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7

 街道から外れて進む旅は、予想とは異なり長閑なものとなった。

 フィレーネたちの新居は、アルヘイナ領都の北西に位置している。そこへと向かう旅路はなだらかな起伏を繰り返す丘陵地帯で、夏の陽射しに照らされた低木の緑が目に鮮やかだった。

 道は馬車が通るのがようやくな幅で、石積みの囲いが遠くまでとぎれとぎれに続いていた。

 商隊と土地の者しか使わない道は人の往来はまるでなく、牛や羊が時折物珍しそうに覗き込んでいくばかりだ。人を襲う類の獣は気配もなく、道のりは拍子抜けするほどに平和だった。

 野宿だからすこぶる快適とは言えないが、身に迫るような危険も起こらない。荷馬車の中で休むこともできるから、夜を徹しての火の番も苦にならなかった。

 そうして王都レイナスを出発してから、数えること十日あまり。ようやくたどり着いたのは緑豊かな土地だった。

 この辺りはハイラルドと呼ばれていて、住まう住人のほとんどは小作ではなく地主であるという。なだらかに続く丘の向こうには、こんもりとした森があって、そのさらに先には牧場が広がっているらしい。

 フィレーネたちにとって一番最寄りのご近所さんだ。

 丘陵をのんびり進んでいくと、その中腹に新居となる家がぽつんと建っていた。

 アランいわくかつての住人は、先代領主の愛人だったそうだ。

 灰色の屋根に二本の煙突、クリームベージュの煉瓦建ての家は、いかにも女性が好みそうな可愛らしい見た目をしている。家の周囲を腰の高さほどの塀がぐるりと囲っていて、外れかけた木戸が斜めに立てかけられていた。今にも倒れてしまいそうなそれに止まっていたカラスが、ひと鳴きしてから悠々と飛び去っていった。

 木戸を軽々と脇にやったその横に、ダニエルが馬車を停める。彼は御者席から降りると、手慣れた様子で馬のくびきを外し始めた。

 馬車は荷ごとここに置いて、護衛のふたりは馬で帰還することになっている。アランは相乗りでアルヘイナ領都へ、ガイとダニエルのふたりはそこから王都レイナスへ向かい、さらに北へと向かうのだ。

 ここへ来た道のりと合わせると、かなりの長旅である。

 フィレーネがこれまでの労をねぎらい感謝を伝えると、ダニエルは疲れた顔も見せずに微笑んでみせた。

「旅は我々にとって、慣れ親しんだ友のようなものです。それにフィレーネどののおかげで、食事の面ではずいぶんと楽をさせていただきましたからね。むしろ食事の面では、普段よりも恵まれていたくらいです」

 ダニエルの隣で同意を示してガイも頷いている。

「惜しむらくは、あの薄焼きパンが食べられないことでしょうか。まったく帰るのが憂鬱になりますよ」

 世辞ではなく本気で言っているのが可笑しくて、フィレーネはくすくすと笑った。

 ノヴェンからアランが加わった旅だったが、残念ながらそのことで食事問題は改善されはしなかった。アランの料理の腕前は、護衛ふたりとヴィジランスのそれとそう変わりなく、つまり帰路の食事は侘しいものになる、ということが目に見えている。そのことが予想出来ていたから、フィレーネは抱えていた包みをダニエルに差し出した。

「そう思って朝食の時に、余分に焼いておいたんです。良かったら、途中で召し上がってくださいね」

 ダニエルが嬉しそうに目を輝かせた。

「これはありがたい! まともなものにありつけると思うだけで、心に余裕が出来ますからね。いやぁ、本当に助かります。フィレーネどの。この新しい土地で、あなたに神と聖エルトの祝福があらんことを」

「あなたがたにも祝福を。どうぞ無理はなさいませんよう、旅の安全をお祈り申し上げます」

 フィレーネが言うとダニエルは軽い調子で、ガイは折り目正しく礼を返してくれる。それに修道女よろしく頭を垂れると、アランが横で苦笑含みの溜め息を落とした。

「あなたの方こそ、無理はなさらないでください。危ないものや怪しいものには決して近づかないように。それと知らない相手にはまず警戒を。親切で人の良いふりをして、悪事を働く者は少なくないですからね」

 まるで幼子に言い聞かせるかのような物言いだ。

 フィレーネの子供のころを知っていて、長い付き合いだから仕方がないのだろうが、さすがにこれは苦笑を禁じえない。思わず肩を竦めたフィレーネに構わず、アランはくどくどと続けた。

「良いですか、くれぐれも目立つような真似はなさらないように。どこに人の目があるとも限りません。アルヘイナ領主は、事情のすべてを知る協力者ではありますが、完全な味方の位置に立つことはないでしょう。ですから必要のない限りは距離を取ってください。教会に近づくのも無しです。身の回りには気をつけて、戸締まりと火の始末は忘れないでください。それから……これを」

 言ってアランが差し出したのは、サンザシの小枝だった。熟す前の青い実に数枚の葉、枝には細いリボンで鳥の羽が結び付けられている。フィレーネは思わず目を丸くした。

 これは白翼という名の魔道具だ。伝言を吹き込んで空に放ると、持ち主のところへ声を届けてくれる。作成には強い制限がかけられていて、取り扱う工房は数軒のみ。許可なく売り買いすることも禁じられているから、一般には出回ることは皆無と言って良かった。

 そんな貴重な代物をフィレーネに押し付けて、アランは真剣な声で言った。

「もしなにかあれば使ってください。白翼の宛先は私で登録してあります。私は近くアルヘイナを離れることになっていますが、なにがあっても対応できるよう手配済みです。良いですか、絶対に躊躇や遠慮はなさらないでください」

「……さすがに、これは過保護ではありませんか?」

「いいえ、まだ足りないくらいです。本当に、本当に気をつけてください。近いうちに、改めて手紙を送ります。それと――イーグレット」

 名を呼ばれたヴィジランスが、荷降ろしの手を止めて近づいてくる。平時と変わりない様子の彼に向かって、アランは言い聞かせる口調で言った。

「課せられた役目を、決して忘れることのないように。分を超えた振る舞いなどもっての外だ。フィレーネさまの御身を、僅かでも損なうことは許されないと知れ」

「言われるまでもなく分かっている。そういう助祭こそ、しばらくは目立つ振る舞いは避けたほうが良い。白翼の宛先を担っているならなおさらだ」

 アランが溜め息を吐く。

「癪だが、そのとおりだな。……イーグレット、本当によろしく頼む」

 頷いたヴィジランスはアランの肩を軽く叩いて、馬車へと戻っていく。入れ替わるように出立の支度が済んだダニエルとガイが来て、アランに騎乗を促した。

 後ろ髪引かれる様子で去って行く彼らを見送って、フィレーネは玄関へと足を向けた。

 明かり取りのある玄関扉は、年季の入った胡桃色をしている。家は時折掃除の手が入っていると聞いていたが、扉の足元が傷んで黒ずんでいた。嫌な予感が頭をよぎったが、ひとまず渡されていた鍵を使って扉を開ける。

 真っ先に鼻についたのは埃の匂いだった。

 思った以上の汚れっぷりに唖然としたが、ともあれ掃除をしなければ始まらない。ひとまず水汲みはヴィジランスに任せて、フィレーネは窓という窓を片っ端から開けていった。

 玄関を入って廊下の右手がダイニングとキッチン、左手が暖炉のある広い居間。奥に階段があって、上っていくと廊下に扉が三つ並んでいる。

 物置と客室、階段から一番遠くが主寝室だ。主寝室を開けると奥に扉があって、洗面所と浴室に続いている。部屋はどれも埃と蜘蛛の巣だらけだったが、リネンが掛けられた家具は幸いにも傷みがほとんど見られなかった。

 つまり汚れさえどうにかすれば、当座は暮らして行けるということだ。フィレーネは気合いを入れると、分厚く積もった埃の排除に取り掛かった。

 掃いてはたきを掛けて、モップで拭き上げる。曇った窓硝子の汚れは気になったが、とりあえずは後回しだ。次にフィレーネはダイニングのテーブルを磨き上げ、キッチンを整えに掛かった。

 家には多くの魔道具が使われている、とは話に聞いていたが、どうやらその大半は水回りとオーブン周りに集中しているらしい。特にオーブンは最新式のもので、調理だけでなく給湯器も兼ねているものだった。

 煮炊きに使った熱が配管を通って、寝室横の浴室に行く仕組みだ。以前に貴族の邸宅に招かれた時に、似たようなものを見せて貰った覚えがある。

 これは水回りに問題がなければ、今日の夜には湯が使えるかもしれない。フィレーネは期待しながら栓を捻ったが、残念ながら水はぽたりとも垂れてこなかった。

 ざっと見た限りでは故障ではなく、大元に水が来ていないようだ。それならと配管を辿って家の裏手に出ると、バケツを提げたヴィジランスと行き合った。

「どうした、なにか問題でも?」

 問いかけに頷く。

「キッチンにある水場から水が出ないんです。魔道具には異常はなかったので、配管か大元になにか問題があると思うんですが……」

「ああ、それなら今から確認しにいくところだ。井戸には問題なかったから、あなたの言うとおり大元の栓を止めているんだろう。長期に家を空けるなら、そうするのが普通だからな。この辺りは比較的温暖だが、それでも冬には配管が凍ることがある」

 言いながらヴィジランスは雑草をかき分けて、元栓の下にバケツを押し込んだ。

 レバーを倒すと、配管の下から赤茶けた水がばたばたと流れ落ちていく。やがて水が綺麗になったのを確認してから、レバーを反対側に倒した。

 バケツを持ち上げたヴィジランスが、やれやれといった口調で言う。

「この様子だと、オーブンの排煙管も確認した方が良さそうだ」

 見上げるヴィジランスの視線を追った先、開け放したままにしておいた浴室の窓が見える。オーブンの熱を効率的に使うための配置をしているのが良く分かる。

 フィレーネは視線をヴィジランスに戻してから問いかけた。

「キッチンの掃除が終わったら、浴室の掃除をするつもりだったんです。でも排煙管の様子を見るなら、まだ触らない方が良いでしょうか?」

「そうだな、確認できるまで少し待ってくれると助かる。居間の片付けはほぼ済ませてあるから、あなたは気にせずひと息入れてくると良い。……オーブンが使えるなら、お茶でも淹れるんだが」

 冗談とも本気ともつかないその声音に、フィレーネは目を瞬かせた。

 教会育ちで世間知らずのフィレーネだが、それでも妻に茶を淹れるのが、夫の役目であることくらいは知っている。つまり今の発言は、夫らしい振る舞いの一環であるらしい。誰の目がある訳でもないのに律儀だ。

 ただ困ったことにヴィジランスは、料理だけでなくお茶の腕前も個性的である。ここハイラルドに来るまでに一度振る舞ってもらったが、渋いのに酸っぱくて甘いという、なんともコメントに困る味だった。

 さてどう返したら良いのだろうか、と迷っているうちに、ヴィジランスはバケツを片手に立ち去ってしまう。唖然として見やった彼の肩が、微かに揺れているのが見て取れた。

 どうやら、からかわれていたらしい。

 フィレーネは小さく笑ってから、ヴィジランスの後を追った。

 暮らすのに必要最低限の掃除を終えると、日は落ちて辺りはすっかり闇に包まれていた。

 さすがに食事までは手が回りきらず、薄焼きのパンに焼いたソーセージと野菜の酢漬け、という野外で食べたのと変わりない質素なメニューになった。しかも材料が乏しいのでスープはなく、それで代わりに用意したのはホットワインだ。

 葡萄酒は貯蔵庫に残されていたもので、いかようにも処分しても構わないと許可を貰ってある。前の住人は愛飲家だったらしく、地下に掘られた貯蔵庫には多数の酒瓶が収められていた。

 胡椒とクローブを入れて温めた葡萄酒で乾杯をして、慎ましい食事で空腹を満たす。食後の祈りを捧げたところで、ヴィジランスがおもむろに口を開いた。

「バーナード助祭はああ言っていたが、明日はアルヘイナ領都まで出てみようと思っている。想像していたよりも、足りないものがあまりに多すぎる」

「それには私も同意します。小麦と水があるから飢えることはないですけれど、食べる楽しみがなくなると気力が削れてしまいますから。せめて卵と牛乳を、贅沢を言うならハムかベーコンが欲しいです。それとできれば野菜類も」

 ヴィジランスが思いの外、力強く頷いてみせる。

「もっともなことだ。買えば材料が手に入る状況だと言うのに、あなたの料理の腕を無駄にするのは実にもったいない」

「ですがバーナード助祭の懸念も、まるきり無視はできないのでは? これから長くこの場所で暮らしていくことを考えると、下手に波風は立てたくありません」

 ホットワインの入ったゴブレットを揺らしていたヴィジランスが、ちらと苦笑を浮かべた。少し躊躇うような間があって、彼はなにかを憚るような声音で言った。

「彼の性根がそうであることは分かっているんだが、さすがにあれは慎重が過ぎる。アルヘイナ領都はここシャウラで最も栄え、人の出入りも多い街だ。買い物に来ただけの夫婦ものに、いちいち警戒などしないだろう」

「それならなぜ、アルヘイナ領都を避けてハイラルドに来ることに反対しなかったのですか?」

「あれは……あの場では言い難かったんだが、我々の中で最も目立つのはバーナード助祭だ。助祭という立場にありながら巡礼に身を置く彼は、ああ見えて顔と名前の売れた有名人だ。そんな彼と行動を共にすれば、我々まで人の目を引くはめになる。これから世間に紛れて暮らしていく身に、それは望ましくないからな」

 その口振りだと旅の後半、野宿になったのはアランのせい、ということになりはしないだろうか。

 フィレーネが内心で首を捻っていると、ヴィジランスが浮かべる苦笑を深くした。

「あなたがなにを考えたのかは想像つくが、あの場で別行動を言い出すのはさすがに気が引ける。助祭があなたを案じて、別れを惜しんでいたのは明らかだったからな。あなたが旅慣れていたことは分かっていたし、野宿も数日なら問題ないだろう、と思ったんだが……」

「おっしゃるとおりなので、私のことは気にしないでください。街に寄らなかったおかげで、旅程も短くて済みましたから。それにアルヘイナ領都に行って問題なさそうだ、ということも分かって安心しました。暮らしが落ち着くまでは、いろいろと入り用になりますし。――いずれは、作物を売りに行くことになるんですよね?」

「秋に蒔く麦の出来にもよるが、そうするつもりだ。そのためにも、買わなければならないものが山ほどある。明日は早くにここを出るから、今日のところは早めに休むと良い」

 言って立ち上がったヴィジランスが、テーブルの上を手早く片付けていく。そのままキッチンへ向かう彼の背中に、フィレーネは慌てて声をかけた。

「あの、部屋はどうしたら良いでしょう。寝室もベッドも、ひとつしかないんです」

 夫婦なのだから、寝室を共にすることに抵抗はない。そういうことをするのも既に覚悟の上だ。

 どころか純潔を失うことで聖王家側から睨まれずに済むなら、ありがたいとすら思っている。だが肝心のヴィジランスは、どうやらそれを避けたいと考えているようだった。そしてフィレーネの印象どおりに、ヴィジランスは狼狽えもせずに言った。

「もうひとつの部屋にベッドを入れるまで、俺は居間のソファで十分だ」

「……それなら私がソファを使います。体型を考えたら、その方が理に適っていますから」

「そういうわけにはいかない。妻にベッドを譲るのは、夫として当然のことだ。だからあなたは気にせず寝室を使ってくれ」

 それなら一緒に眠れば良いのではないだろうか。思わずそう返しそうになったフィレーネだったが、賢明にもそれを口にはしなかった。

 新居に越してきて一日目で、夫婦喧嘩をするのも馬鹿馬鹿しいだろう。

 かくして夫婦水入らずの夜は、なにごともなくただ過ぎていった。

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