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16

 夏は盛りを迎えて、庭の木々や草花たちは生き生きと葉を茂らせている。

 力強い陽射しがふりそそぐ下、庭仕事に勤しんでいたフィレーネは、馬車の軋む音に気づいて面を上げた。収穫したハーブでいっぱいになった籠を片手に、庭から玄関へと回り込む。木戸の向こうに、すっかりお馴染みになったサミュエルの姿が見えた。

 こんにちは、と声をかけると、御者台のサミュエルが快活に笑って手を挙げてみせた。

「やあ、フィレーネさん。ヴィジランスはいるかい? 配達のついでになっちまって悪いんだが、少しばかり話しておきたいことがあるんだ」

「ヴィジランスさんですか? ええと……今はちょっと手が離せないので、もしお時間に余裕があれば中へどうぞ。そろそろお茶にしようと思っていたところなんです」

 木戸を開けながらフィレーネが言う。サミュエルは御者台から下りると、荷台に乗せていたミルク缶を軽々と持ち上げた。

「それじゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな。ああ、そうそう、フィレーネさんにもいつもの届け物があるんだ。リタからのいつもの手紙と、それからレオナの分も預かってきたから、すまないが後で読んでやってくれ」

 思いがけない名を出されて、来た道を戻るフィレーネは目を瞬かせた。

 フェルダイン家の長女、リタから初めて手紙が届いたのは、ヴォルツ討伐からしばらくしてからのことだった。リタはヴォルツ討伐の際に、フィレーネが持参した菓子が相当にお気に召したらしく、あれを再現しようと見様見真似で何度か焼いてみたらしい。だがどうしても納得のいく出来にならず、それで困り果ててフィレーネに手紙を送ってきた、という次第だった。

 もし迷惑でなければレシピを教えて欲しい、と書かれていたそれに、フィレーネは喜んで詳細を返事にしたためた。

 教会由来のレシピではあるが、さりとて秘中の秘という訳ではない。使う材料も調理の手順も、ごくごくありふれたものだ。漏らして咎められる、などということはないだろう。

 かくしてフィレーネの手紙はサミュエルの手からリタに渡り、その返事は牛乳配達のついでに届けられた。

 リタの手紙にはお礼の他に、作った菓子の出来栄えの報告やアレンジ、家庭料理のレシピが書かれていて、それにフィレーネも返事をして、と繰り返しているうちに文通の様相を呈するようになった。手紙は時々マリアやサラが書いた物も混じっていたが、レオナから届くのは初めてのことだ。それを意外に思いつつ、フィレーネはサミュエルに問いかけた。

「リタさんは分かるんですけど、レオナちゃんもですか?」

「いやあ、それがどうも手紙が文字の練習に良い、って先生に勧められたらしくてな。それにフィレーネさんと文通してるのが、レオナが羨ましかったみたいなんだ。姉のやることを真似したい年頃なんだろうなあ」

 いつぞやの夕食時に宣言したとおり、レオナは勉強を本当に頑張っているらしい。

 フィレーネは微笑ましさに目を細めて、庭からキッチンに続く扉を開けた。

 サミュエルを振り返る。

「さあ、どうぞ入ってください。ヴィジランスさんがお茶の用意をしていますから」

「――は? ヴィジランスが、なんだって?」

 キッチンの隅にミルク缶を下ろしたサミュエルが、信じられないことを聞いた、と言わんばかりの顔になる。

 じり、と怯えたふうに後退った。

「ああ、その、なんだ。誘ってもらって悪いんだが、ちょっとばかし急用を思い出しちまってな。うん、ほんとにすまん。後生だから、ここでお暇させてくれ……!」

 言って身を翻そうとしたサミュエルの上着の裾を、はっしと掴んで引き留めた。

「ちょ、ちょっと待ってください、サミュエルさん。確かにこの間は酷かったですけど、でも今度は大丈夫ですから。ちゃんと飲めます、飲み物の味になってます。前みたいに口の中が酷いことになったりしない、って断言できますから!」

 サミュエルが不信感たっぷりの顔になる。

 ヴィジランスが淹れたお茶を面白半分に味見して、それで酷い目に遭ったのは三日前のことだった。苦くて酸っぱい口の中が痺れるあの味を知ってしまえば、警戒したくなる気持ちはよく分かる。だがヴィジランスも忙しい合間を縫って努力したのだ。

「あれからたくさん練習しましたし、それにヴィジランスさんが淹れても失敗しない、素晴らしいお茶を見つけたんです。私が何度も犠牲になっ――いえ、味見した上で自信を持って言えます。絶対に大丈夫です」

 フィレーネが力いっぱいに訴える横で、茶の支度を調えていたヴィジランスが平然と言う。

「心配するな、サミュエル。フィレーネがこう言うのだから、なんの問題もない」

「いや、なんで、おまえが自信満々なんだよ」

 呆れた口調で言ってから、サミュエルは深々と溜め息を吐いた。

 ヴィジランスは我関せず、といった風情で砂時計から目を上げると、白磁の茶器を慎重な手付きで持ち上げた。

 カップに注がれた茶は青みがかった琥珀色で、ふんわりと柔らかな甘い匂いがする。ほとんど発酵していない茶葉だから、渋みが少なく量を間違わなければ誰でも、それこそヴィジランスでも美味しく淹れることが出来る。実に素晴らしいお茶である。

 フィレーネはダイニングテーブルに着くと、ヴィジランスが差し出すカップを受け取った。

 どこか得意そうな顔をする夫に笑みを返していると、サミュエルがカップの中を覗き込みながら言った。

「ずいぶんと色が薄いが……でも、まあ、前みたいに濃すぎるよりかはマシか。ちゃんと茶の匂いがするし、まったく味がない、ということもない……のか?」

 警戒心たっぷりなサミュエルの横で、フィレーネは構わず茶を口にする。口に含むと若葉のような香りが立って、爽やかな甘みはあるが味に癖がない。蒸らし過ぎたせいでほんの少しだけ苦味を感じるが、これはこれで良いアクセントになっていた。

 フィレーネがほっとして息を吐くと、椅子に腰を下ろしたサミュエルもこわごわカップに口をつけた。

「……おお、確かに飲める。ちゃんとお茶だ。少しばかり変わった味だが、普通に美味い」

 感心した声で言ったサミュエルは、あっという間に飲み干してしまう。どころか悪びれずに二杯目を要求する彼に、フィレーネはくすくすと微笑いを漏らした。

 お茶請けに煎ったナッツとチーズ味のクッキーを出すと、ヴィジランスが微かに眉を下げるのが分かった。甘党の夫は物足りない様子だが、しかしこのお茶は糖分の多い菓子と相性がよろしくない。他のお茶が淹れられるようになるまで、しばらくは辛抱してもらうしかないだろう。

 一方サミュエルは菓子を食べて目を輝かせた。

「これは良いな。酒が欲しくなる」

「たくさん焼いたので、もし良かったらお土産に持っていってくださいね。ヴィジランスさんは甘い物がお好きなので、こういう焼き菓子はあまり減らないんです」

「ほんとかよ。こんなに美味いってのに、まったく贅沢な話だ。いや、ありがとうな、フィレーネさん。リタも喜ぶよ」

 そう上機嫌に言ってから、サミュエルは表情を少しだけ真面目に改めた。

「実は今日寄らせてもらったのは、ヴォルツの件でちっとばかし動きがあったからなんだ」

「動き?」

 ヴィジランスの問いにサミュエルが頷く。

「前にご領主さまに助けを求めた、って言ったろ? 結局は手を借りるまでもなく俺たちで狩っちまったわけだが、ご領主さまはご領主さまでずっと気にかけてくれたんだそうだ。それでこの間、使いの人がうちまで来てくれたんだよ。仕留めた、って報告はしておいたからな。それで次に似たようなことがあった時のために、参考にしたかったらしい」

「それは……ありがたい話だな。アルヘイナの領主は、ずいぶんと出来た方のようだ」

「まだ若いってのに大したお人だ。ヴォルツの件では対応が後手に回ったのを、かなり心苦しく思ってたって言うんだから、ありがたいよな」

 しみじみと言って、サミュエルは茶に口を付けた。ふう、と息を吐いてから困ったふうに腕を組んだ。

「それで狩りの日の様子を話したんだが、俺が伝えた話だけじゃ要領を得なかったみたいなんだよ。狩りに参加した他の連中の話も聞きたい、って言ってたからな。そのうち、おまえのとこにも使いの人が来るはずだ」

 フィレーネはそっと視線をヴィジランスに向ける。

 王都レイナスを放逐されたフィレーネたちに、住む家と土地を用意してくれたのはバーナード助祭だが、それが可能だったのはアルヘイナ領主の協力があったからこそだ。当然、アルヘイナ領主はフィレーネが何者であったかすべて承知している。

 だが領主はともかく、従者や部下はどうだろう。領主の立てた使いが、どの程度を知っているかによって、どう対処するかを考えなくてはならない。

 厄介な、とフィレーネが考えたのと同じことを思ったのか、ヴィジランスは小さく息を吐いた。

「別行動を取っていた訳でもなし、おまえが語った以上は話すこともないと思うんだがな」

「なにを言ってやがる、大活躍だったじゃねえか。俺は、まあ、あったことだけを話したつもりだ。でも村の若い奴らは、尾ひれに背びれも生やして盛りに盛ってると思うぞ」

「……勘弁してくれ」

 心底うんざり言ったヴィジランスに笑ってから、サミュエルはフィレーネに視線を当てた。

「そうそう、使いの人が言ってたんだが、フィレーネさんの話も聞きたいらしい」

「私も、ですか? 応急処置をした以外は、特になにもしてないと思うのですが」

「その応急処置が良かったんだろ。アルヘイナじゃあ、教会の連中が使い物にならないからな。腕の良い治術師がいたら、囲い込んでおきたくもなるさ」

「でも私は治術師ではなくて、ただの元修道女ですよ。出来ることに限界はありますし、それなら修道院を頼った方が建設的だと思うんですけれど……」

 仄聞したところでは、アルヘイナ領主は有能な人格者であるらしい。そのような優れた人物が、元聖女を表舞台に引っ張り出して、自らの足元を切り崩すような真似をするとは考え難い。

 だが何ごとにも例外というものは存在する。

 なにかあっても良いように、心構えだけはしておいた方が良いだろう。

 そう心の中で決めて、フィレーネはまるきり別のことを口にした。

「そういえば村の様子はいかがですか? 骨折した方は修道院のお世話になっている、と伺いましたが。そろそろ杖を使って歩くころでしょうか」

「ん? ああ、あいつか。元気にやってるみたいだぞ。始めのうちはフィレーネさんに診て欲しいだの、俺の運命の女神だのと騒いでいたが、今じゃ修道女に熱を上げてるらしい。信仰と奉仕の邪魔になるので困る、ってなんでか俺が院長に文句を言われている」

 怪我人や病人が、世話をしてくれる修道女に恋をするのは、そう珍しいことではない。とは言えそれは一時だけ燃え上がる熱病のようなもので、たいていは怪我や病が癒えると同時に、あっけなく醒めてしまう。ごくまれに想いを成就させて、修道女が還俗することもあるのだが、邪魔扱いをされているなら、まあ、そういうことなのだろう。

「神への愛と奉仕に、別のものを見出す方は少なくないですから。修道院長も困っていらっしゃるのでしょう。村から距離があって、私としては正直に言うと助かりましたけど。越してきたばかりで、妙な面倒事に巻き込まれるのは困りますし」

 内情はともかく、フィレーネは人妻である。だからたとえ一方的なものであっても、貞淑を疑われるような事態は遠慮しておきたい。

 それはヴィジランスも危惧していたことだったのか、カップを手にした彼は不機嫌も露わに口を開いた。

「人の妻に対して俺の、とはよく言えたものだな。脚を一本折った程度では、己の愚かさを省みることもなかったか」

「ああ、うん、気持ちは分かるが落ち着け。あれは若気の至りだろうから、そこは頼むから大目に見てやってくれ。他の連中もそうだが、ああいうのは口にするだけで、実際には行動に移さんもんだ。弟子入りがどうのも、結局はなにもなかっただろ?」

「だからと言って、不愉快なことには変わりない。……フィレーネの言うとおり、村とここに距離があって助かったな」

「いやはや助かったのはどっちなのか、聞きたくねえなあ……」

 どこか遠い目をしてから、サミュエルは困ったふうに眉根を寄せた。

「なあ、ヴィジランス。弟子で思い出したんだが、ひとつ聞いても良いか?」

「俺に答えられる範囲のことなら」

「いや、別に大したことじゃねえんだ。少なくとも、おまえさんに迷惑かけるつもりはない」

 そう言い切ったサミュエルに、ヴィジランスが視線で先を促す。それにひとつ頷いてサミュエルが後を続けた。

「騎士って、どうやったらなれるもんなんだ?」

 ヴィジランスが戸惑うふうの表情になる。

「……どう、とは抽象的だな。称号としての騎士を言うのなら、なにがしかの功績を立てる必要がある。それには戦場に出るのが手っ取り早いだろう。とはいえ行って必ず得られるという訳ではないし、当然危険も伴う。手堅いのは騎士団に所属することだが、今の規定では入団出来るのは貴族の子弟のみだ」

「つまり平民には難しいってことか」

「そういうことだが、いきなりどうした。誰か騎士になるとでも言い出したのか?」

「ノアがな。あのヴォルツの一件で、なにも出来なかったのが堪えたらしい。……ルカのためにも強くなりたいんだと」

 ヴォルツに襲われ、行方の分からなくなっていた仔山羊のルカは、後日瓦礫の下から物言わぬ姿で見つかった。弟分として仔山羊を可愛がっていたノアの落ち込みようは相当なもので、しばらくは部屋に閉じ籠もって、食事もまとも摂らなかったらしい。それがある日いきなり部屋を出てきたと思ったら、真剣な顔で騎士になりたいと言い出したそうだ。

「ヴィジランスがヴォルツを狩ったと聞いて、これだと思いついたんだろうな。それで最初はヴィジランスに倣って、修道騎士になると言ってたんだが、まさか長男を教会にやる訳にはいかんだろ? それだったら騎士に、と思ったんだが……」

「なるほどな。だが強くなるのが目的なら、騎士にならずとも方法なら他にいくらでもある。巡礼者や商隊の護衛につく者の中には、剣術の指南を請け負う者もいるし、アルヘイナのような大きな街ならば、教室を構えている者もいるはずだ」

「街に通わせるのは無理だ。俺にも仕事があるし、治安が悪くないからと言って子供から目を離して良い場所じゃねえ。かと言って傭兵崩れを教師として招くのは、マリアが良い顔をしないだろうからなあ」

 そう渋い顔で言ったサミュエルは、ふ、と思いついたふうに面を上げた。

 ヴィジランスをじっと見る。

「……なあ、ヴィジランス。おまえが教えてくれる、って訳にはいかないか?」

 ヴィジランスが首を横に振る。

「そうしてやりたいのは山々だが、俺は還俗と同時に剣を返上している。どのような事情であっても、再び剣を取ることはない」

「そうか、聖職者ってのは難儀なもんだな……。だが、そういうことなら仕方ねえ。無理を言って悪かった。忘れてくれ」

「いや、こちらこそ力になれなくてすまない。狩りを教えるぐらいなら俺も手を貸せるんだが、しかしそれはおまえが教えるべきことだろう?」

「そうだなあ、巣穴や獲物の動き、土地の癖ってのは狩りを共にして親から子へ伝えていくもんだからな。……そういや、おまえんとこもウサギが増えてるんだって? ここいらのウサギははしっこいから、罠じゃあ苦労するだろ」

 家の裏庭や畑で見かける野ウサギは、黒い瞳にふくふくとした茶色い毛皮の、見目ばかりは可愛らしい侵略者だ。だが生態は少しも可愛げがなく、土のあちこちに穴を掘り、根や葉を齧って作物を駄目にしてしまう。農家にとっての天敵である。

 おまけに今の時期は繁殖期であるらしく、子を育てる彼らの食欲は凄まじい。見かければヴィジランスが弓で仕留めてくれるものの、あまりに数が多くて狩っても狩ってもきりがなかった。

 毛皮が取れることだけはありがたいのだが、狩るごとに増える肉の処理には心底困り果てている。なにしろ量が多い。クリームで煮たりパイにしたり腸詰めにしてみたり、シチューやソテーやフライに、思いつく限りのメニューはすべて制覇してしまった。

 今はハーブやソースで味を変えてみてはいるものの、こうも続くとまたかという気分になる。

 それでも食べきれない分はリエットにするしかなく、地下の貯蔵庫を着々と侵食している最中だ。作った物を近所にお裾分けしようにも、近隣はどこもかしこもウサギに迷惑を被り、食事のメニューに頭を悩ませているのだ。

 先日にはとうとう耐えきれなくなったフィレーネが、畑という畑に動物避けの護り石を設置したのだが、残念なことに益獣であるハリネズミも排除する結果になってしまった。

 動物避けなら簡単だろう、と考えていた自分を叱りつけてやりたい。

 ハーブと薬草を食べ尽くす勢いで増えたナメクジを前に、フィレーネは已む無く護り石を解除するしかなかった。草花の無残さを思い出して遠い目になっていると、ヴィジランスもまた渋い顔で言った。

「狩るだけならさほどでもないが、毛皮の処理がいかんともしがたい。数が多く手間がかかる上に、放置すれば見る間に劣化する。売れば金になるのが分かっているのに、むざむざ駄目にするなど考えられんからな。なにより命あるものを狩っておいて、肉を食べず毛皮も取らない、というのは道義に悖る」

「殺すためだけに狩るってのは、確かに気が咎めるからなあ。ヴォルツを食うと聞いた時は驚いたが。――ああ、そうだ。ヴォルツと言えば狩りで採った魔石あっただろ? あれの山分けが済んだから、今度おまえの分を持ってくるよ」

「……ああ、あれか。すっかり忘れていたが、ずいぶんと長くかかったな。確か前に聞いた時には、分ける割合で揉めていると言っていたが」

「そうなんだよ。あそこの村は村長が業突く張りでなあ。自分らは狩りに参加しなかったくせに、質の良い魔石が採れたと知った途端、持ち出し分を保証しろだの馬鹿を言いやがる。それに若いのが反発して、ちっとも話し合いが進みやしねえ。ほんとに参ったぜ」

「持ち出し? それはおかしなことを言う。後々のことを考えて、金銭の負担にならない手を使ったつもりだが」

「それはみんな分かってるさ。だが村長が言うには、槍を作るのに木を伐ったのが負担なんだと。確かに薪にする分ではあるし、ヴォルツに柵やら納屋やら壊されたから、金が欲しいのは分かるんだけどな……。けどそれはどこだって一緒だろ」

 魔道具や大規模魔術に不可欠な魔石は、魔獣討伐のいわば副産物である。精霊の力を取り込み蓄えたものが、身体の中で結晶化するのだと言われている。それが真実であるかどうかはともかく、魔獣を狩れば魔石を得られるのは事実である。そして魔獣が厄介で力があればあるほど、落とす魔石の質は高かった。

 ヴォルツは凶暴さもさることながら、力のある魔獣だ。採れた魔石は赤味がかった澄んだ金色で、その透明度に相応しくひとつ七オルドの値が付いた。これは街で働く者が、およそ二年で稼ぐ金額に匹敵する。

 それが二体分だ。旨みにありつきたい、と思っても仕方がないかもしれない。

 とは言え狩りに参加していない者が、分け前を寄越せと言うのはずいぶんと虫のいい話だろう。紛糾したという話し合いを思い出したのか、サミュエルが苦い顔で言った。

「修繕費と薪代を差っ引いて、それを八等分だ。本来なら仕留めた奴が多く取るべきなんだが、当の本人が要らんと言うんだから仕方がない」

 納得していないふうの視線をサミュエルから寄越されて、ヴィジランスが苦笑する。

「俺はハイラルドでは新参者だからな。この土地に馴染むことを考えれば、出しゃばらん方が後々得をすると思ったまでだ」

 しかつめらしく言うヴィジランスに、フィレーネは呆れた目を向けた。

「着々と信奉者を増やしているヴィジランスさんが言っても、まるで説得力がありませんよ。この間も街に出たときに、警邏隊の兵士から熱心に声をかけられていたじゃないですか」

「あれは……あなたを狙った不届き者が悪い。人の妻に手を出そうとしたのだから、排除するのは夫として当然の権利だろう。そうやって排除したのがたまたまお尋ね者で、警邏に突き出したら勧誘を受けただけに過ぎない。つまり、不可抗力だ」

「なるほどなあ。出しゃばらなくても目立っちまうのか。そいつはなんと言うか……難儀だな」

 至言である。

 一見すると硬質で冷たい印象を受けるヴィジランスだが、人当たりが良く気さくで話し上手だ。その外見との落差が素敵だ、とは馴染みになった惣菜店の女将の談である。その人受けの良さを存分に発揮して、フィレーネの夫は着々と顔馴染みを増やしているところだ。

 最近では警邏隊の兵士にはずいぶんと懐かれたようで、その有様は勧誘と言うよりも、お気に入りの玩具でも引っ張り込むかのようだった。

 ヴォルツの狩りでも村の青年たちから尊敬の眼差しを向けられていたし、フィレーネの夫は思っていた以上の人たらしなのかもしれない。

 はて、平穏な暮らしとは、と内心で首を傾げたフィレーネに、サミュエルが同情的な声音で言った。

「モテる伴侶がいると大変だろう。うちのマリアも、未だに余計なのを引っ掛けてくるからな。この間なんか新規の配達先で、後妻にどうかと声をかけられたらしいんだ。まったく腹立たしいったらないぜ。既婚者のバングルが見えねえのかってんだ」

「でもマリアさん、とてもお綺麗ですから。それに明るく気立てが良くて、しっかり者ですし。商売をなさってる方には、輪をかけて魅力的に映るんだと思いますよ」

 そうなんだよ、とサミュエルが力いっぱいに頷く。それからサミュエルは愛妻家っぷりを最大限に発揮して、惚気という惚気を語ってから席を立った。

「ずいぶんと長居しちまったが、そろそろお暇させてもらうわ。あんまり遅くなるとマリアが恐いからな。ヴォルツ狩りで出た儲けは、次の配達のついでに持ってくるからもうちょっとだけ待っててくれ。――ああ、それと悪いんだが、フィレーネさんはリタとレオナに手紙の返事をよろしくな」

 サミュエルはそう言うだけ言うと、忙しない様子でその場を後にしてしまう。ダイニングテーブルに夫婦ふたりだけになって、思わず顔を見合わせた。

 相変わらずだ、と苦笑含みに言ったヴィジランスに、フィレーネは首を傾げて問いかけた。

「ご領主さまの使いがいらっしゃるそうですけれど、なにか注意しておくことはありますか?」

「そうだな……。魔獣討伐の追跡調査を行うのは、領主館の文官でも末端の者だ。俺たちの事情を知る由もなし、特になにもせずただ普通に対応すれば問題ない」

「なるほど。ではお茶に合う焼き菓子を、いつもより少し多目に作っておきましょうか。いついらっしゃるか判らないので、余ることを思うとちょっと困ってしまいますが」

「平民の事情に忖度しないのが役人だからな。とは言え村での聴き取りが済んでいるのならば、数日の内には来るはずだ。……見られて困るものは、もう隠してあるのだろう?」

 こくりと頷く。

 聖花の茂る一角には、すでに目隠しの護り石を設置してある。まるきり見えないのは不自然だから、他の草花に紛れるような効果にしている。

 カップを図象化した文様に馬の文様の組み合わせは、思ったとおりに素晴らしい効果を発揮している。動物避けには失敗したものの、作る数を熟したおかげなのか、フィレーネの護り石作りの腕はめきめきと上達している。この調子でいけば畑に麦を蒔くまでには、動物避けの護り石も上手く調整出来るかもしれない。

 そう気合いを入れつつチーズ味のクッキーを噛み締めていると、ヴィジランスがごく自然な動作で手を伸ばした。唇の端についていたらしいクッキーの欠片を、そっと指で払ってくれる。

「大丈夫だ、心配はいらない。いざとなれば文官のひとりやふたり、黙らせておく方法はいくらでもある」

「あの、それは却って心配になるので、出来れば穏便な方向でお願いします。やっと整えた生活が駄目になるのは悲しいですし、土地や経歴を用意してくださったバーナード助祭や、協力してくださったアルヘイナのご領主さまに申し訳が立ちませんから」

「助祭はともかく、ご領主どのは完全な善意とは言えないだろう。あなたの存在は、いざという時に強力な一手となる。領地を治める者が、どちらに重きを置くかは火を見るより明らかだ。だから多少の羽目を外したとしても、秘密を守るための融通を利かせるに違いない」

「どうして思考が、そう合理的に不穏な方向に行くんですか。頑張れば避けられる問題なんですから、無理せず堅実に努力しましょう」

 フィレーネの夫は近頃になって、こんなふうに物騒な一面を覗かせるようになった。

 繕わない素の態度を見せてくれるのは嬉しいが、ウサギ塗れで気疲れした結果なら、素直に喜んで良いかは微妙なところだ。

 ともあれ心の距離が近くなったのは間違いなく、フィレーネは浮かれそうになる心を宥めるように、少し苦いお茶を飲み干した。

 日当たりの良いダイニングで、夫とふたりでお茶を楽しむなんて、少し前の自分には想像も出来なかった贅沢だ。悩ましい問題はいくつかあるが、目下のところは平和である。

 庭木に止まったコマドリが高い声で鳴くの聴きながら、フィレーネは満足気に息を吐いた。

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