。
先輩と別れた時、最初はゆっくりと歩いていた。
けど、浮かれていたんだろう。
どんどん、足早になっていき、気が付いたら寮まで走っていた。
先輩に誘われることがこんなにも嬉しいことだなんて思ってもいなかった。
わたしこと、川渡暁乃は庵野望を連れていく場所を日和ってしまった。
彼女と一緒に訪れたのは、映画館。
わたしとしてはやはり舞台を一緒に観劇しようかと思っていたのだが、休みまでの日にちがなく、どこで何がやっているのかという情報を得ることが出来なかったのもある。
わたしがお世話になる劇団も今は確か何も公演がなかったはず。
だから、仕方がないと諦める気持ちで映画館を選んだ。
彼女はヒーローに憧れている。
だから、そのような題材の映画なら好きではないかと言う安直な考えも入っている。
いえ、わたしのリサーチ不足から、同室の友がわたしに託してくれた知恵でもある。
だから、有効活用しないといけない。
映画は、わたしの感想としては面白かったと思う。
演技もそうだし、映画自体にしっかりと予算がかかっているので映像も素晴らしい出来。
わたしとしては貴重なお金を払ってみる分には申し分なかったと思えるのだが、それはわたしの中にある感想だけだ。
これが彼女の目にはどう映っていたのか、それが気になるところ。
望さんは映画が終わって、こうして一息つくために近くの小さなカフェに来るまでの間楽しそうにニコニコとしているだけ。
会話と言うか、話はわたしが焦って一方的に話しかけているだけで、弾んでいたとは言い難い。
だから、良かったのか良くなかったのか分からないのが、余計に気になるところである。
そのせいで、カフェで頼んだコーヒーの味がさっぱり分からない。
顔色を窺っていても、わたしは彼女の気持ちはまだ読むことが出来ないでいる。
仲がいい、と思っているのはわたしだけかもしれないとちょっと気分が沈む。
どうしよう。
悩んでいるのはわたしらしくはないのではないのか。
「……その、楽しかったでしょうか?」
望さんがどんな表情をしているのか見ていられないから俯いている。
「楽しかったですよ、先輩」
「本当にですか……?」
恐る恐る顔を上げる。
にっこりとほほ笑みを浮かべる望さんと目が合った。
それが優しさであるのかどうか、わたしには分からない。
だが、今はそれを信じるしかない。
「映画、わたしが好きそうなの選んでくれたんですよね?」
「え、ええ……一応は」
歯切れの悪いこと耐えになってしまったのは、これが正解だとはとても思えなかったから。
彼女はヒーローが好きだと言っていたが、他国のヒーローまで好きの範囲に広がっているのか分からなかったからだ。
彼女が好きなのはきっと日本の戦隊ものとか女児アニメの変身ヒロインものとかだと思ったからだ。
彼女の話を聞いていて、わたしの同室の子と話し合った際に出た結論だ。
わたしもそう思った。
では、そういう映画をやっているのかと言われたら、やっていなかった。
だから、一応これもヒーロー物。
日本の物に比べて、随分と大人っぽいというか、そんな気がしないでもないのだが。
「望さんの好みに合うかどうかは分からなかったですが……」
「好きですよ、もちろん」
ホッと息をつく。
良かったと思うと同時に、こういうものも好きの範囲になるということを覚えておかないといけない。
しかし、こういうのばかりというのも芸がない。
それに飽きてしまう可能性も大きい。
後出来たら、わたしとしては一緒に舞台を見たいと思っているのだが、同室の子には否定されてしまった。
わたしみたいにずっと舞台と親しんできた人間にとってはハードルが低いのだが、そうでもない人間にはハードルが高いらしい。
それに思ったより、舞台というものに拒否反応する人間というのはいると言われた。
見せてくれたネットとかでも、舞台化という話題だと冷たい反応になっている。
わたしと世間の認識はどうやら違っていたのを知ることになった。
なったのだが、それでもわたしとしては出来たら、彼女にも舞台の楽しさを知って欲しいと思うところはある。
「先輩がわたしのことを考えて選んでくれたのが何よりも嬉しいんです」
緩んだ笑みを浮かべた彼女の顔を見て、それだけで口元が緩んでしまう。
わたしってこんなにも簡単に心が掴まれて、彼女の言動一つで一喜一憂してしまう人間だったのだろうか。
けど、そう言ってもらえるのは悪い気がしない。
いや、むしろ喜ばしい。
「そうですか……?」
「はいっ!」
手で口元を隠す。
緩んでしまう口元を隠すためだ。
だって、そんな喜んでもらえるなんて思ってなかったから。
心の中で同室の子に感謝の言葉を述べておいたのだが、部屋に帰ったらしっかりと直接感謝の言葉を告げておこうと心の中に留めておいた。
「この後はどういう予定なんですか?」
「え?」
この後って、これで解散だと思っていた。
お金もあまりないから、どこかに行くことも難しい。
これで終わりだと告げようと、俯けていた顔を上げると彼女のキラキラと光を発しているような瞳と見事なまでに目が合った。
あ、これはダメな奴だ。
これでわたしがもう予定はないから帰りましょうと告げたら、それだけで今楽しそうにしている彼女は落ち込んでしまう。
それをフォローしようとしても、きっと雰囲気は最悪になるに違いない。
「あー……えっと……そうですね、この後ショッピングとかでどうでしょうか?」
何も買うものなんてないけど。
どこを回る予定も考えてない。
完全なるノープランである。
だから、失敗する可能性もあるからわたしとしては撤退を選択したい。
したいんだけど、無理だ。
必死に頭を回して考えなきゃいけない。
やっぱり服とかが無難なんだろうか、と考えたところで一つ思いついた。
「望さんは行きたいところはありますか?」
わたし一人で考える必要はない。
だって、こうして聞いて判断すればわたしが何もプランがないとは思わないはず。
浅はかだとは思うが、それぐらいわたしには余裕がないんだ。
「そうですねー……先輩が行きたいところに行ってみたいです」
どこもないんです。
それが答えられたら、いいのに。
一回強がって、提案してしまったせいでやっぱりなしでといえなくなってしまっているのが響いている。
あぁ、どうしよう。
舞台に立つ時でも、これほど悩んだことはない。
いや、役作りでどうしても分からない人物がいた時は悩んだことがあった気がするが、それと同等なぐらい悩んでいる自分に驚きつつもこの事態をどう打破したらいいのか、回答を得たい。
どうしよう。
なんだかお腹が痛い気がする。
アイスコーヒーでお腹が冷えたのかもしれない。
冷房のせいかもしれない。
「すみません、少しトイレに」
望さんに断りを入れて席を立つ。
さすがにここで、「じゃあ、一緒に行きましょう」なんて言われないかとドキドキしていたがそんなことはなかった。
荷物もあるし、こういうお店の場合そもそもトイレの数も限られているだろうから。
ポケットにあるスマホの存在を確かめる。
五分だ。
さすがに十分は怪しまれるだろう。
わたしは気合を入れて、トイレに入った。