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「私の護衛が申し訳有りませんでした。お二方が気を悪くしていないと良いのですが」
ふたりが去っても威嚇する雰囲気のままのキャロルに代わって、フィレーネはヴィジランスに謝罪する。彼は意外なものを見た、と言わんばかりの表情を浮かべていたが、それについては触れずにやんわりと告げた。
「どうぞご心配なく。あれがひと言もふた言も多いのは事実ですし、本人もその悪癖を自覚している。それでいて正そうとしないのだから、悪感情を持たれても仕方がないでしょう。それで拗ねるようなら救いようもないでしょうが、あれはそこまで愚かではありません」
「なるほど。ずいぶんと信頼していらっしゃるんですね」
キャロルの不躾な物言いを気にしたふうもなく、ヴィジランスがもちろん、と頷いてみせる。
「そうでなければ、このような事態に巻き込んだりはしなかったでしょう。とは言え、フィレーネどのに失礼な態度を取って良いことにはならない。謝罪すべきは我々です。護衛騎士どのにも、大変申し訳有りませんでした」
言って折り目正しく頭を下げたヴィジランスを、フィレーネは内心慌てて押し止めた。
「あの、大丈夫ですから、どうか気になさらないでください。……それよりも、バーナード助祭はどちらに? 見届け役として、アルヘイナまでご一緒される、と聞いていたのですが」
「その筈でしたが、少し事情がありまして、助祭との合流はノヴェンですることになりました。詳細は後ほど、街道に出てから説明させてください。それまでフィレーネどのには、荷台の中にいていただきたいのですが、構いませんか?」
「ええ、問題ありません」
短く応えてから、キャロルに視線を当てる。少し高い位置にある彼女の顔を見つめて、軽く息を吸い込んだ。
「……キャロル」
意識して平板に名を呼んだつもりが、喉が微かに震えてしまう。そこに滲んだ様々な感情を、キャロルは付き合いの長さでそれと察したのだろう。彼女は眉間に深く皺を寄せ、唇をむっつりと引き結んで、泣き出す前の顔をしている。
なにも言わない、言えないでいる彼女に、フィレーネはしっかりと頷いてみせる。滲む視界を振り切るように、両手で大切な友人をしっかりと抱きしめた。
「今まで、ありがとう。私が聖女としてなんとかやってこられたのは、あなたが側にいて守ってくれたからよ。本当に、言葉では表せられないくらいに感謝してる」
「……聖女様」
「あなたが今回のことで、まだ納得しきれていないことは分かっている。それなのに黙って飲み込んで、って言った私のわがままを聞いてくれてありがとう。どうか、無茶はしないで。くれぐれも身体に気をつけてね」
王都には決して近づかないように、とフィレーネはありがたい忠告を貰っている。その上、教会の分厚い壁に阻まれてしまえば、キャロルやゾフィに会うことは二度と叶わないだろう。これが今生の別れになる。だからこそ大事な友の泣いた顔よりも、笑った顔を覚えていたかった。
フィレーネが抱きしめる腕の力を緩めると、キャロルがのろのろと面を上げる。彼女は顔を涙で濡らして、それでもフィレーネが望んだとおりに笑顔を浮かべてみせた。
「どうか、お元気で。あなたの無事と幸福を、心よりお祈り申し上げます。……フィレーネ、あなたは私にとって唯一の主で、そしてなにより大事な友です。どうか、どうか幸せになってください」
「約束する。……しばらくは周囲も騒がしくなるでしょうから、事態が落ち着くまではおとなしくているのよ」
後の方は囁くように言う。
聖女の交代とフィレーネの追放、これに王家が絡んでいる以上、警戒は怠るべきではない。今回のことで彼らが取った手段こそ穏便なものだったが、それはフィレーネが余計な抵抗をしなかったからだ。信仰に篤いからと言って、その身が清廉潔白であるとは限らない。教会の中枢にいたフィレーネは、それを嫌と言うほどに思い知らされていた。
もし今回のことでフィレーネが下手な動きを見せていたら、おそらく生きて教会を出ることはなかっただろう。フィレーネがキャロルとゾフィにすべて打ち明けたのは、フィレーネが黙したままでは、彼女たちに降りかかる火の粉を避けることも出来ないからだった。
情報は力になる。特に教会という閉ざされた場所において、それはふたりを守る壁となってくれるに違いない。なにより機を見るのが得意なゾフィなら、それを利用して上手く立ち回ってくれるだろう。
実際、彼女からは別れ際にいくつかの餞別を渡されている。後はキャロルがおとなしくして、上の連中の注意を引かないでくれたら御の字だ。
キャロルが差し出すトランクを受け取って、フィレーネは半歩後退った。
「それじゃあ、キャロルも元気で」
言ってキャロルに背を向け歩き出す。だが馬車に乗り込む手前で足を止めて、フィレーネは背後を振り返った。
ランタンの仄かな灯りに照らされたキャロルが、胸に手を当て深々と頭を下げている。フィレーネはその姿を目に焼き付けてから、堪えきれない寂しさを振り切るように馬車に乗り込んだ。
開けた扉を手で押さえてくれたヴィジランスに、軽く頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありません。急がなければならないのに、時間を作ってくださったことも、本当にありがとうございます」
いえ、とヴィジランスは首を振る。
「礼には及びません。――荷は、それだけですか?」
「ええ、私物らしい私物は持っていなかったものですから。ご覧の通り、旅支度程度しか用意しておりませんので、出来れば何処かの街で必要なものを贖えたらと思っています」
「では、そのように取り計らいましょう。助祭と合流するノヴェンまでここから三日ほど、それまでに宿場町をふたつ経由する予定です。買い物は最初の宿場町、スーリエで行いましょう。あまり大きな街ではありませんが、最低限のものは揃えられるはずです」
はい、とフィレーネは頷く。
王都レイナスを南に出て、最初の宿場町がスーリエだ。王都からは目と鼻ほどしか離れておらず、それで旅行者や行商のほとんどが宿を取らずに通り抜けていく。なぜなら多少の無理をすれば、次の宿場町へは日暮れ前にたどり着くことが出来るからだ。
街道を行く旅人は宿代を惜しみ、行商は時間を惜しむ。そうやって先を急いだ結果、たとえ閉門まで間に合わなかったとしても、王都周辺は治安が良い。荷を狙う野党や人を襲う魔獣の心配がなければ、野宿で十分こと足りる。わざわざスーリエに滞在するのは、懐に余裕があるか物見遊山の者たちばかりだった。
フィレーネたちはそのどちらでもなかったが、ノヴェンまで三日という余裕のある旅程を鑑みるに、スーリエで宿を取ることになるらしい。
フィレーネはどうやら、かなり丁寧な扱いを受けているようだ。
思わず目を瞬かせたが、ヴィジランスは構わず後を続けた。
「街道へは南門を使います。通行許可証もありますし、行商の列に紛れてしまえば目立つこともないでしょう。ですが、万が一ということもあります。窮屈な思いをさせて申し訳ありませんが、王都を出るまでは荷台から顔を出さないようお願いします」
「ええ、心得ております」
「ここからアルヘイナまで長旅になります。どうぞ我々のことは気にせず、中でお休みになってください」
やはり、かなり気遣われている。
貧相でか弱げな印象のフィレーネだが、心身ともに頑健で見た目に反して体力もある。それなのに深窓の令嬢のような気配りをされるのは居心地が悪い。
これは後で、誤解を解いておいた方が良いだろう。
フィレーネは内心でそう呟いてから、馬車に設えられている座席に腰を下ろした。
荷馬車に手を入れたらしい車内は、外から見るよりも広々としている。荷を詰め込んでいるらしい木箱がいくつか積み上げられているのに、座るフィレーネが脚を伸ばせるだけの余裕があった。ただし扉以外には板窓があるきりなので、車内は気が滅入りそうなくらいに真っ暗だ。
壁には小さなランプが下げられているものの、外に光が漏れないように火がぎりぎりまで絞られている。暗さも相まって息苦しいくらいだったが、王都を出るまでは板窓を開ける訳にはいかない。身体は休息を必要とはしていなかったが、確かにこの状況では寝てしまうより他ないだろう。
フィレーネは小さく息を吐いてから、羽織っていたストールを喉元まで引っ張り上げた。
目を閉じてしばらくすると、馬車がゆっくりと走り出した。
少しうとうとするだけのつもりが、いつの間にか本格的に眠り込んでしまったらしい。馬車が大きく揺れて止まったのに気づいて、フィレーネはうっそりと目を開けた。間を空けず、控えめに扉をノックする音が響く。
はい、と応じると扉が開いて、ヴィジランスが顔を覗かせた。
「お休みのところ申し訳有りません。少し遅くなりましたが、朝食にしましょう。簡素なものしかご用意できないので恐縮ですが」
「ああ――いえ、すみません。すっかり寝入っていたみたいで。食事の支度でしたら、どうかお手伝いさせてください。これでも野外調理には慣れていますから」
言いながらストールを座席に置いて立ち上がる。ヴィジランスの手を借りて馬車を下りると、街道脇の空き地にいたダニエルが振り返ってにこりと微笑った。
「やあやあ、どうも。おはようございます。馬車の中、狭くて暗くて窮屈だったでしょう? 今、朝食の支度しますから、適当に座って休んでてください」
「お気遣いありがとうございます、ダニエルさん。ですが中で十分に休ませていただきましたし、朝食の支度くらいはさせてください。それに、少しは身体を動かした方が良いでしょうから」
座面の固い椅子に座って寝たせいで、身体のあちこちが軋んでいるような感じがする。伸びをしたら、ぎしぎしと音が鳴ってしまいそうだ。
馬車に閉じこもる窮屈さはダニエルも承知しているらしく、彼は微苦笑を浮かべて頷いた。
「それじゃあ、お言葉に甘えて。私は材料を引っ張り出してくるので、火起こしをお願いしても良いですか?」
「ええ、お任せください」
さらりと返すと、ダニエルが面白そうな顔になる。お手並みを拝見、と言わんばかりだったが、フィレーネはそのことには触れずにただ黙って微笑んだ。
空き地に建てられている薪小屋に近づいて、抱えられる分の薪を拝借する。
薪小屋の隣には屋根付きの井戸があって、周囲は綺麗に整えられている。フィレーネたちが来る前にも休憩した人がいたのだろう。濡れた釣瓶が井戸枠に掛けられていた。
街道沿いにはいくつかこういう場所があって、旅人は自由に使うことができる。管理は教会が行っていて、費用はすべて寄付金で賄われている。
大昔は巡礼で街道を進む者も多く、これはその頃の名残と慈善活動のひとつだ。浄化の旅に出た折にもよく使わせて貰っていたので、勝手は良く分かっている。それでフィレーネは誰かの焚き火跡に薪を積み上げて、ベルトに括っておいた火打ち石を取り外した。
石英に火の術式が刻まれたそれは、金属で擦ると簡単に火花を打ち出すことが出来る。ナイフを使うのが一般的だが、修道女だったフィレーネは武器の類を所持することは許されていなかった。野宿が続くような旅には不便きわまりなかった決まりだが、その代わりに抜け道のような使い方を知っている。
刻まれている火の術式に、直接力を叩きつけるのだ。強引な力の発露だから加減が難しいが、そこは慣れと要領が物を言う。フィレーネは容易く火を熾し、調理器具一式と食材とを抱えて戻ってきたダニエルに視線を当てた。
興味深げな目をした彼が、軽い調子の声を上げた。
「いやあ、お見事。もしかして料理も得意だったりします?」
「支度を申し出る程度には。と言っても人並みの腕ですが」
「それは良い、素晴らしく助かります。お恥ずかしながら、私も他のふたりも料理が不得手でして。味がするものが食べられるだけでも大歓迎です」
言いながら手にしてした物を適当に広げていく。
食材は根菜と塩漬け肉、焼き締めた保存用のパンもある。ダニエルは鍋と木匙、よく切れそうなナイフをフィレーネに差し出した。
「他に必要なものがあったら言ってください。手伝いならなんでもしますんで。――ああ、そうだ。香辛料とかもあるんですけど、使います?」
「ぜひお願いします。それとお言葉に甘えて、水を汲んできていただいても良いでしょうか」
「おまかせを」
請け負って井戸の方へ向かったダニエルを見送って、フィレーネは鍋を火にかけた。
ナイフで塩漬け肉を削り入れ、次いで根菜の皮を剥いて火に焼べてしまう。
日持ちのしない野菜が多いのは、補給に余裕のある旅程を組んでいるからだろう。新鮮なものが食べられるのは有り難いが、傷んで駄目にしないよう気を配る必要がある。
後で食材を確認させてもらおう。そう思いながら、フィレーネはせっせとナイフを使って野菜を刻んでいった。
鍋に入れて木匙で炒めていたところで、水を汲んだダニエルが戻ってくる。彼は鍋を覗き込んで、ぽつりと言った。
「……すでに美味しそうですね」
「さすがに基準が緩すぎません?」
「いえいえ、そんなことないですよ。私たちでは、なかなかこう上手くはいかないですから」
少しも悪びれずに言うのに笑いながら、フィレーネは差し出された水袋を受け取った。
鍋に注いで、ついでに香辛料も振りかける。くつくつと煮ている鍋の横でパンを炙っていると、馬の世話を終えたヴィジランスと、ガイのふたりがやってくる。ヴィジランスも鍋の中身を見て、しみじみと言った。
「まともな食事が摂れるのはありがたいな……」
どうやらこちらも相当に採点が甘いらしい。
フィレーネはくすくすと笑いながら、食材が入っていた籠に詰め込まれていたスープ皿を取り出した。
鍋の中身を少し掬って味見する。目分量以前の適当さだったのに、なかなかどうして丁度良い塩加減だ。スープ皿によそってパンと一緒に配り、フィレーネは食前の祈りを口にする。長々としたそれを唱え終えて、木製のスプーンを手にしたところで、三人から意外なものを見るような目を向けられていたことに気がついた。
「……あの?」
思わず首を傾げると、ダニエルが苦笑する。
「あー……いえ、すみません。あなたが祈るのを聞いていて、そう言えば自分たちは聖職者だったんだ、と思い出したというか気付かされたというか。ちょっと珍しいな、と思っただけなんで、気にしないでください」
「珍しい、ですか? もしかして教会の外だと、食前の祈りはしないのでしょうか」
「いや、まったくしない訳じゃないですよ。信心深い者なら、聖エルトに感謝を捧げるのは普通です。ただ聖句全部を唱えるとなると、あんまり見ないかもしれないですね」
ダニエルの隣で、ガイもこくりと頷いている。
驚いた。教会の内と外とで常識が違うことは知っていたが、まさか同じ聖職者でも乖離があるとは思ってもみなかった。
もしかしたら考えていたよりずっと、自分は世間からずれているのかもしれない。思わず隣に座るヴィジランスを見ると、彼は遠慮がちな口調で言った。
「……丁度良い機会だから、お伝えしておきましょう。バーナード助祭も懸念されていましたが、あなたはかなりの世間知らずです。世俗との溝を少しでも埋めておかないと、このままでは市中で悪目立ちするはめになる」
「そんなに、目立ちますか」
「ええ、あなたが考えている以上に。身に馴染んだものを変えるのは難しいかもしれませんが、少しだけでも粗雑な振る舞いを心がけた方が良い」
思いも寄らない指摘にフィレーネが戸惑っていると、ダニエルが呆れた声で言った。
「それを言うならヴィジランス、あなたも振る舞いを正すべきですよ。これから夫婦ものとして暮らさなくてはならないのに、あまりに余所余所し過ぎて不自然です。いちゃつけとは言いませんけど、もうちょっと打ち解けた感じを出さないと」
ヴィジランスが溜め息混じりに返す。
「この程度は問題ないだろう。世の中には、常に敬語で話す夫婦も存在する」
「そりゃあ、いるにはいるでしょうけど。でも、あまり一般的じゃありませんよ。それに夫婦はお互いに歩み寄るものです。フィレーネどのに努力を求めるなら、あなたもそうしなければ公平じゃないでしょう」
痛いところを突かれたのか、ヴィジランスが渋い顔をしている。その彼の隣で、フィレーネはスプーンを握る手に力を込めた。
「……染み付いた振る舞いを変えるのは、すぐにはできそうにありません。ですが平穏無事に生きていくためにも、できるだけ頑張ってみたいと思います」
「まずは言葉遣いを意識すると良いですよ。少し砕けた話し方をするだけでも、ずいぶんと印象が違ってきますから」
砕けた話し方、と言われて真っ先に思い浮かんだのはゾフィだった。だが年下の彼女のそれを真似ても、それはそれで違和感が生じそうな気がする。だが世間と関わり合いの薄いフィレーネに、親しく会話するような相手に心当たりはいなかった。
思わず考え込んでしまったフィレーネに、ダニエルが明るい声で言った。
「そう深く考えなくても大丈夫ですよ。スーリエで買い物に出るなら、店の者と会話する機会も沢山あるでしょう。そこで色々と試してみたら良いんじゃないですかね」
「買い物……そうですね。とても参考になりました。ダニエルさま、ご助言ありがとうございます」
「……ううん、先は長そうだ」
そうぼやくダニエルに、ガイが無言で肘を入れる。咳き込むダニエルが文句を言うのを聞きながら、フィレーネは意気込んで朝食に取り掛かった。




