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身体に染み付いた習慣というものは、なかなか抜けないものであるらしい。
数日続いた野宿と、半日がかりの大掃除でくたびれていたフィレーネだったが、目を覚ましたのは日の出より前のことだった。
埃の匂いのするベッドから抜け出して、身支度を調える。魔道具のおかげで、井戸へ水汲みに行く必要がないのが本当に便利だ。気候の良い今の季節でさえそう思うのだから、冬になればありがたさはいや増すことだろう。
足音を立てないように階下に降りて、フィレーネはキッチンに向かった。
薄焼きパンの生地を手早く仕込んでから、オーブンに薪をくべていく。オーブンが温まるまでの間に、貯蔵庫から瓶詰めをいくつか取り出した。うっすらと被っていた埃を払って、恐る恐るに開けてみる。
中身はベリーのシロップ漬けで、身は崩れてしまっているものの傷んでいる様子はない。ラベルには商店の名前が書かれているから、ハンドメイドではなく市販品だろう。試しに少量だけ舌に乗せてみたが、甘いばかりで悪くなってはいないようだった。
それでも一応火は入れて、その横で薄焼きのパンを焼いていく。焼き上がったそれに熱々のシロップ漬けを掛けたところで、寝起きのヴィジランスがダイニングに顔を出した。
まだ寝足りないのか眠そうな顔をして、墨色の髪が寝癖で跳ねている。彼の油断した姿を見たのは初めてだ。野宿のときでさえきちんと髭をあたっていたのに、今は顎のあたりに黒いものが見える。思わず微笑ってしまってから、フィレーネはヴィジランスに声をかけた。
「おはようございます、ヴィジランスさん。寝室は片付けてありますから、気にせず上で顔を洗ってきてください。それが済んだら朝食にしましょう」
「……ああ、すまない。すぐに支度をしてくる」
そう言ったとおりに、程なくして彼がダイニングに戻ってくる。
寝癖もなくさっぱりした姿には、先ほどのゆるい雰囲気は欠片もない。それが却って面白くて、フィレーネは口元に笑みを残したままヴィジランスに問いかけた。
「甘いものは平気ですか? 貯蔵庫にベリーのシロップ漬けがあったんですけど、使われている砂糖の量がとにかく多くて。もし苦手なら避けてくださいね。余ったら煮詰めて、お茶用にしてしまいますから」
お茶に果物はつきものだが、新鮮なものがいつでも手に入るとは限らない。だから糖蜜をたっぷり加えて、スプーンに貼り付くくらいに煮固めて日持ちをさせる。それを熱々のお茶で溶かして味わうのが、教会にいたころの厳しい冬場のささやかな楽しみだった。
思わず口元を綻ばせていると、ヴィジランスが遠慮がちに言った。
「家のことが一段落してからで構わないんだが、茶の淹れかたを教えてはもらえないだろうか。妻に出すのがあれでは、そのうち愛想を尽かされかねん」
旅の間に淹れて貰ったお茶の味を思い出して、フィレーネはくすくすと微笑った。
「私も特別に上手というわけではないですが、それでも宜しければ喜んで。そんなに難しくないですから、すぐに美味しく淹れられるようになりますよ」
言って淹れておいた茶を差し出すと、ヴィジランスが少し難しい顔になる。本当に苦手に思っているのがありありと分かって、そのことに親しみを感じるのが不思議だった。
朝食を済ませて家を出ると、昇ったばかりの陽射しが眩しく目を焼いた。
夜明けの気配が残る空気は、まだひんやりとして肌寒い。日除け用に持ってきていたストールを胸元でかき合わせたところで、目の前にヴィジランスの手が差し出された。
繋いだ手の温かさにほっとする。歩き出すと寒さは感じなくなったが、手を放すタイミングが見つからないまま、フィレーネは傍らの夫に問いかけた。
「アルヘイナ領都までは、歩くと半日くらいですか?」
「いや、そこまでかからないだろう。のんびり進んで休憩を挟んでも、おそらく昼過ぎには着く。そこから買い物を済ませてから帰るとなると……家に戻るのは夕方か。いっそ滞在を延ばして、外で夕食を摂っても良さそうだが」
どうする、と問われてフィレーネはゆるく頭を振った。
「そのぶん遅くなりますから、帰り道が危ないですよ。買い物をするから大荷物になるでしょうし。それに、できれば一刻も早く家のオーブンに慣れておきたいです」
湯を沸かしたり温めたりする程度ならともかく、オーブンを使った調理はコツを掴むまでに時間がかかる。同じ型式ですら物によって微妙な癖があるというのに、魔道具式は使い勝手自体がまるで異なっている。
使いこなすためには少しでも使う数を重ねないと、と思いながらフィレーネは首を傾けた。
「……ああ、でも帰ってから作って、では時間がかかってしまいますね。屋台で出来合いのものを買うのも良いかもしれません」
「それならマーケットに、持ち帰り専門の美味い惣菜屋がある。あなたが気に入るようなら、そこで色々と買って帰ろう」
「そういうお店、一度行ってみたかったんです。旅に出て街に寄った時でも、立ち入る機会なんてなくて。だから、すごく楽しみです」
フィレーネは噛み締めるように言う。
聖女だった頃は街へ出る自由などなく、欲しいものを自分で買うことすら叶わなかった。浄化の旅の途中や、慰問先で見かける街の賑やかな様子に、実は密やかな憧れを抱いていたのだ。屋台での食べ歩きも、ずっとやってみたいと思っていたことのひとつだった。
そう零したフィレーネに、ヴィジランスが目を細めて言った。
「では昼食は屋台にするか。案内できるほど詳しくはないが、並ぶ店を迷いながら選ぶのも楽しいだろう」
話を聞いて想像しただけで、胸の中がそわそわする。思わず緩みそうになった口元を引き締めていると、隣でヴィジランスが堪えきれないふうに笑いを零した。
夏の心地よい陽射しを受けながら、街道をのんびりと進む。フィレーネは健脚で歩くのはまったく苦にならず、元修道騎士で体力のあるヴィジランスは言うに及ばずだ。一度の休憩を挟んだ後は順調に歩き続けて、アルヘイナ領都に着いたのは昼の鐘が鳴る少し前のことだった。
街道から続く門は石造りの立派なもので、いとかしこき王、我をつくれり、と刻まれている。
アルヘイナはレイダシス建国の祖である聖エルトが降り立った地であり、最初の拠点としたことで拓かれた街だ。それを所以とした文言には街の誇りと歴史とを感じさせた。
門の幅は広く、大型の馬車がすれ違っても余裕がある。道の端では荷の検めを待つ商隊が、長い列を作っていた。
その横を通り過ぎて街に入り、人波に流されて大通りを抜ける。すぐに見えてきたのがアルヘイナ北市場だ。
かつては穀物庫だった建物を改装して、今は中に多くの商店が軒を連ねている。賑やかな様子に心惹かれるが、まずは腹ごしらえだ。
ヴィジランスに手を引かれるまま市場を通り過ぎ、向かったのは近くにある広場だった。旅人を守護する聖人像を中央に配した広場には、多くの屋台が立ち並んでいる。そのほとんどは軽食を扱う店で、多くの人でごった返していた。
あまりに人も店も多いので、ひとつひとつ覗いていたら日が暮れてしまいそうだ。
「こういう時は、混んでいる店を選ぶと失敗しない」
そうヴィジランスが助言してくれたのに従って、人だかりの出来ている店を覗いてみる。
幾つか見て回ってフィレーネが選んだのは、赤屋根にカウベルが下がった屋台だった。
売っているのはシュリーアドという料理で、平たいパンによく煮込んだ牛のスネ肉が挟まれている。紙に包んで渡されたそれは手に熱く、覗き込むと香辛料の良い匂いが鼻を擽った。
屋台の周囲には立ったまま齧り付く豪快な人もいたが、フィレーネが真似をしたら手や口の周りがひどいことになりそうだ。見回すと近くにベンチが幾つか並んでいたので、その内のひとつにヴィジランスと腰を下ろした。
ヴィジランスは慣れた様子で、シュリーアドに齧りついている。思い切って彼を真似たフィレーネは、一口食べて目を輝かせた。
「おいしい……!」
思わず感嘆の声を上げると、隣でヴィジランスが、ふ、と笑いを零した。
「あなたは、なかなかの目利きだな。確かにこれは素晴らしく旨い」
「ヴィジランスさんが助言してくれたおかげです。このパンも中のお肉も、凄く美味しいですよね。自分でも作れたら良いんですけど、さすがにレシピは教えて貰えないかな……」
パンから零れそうになっているスネ肉をじっと見つめる。
ワインと根菜、香草が入っているのは間違いないだろうが、スパイスはさすがに判別がつかない。もうひと口齧ってみても、分かるのは美味しいということくらいだ。
フィレーネが黙々と味を噛み締めている隣で、食べ終わってしまったヴィジランスが満足げに息を吐いた。
「この後は荷車とロバを買って、それから市場で必要なものを揃えるつもりだ。もし思いついたものがあったら言ってくれ。大荷物を抱える前に買いに行こう」
鍋などの調理道具は揃っていたし、皿やカトラリー類も不足はない。農機具も使えるものが残っているし、ベッドはヴィジランスが自分で作るという。リネンや布類はアランが用意してくれていたので、目下のところ必要なのは食料と種苗だけだ。
ただ家からアルヘイナまでの距離を考えると、思いついてすぐ買いに出るのはなかなか難しい。なによりアランの懸念もあるから、行き来するのは最低限にしておきたい。
急ぎではないけれど、後で必要になりそうなもの、と考え込んでいたフィレーネは、はたと面を上げた。
「それなら石工用のハンマーとノミが欲しいです。小石を加工できるような、小振りのものが良いんですけど……」
「では工具屋だな。俺も買い足しておきたいものがあったから丁度良い。他には?」
「後は……できたら毛糸を少し。嫁入り道具として用意していただいたんですが、冬支度を考えると足りそうになくて」
いずれ羊を飼うとは決めているが、今からでは冬支度には到底間に合わない。毛刈りの時期は過ぎてしまったし、家の手入れをしながら紡いでいては、毛糸になる頃には冬が終わってしまうだろう。
「――ああ、そうだ。家が落ち着いたらセーターと帽子を編み始めるので、今度ヴィジランスさんのサイズを測らせてくださいね」
「……まだ夏だが、もう作り始めるのか?」
驚いたふうに問われて、フィレーネは微笑いながら頷いた。
「ええ、もちろん。のんびりしていたら、あっという間に冬ですよ。実際、教会では靴下をもう編み始めていたんです。私たちは野良作業に出ることはありませんでしたから。だから縫い物や編み物が大事な仕事のひとつだったんです」
「なるほど、俺たちの冬支度とはずいぶんと違う。衣食住を自らの手で賄うのは同じだが、作物以外は寄進されたものに頼っていたからな」
「修道騎士の忙しさは耳にしていましたから、着るものまで手が回らなくて当然ですよ。それに私たちが必要な分よりも多く編んでいたのは、そういう方たちのためでしたから。もしかしたら私が編んだものが、ヴィジランスさんのところに行っていたかもしれませんね」
そう冗談めかして言うと、ヴィジランスが目を細めて微笑んだ。
彼のこういう表情を見るたびに、穏やかで優しい人だ、としみじみ思う。セーターを編む以外でなにか、彼のためにできることはないだろうか。
フィレーネは考えながら口の中のものを飲み込んで、小さく食後の祈りを囁いた。
シュリーアドが入っていた包み紙を持て余していると、ヴィジランスがそれを取り上げて、ごく自然な動作で手を差し出してくる。繋いだ手に引かれるまま立ち上がり、フィレーネは夫に問いかけた。
「ヴィジランスさんは、どこか寄りたいお店はありませんか? お酒以外にも嗜むものがあるなら、遠慮なく言ってくださいね。そういうものは街でないと手に入らないでしょうし」
彼がそうしてくれたように、ごく当然のことを聞いたつもりだったのだが、ヴィジランスは不意を打たれたような顔をしている。
彼はフィレーネをじっと見つめてから、困惑したふうに眉根を寄せた。
「あいにくと、その手の物には馴染みがない。酒は必要にかられて覚えたが、無ければ無いで困るものではないからな。煙草やその類は匂いが残るから好まない。茶はそれなりに飲むが、かと言って道楽にするほどでもない。……強いて言うなら甘いものだろうか」
言われてみれば今朝に出したベリーのソースも、彼はきっちり食べきっていた。
あれは食べ物を無駄にしないためではなく、もしや好んでいたからなのだろうか。
意外に思いながらそれを訊いてみると、ヴィジランスは唇の端に苦笑を滲ませた。
「さすがにあれは甘すぎたが、パンに甘いソースを付けて食べるのは美味いと思う。あれが茶に入れるジャムになると聞いて、実は楽しみにしている」
「それなら頑張って美味しく作るので、任せてください。ああ、そうだ。それなら少し良いお茶も買いましょう。その方が淹れ方を覚えるのにも良いんですよ」
等級の低い普段使いのお茶よりも、新茶や薫り高いものの方が淹れた時の違いが分かりやすい。
これはフィレーネに茶の淹れ方を教えてくれた人から教わったことだった。
かつて聖女だったフィレーネは、茶の作法も教養としてきっちり叩き込まれている。その立場から自ら淹れることはなくても、供される側にも知識が必要だったからだ。
教わりながらフィレーネが初めて淹れた茶は、味はそれなりだったが、お手本として飲んだものとは明確な差があった。後にフィレーネが上手く淹れられるようになったのは、そうやって違いを知ったからこそだろう。
「茶器は良いものが残されていたので、新しく買い足す必要はないと思います。以前の住人だった方は、お茶を趣味にしていたみたいですね。日常的に使わないような道具が、キッチンに置いてありましたから」
「なるほど。ならば、これを機に茶を趣味にしてみるのも一興かもしれないな」
冗談とも本気ともつかない声で言って、ヴィジランスがのんびりと歩き始める。
手を引かれてまず訪れたのは、工具を取り扱う鍛冶屋だった。
大通りから少し外れた場所にあるのは、店の奥に工房が併設されているからだろう。たくさんの職人を抱える工房は活気があって、店先にいても鉄を打つ音が聞こえてくる。
フィレーネはそこで希望通り小さなハンマーとノミを、ヴィジランスは釘と砥石をいくつか購入した。その次に向かったのは手芸用品店だ。
アルヘイナ周辺は牧畜が盛んで、それで良い羊毛が多く出回っているという。染めも驚くほど色の種類が多く、フィレーネは一目惚れした藍色の毛糸を必要な分だけを買い揃えた。
フィレーネが買い物をしている間、どうやらヴィジランスは雑談という名の情報収集に励んでいたらしい。良いロバを売ってくれる店と、腕の良い木工職人がいる店を聞き出していて、口利きとして名を出す許可まで取り付けていた。
一見すると愛想に乏しいヴィジランスだが、彼は人の懐に入るのが驚くくらいに上手い。馴れ馴れしい振る舞いはせず、どころか一歩引いた態度を取っているのに、誰もが彼に対して親切に振る舞おうとする。
おそらく彼は人心の掌握に長けているのだろう。思えば護衛をしてくれたガイとダニエルのふたりも、振る舞いの端々からヴィジランスへの信頼が見て取れた。なによりフィレーネに対する距離の取り方も絶妙で、手を繋ぐことは既に馴染んで違和感がない。ちらと見上げたフィレーネの夫は、口元に淡く笑みを浮かべて言った。
「雑談ついでに水を向けてみたが、教会内のいざこざは特に広まってはいないようだ。さきほどの店主も、新しい教区長が就任したことは知っていたが、司祭の名前も伝わっていなかった。どうやら代替わりしたらしい、という程度の認識だな。そもそもこの辺りでは、熱心に教会に通う者自体が減っているそうだが」
「何年か前に来たときは、熱心な方が多いという印象でしたけれど。……教区長が代わったことと、なにか関係があるんでしょうか」
「さてな。いずれにせよ俺たちにとっては、ありがたいばかりだ。これで礼拝に出ずとも、不審に思われずに済む。生活の基盤も整わない状況で、週末ごとにアルヘイナ領都に来るなど時間の無駄でしかないからな」
ずいぶんな切り捨て様ではあったが、ヴィジランスの言い分はもっともである。
余程の事情でもない限り、週末の礼拝は午前に行われるのが普通だ。街から離れた場所で暮らすフィレーネたちが、それに間に合わせようとするなら、夜明け前に家を出なければならない。
手前勝手な理由でフィレーネを追い出した教会に対して、そこまでの熱量を傾ける気にはなれなかった。
そも信仰とは人の内にこそ宿るものだ。神に祈り感謝を捧げるのに、その場所が聖堂や教会である必要は欠片もない。加療院の様子だけは気になったが、今のフィレーネが安易に近づいて良い場所ではないことは十分に理解している。
「つまりはこれも神のお導き、ということですね。それなら心置きなく、あちらとは距離を置かせてもらいましょう」
そうしかつめらしく言って頷くと、ヴィジランスが溜め息のような微笑いを零した。
「あなたがそう言うと、説得力がすさまじい。……あなたを手放した連中は、実に愚かだな」
「そうやって褒めてもなにも出ませんよ。今の私は、どこにでもいる新婚の奥さんですから」
隣でヴィジランスが肩を揺らして笑っている。なにが刺さったのかは分からないが、楽しんでくれてなによりだ。