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 部屋を出ても構わない、と修道女から連絡を受けてフィレーネが真っ先にしたのは沐浴だった。部屋に湯を運んでもらってはいたが、洗面器にたった一杯では、顔と身体を拭うのでようやくだったのだ。

 浴場で髪を洗い、身体の汗と汚れとを落とし、だが部屋に戻ってひと息吐く間もなく司祭からの呼び出しがかかった。

 伝言を携えてきたのは見覚えのない修道女で、そのことに違和感と胸騒ぎがする。

 浴室に危険もないだろう、とキャロルが席を外していたのを突いたようなタイミングであるのも嫌な感じだった。

 とは言えフィレーネに断るという選択肢はなく、修道女に言われるまま自室を後にした。

 案内されたのは応接の間で、フィレーネはローブの奥で眉根を寄せた。司祭の呼び出しで応接室が使われることは滅多にない。つまり中には外部の人間がいる、ということだ。

「――どうぞ、中へ。司祭さまがお待ちです」

 修道女の無感動な声に促され、フィレーネは室内に足を踏み入れる。そこにいた顔ぶれに、思わず目を瞬かせた。

 布張りの粗末な長椅子に壮年の男性がふたり、窮屈そうに腰掛けている。ふたり共に白の祭服を纏い、肩に掛かるストラは目の醒めるような青だ。

 聖花を象徴するその色を纏うことは、高位の聖職者にしか許されていない。フィレーネは聖女として社交をする必要があるから、高位の聖職者や主要貴族の顔と名前は頭に叩き込んである。そして男性のどちらも、フィレーネには覚えのある顔だった。

 向かって右側に座っているのが、ミゲル・アーバス司祭。左側がジェイデン・ノール枢機卿だ。両名とも聖王家の直属、フィレーネが属する聖アルコル教会とは、役割も目指すところも異なっている。だが礼を尽くすべき相手であることに違いはない。

 フィレーネは内心の煩わしさは露ほども出さずに、五指を揃えた手を胸に当てた。左足を退げて、慎ましやかに膝を折って言った。

「お呼び出しにより参じました。フィレーネでございます」

「堅苦しい挨拶は不要だ。それよりも掛けなさい。そなたに大事な話がある」

 はい、と頷いて、フィレーネはテーブルを挟んでふたりの対面に腰を下ろした。と同時に背後で扉の閉まる音がする。思わず振り返った先、修道女が戸口を塞ぐようにして立っている。そこに教会の者を排除する意図がありありと見えて、フィレーネは内心で呆れた息を落とした。

 どうやら此度の呼び出しは、ずいぶんな厄介ごとであるらしい。

 果たしてこの部屋から無事に出られるだろうか。

 フィレーネは皮肉に思って、だがそれを微塵も面に出さずに居住まいを正した。

 なにかを測るような間があって、アーバス司祭が口を開いた。

「先日、大聖堂の鐘が鳴ったのは、そなたも覚えておろう。あの鐘は宝具、各地に置かれている教会のそれらとまじないで繋がっている。なんの為かは今更口にするまでもなかろうが、実はそれとは別に、公言されていない役目がある」

「……役目、でございますか?」

 フィレーネの問いに、アーバス司祭が頷く。彼は窺うように隣のノール枢機卿を見て、それから後を続けた。

「あの鐘の音は祝福の調べ、聖女たり得る者が顕現したことを識らしめるものだ。前回響いたのは二十年前、そなたが生まれた日だ」

「では……新たに浄化の力を持つ者が生まれたのですね。なんて素晴らしいことでしょう」

 快哉を叫びたい気持ちを押し殺して、フィレーネは聖女らしい穏やかな表情と声音で言う。

 五歳で教会に押し込められて以降かけられた重圧、信徒たちの期待と畏れ、力を狙われることの恐怖と閉塞感。ただひとりで背負ってきたそれらを、分かち合える存在が出来たのだ。

 ひとりでなくなったことの安堵は筆舌に尽くしがたい。

 フィレーネが言葉にならない歓びの代わりに、口の中で聖句を唱えていると、アーバス司祭が場をとりなすようにそれで、と呟いた。

「此度の慶事により、教会内ではいくつか変更を余儀なくされる。些事をいちいち口にはすまいが、我々にとって一番の難事は、そなたの処遇だ」

「私、ですか?」

「さよう。そもそなたが冠する称号は、本来であれば死後に審査され与えられるものだ。それを敬称として許されているのは、後ろ盾のないそなたの地盤を固めるため。だが――」

 アーバス司祭の口元に、うっすらと笑みが滲む。それは押し殺しきれない喜びが漏れたというより、鬱屈したなにかが顔を覗かせたというふうだった。

 ますますもって嫌な感じだ。

 フィレーネはローブの奥で眉根を寄せたが、アーバス司祭はそれに気づくことなく話し続けた。

「新たな浄化の祝福を授けられたのは、この国で最も尊き身であらせられる御方だ。正しき血と力とを受け継げし方、聖エルトの末裔(すえ)、第三王女であるエルネスティアさまこそ、聖女と呼ぶに相応しい。そなたとはなにもかもが比べものにならぬ」

「――アーバス司祭」

 フィレーネの挨拶に頷いて以降、ずっと黙したままだったノール枢機卿が口を開く。その地位に見合った威厳の感じさせる声だった。

 低く響いたその声に、熱に浮かされるようだったアーバス司祭が、はたと我に返った。

 彼は晒した醜態を恥じ入るように目を伏せる。ノール枢機卿はそれを見て、ちらと微苦笑を浮かべた。

「申し訳ない。聖女様(エステラ)には彼の失礼な態度を謝罪しよう。ただ我々にとって、聖王家に恩寵である祝福が戻ることは、長きに渡っての宿願だったのだ。多少の箍が外れるのも無理からぬこと、と理解してもらいたい」

「それは――ええ、もちろん。聖王家の慶事、私も心から喜ばしく思っております」

「気遣い痛み入る。……さて、本題だが」

 ノール枢機卿の視線を受けて、アーバス司祭が小さく頷いてみせた。

「浄化の力が顕現したことにより、エルネスティアさまは近く誓願を立てられ、教会入りすることになる。御身の尊さを思えば下手な階位は授けられぬが、さりとて象徴となる聖女がふたりもいては、要らぬ混乱を招くことになろう。よってそなたには、聖女の御位から降りてもらうことになった」

「それは当然でしょう。元より私には過ぎた称号でしたから。お返しすることに、異存はありません」

 それで、とフィレーネは首を傾ける。

「本題はなんでしょう。そのような話をするためだけに、わざわざお二方がここまで足を運ぶとは思えないのですが」

 ほんの一匙の皮肉を含ませた問いに、アーバス司祭が顔を顰めて苛立ちを顕わにする。

 聖王家に属するにしては、ずいぶんと分かりやすい御仁だ。司祭という立場が気の毒に思えてならならい。

 思わずフィレーネが苦笑すると、ノール枢機卿が長く深く溜め息を吐いた。

「ひと口に御位を降りてもらうと言っても、ことがことだけに容易くはいかないだろう。なにしろ前例のないことだ。下手に無理を通そうとすれば、要らぬ波風を立てることになる。我々としても、それは避けねばならない」

 そのために、とアーバス司祭が固い口調で後を続けた。

「そなたには還俗した後、我らの用意した者と婚姻を結んでもらうことになる。婚姻は還俗するにはこれ以上ない理由だからな。それに色ごとを原因とすれば、民や信徒も納得しやすかろう」

 ごく当然のことのように語られたそれに、フィレーネは戸惑いの声を上げた。

「あの、お待ちください。還俗はともかく、婚姻の必要があるとは思えません。理由ならいくらでも、それこそ病や気鬱を患ったことにすれば良いのではありませんか?」

「波風を立てるわけにはいかない、と言っただろう。婚姻の手はずを整えたのは、それが最善だったからだ。そも聖女の御座を降りる、とは立場だけを指すのではない。すなわち、そなたには聖女としての力そのものを放棄してもらうことになる」

「まさか――」

 愕然として返したフィレーネに、アーバス司祭は皮肉げに口を歪めてみせた。

「恩寵が宿るは清き乙女の身のみ。すなわち純潔を失えば、身に宿る恩寵もまた失われるのが道理。これ以上、確実な方法もあるまい」

 もはや呆れてものも言えなかった。同時に自分たちの都合のために、ここまでするのか、と苦く思う。

 神の祝福という望んで得たわけではない力のせいで、フィレーネはこれまでずっと振り回され続けてきた。なにかに期待することは止めて久しく、諦観ばかりが身に染みついている。

 物心ついたころから自由を奪われ、身に宿った力を酷使され、挙げ句に邪魔だと追い払うために、まさか婚姻まで押しつけられるとは思いもしなかった。虚しさと遣る瀬無さに思い沈むフィレーネに気づきもせずに、アーバス司祭は得意げに話し続けている。

 フィレーネに用意してやった夫がどれだけ素晴らしい人物か、立てた功績や人柄を並べ立て、感謝しろとまで宣っている。だがフィレーネを押し付けられる気の毒な相手に、哀れみ以上の興味を抱けるはずもない。

 上滑りするアーバス司祭の声を聞き流していたフィレーネは、不意に響いたノックの音に面を上げた。

 ぴたりと口を閉ざしたアーバス司祭の訝る表情を見るに、どうやら予定されていた来訪ではないらしい。戸惑いに静まり返った室内に、ノックに応える声は上がらなかったが、それに構うふうもなく扉が豪快に開かれた。

 戸口を立っていた修道女を押しのけて現れた人物を見て、フィレーネはフードの奥で目を瞬かせた。

 アラン・バーナード。望めば司祭につける身でありながら、巡礼と宣教こそが信仰であると主張し、助祭であり続けている変わり者だ。フィレーネとは浅からぬ縁もある。そのアランは呆然とするフィレーネに気遣わしげな眼差しを向けてから、恭しく膝を折ってみせた。

「お久しぶりでございます、聖女様(エステラ)。このような形でお目にかかることになったのは残念ですが、お変わりないようで安心いたしました」

 そう穏やかに言って面を上げたアランは、フィレーネの正面に座るふたりに、冷えきった眼差しを向けた。

「枢機卿におかれましても、ご機嫌麗しく。かように重要な話をするのに、我らの到着すらお待ちいただけないとは、思いもしませんでした。どうやら噂に違わず、ずいぶんとお忙しいようですね」

 皮肉たっぷりに言って、アランはにこりと微笑う。アーバス司祭がそれになにか返そうとするのを遮って、アランはさらに続けた。

「それで、話はどこまで進んだのでしょうか。貴殿らの身勝手を聖女様(エステラ)に押し付ける、実に馬鹿げた要求は済みましたか? ――ああ、答えは結構。その表情を見れば分かります。ならば私からの話より、先に彼を紹介した方が良いでしょう」

 言いながら立ち上がり、振り返ったアランの視線を追いかけて、フィレーネは初めて扉の前に佇む人物がいたことに気がついた。

 長駆の男性だ。襟足にかかる長さの短髪で、光を弾く墨色に不思議と視線が惹きつけられる。少し癖のあるそれがかかる顔立ちは端正だったが、切れ長の眼差しは鋭く、近寄りがたい雰囲気をかもし出している。身につけている真新しいローブが、上背のある逞しい体躯を引き立たせていた。

 修道士らしきその男性は、感情の篭もらない目でフィレーネを見つめている。なにを考えているか、まるきり読めないが、彼の灰がかった青い瞳は素晴らしく綺麗だった。

 その彼を手で示して、アランが言う。

「こちらはヴィジランス・イーグレット。この状況ですから、お察しのこととは思いますが、我々があなたに押しつける婚姻相手です。詳しい紹介は後ほど。それよりまずはあなたのこれからについて、話をさせてください」

 無礼な、と吐き捨てるように言ったのはアーバス司祭だった。彼は不満も顕わにアランを鋭く睨めつけた。

「助祭ごときが、差し出口が過ぎるにもほどがある。そなたに指摘されるまでもない。すべて良いように、我々が万事取り計らっておるわ」

「すべて良いように? 婚姻相手を宛てがい、縁の薄い生まれ故郷に送り出すことが、ですか? なるほど。大聖堂にお住まいの方々は、冗談がとてもお上手なようだ」

「貴様……っ!」

 激高し席を立とうとしたアーバス司祭を、ノール枢機卿が手振りだけで制する。高位の聖職者に相応しい冷静な振る舞いだが、アランに向ける眼差しには侮蔑のそれがはっきりと滲んでいる。どうやらこちらも感情を繕うのが不得手らしい。

 アランはそれすら鼻で笑って、悪びれたふうもなく言った。

「はは、嫌だな、ちょっとしたお喋りじゃないですか。ただの可愛らしい軽口なのに、本気になさらないでください。そんなことより、お忙しい枢機卿を無為に煩わせるのもよろしくないですからね。すべきことは、さっさと済ませてしまいましょう」

 アランは飄々とした態度を崩しもせず、祭服の胸元から折りたたまれた紙を取り出した。

 テーブルに置かれ広げられたそれには、公的書類であることを示す印が中央に捺されている。その印の下には線を引かれた空欄がふたつ並んでいて、更に下には婚姻証書という文字が記されていた。

 思わずアランを見ると、彼は遣り切れないと言わんばかりの表情を浮かべてみせた。

「大変申し訳ありませんが、こちらに署名(サイン)をお願いいたします。幸い、ここには枢機卿がいらっしゃいますから、立ち会い役をお任せしてしまいましょう。ああ、そうだ。ついでに証書の提出と管理もお願いしましょうか。私が預かってしまっても構わないのですが、それでは今回の件が人の口に上りかねないですからね」

「……あの、バーナード助祭。まさか、なにもかも内密に済ますおつもりですか?」

 フィレーネの問いに、アランが微苦笑を浮かべてみせる。

「そのようですよ。もっとも、沈黙は永続的なものではなく、時期を見定めてから公示なさるそうですが」

 アーバス司祭が鼻で笑う。

「正当なる聖女が降臨なさるのだ。その素晴らしい慶事を前に、先代の聖女が還俗するなど、信徒に知らせて意味のあることではなかろう」

 当然だと言わんばかりの語調に、フィレーネは思わず首を傾けた。

「……ひとつ、質問をしても構いませんか?」

 なんでしょう、とアランが穏やかな声で問い返してくる。

 一方アーバス司祭は、態度を取り繕う気も失せたらしい。不機嫌そのままに表情を歪めているが、フィレーネはそれを無視して口を開いた。

「婚姻で教会を離れてしまう前に、友に別れを告げることは許されるでしょうか。内情は打ち明けられないとしても、せめてこれまでの感謝や礼を伝えたいのですが」

 フィレーネの問いに答えたのは、ノール枢機卿だった。

「守護の誓いを立てた修道騎士、それと恩寵を持つ者であれば許可しよう。ただし我々に事前の許可を得るように。言わずとも理解はされているようだが、この件について詳細を語ることは一切まかりならぬ」

「それはもちろん、心得ております。では……なにか、書くものをお貸しいただけますか? まさか署名が必要になるとは思っていませんでしたので、お恥ずかしながら用意がないのです」

「……助祭、頼めるかね」

「そう仰ると思って、予め用意させてございます。聖女様(エステラ)がお使いなるには、あまり質の良くない品で申し訳ないのですが」

 言って誰にはばかることなくチェストを開けて、文具一式の載ったトレイを取り出した。

 真新しい羽ペンに、蓋の飾りが優美な小瓶がふたつ。片方には濃紺のインクが、もう片方には白の吸い取り砂が入れられている。

 それらをテーブルに並べたアランは、さあどうぞ、と言うふうに手で示してみせた。

 フィレーネは躊躇うことなく羽ペンを取り上げると、婚姻証書に署名を書き記した。それから羽ペンを置いて、証書を横についと滑らせる。黙して立ったままの婚姻相手を見上げると、彼は軽く息を吐いてからフィレーネの隣に腰を下ろした。

 ヴィジランス・イーグレット、と記した筆致は力強いが優雅だった。ペンを握る無骨な手からは想像し難いそれが、なんとなく強く印象に残った。

 空欄の埋まった証書を受け取って、ノール枢機卿は小さく頷いた。

 証書の隅から隅まで目を通してから、中央の印影に手をかざす。婚姻を寿ぐ聖句が厳かに響き、それに応えるように滲むような光が印影に灯った。

 ノール枢機卿が口を閉ざすと同時に、淡いそれは跡形もなく消えてしまう。

 それで一切が終わりだった。

 当然だが、フィレーネにはなんの感慨もない。隣に座るヴィジランスも同様らしく、ローブの影から覗き見た横顔には感情の類は窺えなかった。

 ノール枢機卿から手渡された婚姻証書を懐にしまい込んだアーバス司祭が、嘲るような顔で言った。

「枢機卿から婚姻の祝福を与えられるなど、滅多にないことだ。この得難い幸運に感謝を捧げ、今後は慎ましやかに暮らすが良かろう。おまえたちが王都に近づくことなく、家族として振る舞い続ける限り、我らが関わることは二度とあるまい」

 婚姻が結ばれると同時に、フィレーネは修道女の資格を失った。つまり聖女ではなくなったフィレーネには、人としての礼儀すら払う気もないらしい。

 用は済んだとばかりに席を立ったアーバス司祭の無作法に、ノール枢機卿は辟易としたふぜいでゆるく頭を振った。それでも咎め立てはせず、フィレーネに視線を当てて言った。

「我々はここで失礼させていただく。そなたが望んだ事態でないことは百も承知だが、ふたりの門出に幸あらんことを」

 そう真摯な口調で祝いでから、ノール枢機卿も腰を上げる。

 祭服の衣擦れの音だけを残して、ふたりは応接室を後にした。

 響く足音が遠くなる前に部屋の鍵を掛けたアランが、鬱屈したふうの溜め息を零す。彼は聖職者らしからぬ罵詈雑言を小さく吐いてから、フィレーネたちを振り返った。

 すみません、と小さく謝罪をして、胸元から小さな枝のようなものを取り出した。

 人差し指ほどの長さのそれを軽く振ると、先端に小さく火が灯る。もう一度振ると火は消えて、白色の煙がゆるやかに立ち昇った。

 一見すると煙草のようだが、沈黙の枝という名の立派な魔道具だ。立ち昇る煙が人の声を閉じ込めて、術の行使者の定めた外より漏れることは決してない。沈黙の枝は使われている素材も、術の構成も単純だから安価で、それで市井にも広く出回っている。使うと煙たくなるのが唯一の欠点だったが、アランの腕が良いようで、燻ることなく白煙がゆらゆらと揺蕩っている。

 アランは沈黙の枝を灰皿に乗せてから、フィレーネたちの正面に腰を下ろした。

 まっすぐフィレーネに視線を当てて、それから深く頭を下げた。

「此度の一件、我々の力が及ばず聖女様(エステラ)には大変申し訳ありませんでした。御身をお護りするためとは言え、このような事態になったことは慚愧に堪えません。どのような叱責、処分も受け入れる所存です」

 悲壮な声で言うアランに、フィレーネは思わず苦笑する。

「どうか顔を上げてください。それと……聖女様(エステラ)はすでに返上した称号です。私のことは、どうぞフィレーネと」

「そんな、どうかお止めください……! たとえ聖職から離れたとしても、御身の尊さはなにひとつとして失われはおりません。なによりあなたが成した功績の数々、残した奇蹟。聖女の名を冠するに相応しい者は、あなたの他にどこにいるというのです」

「……教会内の政治の複雑さは、私もそれなりに理解しているつもりです。私が還俗することで、崩れる力関係もあるのでしょう。それを起因とする混乱を思うと、心は痛みます」

 ですが、と言ってフィレーネは咎める口調で告げる。

「新たに祝福を得た尊き方を、貶めて良い理由にはなりません。浄化の旅には常に苦難がつきまといます。教会を去る私が言えることではないのでしょうが、どうか彼の方の支えになってさしあげてください」

 項垂れたアランが沈鬱に呻く。

 気落ちしきった様子を見ると気の毒に思うが、これ以上フィレーネに出来ることはなにもない。むしろ同情しなければならないのは、とフィレーネは隣に視線を向けた。

 見られていることに気づいて眼差しを返してくる彼に、フィレーネは深々と頭を下げた。

「私が意図したことではないとは言え、このような事態に巻き込んでしまい、大変申し訳ありませんでした」

 いえ、と応える声は低く滑らかだ。表情と同様に感情は読み難いが、そこにフィレーネを厭うようなものは含まれていない。初対面で好悪の抱きようもないが、とは言えこれから家族となる相手である。少なくとも嫌われてはいないらしいことに安堵して、フィレーネはそっと溜め息を落とした。

 では自己紹介を、と思って挙げた視界にフードの影がかかる。婚姻により聖女ではなくなったのだから、もはや顔を隠す必要はないだろう。

 フィレーネはひとり頷いてフードを背に下ろし、改めて夫となった相手に視線を向けた。驚きに目を瞠ったヴィジランスに、にこりと微笑んでみせる。

「順序が逆、というよりもなにもなかったようなものですが……はじめまして。フィレーネと申します」

「……ヴィジランス・イーグレットです。あなたのご高名は、かねがね伺っております」

「至らぬばかりで、お恥ずかしい限りですが。……ええと」

 イーグレットさまは、と言ってフィレーネは首を傾ける。

「修道士でいらしたのですか?」

「ああ、いえ――どうぞヴィジランス、とお呼びください。それと私に敬称は不要です」

 淡々とした声で応じてから、生真面目に言う。

「私は修道士ではなく、元修道騎士です。身の不始末で剣と証は返上しましたもので、ここに立ち入るにあたって、修道服を特別に借り受けております」

 道理で、とフィレーネは内心だけで呟いた。

 真新しい修道服は彼によく似合っていたが、着慣れていないのは見て明らかだった。

 すでに教会と縁を切っていた彼がフィレーネの夫として選ばれた理由は気になるが、ともあれ巻き込まれるかたちで信仰を奪うことにならずに済んでなによりだ。そのことに思わず安堵の息を漏らしたところで、アランが申し訳無さそうに口を開いた。

「自失していた私が言えたことではありませんが、あまり時間がありません。おふたりの処遇について、話をさせてください」

「処遇、ですか?」

 フィレーネの問いかけに、アランがこくりと頷く。

「先ほどの彼らは、還俗したあなたをただ放逐するつもりでいたようですが、教会に身を捧げられた尊い御方に、そのような不義理は出来かねます。僭越ではありますが、住む場所と生活の基盤を用意いたしました」

「……故郷に戻されるのではないのですか?」

「まさか、とんでもない。言葉が過ぎるのを承知で申し上げますが、フィレーネさまがお生まれになった村は、おふたりが暮らすに相応しいとは言い難い場所です。ですから新居はシャウラ中央、アルヘイナの外れに用意させていただきました。アルヘイナは交易が盛んで、人の出入りも多い地域です。還俗した元聖職者が居を構えても、さして違和感を持たれないでしょう。もちろん、領主には既に話は通してあります。それから――」

 と言ってアランは紙片を二枚、テーブルに載せて滑らせた。

 手のひらに収まる大きさのそれは、走り書きされたような文字で埋め尽くされている。取り上げて目を通そうとすると、アランが慎重な口ぶりで言った。

「念の為に、おふたりの来歴を用意しました。書いてある内容は頭に叩き込んだ後、火にくべるようお願いいたします。おふたりの出立は十日後、それまでに準備を済ませておいてください。――ああ、それと別れを告げる方は、もうお決まりですか? 今、名を挙げていただければ、すぐに許可を取ってまいりましょう」

 少し考えてから、フィレーネは口を開いた。

「では私の護衛騎士のキャロルと、聖別の乙女であるシスター・ゾフィを。私が教会から姿を消して、大騒ぎしそうなのはこのふたりだけですから」

 詳細は語るなとノール枢機卿に命じられたが、キャロルとゾフィのふたりにはすべて打ち明けるつもりだ。不要な秘密を背負わせることにはなるが、あのふたりならそれを負担とは思わずにいてくれるだろう。むしろフィレーネがだんまりを決め込んだら烈火のごとく怒り出しかねない。

 アランはフィレーネが挙げた名を口の中で呟いてから、しっかりと頷いてみせた。

「そのおふたりでしたら、まず問題ないでしょう。ですが許可が下りるまでは、くれぐれも内密にお願いします」

 言ってアランは腰を上げる。

「慌ただしくて申し訳有りませんが、私はこれで失礼させていただきます。――イーグレット」

 アランに名を呼ばれた彼は、騎士らしい所作で立ち上がると、フィレーネに向かって略式礼を取った。アランも膝を突く最敬礼を取ってから、ヴィジランスを伴い足早に応接室を後にした。

 応接室にひとり残されて、フィレーネは細く長く息を吐いた。

 教会を離れるまで十日、それまでにやらなければならないこと、考えなければならないことは山ほどある。だというのに、まるで頭が働いてくれなかった。

 婚姻を済ませ還俗した訳だが、どうにも現実感に乏しくて、なんだか夢を見ているかのようだ。思いもよらぬ形で自由を手に入れたというのに、それとどう向き合うべきなのかすら分からない。

 聖女として見いだされ教会に囚われて、気づけば十五年もの時間が過ぎている。ずっと解放されたいと願い続けてはいたが、一方でそれが叶うことはないと諦めてもいたのだ。

 教会を離れることを不安に思えば良いのか、それとも喜ぶべきだろうか。

 答えを出せないままフィレーネはゆるく頭を振り、フードを被ろうとしたところで、手の中に紙片を握りしめていたことを思い出した。

 取り敢えずここで読んでしまおう、紙片に視線を落とし、そこに書かれている内容に目を通して、フィレーネは困ったような、呆れたような曖昧な表情を浮かべた。

 それによるとフィレーネは貧しい農村の生まれで、五歳の齢で食うに困った家族の手で教会に捧げられたらしい。

 かくして幼くして俗世から断ち切られ、修道女となったフィレーネだったが、ある日役所から一報がもたらされる。それは戦争により故郷と家族が失われたこと、それと同時に唯一の生き残りであるフィレーネが、遠縁の相続人になったことを報せるものだった。

 フィレーネに莫大な財を残したのは母方の親族で、変わり者で家族にも恵まれなかったらしい。親兄弟や親戚も亡く、それで血縁を辿りに辿ってフィレーネの母に行き着いたのだ。ところがその母も子らも、戦乱で命を落としてしまった。皮肉にも教会に入ったことで生き延びたフィレーネに、夢のような幸運が授けられた、というわけだ。

 ただし修道女の身分では遺産の相続は叶わない。それでフィレーネは還俗し、教会を出ることになった。それはつまり慣れ親しんだ場所や友人知人と離れることでもある。俗世との隔たりは大きい。彼らと二度と会うことがなくなることを憂いたフィレーネは、かねてより淡い恋をしていたひとりの修道騎士に思いを告げることにした。

 振られるつもりで恋心を打ち明けて、だが相手もフィレーネを憎からず思っていたのだ。せっかく思いが通じ合ったというのに、ここで離れ離れになってしまうのは辛い、と相手も還俗することを決め、フィレーネと新たに家族を築くこととなった。

 なんとも薄ら寒く都合の良すぎる話だが、一応の整合性は取れている、はずだ。それに来歴は嘘ばかりではなく、微妙に真実が混ぜられている。これなら誰かになにかを訊かれたとしても、うろたえることなく対処できるだろう。

 細かな点は夫、ヴィジランスと詰める必要があるが、それはアルヘイナまでの旅程でどうにかすれば良い。

 旅程、と思わず口の中で呟いたフィレーネは、ふと首を傾けた。

 地の浄化で旅慣れている彼女だが、思えば戻り路のないそれは初めてになる。不足が無いように支度も荷も、よくよく吟味しなければならない。

 手伝いを頼めない状況なのに、果たして十日で準備が間に合うのだろうか。フィレーネは煙を吐く沈黙の枝に紙片をくべながら、深く長く溜め息を落とした。

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