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 敬虔なる神の僕たちは言う。この庭は神の膝下、楽園へと至る階である、と。

 地面を埋め尽くすほどの青い花、そこから立ち上る芳しい香りは、なるほどそう評するに相応しいだろう。ましてや花は聖宝、レイダシス建国の折に神より恵み与えられた恩寵だ。花弁は煎じて飲めば万病を治し、茎や葉から抽出した水薬は、骨に達するほどの傷ですらたちどころに癒やしてしまう。

 まさしく聖宝、しかしそれは祝福無しには決して芽吹かず、だからこそ咲き誇る一面の青に人々は神の愛を実感する。

 信仰の結実する場所、奇蹟を体現する地。

 ――でも、と花々の中に立ち尽くしていたフィレーネは、深く被ったフードの奥で小さく息を吐いた。

 神の膝下と称するにはこの場所は、あまりにも狭く窮屈だ。四方を囲う壁に手を触れさせたまま、一周ぐるりと進んでおよそ五百歩。恩寵の庭は、たったそれだけの広さしかない。

 それ故に育まれる花の数には限りがあり、その恵みに与れる者にもまた限られている。その希少さが人々に諍いを生み出す一方で、神聖性を高め、崇敬を集めているのだから、なんとも皮肉な話だろう。

 フィレーネはもう一度溜め息を吐くと、何ら気負うことのない風情で聖宝の一輪を摘み取った。

 神の祝福を持たない者が触れれば、立ちどころに枯れてしまう可憐な花は、だがフィレーネの手の中で瑞々しく咲き綻んでいる。

 フィレーネが貧困から掬い上げられ、そしてこの場所に縛り続けられている理由のひとつがこれだった。

 触れてはならぬ物に触れることを許された、聖別の乙女。神の赦しを受けた彼女は花弁ひとつ落とすことなく、手に提げた籠に一輪、もう一輪と青い花を手折っていく。そうして摘んだ花で籠が重くなった頃、鉄柵の軋む音に気付いてフィレーネは身を起こした。

 ずれたフードを直しながら振り返れば、フィレーネと同色のローブを纏った少女が大きく手を振っている。フードから零れる栗毛がふわふわと揺れるのを見て、フィレーネは口元を柔らかく微笑ませた。

 ゾフィ、と少女の名を呼んで、小さく手を振り返す。彼女もフィレーネ同様、花を手折ることを許された聖別の乙女だ。

 あぜ道を軽やかな足取りで歩く彼女は、フィレーネの前で足を止めると、そばかすの散った顔に明るい笑みを浮かべてみせた。

「まったくもう、やっぱりここにいたのね。あなたの勤勉さにケチをつける気はないけど、いい加減にしないとお昼を食べ損ねちゃうわよ」

「もう、そんな時間? 昼の鐘は聴こえなかったのだけれど……」

「鐘はまだだけど、そうじゃなくて。フィレーネったら、朝の通達を聞いてなかったの? 今日は御大層なお客人がいらっしゃるから、食堂が使えないって言ってたじゃない。だからスープとパンが無くなる前に、さっさと取りに行かないと」

「お客人?」

 そう問い返すと、ゾフィが思い切り顔を顰めてみせる。

「呆れた。フィレーネに連絡が行ってないなんて、司祭たちの怠慢も良いところじゃない。――ああ、でも、無能な誰かさんを突き止めるより先に急がないと。調理部の締まり屋連中が、私達の分を取り置くなんて親切をしてくれる訳がないんだから」

 むくれて言ったゾフィは、フィレーネが抱えていた花籠を取り上げた。

 代わりに手を取って、来たあぜ道を引き返して行く。ゾフィに引きずられるようにして歩きながら、フィレーネは目の前の華奢な背中にのんびりと問いかけた。

「ゾフィは、お客人が誰か知っている?」

「……御大層な方、としか知らないわ。でも護衛のヴィクターが、外門の通りから竜車が入って来るのを見かけたらしいの。それも二頭立の立派なのが三台も。たぶん教会のお偉方か、どこかの貴族が来てるんじゃないか、って」

「竜車を使うなら、そうでしょうね。でも……困ったわ。私、そっちの連絡も受けていないの。貴族の方が来るのなら、顔を出さない訳にはいかないでしょうに」

 溜め息交じりに言って、フィレーネはひっそりと眉根を寄せた。

 聖アルコルの名を冠したこの教会は、外部からの立ち入りを固く禁じている。それは恩寵の庭を守るための規則であったが、しかし、なにごとにも例外というものは存在する。

 多額の寄付を納めてくれる貴族や商人には、巡礼に対する祝福という建前でもって、来訪を受け入れているのだ。彼らの目的は奇跡に(まみ)えること――すなわち恩寵の庭を眺め、聖別の乙女と言葉を交わすことにある。中でも生きた聖女(、、、、、)であるフィレーネを拝謁することに、来訪者は格別の価値を見出しているらしかった。

 そも聖女とは本来、死後に冠される号である。豊穣、治癒、浄化、人に許されたすべての祝福を授けられ、生前に功績を立てた者のみが、厳粛な審査を経た後に列聖される。生者に号が贈られたのは過去に数例あるのみで、そのどれもが国難に陥ってのことだった。

 フィレーネもその例に漏れず、戦後の混乱期に列聖されている。今から十二年前のことだ。

「日々のお勤めに、客人のご機嫌取り。まったく聖女さまは大変ね」

 揶揄ではなく同情する響きの声に、フィレーネは苦笑する。

「聖女の名に見合うだけの力もないのにね」

 これは卑下や謙遜ではなく、純然たる事実だった。

 身に宿る祝福の数だけは聖女の条件を満たしているフィレーネだが、その力は特段に優れているわけではない。むしろ他より劣っていると言っても良かった。

 神の祝福は人にあまねく降り注ぐものだが、それを受け取る器が身の裡になければ、力として行使することは叶わない。だが器があるからと言って、祝福のすべてを受け取れるとは限らなかった。中でも浄化の祝福を受け取れる者は希少で、今はこの世界にフィレーネひとりしかいない。

 力の劣るフィレーネが、列聖された最大の理由がこれだった。

 我が身の至らなさを補うばかりの称号は、しかし敬虔な信徒には尊いものとして映るらしい。謁見の場で向けられる崇拝の眼差しを思い出して、フィレーネは小さく溜め息を吐いた。

「……せめてもう少し、見栄えがする外見だったら良かったんだけど」

「なに言ってるのよ。フードがあるんだから、正面から見ても顔なんて分からないじゃない。それに一応言わせてもらうけど、フィレーネの見た目はそう卑下をするものではないわよ。聖誕祭のパレードで馬車から手を振るあなたの姿は、子供だった私の憧れだったんだから」

 花籠を揺らす勢いで言ったゾフィに、フィレーネは睫毛を瞬かせた。

「聖誕祭? ああいう状況なら、それこそ顔なんて見えないと思うんだけど……」

 片手でフードを引っ張りながら、そう零す。

 聖職者の証として授けられるローブにフードがあるのは、風雨避けや防寒ではなく人目を遮るためのものだ。ローブの縁には認識阻害のまじないが刺繍されているから、どこから覗き込んでも顔貌を捉えることは不可能の筈だ。

 祝福として授かる力が有用かつ希少である以上、それを利用しようと狙う者は必ず現れる。だから顔を隠し素性を伏せ、他に紛れさせることで身の守りとしている。

 聖職者の纏うローブが位階を問わず、すべて同一の意匠であるのも同様の理由からだった。

 聖女であるフィレーネに至っては、顔だけでなく名前すら世に伏せられている。

 そんな顔も名前もない存在に、果たして子供が興味を持てるものだろうか。思わず首を捻ったフィレーネに、振り返ったゾフィがむくれた顔で言う。

「見えなくても分かるものなの。だって……ほら、にじみ出る雰囲気とか、立ち居振る舞いとか、なんとなくの感じってあるじゃない」

「つまりはイメージ、ってことね」

 くすくすと微笑いながら言って、フィレーネはゾフィに引かれていた手を放した。

 足を止めたゾフィを横から追い越して、固く閉ざされた鉄柵門に手をかける。

 四方を囲む壁をくり抜かれ設えられた門は、侵入者を阻む頑丈な造りをしている。数人がかりでも動かせない重さのそれは、だがフィレーネが押し板に触れると、滑るような軽やかさで開いた。

 二百年前に庭の基礎を築いた、聖人アルコルによる仕掛けだ。かの聖人は魔道具を作る才に長けた人物で、教会内にこの手の仕掛けを山ほど残している。豊穣の祝福を授けられた人だから、門を開けることが出来るのは豊穣の祝福を持つ者のみだ。翻せば祝福を持たない者は、ひとつの例外なく庭に立ち入ることも叶わない。

 聖宝が咲き誇る恩寵の庭に、護衛のひとりも配されていないのはこの護りがあるからだ。堅牢な門が閉じる重たげな音を聞きながら、フィレーネは外で控えていた護衛騎士に声をかけた。

「ごめんなさい、キャロル。少しのつもりが、ずいぶんと待たせてしまったみたい。退屈だったでしょう?」

 そう謝罪を口にしたフィレーネに、栗毛をひっつめた女性騎士がにこりと微笑う。フィレーネの名ではなく聖女様(エステラ)、と号を呼んで、恭しく胸元に手を当てた。

「とんでもありません。御身をお護りするのが私の使命、大事なお役目についている聖女様(エステラ)を思えば、待つことなど少しも苦になりません」

「相変わらず大げさねぇ」

 呆れた声で零したゾフィに、キャロルが生真面目に返す。

「大げさではなく、事実です。聖女様(エステラ)の尊き献身を思えば、御身は貴ばれ尊重されるのは当然のことでしょう。それに護衛は待つことも大事な務めですから」

「大事な務め、ねぇ? そんなふうに格好つけたって無駄よ、無駄。キャロルったらフィレーネがなかなか出てこない、ってしょんぼりしてたじゃないの。没頭したら周りが見えなくなるのは、フィレーネの良くないところではあるけどね。でもそれを把握して対策するのが、あなたたちの仕事でしょ?」

 護衛として何年そばにいるのよ、とゾフィに白々とした目を向けられて、キャロルはむっと鼻に皺を寄せた。

「シスター・ゾフィ。それなら私も言わせていただきますが、聖女様(エステラ)の御名を軽々しく口にするのはお止めください。聖別の乙女であるあなたが、名を伏せることの意味を知らない訳ではないでしょう?」

「まったく、あなたったら本当に融通が利かないんだから。この状況を見てみなさいよ。私とフィレーネとあなた以外、ここに誰がいるって言うの? だいたい私はね――」

 軽口だった言い合いが、だんだんと感情的になり始めるのを察して、フィレーネはのんびりとふたりに割って入った。

「はい、そこまで。あなたたちが気遣ってくれるのは嬉しいけど、それをじゃれ合う理由にしないでちょうだい。それに……これは私が言えたことではないけれど、急がないと昼食を食べあぐねるのではないかしら」

 フィレーネが言うと、ゾフィとキャロルのふたりが顔を見合わせる。その表情になにがしかの合意があったことを見て取って、フィレーネはひとつ頷いてから歩きだした。

 半歩遅れて付いてくるキャロルに言う。

「そう言えば待っている間、なにか変わりはなかった?」

 首を巡らせて問いかけると、キャロルがはきとした声を返した。

「いいえ、いつも通りです。加療院に詰めている者たちが催促に来ていましたが、ここで急いでどうにかなることではありませんし」

「……それでも、なにかせずにはいられないのよ。私も手伝いに招集されたけれど、事故は本当に酷い有様だったから。あれでは落ち着くまでに、まだしばらくかかるでしょうね……」

 摘んだ聖花から水薬を抽出するには、手間も時間もかかる。そのくせ出来上がったものは劣化が早く、作り置くことが不可能だった。加えて教会は、水薬の精製と流通とに強い制限をかけている。そうやって希少さと価値を高めることによって、人々の信仰心を煽っているのだ。愚かとしか言えないそれに従うしかない無力さに、フィレーネはそっと唇を噛んだ。

 傍らのゾフィがはばかるような声音で言った。

「ねえ、事故って……工業区の?」

 問いかけに、うん、とフィレーネは頷く。

 教会を中心に発展した王都レイナスは、国の中枢としては混沌とした構造をしている。大聖堂を主体として敷かれた道は狭く、それが無軌道に四方八方へと伸びるさまは、蜘蛛の巣がごとしだ。

 そんなふうに敷かれた道が無秩序であれば、沿う建築物も同様で、軒を連ねるそれらは幅も高さも様式さえもまちまちだった。

 時代が下るにつれて区画の整理が行われるようになったものの、住民の生活に影響が出ることだけに、進捗ははかばかしくない。唯一の例外と言えるのが西に広がる工業区で、河川港を中心に建物が効率的に配置されていた。それは街を構築するにあたって、職人たちが利便性を求めて動いたからだった。

 工業区の住人たちは組合の影響が強く、横の繋がりが堅固だ。余所者に対する目が厳しいから、滅多な者は近づくことがなく、おかげですこぶる治安が良い。組合の協力を仰げば人流の管理も容易で、それで教会の慰問先に選ばれることも多かった。

 聖女であるフィレーネも幾度となく足を運んでいて、職人たちの中には馴染みになった者もいる。フィレーネにとって面会を求める貴族よりも、よほど親しみを感じられる場所だ。

 そんな工業区で爆発事故があったのは十日前、朝早くのことだった。

 フィレーネたちは丁度朝の礼拝を終えたところで、事故の衝撃は聖堂の分厚い壁を震わすほどだった。事故による凄まじい被害の報告がもたらされたのは、それからすぐのことだった。

 真っ先に動いたのは加療院の治療師たちで、だがそれでは到底、手が足りるものではなかった。それで癒やしの祝福を持つ者は、その力の大小を問わずに駆り出されることになったのだ。

 聖女の名を冠するフィレーネも例外ではなく、朝食を摂る間もなく馬車に飛び乗った。だが悲しいかな力の劣るフィレーネに、出来ることはほとんど無いに等しかった。

 名ばかり立派で役立たずな自分に苦い息を吐いて、フィレーネは工業区の方角へ視線を向けた。

「何も出来ない自分が、つくづく嫌になる」

「いいえ、決してそんなことはありません……!」

 そう半ば叫ぶように言ったのはキャロルだった。護衛の常で塞がずにいる彼女の右手が、縋るようにフィレーネの袖を掴んでいる。必死な彼女の眼差しに、フィレーネは思わず足を止めた。

 どうしたの、と問うとキャロルは熱の籠もった声で言った。

聖女様(エステラ)は私たちの希望です。あなたがこの世にいらっしゃることが、我々神の信徒にとってどれだけの支えとなるか。それなのに、なにも出来ないなどと、そんな悲しいことをおっしゃらないでください」

「キャロル……」

「それに工業区の職人たちも言っていたではありませんか。あれは過ぎた技術だった――鉄馬車の動力に精霊を利用するなど、神に許された領域を超えてしまったのだ、と。彼らはその報いを受けただけです。あなたが気に病む必要など欠片もありません」

 そう言い募るキャロルの隣で、ゾフィが溜め息を落とす気配がする。フィレーネの胸中も苦いものでいっぱいになったが、それは面に出さずに頭を振った。

「だめよ、キャロル。私を庇おうとしてくれるのは分かるけど、それは口にしないで。彼らもあなたと同じ神の信徒、救いの御手に庇護されるべき人たちよ」

「っ、それは……ですが彼らが作っていたのは、どう考えても戦争の道具ではありませんか。彼らの手掛ける技術が物になると分かれば、国は開戦を早めかねません。もし戦争になれば人は傷つき血が流れ、地は怨嗟に汚されるでしょう。身を削ってそれを浄化するあなたの苦しみを、私はもう見たくないのです」

「あら、それって要はあなたのわがままじゃない。キャロルったらずいぶんと傲慢なのね」

 キャロルの必死さに反して、響いたのはゾフィの辛辣な声だった。

 彼女は無邪気を装った表情で、可愛らしく首を傾げて言った。

「怨嗟を浄化する力はフィレーネだけのもの。そして、それに伴う辛苦だってフィレーネだけのものなのよ。それを私たちが知ったような顔で同情するなんて、失礼にもほどがあることだわ。キャロル、あなただって女の身で剣を振るうなんて気の毒に、なんて言われたら嫌な気分になるでしょう?」

「それは、そうですが……」

「そうですが、じゃなくて領分を弁えなさい、と言っているのよ。あなたの役目は聖女様(エステラ)の身を護ることで、フィレーネの心に踏み込むことではないのよ」

 ゾフィ、とたしなめる声で言う。傍らの彼女はフィレーネに視線を向けると、悪びれたふうもなく肩を竦めてみせた。

「だって腹が立つじゃない。キャロルの言い分を聞いてると、フィレーネや私たちのしたことが無意味に思えてくるんだもの」

 キャロルが弾かれたように面を上げる。

「まさか。そんなことは微塵も思っていません!」

「そう? でも、キャロルがどう思ってるかは関係ないわ。だって、私たちがどう受け取るかだもの」

 ねえ? と可愛らしく問いかけられて、フィレーネは唇に微苦笑を滲ませた。

「……ゾフィ、言い過ぎよ。工業区の件であなたに負担がかかっているのは知っているけれど、だからと言ってキャロルに八つ当たりするのは良くないわ」

 気持ちは分からなくはないけれど、とは内心だけで零して、フィレーネは止めていた歩みを再開させる。

 フィレーネにとってキャロルは信頼出来る護衛で、気心の知れた素晴らしい友人だ。それでも時折、彼女が向ける尊崇の眼差しに、言いようのない息苦しさを覚えることがある。

 神の祝福は、当人が望む望まざるを問わずに授けられる力だ。それに流れる血の尊さ、信仰の篤さ、それらはいっさい忖度されない。

 事実、フィレーネは国境沿いの山間部、教会の庇の届かない辺境の生まれである。日々の糧を得るだけで精一杯で、信仰心など持つ余裕は欠片も存在しなかった。

 だと言うのにフィレーネの身に神の祝福は注がれて、庇護という名の下に教会に押し込められている。飢えることのない暮らしは恵まれたものだと解っているが、閉塞感は常にフィレーネの身に付き纏っている。教会入りが自らの意思ではなかったのだからなおさらだった。

 こればかりは余人の理解に及ぶものではないだろう。

 神の祝福を受ける身であるゾフィですら、フィレーネの抱える苦しみを分かち合うことは不可能だ。だからフィレーネは胸にひそむ様々なものを飲み込んで、苦笑と言うには曖昧な笑みを浮かべてみせた。

 振り返り、足を止めてしまったふたりに声をかけようとした時だった。

 教会の尖塔、そこに吊された鐘が割れんばかりの音を響かせたのだ。

 教会にある鐘は魔術のかかった宝具だ。定められた刻限以外に鳴ることはない。例外は王家の慶事と凶事のみで、だがそれは事前に周知があってのことだった。

 なにも知らされずに鳴る、なんてことは今まで一度もなかったことだ。

 そのことにフィレーネたちが戸惑っていると、辺りがにわかに騒がしくなる。慌てた風情で大聖堂から出てくる者、修道館へ足早に向かう者、それらでごった返す者たちの中に、ひとりフィレーネたちに向かって駆けてくる姿があった。

 護衛騎士の隊服に身を包んだその青年は、フィレーネに向かって恭しく膝を突いた。胸に右手を当て、フィレーネを見上げて言う。

聖女様(エステラ)、こちらにおいででしたか。なにが起こっているのかは、人をやって調べさせているところですが、ひとまず修道館へお戻りください。今は御身の無事を確保させていただきたく存じます」

 彼の真剣な声に、フィレーネは頷く。

「ええ、分かったわ。……今のところは私の手が必要な状況ではない、ということで良いのかしら?」

「はい。司祭さまより、そのように伺っております。聖別の乙女については、教会内におられるのでしたらいかようになさっても構わない、と。そのまま聖花を放置するわけにもいかないでしょう」

 フィレーネは思わずゾフィに視線を向ける。見返す彼女は目に不審を滲ませていたが、それについては触れずに手にした籠を揺らしてみせた。

「それなら任せて。聖花は私が責任持って処理しておくから。それと昼食のことも心配しないでね。フィレーネとキャロルの分、どうにかして都合つけてくるから」

「ありがとう、ゾフィ」

 うん、と頷いてゾフィは加療院のある方へと歩み去っていく。それを眼差しで見送って、フィレーネは護衛騎士を伴に修道館に足を向けた。

 建物には男女の差異なく立ち入れる修道館だが、寝起きする個室だけは階層に分かたれている。女性が住まうのは最上階で、フィレーネの部屋はその最奥に配されていた。

 フィレーネの前、浄化の祝福を持つ女性が使っていた部屋だったが、とは言っても造り自体は他とほとんど変わりがない。寝台に文机、小さなクローゼット、琺瑯の器が置かれただけの洗面台、明かり取りの窓と、その下に設えられた礼拝台。護衛騎士の控える続き部屋だけが、他に無いものだった。

 フィレーネは普段どおりの代わり映えのしない自室を見渡してから、ずっと被っていたフードを背に落とした。

 癖のない真っ直ぐな灰茶の髪が、さらさらと肩から滑り落ちていく。必要だからと伸ばしている髪だが、長いそれは肩に腕に絡んで何をするにも邪魔になる。フィレーネは髪を適当に払うと、ローブのポケットから結紐を取り出した。

 ざっくりとひとつに纏めて括り、それでも落ちてくる分をピンで留める。あまりに雑で褒められた有様ではなかったが、誰に見られる訳でもないから構わないだろう。

 ゾフィが言っていた貴人らしき客も、この状況では拝謁は叶わず追い返されているに違いない。

「……面倒事がひとつ、減ったと喜ぶべきかしら」

 そう口の中で呟いたところで、続き部屋の方で微かな物音が響いた。

 人の気配がする。ややあって扉をノックする音がして、フィレーネは入出を許可する応えを返した。

「失礼します」

 言って部屋に入って来たのはキャロルで、彼女はフィレーネの頭を見てわずかに眉根を寄せた。

 小言を口にしたそうにして、だが何も言わずにただ溜め息だけを吐く。キャロルは扉の鍵を掛けると、手にしていた籠を文机に置いた。

「昼食をお持ちしました。別の部屋をご用意出来ればよかったのですが……申し訳ありません。騎士たちに招集がかけられたようで、十分な護衛を揃えられませんでした」

「気にしないで。食べられるなら、場所はどこでも構わないから。それで……結局、あれは何だったか原因は分かったの?」

「いいえ、それはまだ。ただ――」

 否定を口にしてから、キャロルは言葉を途切れさせる。彼女は困惑しているような表情で、ひどく言いにくそうに呟いた。

「これはあくまでも私の印象でしかないのですが……混乱している中に、情報の制限をしようとする意図を感じます。確証がある訳ではないので、参考程度にしかなりえませんが」

「真っ先に私を閉じ込めたことを考えれば、キャロルの感じたそれはおそらく正しいのでしょうね。なんだか気になることばかりだけれど、でもここで考えていても何も始まらないわ。それに、なにかが起こったのなら、待っていればいずれ分かるでしょう」

 ものごとの外側に置かれることも、ただ待たされることも慣れている。こういう状況において、文句を言ってもなにもならないのは身に沁みたことだった。

 フィレーネはそれと判らない程度の苦笑を零し、文机の粗末な椅子に腰を下ろした。

 置かれた籠を覗き込むと、中にはパンとチーズに瓶に入ったガス入りの水、椿桃が入れられている。質素ではあるが、空腹を満たすには十分過ぎるくらいの食事だ。

 フィレーネは居住まいを正し神に祈りを捧げ、それから食事に手をつけた。

 日々の糧は沈黙と共に得ることが戒律で定められている。それは食堂を離れた場所でも変わりなく、フィレーネは身に馴染んだ静けさの中で昼食を終えた。

 片付けを済ますと、なにを言うまでもなくキャロルが籠を下げてくれる。ややあって戻って来た彼女は、フィレーネを見て困惑したふうの表情を浮かべてみせた。

「……なんだか、妙な感じかします」

「妙?」

 フィレーネが問うと、キャロルが眉間に皺を刻む。彼女はほんの少し躊躇う素振りを見せてから、生真面目な口調で言った。

「教会内の様子に違和感があります。大半の者たちは不安そうにしているのですが、そうでない一部の者……それも高位の方たちが、どこか浮き立っているように見えるのです」

「つまりさっきの鐘は、王家に関する慶事だった、ということかしら。それなら悪いことではないと思うのだけれど」

「普通に考えればそうでしょう。ですが……単なる慶事にしては、聖女様(エステラ)への対応に疑問が残ります。鐘が慶事であるのなら、あなたをここに閉じ込める必要はないはずです」

 確かにそのとおりだ。

 祝福を授かった者を教会で囲うのは、その力を狙う存在に奪われるのを阻むためだ。だが鐘が慶事を報せるものであるならば、この軟禁じみた過剰な警護は平仄が合わない。

 とは言え誰が耳を澄ませているか判らない状況で、教会の意に逆らう言動は慎むべきだろう。フィレーネは胸中にある様々な感情を飲み込むと、キャロルににっこりと微笑んでみせた。

「ここで気を揉んでも仕方がないわ。ただ、なにがあっても良いよう心積もりだけはしておきましょう。――それよりも、キャロルにお願いがあるの。ただじっとしているのは時間が勿体ないわ。だから悪いけれど、なにか手仕事がないか訊いてきて貰えないかしら」

 キャロルが、ふ、と小さく苦笑を浮かべる。

「そう仰ると思って、繕い物と毛糸を用意してあります。ここでは下着と靴下は、いくつあっても足りませんから」

「……毎度のことだけれど、今の時季に編み物は辛いものがあるわね」

 今は丁度、夏に差し掛かったばかりだ。石造りの修道館は中に入ればひんやりと涼しいが、毛糸にまみれて心地良いとは言い難い。

 覚えずうんざりとした表情になったフィレーネにキャロルは浮かべていた苦笑を深くした。

「でしたら、なおさら今のうちに編み物を済ませてしまいませんと。これから暑くなるばかりですよ」

「……このやり取りも毎年ね。いいわ。キャロルの言うとおり、厄介事は先に片付けてしまいましょう」

「はい、聖女様(エステラ)

 くすくすと笑いながら頷いて、キャロルは続き部屋に引き返していった。

 すぐに戻ってきた彼女の手に、毛糸がみっしり詰まった籠がある。うんざりする量のそれを見て、フィレーネは深く溜め息を吐いた。

 フィレーネの保護という名の軟禁が解かれたのは、鐘が鳴ってから五日後、編んだ靴下が二十足を越えてからのことだった。

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