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ヒーロー。
それはわたしの憧れであり、目標だ。
わたしがヒーローを目指すきっかけは単純だ。
その人があまりにもカッコよくて、眩しかった。
その人、阿賀紗莉々洲さんはわたしの近所に住んでいるお姉さんだった。
ずっとわたしが小さい頃から手を引いてくれる人。
わたしが小学校に上がった頃、莉々洲さんは六年生。
だから、憧れの人と学校に通えたのは一年だけ。
けど、それで十分。
だって、その間にその人に素敵なところをたくさん見たのだから。
……と言いたいのだけど、欲張りのわたしはもっと見ていたかったと思ってしまっている。
だって、そうじゃないか。目標にしていた人が目の前にいたのだ。
そして、その人はずっと私にとって、いや、色々な人を助けているヒーローだったのだから。
ずっと見ていたかった。
最初に出会った時に、わたしは泣き虫で寂しがり屋で誰かが近くにいないと不安ですぐに泣いてしまう子だった。
公園で遊んでいても、そうだった。
夢中で遊んでいて、周りなんて見ていなかったのに、砂場でお山が出来た時、振り返って誰もいなかったら、泣いてしまう。
手が焼ける子だと思う。
わたしが泣きそうになるとお姉さんが来て、
「大丈夫だよ」
優しく語り掛けて、頭を撫でてくれた。
いつも優しく、かっこよかった。
「どうして莉々ちゃんは分かるの?」
莉々ちゃん。
莉々洲さんは莉々の方が響きが好きだといって、そう呼んでほしいと言っていた。
短くて呼びやすくて、わたしも好き。
「それはねぇ……お姉さんが超絶凄いヒーローだからね!」
足を肩幅まで開いて、腰に手を当てた仁王立ちの姿。
顔には満面の笑み。
曇り一つないその顔を見て、太陽みたいだと思った。
「莉々ちゃん、ヒーローだったの?」
「ヒーローだよ!」
その時の景色も、どこで言っていたのかも今となっては朧げだ。
けど、それでも。
それでも、わたしはこの時の莉々ちゃんの眩しさと姿を一生忘れる事ないだろう。
わたしの憧れになった瞬間であり、わたしの生き方を決めた瞬間でもある。
それからわたしは莉々ちゃんが卒業するまでの間、べっとりと付いて歩きまわっていた。
きっとそれは莉々ちゃんには迷惑だったと思うのだけど、カルガモの子のようにわたしは莉々ちゃんが行くのなら行くという感じで付きまとっていた。
「莉々ちゃんはどうしてヒーローになったの?」
「それはもちろん、カッコいいからに決まってるじゃん!」
何も臆することなくそう答えた莉々ちゃんは眩しかった。
莉々ちゃんがいれば、例え雨でも曇りでも太陽のように照らしてくれるのではないだろうかと思っていた。
ある日、莉々ちゃんが泣いていた。
原因は分からない。
教えてくれなかった。
それに六年生は一年生だった、わたしとしては大きく隔てられていて情報が全く回ってこなかったから。
莉々ちゃんしか六年生の知り合いがいなかったのもあるけど。
ただ、泣いていても莉々ちゃんは俯かない。
泣いていてもその場にしゃがみこんで誰かが慰めに来るのを待っていたりしない。
「莉々ちゃん……」
「どうしたの?」
その声はとても穏やかで、まるで泣いていないように思える。
けど、また一筋の涙がその頬に軌跡を作っていく。
わたしが何を聞きたいのか分かっているように泣きながら、莉々ちゃんが微笑んだ。
「ヒーローはね、立ち止まらないんだよ」
ランドセルを背負い直して、歩き出す。
わたしも、まだわたしの背には大きいランドセルをんしょ、と声を出して背負い直してその後姿を走って追いかける。
「俯かないっ!」
声は大きく、道行く人が振り返るが莉々ちゃんは気にしない。
いきなり大きな声を出して、周りを見てしまう私とは大違い。
しっかりと張った胸はなんと勇ましいのか。
「どうかな? 私、ちゃんとヒーロー出来てる?」
振り向いたその顔は、眉根が下がってしまっていた。
いつものような太陽のような笑顔に陰りが出ていた。
だから、私は力強く頷いた。
「莉々ちゃんは、出来てるよ! ちゃんと出来てる!」
子供っぽい言い方しかできない。
それしか言葉を知らなかったから。
「莉々ちゃんは、いつでも、どこでも、ヒーローだもん!」
わたしが言い切れば、莉々ちゃんは驚いたように目を丸くしていたが、すぐにいつも太陽のような眩しい笑顔がその顔に咲いた。
きっといつの日か、わたしもこうなるんだ。
心に決めた瞬間である。
莉々ちゃんがこれから先、ヒーローを辞めてしまってもわたしが引き継ごう。
わたしが莉々ちゃんのように、この手が届くところ、わたしの小さな手が掴めるだけ掴んで見せる。
だけど、ふと、考えてしまう。
わたしは泣き虫で弱虫だ。
だから、簡単に俯いてしまう。
莉々ちゃんのように強くはない。
足を止めてしまった時歩けるだろうか。
俯いてしまった時、前を向けるだろうか。
頭を振る。
わたしはただ前だけを見た。
立ち止まった時のことは見ないことにしたのだ。
あれからあの子はいつもわたしを探してくる。
迷惑極まりない。
今日だってそうだ。
わたしも場所を移動していないのもあるのだけど、それでもその遭遇率はちょっとおかしい。
毎日わたしがここにいるか確認してきているのかと言うほどに遭遇する。
わたしが本読みをしているのに、彼女はニコニコとして注意しながら私の隣に座る。
「川渡先輩、そろそろ下校時間ですよ」
いつものように来る彼女に辟易しながら、座っている私は彼女を見上げる。
今日もまたか、と思いながら視線を戻す。
「部活……いいのですか」
彼女も二年生。
それに真面目な生徒のように思える。
だったら、どこかの部活に入っていてもおかしくはない。
「部活はもう終わってますよ、先輩。それにわたし、風紀委員なので見回りもあるので早めに終わるように調整してもらってるんです」
そうなのかと思いながら、視線を戻すことはない。
それほどわたしたちは親しい仲ではないのですから。
名前も知らない後輩。
どんな子かも詳しくは知らない。
ただ、知っていることは図々しい後輩だということ。
今もこうしてわたしの隣に座ってきて、わたしの読んでいる本を覗き込んできている。
興味津々という雰囲気が見なくても分かる。
「……何ですか」
「川渡先輩、それ何を読んでいるんですか?」
聞いてくるだろうと思った。
視界の隅に映るほど、身を乗り出してきているから、よく分かる。
「今度客演を頼まれた舞台の台本です」
こういう時に変に言わないでいるのは結局後まで聞かれるので、さっさと白状しておいた方がいいということはこの子に絡まれてから学習した。
「川渡先輩って舞台に出るんですか!?」
思ったよりも大きな声で言われたので、顔をしかめてしまった。
もう少し小さな声で驚いて欲しいのだけど。
「舞台に出るって、別に役名もないただのアンサンブルなだけですから……」
「あんさんぶる……?」
聞きなれない単語だったらしい。
わたしたちは普通に使っている言葉だったから、つい使ってしまった。
これも説明した方が手早く済む。
だから、仕方ないと割り切って話すことにした。
「他の言葉で言い換えるなら、ガヤやモブと言ったものです。特に役名もなく、その場にいて演出するだけだったり、やることは様々ありますが、華はありません」
そうだ。
役名もない。
ただの群衆だったり、殺陣にやられるモブだったり、舞台上に立つ場面は少しばかりあるだろう。
それでも顔を覚えてもらうこともなければ、名前だってただのモブとしか認識されない。
いなければいけない役なのは頭では理解している。
それでも主人公等の主要人物、いや、この際なら脇役でもいいから名のある役がやりたかった。
わたしにだってそれをやり切る実力はある。
それは確信を持って言える事。
だけど、わたしは選ばれなかった。
その事実だけが、私に突き付けられている。
「え、それでも先輩、舞台に出るんですよね? すごいじゃないですか!」
「……え?」
思わず、横を見てしまった。
反応しなければよかったと思う。
けど、さっきまで煮えたぎりマグマのような感情に支配されていたわたしの心は彼女の言葉を無視できなかった。
彼女はキラキラした瞳をわたしに向けていた。
「何がすごいんですか?」
「え、だって、舞台出るんですよね!」
舞台に出ることがすごい。
どこがという気持ちになる。
舞台に上がること。
それはわたしにとっては通過点に過ぎない。
わたしにとって大事なことは、役をもらう事。
それも脇役ではない。
主演だ。
わたしは主演として舞台に立ちたいのだ。
「出るだけなら、誰だって出来ますから」
彼女は首を傾げてポカンとしている。
台本の読むべきページも読み終わった。
セリフも大してないから、もう覚えた。
用を終えた台本を閉じる。
「え、もう終わるんですか?」
「セリフなんて数個もないんですから、もう覚えました」
動きは後で付ければいい。
「もっと読み込んだりしないんですか?」
「読み込む……? 何を……?」
読み込むというにはあまりにも量がなさ過ぎる。
その背景を知ることもないだろう。
そもそもアンサンブルの人物に背景など用意されているはずもない。
だから、もう終わりだ。
「え、だって、舞台やってる人ってそのキャラクターとか色々考えたりして、自分でそこから気持ちとか考えたりして作っていったりするんですよね?」
「たった数個のセリフで何をするって、どう読み込んだらいいと思ってるんですか?」
主要人物とも絡まない場を繋ぐための説明のようなセリフ。
舞台の上で発することは出来るだろうが、そこまでだ。
主演たちが揃えば舞台袖にはけていくそれだけの役回り。
彼女はわたしの問いには答えられない。
ただ黙って俯くだけだ。
分かっている。
卑怯な質問だということを。
選ばれない悔しさを思い出して、こうして人に当たっているだけだというのに。
「もう下校時間なので、わたしは帰ります」
彼女を残してわたしはベンチから立った。
彼女をその場に残して、わたしは前に進んでいく。
夕日に照らされたその場所は少し眩しくて、わたしは建物の影になる場所に向かう。
わたしに何が足りないというのか。
どうしてわたしは主役として舞台に立てないのか。
分からない。
悔しくて嫌になるのに、わたしはまた舞台に立とうとしている。
スポットライトに縛られている。
呪いのように。