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【電子書籍化記念】真夜中のお茶会


 ぎし、と軋む音に眠りから引き上げられる。

重い目蓋を持ち上げたフィレーネは、辺りが闇に沈んでいることに気づいて静かに息を吐き出した。

元来のものであるのか、それとも育った環境がそうさせるのか、フィレーネの眠りはとても浅い。僅かな物音や人の話す声や身じろぐ気配、動物の足音も鋭敏に感じ取って目を覚ましてしまう。浄化の旅で治安の良くない宿に泊まった時や、魔獣の跋扈する土地での野宿など、そのおかげで助かったことは幾度もある。だが教会から放り出され既に面倒な地位もなく、のんびり田舎暮らしをする身には、役立つどころか厄介な体質と言える。

 ここでの暮らしに慣れない内は鶏の羽ばたきですら目を覚ましたし、ロバのいななきには未だにびくりとしてしまう。とは言え先ほどの物音は動物たちのそれではなく、おそらくは夫であるヴィジランスのものだろう。

 浴室に繋がる部屋をフィレーネが占拠しているから、夫は律儀に階下の手洗いを使っている。気遣い屋の彼は足音を立てないようにしてくれているが、それでも伝わる気配にフィレーネが目を覚ますのは珍しいことではなかった。

 しばらくすれば、彼も部屋に戻るだろう。そう思ってうつらうつらしていたのだが、いつまで経ってもその気配がない。違和感に耳を澄ませてみると、階下でことりと微かな物音が響いた。

 おや、と思って身を起こして、フィレーネはストールを羽織って寝室を後にした。

 階段を下りた先、暗い廊下を居間から漏れる光が照らしている。そっと居間を覗き込んでみると、暖炉に火を入れている夫の背中が見えた。

「……ヴィジランスさん?」

 少し迷ってから声をかける。

 足音でフィレーネと分かったのだろう。振り返った彼は驚いた様子もなく、静かな声音で言った。

「ああ、すまない。起こしてしまったか」

「いえ……目が覚めた後に物音がしたので、それで少し気になって。……どうしました、眠れませんか?」

 暖炉に火を入れているのだから、しばらくは居間にいるつもりだろう。そう思っての問いかけに、ヴィジランスは微苦笑を浮かべてみせた。

 手にしていた薪を暖炉に押し込み、付いた木屑をぱたぱたと払ってから立ち上がった。

「どうも変に目が冴えてしまったようだ。だが軽く寝酒でも飲んで身体を温めれば、そのうちに眠気も戻ってくるだろう。あなたは俺にかまわず、どうかゆっくり休んでくれ」

「寝酒、ですか……」

 む、とフィレーネは眉間に皺を寄せる。

 見ればレンガ積みのマントルピースの上に、蒸留酒の入ったボトルが乗っている。琥珀色が美しいそれは、以前の住人が封も開けずに貯蔵庫に眠らせていたものだ。

 麦の甘さと樽の深い香りがするそれは、贖おうとしても手の届かない高級品である。度数も高く味も女性が好む物ではないから、おそらくは先代のアルヘイナ領主の為に用意された物だったのだろう。返すあてもないし、捨てるなど以ての外だから、と他の貯蔵品同様にありがたく頂戴している。

 幸いにも蒸留酒はヴィジランスの口にあったようで、彼がロックグラスを傾ける姿は珍しいものではなかった。とはいえ、とフィレーネは嗜める口調で告げた。

「駄目ですよ、ヴィジランスさん。楽しむお酒は構いませんが、眠るためのお酒はおすすめできません。眠りも浅くなってしまいますし、却って身体が疲れてしまうんですよ」

 そうしかつめらしく言いながら、ヴィジランスの手を取りソファに座らせる。フィレーネにされるがまま腰を下ろした彼女の夫は、困ったふうに眉を下げた。

「あなたの言い分は分かるが……しかし、眠れないよりは良いと思うのだが」

「それはもちろん。ですから私が取って置きのお茶を淹れて差し上げます。薬草茶ですが味は悪くないですし、友人が愛飲していたものですから、効果のほどは保証しますよ」

「……友人?」

「王都を出立するときに、見送りに来てくれた騎士がいたでしょう? あの彼女のお気に入りだったんです。彼女は私の護衛騎士でしたから、浄化の旅には必ず同行してくれたんですけど、枕が変わると眠れなくなるみたいで。でも護衛任務の最中に、睡眠作用のある薬を飲む訳にはいかなかったものですから」

 手段さえ選ばなければ、薬で人ひとりを眠らせることはとても容易い。だが意識を失わせるような薬を飲んでは、いざという時に動けなくなってしまう。

 それでは困るのだ、と護衛騎士のキャロルは頑なに主張して、さりとて不眠を放置する訳にもいかず、フィレーネが考案したのが薬草茶だった。

「私もお付き合いしますから、騙されたと思って試してみてください」

 そう言えば断らないだろう、と思ったとおりに、ヴィジランスがこくりと頷く。フィレーネはそれに笑みを返して、キッチンへ足を向けた。

 薬缶に水を注いでから、トレイにお茶の一式を並べる。メインに使うのはティルウーラで、これは解熱と鎮痛作用がある使い勝手の良い薬草だが、実は乳製品と凄まじく相性が悪い。だがそれを逆手に取ってミルクを混ぜてしまえば、その薬効を抑えることができる、というわけだ。

 ただ残念なことに香りと味もぼやけてしまうので、それを補うのと鎮静作用のために、レモンバーベナも少しだけ加える。レモンバーベナは植え付けの時期を逃してしまったから、アルヘイナ領都の市場で買った乾燥したものだ。市場では状態の良いものが手に入らなかったので、来年は自前でなんとかしたいと思っている。

 薬缶とトレイを手に居間に戻ると、ヴィジランスが申し訳なさの滲む目をフィレーネに向けた。再びの謝罪を口にしようとするのを見て取って、フィレーネはにこやかに言った。

「お湯が沸くまで、少し待ってくださいね」

 暖炉に置いたトリベットに薬缶を乗せる。ヴィジランスが手伝いに立ち上がろうとするのを手で制して、茶の一式をトレイからテーブルへ移し替えた。

 ティルウーラの入った容器を見て、ヴィジランスが意外そうに目を瞬かせた。

「それは……確か、薬草ではなかったか?」

「ええ、解熱剤に使っているものです。でも薬効を抑えてしまえば、飲用できるし美味しいんですよ。とは言えハーブティー寄りの味なので、好き嫌いはあると思いますが」

「……ハーブティーと言えば確か……イスク、だったか。あれは酷い味だった」

 苦り切った口調で言うヴィジランスに、フィレーネはくすくすと笑う。暖炉から薬缶を取り上げて、沸いた湯を空のティーポットに注ぎ入れた。

「あの独特の匂いに慣れてしまえば、意外と美味しく飲めるんですよ。でもティルウーラはイスクほど癖がないですから、安心してくださいね」

 ティーポットを温めた湯を零し、用意しておいた分量の薬草たちを入れる。

 良く沸かしたお湯で砂時計が落ちるまで蒸らしてから、カップに注ぎ入れた。そこにミルクをたっぷりと、ヴィジランスの分には蜂蜜も加える。

 ティースプーンでくるくるとかき混ぜると、林檎に似た甘い匂いとレモンバーベナの爽やかな香りが立ち上った。

「さあ、どうぞ」

 渡したカップを受け取ったヴィジランスが、恐る恐るというふうに口をつける。だがすぐに寄せられていた眉間の皺が緩んで、それを見てからフィレーネもカップを手にソファに腰を下ろした。

 ミルクを入れてもまだ熱いお茶に、ふうっと息を吹きかけていると、隣でヴィジランスがしみじみとした口調で言った。

「……これは美味い。やはり、あなたの淹れ方が上手いからだろうか」

「いえいえ、お茶の量さえ間違わなければ、誰でも美味しく淹れられますよ。ただティルウーラは薬草なので、取り扱いに注意が必要ですけど」

 言ってヴィジランスの顔をちらと見る。すっかり見慣れてしまった端正な横顔だが、今は微かに翳りのような気配が滲んでいる。その暗さは、ただ目が冴えただけとは思えなかったが、それに触れて良いものかフィレーネには判断がつけられなかった。

 暮らしを共にして、お互いの存在に馴染み始めてはいるものの、ふたりのそれは本当の夫婦関係には程遠い。ここで下手に踏み込んでしまっては、せっかく築いた関係が台無しになってしまうかもしれない。

 だが、とフィレーネは眉間に力を籠める。

 気遣いや遠慮ばかりしていては、いつまで経っても心の距離は縮まらない。それならいっそ、思い切って飛び込んでみた方が言い。

 フィレーネはそう心に決めて、ヴィジランスの袖を引いた。

「今から不躾なことを聞くので、不愉快でしたらそう言ってくださいね」

「……フィレーネ?」

 ヴィジランスが訝るような表情を浮かべている。

 フィレーネが敢えて前置きをしたからだろう。返す声には微かな警戒の気配が滲んでいたが、それを無視してフィレーネは口を開いた。

「こんなふうに目が冴えて、眠れなくなるのは良くあることなのではありませんか? 先ほどの様子を見ていると、初めてではないようの思えるのですが……」

「……先ほどの様子?」

「はい。暖炉に火を熾して、お酒を用意して、眠れないことに戸惑っていなかったでしょう? そんなふうに対応に慣れてしまう程度には、良くある状況ではないのかと思ったのです」

 覗き込むヴィジランスの目が困惑に揺れる。だが彼はそれをすぐさま消し去ると、日頃と変わらない穏和な笑みを浮かべてみせた。

「確かに、こんなふうに眠れないのは初めてではないな。だが戦場に出たことのある者ならば、この手の不調は多かれ少なかれ抱えているものだ。あなたの護衛騎士の不眠も、似たようなものだったのではないだろうか」

「ええ、おそらくは。ですが……いえ、だからこそ、あなたのそれを見て見ぬ振りはしたくありません。余計なお世話かもしれませんが、少しでも力になりたいんです。心の裡をすべて見せてくださいとは言いませんから、せめて弱音や愚痴くらいは聞かせて欲しいのです」

「……弱音や愚痴、か」

「深刻なものでなくても構いません。今日は大変だった、とか、疲れて動きたくない、とか……そういう些細なもので良いんです。少しずつでも吐き出していけば、楽になるものもあるはずですし、そうやって打ち解けることで今よりも家族らしくなれると思うんです」

 身を乗り出す勢いで言うフィレーネに、ヴィジランスは目を丸くしている。

 フィレーネのらしくない言動に戸惑っているのかもしれない。それでも見返す濃青の眼差しに不快の色はなく、彼は小さく息を吐いてから生真面目に頷いてみせた。

「あなたがそう言うのなら、できる限り努力しよう。だが吐き出せと言われても……難しいな。やるべきことは多く疲れることもあるが、安心して暮らせる家があって、あなたの作る料理が食べられるのだから、不満の感じようもないのだが」

「おだてて誤魔化そうとしても駄目ですよ。大丈夫だからと言って無理をして、それで身体を悪くしてからでは遅いですからね」

「……なるほど。ならば、あなたこそ愚痴を吐くべきだな」

「私が、ですか?」

 思いも寄らないことを言われて、フィレーネは目を瞬かせる。ヴィジランスは空にしたカップをテーブルに置いてから、柔らかく微笑んで言った。

「俺の目から見れば、あなたはかなり無理をしているように見える。家事をこなすだけでも大変なのに、家畜の世話に庭仕事、薬を作ったりと挙げればきりがないだろう。騎士として身体を鍛えた俺とは違い、あなたは見るからに細くて頼りない。ましてや大事な妻なのだから、心配してしまうのは当然だろう?」

「それを言われると返す言葉がありませんけど、私は見た目よりも丈夫ですよ。家事や片付けは魔道具で楽をさせて貰っていますし、むしろ教会にいた頃に比べたら快適過ぎるくらいです。……強いて愚痴を言うなら、引っ越してきた時期のせいで、香草や薬草のいくつかを植え損なったことでしょうか」

「これから冬に向けて、寒くなるばかりだからな。根付かせるのは難しいだろう。……やはり温室を建てるべきか」

「やることが多い、と言った先から仕事を増やしてどうするんですか。温室はあれば助かる物ですけど、ヴィジランスさんに余計な負担をかけてまで作る必要はありませんからね」

 フィレーネはしかつめらしく言ってから、こほん、と咳ばらいする。

「愚痴と言える内容かどうかはともかく、現状で私が困っていることは以上です。さあ、次はヴィジランスさんの番です。言っておきますが、無いというのは駄目ですよ」

「それは困ったな」

 苦笑する声音で言って、ヴィジランスは姿勢を崩してソファに背を預けた。

 天井から吊された魔道具の灯りを見つめ、ぽつりと呟いた。

「さしあたっては不眠をどうにかしたいと思っていたのだが……どうやら、あなたのお茶は素晴らしく効き目が高いらしい。実を言うと、さっきから眠くて仕方がない。こうして目をつぶれば、すぐにでも眠りに落ちてしまいそうだ」

「それはなによりですけど、ここで眠らないでくださいね。ソファでは身体が伸ばせませんし、それでは寝ても休んだ内に入りません」

 ぴしゃりと言えば、ヴィジランスが喉を鳴らすように笑った。

「さすがにお見通しだったか。このまま暖炉の前で微睡むのも、悪くないと思うんだがな」

「……それでしたら今度、一緒に暖炉に当たりながらお昼寝でもしてみましょうか。今は忙しくて時間を取るのが難しくても、冬に入れば少しはゆっくりできるでしょうし」

「家ごもりか。良いな、エイギルの冬を思い出す。修道院に入るまでは、暖炉の前に家族で集まって、他愛のない話をしたものだ……」

 そう懐かしむ口調で言って、ヴィジランスは小さく息を吐いた。

 ぽつぽつと心情の欠片を零してくれるのは、おそらく眠気で理性が鈍っているからなのだろう。

 お茶の力を借りたものだが、それでも心の距離を近づけられたようで嬉しくなる。フィレーネは唇がほころぶまま微笑んで、ヴィジランスに視線を向けた。

「冬が来るのが待ち遠しく思えるなんて、なんだか不思議な感じです。私にとって季節とは流れ巡るだけで、暮らし過ごすものではありませんでしたから」

「俺も同じだ。こんなふうに穏やかな時間を味わえるとは、思ってもみなかった。……この巡り合わせの幸運とあなたには、感謝してもし足りないくらいだ」

「それこそ私も同じです。私たちの結婚は他に選択の余地がないものでしたけど、それでも私の旦那さまがヴィジランスさんで良かった、そう心から思っていますよ」

 きっぱり言い切ると、ヴィジランスが虚を突かれたような顔になる。どこか無防備であどけなく見えるその表情に、フィレーネはくすりと笑みを零した。

「そろそろ部屋に戻りましょう。今ならきっと、よく眠れるはずですから」

「……ああ、そうだな。こんな時間に、付き合わせてすまなかった。それからお茶も淹れてくれて助かったし、とても美味かった。――ありがとう」

 生真面目に礼を口にしたヴィジランスに、フィレーネは浮かべていた笑みを深くする。

 あなたのそういうところが好ましいのだ、と言えば彼はどんな表情を浮かべるのだろう。

 それを見てみたい誘惑にかられたが、心の裡を打ち明けてしまうには、今夜の穏やかさがそぐわない気がする。

 だからいつかの楽しみに取っておくことにして、フィレーネは差し出された夫の手を取った。

 燃え尽きた薪が崩れ落ちる音に、近づく冬の気配を感じる。フィレーネは弾みそうな心をそっと宥め、繋ぐ温かな手を握り返した。

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