3
聖女の称号を返上し、どころか還俗し修道女ですらなくなったフィレーネだったが、教会を離れる日まで普段どおりに過ごさなければならなかった。
すなわち祈りと奉仕、聖花の世話と水薬の精製である。それら雑事に追われ出立の支度は遅々として進まないまま、あっという間に日々は過ぎていく。人目を避けてトランクに纏めた荷は、今は自室のクローゼットに押し込まれていた。
そも教義に沿ったつましい暮らしをしていたフィレーネに、私物はほとんど無いに等しい。トランクに入れたのも数枚の下着と洗面用具にブラシ、日記帳と裁縫道具だけだった。
アルヘイナに向かう旅に、なにもかも不足しているのは分かっている。何より只人となって教会の外に出るというのに、修道服以外の着替えがないことが一番の問題だった。
しかし還俗を誰にも明かせない状況で、誰かに頼んで古着を用立てて貰うことは不可能である。このままではアルヘイナへ向かう途中で贖うしかないが、そうなると先立つものが必要になる。さりとて修道女だったフィレーネに蓄えなどあるはずもなく、教会の中にいては稼ぐこともままならない。衣服のこと以外にも片付けておきたいことがあるのに、困ったことに助祭のアランとは未だ連絡が取れずにいる。
じりじりとした思いを抱えたまま時間だけが過ぎて、アランから手紙が届いたのは出立の二日前のことだった。
手紙には連絡が遅れたことへの謝罪、ゾフィとキャロルに話す許可が下りたことが記されていた。黙ったまま立ち去ることにならずに済んで、ほっとする。
ともあれ話をするなら早い方が良い。それでフィレーネはその日の夕食後、就寝までの空き時間にふたりを部屋に呼び出すと、これまでの経緯をなにもかも打ち明けた。
あまりに馬鹿げた話だったからだろう。愕然として言葉を失くしているふたりに視線を当てて、フィレーネは薄く苦笑を浮かべてみせた。
「もうなにもかも決まったことだし、下手に騒いで揉めごとの火種にはなりたくないの。納得はいかないでしょうけれど、どうか飲み込んでね。それからこの件については、しばらく箝口令が敷かれることになると思う。だからもし私がここから去った後、誰かになにか訊かれても、知らぬ存ぜぬで通して欲しいの」
そう真剣な声で言うと、ゾフィが深く溜め息を吐いた。
「上層部のろくでもなさは今に始まったことではないけど、それにしたってあんまりだわ。苦労ばかりフィレーネに押しつけ続けて、その報いがこれ? 冗談にしたって笑えないわ」
「本当に、冗談だったら良かったのだけれど。……でもね、本音を言うと、そんなに悪くない話だと思うのよ」
「は? どこがよ。教会を追い出されて、見ず知らずの相手と結婚までさせられて、悪いところしかないじゃない」
「結婚に関しては、そうね。ゾフィの言うとおりかもしれない。それに私は教会の外を知らないから、この先の暮らしに不安がないと言ったら嘘になる。でも住む場所は用意してもらえるし、夫になった人も悪い人には見えなかったから。だから多分、大丈夫よ」
そんな、と悲痛な声を上げたのはキャロルだった。
フィレーネの還俗という衝撃から息を吹き返したものの、すっかり顔色を失くしている。
「どうして……どうして、そんなふうに平然となさっているんです。聖女様が還俗だなんて、ここから去ってしまうなんて……私は、私には無理です。到底受け入れることなんてできません」
ゾフィが不満げに鼻を鳴らす。
「フィレーネの言葉を聞いてなかったの? まあ、気に食わないのは私もそうだから、文句を言いたくなる気持ちは分かるけどね。でもね、もう決まったことなのよ。諦めなさい」
そうゾフィはにべもない。それでも項垂れるキャロルになにか思うところがあったのか、幾分声をやわらげて言った。
「あのねえ、キャロル。あなただって教会に入って長いんだから、ここがお綺麗なだけの場所じゃないくらい理解してるでしょ?」
「それは……」
「だったらあなたが騒ぐことで、誰に迷惑がいくかも分かるはずよ。このことであなたひとりが僻地送りになっても、私はなにも言わないわ。だって自業自得だもの。でもそれにフィレーネを巻き込んでは駄目」
「そ、そんなことくらい、愚かな私だって理解しています。でもだからと言って、こんな横暴を許すことはできません……!」
半ば叫ぶように言って、キャロルは顔をくしゃりと歪ませる。今にも泣き出しそうな彼女の肩を優しく叩いて、ゾフィは重く溜め息を吐いた。
それで、とフィレーネに向かって苦りきった声で言う。
「口を噤み続ける以外で、私たちに出来ることはある?」
その口調だけで、ゾフィもこの事態を苦く思っていることが良く分かる。それなのにフィレーネが頼んだとおり、堪えて飲み込んでくれる彼女の優しさがありがたい。
ふ、と口元を笑みに綻ばせて、フィレーネは言った。
「実は相談に乗ってもらいたいことがあるの。荷造りはもう済んだのだけれど、着替えの用意がまるで出来ていなくて。還俗した人間が、修道服を着て暮らす訳にはいかないでしょう? だから古着を分けてもらって、自分で仕立てなおすつもりだったのだけれど……」
「今から? でも出立って明後日よね。私たち以外の誰にも事情を打ち明けられないのに、さすがにそれは無理だと思うわ」
着替えの用意と一口に言っても、そう簡単に出来ることではない。喜捨された古着から、まだ着られそうなものを見繕って、丈を合わせて手直しをする。それを日々の勤めをこなしながら、誰に知られることなく進めなければならないのだ。
どう考えても時間が足りない。
それに古着を収めてある倉庫には、常に鍵がかけられている。管理するのは修道院長で、だが彼がフィレーネの還俗を知らされているとは考えにくい。鍵を借りて怪しまれない適当な理由は思い浮かばず、かと言って理由を打ち明けるわけにはいかなかった。
ゾフィもそれが分かっているのか、眉根を寄せて難しそうな顔をしている。
彼女はしばらくうんうんと唸っていたが、なにか思いついたらしく、はたと手を打った。
「そうだ、私の晴れ着を使えば良いのよ。私とフィレーネならそんなに背は変わらないし。……まあ、多少は丈を詰める必要はあるでしょうけど」
言ってゾフィはフィレーネの薄い肩や、肉付きの乏しい腰回りに視線を当てる。
幼少期の貧しい暮らしのせいか、それとも過酷な浄化の旅がたたったのか、フィレーネの身体は全体的に薄っぺらくて貧相だ。思わず修道服の腰のあたりを指でつまんでから、フィレーネは眉を下げて微苦笑を浮かべた。
「そう言ってくれるのは有り難いけれど、晴れ着はあなたのご両親が、ゾフィのためを思って仕立てたものじゃない。返すことができないのに、そんな大事なものは受け取れないわ」
「いいから、気にしないで貰ってちょうだい。どうせ一度も袖を通さずに、倉庫行きになるんだもの。両親だってそれを理解した上で、喜捨のつもりで贈ってくれてるのだし。それを聖女様の役に立てたなら、むしろ大喜びするんじゃないかしら」
ゾフィの生家であるハイメル家は、王都レイナスで知らぬものはいない豪商だ。河川舟運を始めとした国内流通で莫大な財を成しているが、その一方で一家は素晴らしく信仰に篤い。末娘であるゾフィの身に祝福が授けられたことを知ると、本人以上に喜んで教会入りさせたあたり、その程度の深さが知れる。
寄付や喜捨のために教会を訪れる機会も多く、フィレーネも何度か挨拶させてもらったことがある。ゾフィに良く似た面差しの、驕ったところのない気持ちの良い人物だった。
「……ゾフィがそう言ってくれるなら、ありがたく頂戴するわ。お会いして直接お礼が出来たら良かったのだけれど、教会を出れば王都には近づけないでしょうから。還俗についての箝口令が解かれたら、くれぐれも感謝していた、と伝えてね」
「ええ、必ず伝えるわ」
強い眼差しで言うゾフィの声が微かに震えている。別れを惜しんでくれているのが伝わってきて、鼻の奥がつんとする。
フィレーネは万感を込めて礼を口にしてから、ずっと黙り込んだままのキャロルに視線を向けた。
「ねえ、キャロル。少しは落ち着いた?」
「……いいえ」
「それは困ったわ。このままだと私の大切な護衛騎士に、お礼もお別れも伝えられないじゃない。これは私のわがままだけれど、できたら機嫌を直してくれたら嬉しいわ」
わざと冗談めかした口調で言うと、キャロルが今にも泣き出しそうな顔になる。納得できない、と言わんばかりの表情を浮かべた彼女は、それでも頷いてみせた。
「聖女様の思し召しとあれば従いましょう。ですが……長年お側にあった友としては、あなたとの別れが残念でなりません」
「あなたがそう言ってくれただけで、教会に入ってからの年月が報われるわ。――さあ、ここからは気分を切り替えてね。着替え以外にも、色々と相談に乗ってもらいたいことがあるの。手伝ってくれる?」
「あたりまえじゃない!」
そう力いっぱいに言うゾフィも、キャロルも目を真っ赤にしている。
教会に入り聖女となり、失うばかりだったフィレーネにとって、ふたりは宝物のような存在だった。そんな彼女たちとの別れを思えば、寂寥感に胸が押しつぶされそうになる。
こみ上げてくるもので目の奥が熱くなったが、フィレーネはそれをまばたきで散らして、ただ静かに微笑んだ。
初夏をいくらか過ぎて、茹だるような日が続いている。それでも日が落ちてしまえば、王都レイナスは川からの風で肌寒いほどだった。
深夜を二刻ほど過ぎた頃、フィレーネは滑るようにベッドから抜け出した。
丈を直したばかりの晴れ着に身を包み、その上に木綿のショールを羽織る。フードの無い衣服は慣れなくて、なんだか首の後ろがそわそわする。思わずそこに手をやれば、切りそろえたばかりの髪が柔らかに触れた。
フィレーネが髪を伸ばしていたのは、乏しい力を補うためだった。
長く綺麗に伸ばした髪には、精霊の力が宿ると言われている。だがこれから教会を出て行くのに、補う力は必要ない。ましてや髪を長く見栄え良く保つには、手間も暇もかかるのだ。これから只人として暮らしていかなければならないのに、そんな面倒なことに時間はかけられない。なにより重くて長い髪には、正直なところ辟易していたのだ。
それで昨夜、せいせいする思いで鋏を入れて、切り落としたそれは括ってトランクにしまってある。いっそ捨ててしまおうかと思ったのだが、ゾフィが言うには、手入れのされた長い髪は、それなりの値段で売ることができるらしい。
フィレーネにとっては、ただただ邪魔なばかりだった物がお金になるなんて驚きだ。上手くすれば着替えを買い足すことも出来るだろう。
そう少しわくわくしながらトランクを持ち上げたところで、隣室との続き扉が音もなく開いた。
現れたのはキャロルで、彼女は旅支度を終えたフィレーネを見て、今にも泣き出しそうな顔になった。それでもなにかを言うことはなく、黙ってフィレーネの手からトランクを取り上げた。
あまりに自然な動作で流されてしまったが、護衛騎士に荷物持ちをさせる訳にはいかない。ましてキャロルはもう片方の手にランタンを提げている。フィレーネは慌ててトランクを取り返そうとしたが、そうするより先にキャロルは部屋を出て行ってしまった。それを追いかけるより他なく、フィレーネは足音を忍ばせながら、長く暮らした部屋を後にした。
廊下の数歩先のところで、フィレーネを待って立ち止まっているキャロルを軽く睨めつける。寝静まっている周囲を憚って、潜めた声で言った。
「いざという時に備えて、護衛騎士は手を塞がないのではなかったの?」
「そうですね、仰るとおりです。ですがこの教会内で聖女様に危害を加えるような不心得者はおりません。それに……あなたと道を共に出来るのは、これが最後の機会ですから。あなたが今まで背負ってきた荷とは比べ物にはなりませんが、せめてこのくらいのことはさせてください」
「それはちょっと買いかぶり過ぎ。私は責任もなにもかも置いていくだけよ。後になって、文句を言いたくなっても知らないから」
茶目っ気を含めてそう言うと、キャロルは柔らかに微笑した。
軽口の応酬もキャロルの反応も、いつもとまるで変わりがない。なんだか今から巡礼や慰問に向かうのだ、と錯覚してしまいそうになる。こうして失うものを目の前にすると、寂しさに胸が痛んだが、だがこの旅立ちは婚姻という慶事による門出だ。たとえフィレーネが望んだものではなかったとしても、湿っぽい別れにはしたくない。だからフィレーネは溢れそうになる寂寥感に蓋をして、歩き慣れた廊下を足早に進んだ。
フィレーネが夫とともに暮らすことになる新居は、交易都市アルヘイナの外れにあるという。
王都レイナスよりアルヘイナへは、走竜で二日ほど。馬車を使えば、およそ五倍の日程を要する。徒歩でも問題ない距離ではあったが、有り難いことに馬車と護衛まで教会が用立ててくれることになった。至れり尽くせりで心苦しいくらいである。
足があって護衛がいれば、街道を行くだけの旅にさほどの苦労はないだろう。
助祭のアランから届いた手紙によると、馬車は教会の裏手側、道から少し外れた場所に停められているらしい。それでフィレーネはキャロルを伴って、普段は使われることのない裏門からひっそりと教会を出た。
下草を刈られた小道を進むと、木立の合間に小さな明かりが見える。キャロルが手にしていたランタンを掲げると、それに応えるように明かりがゆらりと揺れた。
「バーナード助祭より伺っていたとおりですね。……さあ、参りましょう」
そう促すキャロルに頷いて、木立の間を分け入って進む。少し歩くと不自然に開けた場所に出る。そこに一台の馬車が停められているのが見えた。
馬車は二頭引きで、すでに鹿毛が繋がれている。その側には護衛らしき男性がいて、彼らはフィレーネたちの姿を見止めると、その場で恭しく膝を突いた。
深く頭を垂れる姿に戸惑って、思わず視線を彷徨わせる。すると馬車の影から見覚えのある男性が姿を現した。
闇夜よりも深い墨色の髪が、ランプの灯りを淡く弾いている。
ヴィジランス・イーグレット。先だってに応接室で顔を合わせたきりの、フィレーネの夫だ。彼はフィレーネを見て僅かに目を瞠り、すぐに足早に走り寄ってくる。目前で膝を突こうとした彼を、フィレーネは身振りで押し留めた。
「私はもう教会を離れた身ですから。そのような礼は必要ありません。なんだか悪目立ちしてしまいそうですし」
そう苦笑しながら言うと、ヴィジランスも釣られたように目元を和ませる。彼はひとつ頷いてから、生真面目な口調で言った。
「では、以降はそのように。慣れるまでは不調法もあるでしょうが、お目溢しいただけると助かります」
「こちらこそ、よろしくお願いします。それと――差し支えなければ、護衛の方たちにもご挨拶をしたいのですが」
「ええ、もちろん問題ありません。――ガイ、ダニエル」
ヴィジランスに短く名を呼ばれ、頭を垂れていたふたりが面を上げる。ふたりは隙のない動作で立ち上がると、ヴィジランスの背後に控える位置で足を止めた。
胸に手を当てて、略式礼を取るふたりに視線を当ててヴィジランスが言う。
「アルヘイナまで、この両名が護衛につきます。おまえたち、フィレーネどのに自己紹介を」
そう促されて、細身の青年がまず口を開いた。
「このような状況ではありますが、尊き御方にお会いできて光栄に存じます。私はダニエル・モース、聖アルバ騎士団第三部隊に所属しております。剣と盃に誓って、御身を必ずやアルヘイナまでお送りいたしましょう」
明るい栗毛の印象そのままの、快活そうな口調で言う。そのダニエルは傍らに立つもうひとり、見上げるほどの長駆の男性を手で示して続ける。
「こちらの大きいのも同部隊所属です。名前はガイ・ファーレン。口数は少ないですが、腕っぷしの強さは私が保証しますよ」
ガイと呼ばれた男性は、その長身を折り曲げるように頭を下げた。
「ガイ・ファーレンと申します。どうぞ、お見知りおきを」
見た目の印象も、性質まで対照的なふたりだ。フィレーネが知る修道騎士のそれとは随分と異なるが、だが少しも嫌な感じはしない。どころかその気安い雰囲気に、不思議と肩から力が抜けて、それでフィレーネは柔らかく微笑みを浮かべて言った。
「フィレーネです。ご迷惑をおかけしますが、どうぞアルヘイナまで、よろしくお願いいたします」
ダニエルがからりと笑う。
「迷惑だなんて、とんでもない。御身をお護りする栄誉に与れたことは、どこぞにいるかも知れない子々孫々まで語り継がれるでしょう」
フィレーネは思わず首を傾けてしまった。
聖職者は原則、その生涯のすべてを神に捧げる。すなわち修道騎士であるダニエルに妻帯はおろか、子を持つことも不可能なのだが、はてどうやって子を儲けるのだろうか。
そう疑問に思うフィレーネの隣で、キャロルがうんざりとした溜め息を吐いてみせた。
「私が口を挟むことではないのでしょうが、そのような品性に欠ける冗談で、聖女様の耳汚しをするのはお止めください。それに日の出まで、あまり時間がありません。修道騎士であるあなたたちには言うまでもないことでしょうが、教会の朝は街中のそれより早い。無駄口を叩いている余裕があるとは思えませんが」
キャロルの刺々しい口調を気にしたふうもなく、ダニエルが飄々とした態度のまま言った。
「これは失礼。なにぶん鄙者でして、望外の栄誉についつい舞い上がってしまいました。さて、これ以上はなにを言っても顰蹙を買うだけですから、私は出立の支度に取り掛かるといたしましょう」
「くれぐれも、抜かりないよう頼む」
そう苦笑含みに告げたのはヴィジランスだった。
ダニエルはいくらか丁寧な身振りで応えてから、無言のままのガイを促して馬車の方へと歩み去って行く。その背中を見送りながら、フィレーネはゆるく頭を振った。