10
軽く息を吐いて見回すと、部屋の入り口で子どもふたりが手持ち無沙汰そうにしている。フィレーネはふたりを手招いて、母親の側に座らせた。
「ご飯の用意をしてくるから、お母さんの様子を見ていてくれる? もし呼吸が速くなったり、苦しそうにしていたら大きな声で呼んでね」
「うん、まかせて」
きりりとした顔で、レオナが頷いてみせる。それに微笑いかけてから、フィレーネはキッチンに引っ込んだ。
買ってきた惣菜を温めて、皿に取り分ける。子どもたちを呼んでダイニングテーブルに座らせると、ふたりは目を輝かせた。
「これ食べていいの?」
「ええ、どうぞ召し上がれ」
言うとレオナは意気揚々と、ノアは恐る恐るといったふうにフォークを手に取った。
よほど空腹だったのだろう。ひとたび食べ始めると、がっつく勢いでフォークを動かしている。ご飯を食べてからね、と言っておまけで貰ったチーズケーキも出してあげると、子どもたちはきゃあと歓声を上げた。
賑やかなダイニングを後にして、居間で眠るマリアの様子を窺う。さきほどよりも少し熱が上がってきたようだ。首元に浮いた汗を拭い、濡らした布を絞って額に乗せる。それから寝室から薬草と、調合道具一式を手にして居間に戻った。
ダイニングから聞こえる子どもたちの声を聞きながら、フィレーネは暖炉に火を入れる。
昼間は汗ばむほどの暑さでも、夜になれば気温はぐっと低くなる。家の中では寒さを感じないが、まだ熱が上がるだろう怪我人のためには必要だ。
熾きた火の側に薬缶を突っ込んで、それからフィレーネはひとり用のソファに腰を下ろした。
膝に乗せた乳鉢に薬草を入れては、ごりごりと細かく摺り潰していく。
薬の配合は、王都の加療院で使われていた伝統的なレシピだ。
熱冷ましにティルウーラの花を、傷の治癒と炎症を抑えるのに野いちごの葉とモルスの葉を加え、痛み止めにはウアラスの根を使う。鎮痛作用だけならブラルムという薬草が一番なのだが、妊娠している女性には使うことが出来ない。
マリアは若い既婚女性だ。妊娠の可能性がある以上は、避けた方が良いだろう。
薬草は吹けば飛ぶほどに摺り潰してから、木綿の袋に入れて口をしっかりと閉じる。これを煎じれば水薬の完成だ。
味はお世辞にも良いとは言えないが、その代わりに効果は素晴らしく優れている。聖花の水薬が足りない時、加療院では重宝した代物だった。
沸いた湯に薬草を入れてしばらくすると、食事を終えた子どもたちが居間に顔を出した。そっと近づいて母親の側で座り込んだレオナが、不安そうな目でフィレーネを見上げた。
「……かあさん、まだ起きない?」
「そうだね、よく眠ってるからまだしばらくは起きないかな。でもこれは怪我を治そうと身体が頑張っている証拠だから、もう少し寝かせてあげようね。もし心配なら、お母さんの手を握っててくれる? そうしたらきっと、すぐに良くなるから」
うん、と頷いたレオナがそっとマリアの手を握る。隣に座っていたノアも、手を伸ばして小指を握りしめた。
眠るマリアは子どもたちに任せて、フィレーネは暖炉から薬缶を引き上げた。
薬を冷ます間にダイニングを片付けて、身体を冷やして帰ってくるヴィジランスのために、ワインを鍋に空けてスパイスを小皿に用意した。それからようやく買ったものたちを片付けて、お茶でも飲もうかと思ったところで、微かに響く馬の蹄の音に気がついた。
居間にいるこどもたちは、ソファの横に敷いたラグの上で、すっかり寝入ってしまっている。ふたりを起こさないようブランケットを掛けてあげてから、フィレーネはランタンを片手に玄関を開けた。
道の向こうに小さな灯りがふたつ揺れている。それが近づいてくるにつれ、騎乗する人の姿がはっきりと見て取れた。
土煙を上げて駈けてきた馬が、いななきながら家の前で足を止めた。そこから大柄な男性が転がるように降りてくる。玄関先に立つフィレーネの姿を見て、男性は叫ぶように言った。
「マリアは無事か!? 子どもたちは!」
フィレーネに掴みかからんばかりの男性を、ヴィジランスが押し止める。落ち着け、と言って男性の腕を引いたヴィジランスに、フィレーネは小さく頷いてみせた。
興奮しきっている男性に言う。
「奥さんも子どもたちも無事ですよ。今は眠っていますから、どうかお静かに」
言って扉を開ける。落ち着かない様子の男性を居間に通すと、彼は割れんばかりの声でマリアの名を呼んだ。横でヴィジランスが呆れたふうの溜め息を吐いている。
彼がここに来るまでにしただろう苦労が、なんとなくだが想像できてしまう。フィレーネは微苦笑を浮かべた唇に、人差し指を当てて言った。
「怪我人が起きてしまいますから、声は抑えてください。それに子どもたちも、さっき眠ったばかりなんです」
「あ、いや、すまない。つい……」
「心配になるあまり、冷静でいられなくなる気持ちは良く分かりますよ。――さあ、どうぞ」
促すと男性は眠る子どもたちを見て、ほっとした表情を浮かべる。次にソファに横たわるマリアに視線を向けて、今にも泣き出しそうにくしゃりと顔を歪ませた。
「マリア……!」
いくぶん抑えた声で再び名を呼んで、ソファの傍らに膝を突く。おいおいと泣き出してしまった男性に、フィレーネはそっと声をかけた。
「眠っているだけですから、大丈夫。もうじき目を覚ますと思いますから、側についていてあげてください」
泣きながら頷いている男性を置いて、フィレーネは居間の入り口にいるヴィジランスを見上げた。墨色の綺麗な髪が、夜露にしっとりと濡れてしまっている。
「ヴィジランスさん、おかえりなさい。あの、外の馬は?」
「一刻も早く家族の無事な姿が見たい、とそこの牧場主に押し付けられた。だが、なかなかに良い馬だな。……家の裏に繋いでくるが、大丈夫だろうか」
「ええ、大丈夫です。ヴィジランスさんは、それが済んだらキッチンに来てくださいね。今温かいものを出しますから」
「助かる。――ああ、そうだ。良ければ彼にも出してやってくれ。ここに来るまでかなりの無理をしたから、相当身体に堪えているだろう」
ランタンの灯りだけを頼りに夜道を駈けるのは、馬に慣れていても神経をすり減らすと聞く。
フィレーネは頷いて、キッチンに取って返した。
葡萄酒にスパイス入れて鍋で温める。ゴブレットに注いで柑橘の干したものを浮かべると、ふわりと良い薫りが辺りに漂った。
ゴブレットのひとつをマリアの夫に、もうひとつを戻ってきたヴィジランスに手渡す。それからタオルを差し出すと、ヴィジランスは目元を柔らかく微笑ませた。
「あの親子を拾ってからずっと、休まる暇もなかっただろう。あなたもひと息入れて、少し休んでくるといい」
「ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。こう見えても頑丈ですし、マリアさんも心配ですから」
「……そうか。だがくれぐれも無理はしないでくれ」
気遣う声に頷いたところで、背後で物音がする。振り返ると目を真っ赤にしたマリアの夫が、ゴブレットを手に深々と頭を下げた。
「名乗りもせずに、すまなかった。俺はサミュエル・フェルダインという。この先の川向こうで牧場をやってる者だ。妻のマリアが本当に、本当に世話になった。もしあんたたちが通り掛かってくれなかったら、マリアだけでなく子どもたちも無事ではいられなかっただろう。この恩は、必ず返させてくれ」
ここでその必要はない、と言っても彼の気は晴れないだろう。フィレーネが頷いた隣で、ヴィジランスが口を開いた。
「獣に襲われた、と彼女は言っていたが……この辺りでは良くあることなのか?」
「前まではそうでもなかったんだが、ここ最近になってぐっと増えた。ついこの間も、うちの牧場の柵と厩舎の壁が駄目になった。牛も二頭やられている。……どうも食うんじゃなくて、なぶって殺すが目的らしくてな」
「殺すのが目的? ならば、ただの獣ではないだろう。そういった所業は魔物や魔獣のすることだ。……この事態に、ご領主どのはなにをしている」
苦いものが混じったヴィジランスの呟きに、サミュエルは深く溜め息を吐いた。
「俺もなんとかして欲しくて、ご領主さまには何度も訴えているんだ。だが被害はここいらだけじゃなくて、他の場所でも出てるらしい。少し前に街の北東にある村が襲われて、そっちじゃ死人まで出たって聞いてる。その対応に人員を取られているから、俺らのところまで手が回らんと言われた」
「……教会は動かないのか?」
ヴィジランスがそう聞くのも当然だろう。
修道騎士団とはそもそも、魔物や魔獣を討伐するために編成された組織である。レイダシス建国の祖である聖エルトの代わりに剣を持ち、その身を守護した戦士らが始まりとされている。にも拘らず騎士団が王家ではなく教会の直下にあるのは、終生を民と共にあり続けた聖エルトの遺志を今も継いでいるからだ。
民に被害が出ているなら修道騎士団が動いて当然なのだが、サミュエルは顔に苦いものを浮かべて首を横に振った。
「そっちも駄目だ。ご領主さまがかけあってくれてはいるんだが、この程度のことで修道騎士は動かせない、の一点張りらしい。役立たずのにくせ寄付金ばかり集りやがって、なんのための教会か分かりゃしねぇ」
フィレーネとヴィジランスは思わず顔を見合わせた。
なるほど、これではアルヘイナにおける教会の求心力の低下も頷ける。非常時に修道騎士が動かないなど、普通ではありえない事態である。教会内の混乱をありがたい、などとは言っていられないのかもしれない。
フィレーネたちの間に流れる微妙な空気に気づかずに、サミュエルは苦々しく言った。
「ご領主さまも教会も動けないって言うなら、自分でやるしかねえだろうな。牛がやられただけなら我慢もするが、うちの家族に手を出されて大人しくしてられるか」
気色ばむサミュエルに、ヴィジランスは小さく息を吐いた。
「その気持ちは分からないでもないが、まずは奥方の治療を優先すべきだ。脚の怪我は完治までかなり難儀する。その上、小さな子どもがいるのだから負担は相当だろう」
「だが、このまま放っておいては他の誰かが襲われることになるだけだ。なあ、あんただって自分の嫁さんが怪我したら黙ってられないだろ?」
「もちろんだ」
ヴィジランスはきっぱり返して、それから呟くように言った。
「……仕方がないな。これもなにかの縁か」
「なんだよ、なにが言いたい」
「奥方を襲った獣の討伐は、俺が手を貸そう。その代わり、ひとりで無策に突っ込むのは止めてくれ。もしなにかあったら寝覚めが悪いからな」
「それは、俺としちゃ助かるが……でも、良いのか?」
「気にするな。その手の荒事には慣れている」
フィレーネが口を挟む間もなく、サミュエルに協力することが決まってしまう。
ヴィジランスが慎重な性質であることは、この短い付き合いでも十分にそうと理解できる。その彼がやれると言うのなら、決して無謀な真似ではないのだろう。もっともそれで安心していられるかどうかは、また別の話だ。
フィレーネは困惑に眉根を寄せたが、彼女がなにかを言う前にサミュエルが驚いたふうに目を見開いた。
「マリア……!」
叫ぶように言って、サミュエルがソファに駆け寄る。それを視線で追って振り返ると、目を覚ましたマリアが身を起こしているのが見えた。
「あんた……サミー、いったいなにが……あたしは、どうして……ここはどこなの……?」
「ああ、良かった……無事で、本当に良かった……!」
巌のような身体を丸めたサミュエルは、マリアの手を取っておいおいと泣いている。怪我の影響だろう、ぼんやりとしているマリアにフィレーネは声をかけた。
「マリアさん、怪我をしたことは覚えていますか? あの後、皆さんを家にお連れしたんです」
「……ああ、そうだった。確か、獣に襲われて……」
記憶を探るようにしていたマリアが、はっと面を上げる。
「子どもたちは!?」
「大丈夫、そこで眠ってます」
レオナとノアのふたりは、ソファの足元で丸まって眠っている。これだけ騒いでも起きないのだから、よほど深く寝入っているのだろう。
平和そうに眠る子どもたちを見て、マリアがほっと肩から力を抜いた。
「ありがとう。本当に、感謝してる。しかもうちの旦那まで呼んできてくれて、放っておいたら心配だったから助かったよ。本当になにからなにまで世話になって、あんたたちには一体どうお礼をしたら良いのか……」
「ご近所さんのよしみですから、どうか気にしないでください。それよりも、目が覚めて良かった。マリアさんには熱冷ましと、痛み止めの薬を飲んで欲しいと思っていたんです。熱が上がりすぎると身体に負担がかかってしまいますから。今持ってくるので、少し待っていてくださいね」
言ってキッチンから薬草を煮出した薬缶と、空のゴブレットとを持ってくる。
良い具合に冷めた水薬は、注ぐと緑とも茶色とも言えない、飲み物らしからぬ酷い色をしている。フィレーネがそれを差し出すと、マリアは思い切り渋い顔になった。
「……薬は苦手なんだけどねえ」
そう言いながらもひと息に全部飲んで、マリアは声にならない声で呻きを上げた。
「あー……そういうもんだと分かってても、やっぱり不味いもんは不味いね。大恩人のあんたがくれたんじゃなかったら、とてもじゃないけど飲む気にはなれないよ」
あっけらかんとした物言いに小さく微笑って、それからフィレーネは肩をすくませた。
「良く効く薬は不味いものですから。早く傷を治すためにも、頑張って飲んでくださいね」
大量の出血を伴うような大怪我は、傷が塞がりきるまで油断が出来ない。今は落ち着いているように見えても、いつ急変するか分からないからだ。そして炎症を抑えるためには、薬を飲み続ける必要がある。
フィレーネはマリアに横になるよう促しながら、いくつかの注意事項を告げた。
「数日は、絶対安静です。痛み止めが効いているからといって、介助なしに動くのは止めてください。とても不便でしょうけれど、お手洗いに行くときは誰かに声をかけてくださいね。それから今後のことなんですが――」
言ってフィレーネは眉を下げた。
「できることなら、もう一日は経過を見たいんです。でも客室も予備のベッドもない状況で、怪我人をお預かりするのは望ましくありません。マリアさんも、ご自宅の方がくつろげるでしょうし……」
「そうだね。家にいる子どもたちも心配してるだろうから、早く帰って安心させてやりたいと思ってるよ」
「ですからご自宅まで、私が付き添います。移動は身体に負担がかかりますから。それから……馬車か、揺れの少ない荷車を用意していただくことはできますか?」
後半をサミュエルに向かって問うと、彼は力強く頷いてみせた。
「任せてくれ。馬車を用意して、家にあるだけのクッションを積んでくる」
マリアが子どもたちと乗っていた物以外にも、配達用の荷車がいくつかあるらしい。
夜が明けたらそれをサミュエルが取りに行くこと、それまで子どもたちはフィレーネたちが預かること、他にも細々としたことを擦り合わせていく。フィレーネが付き添うことにヴィジランスは最後まで反対していたが、帰り道の迎えを彼がすることでなんとか折れてくれた。
ヴィジランスが付き添うことも考えてみたのだが、越したばかりの新居を整えるのに、片付けることや、やるべきことは山ほどある。特に麦を植え付ける農地の手入れは急務で、一刻も無駄にする訳にはいかなかった。フィレーネを迎えに行く時間も惜しい、というのが本音だろう。
だというのにヴィジランスは不満は決して口にせず、ただフィレーネの身を案じてくれている。彼の気遣いと優しさに目顔で礼をして、その場はお開きになった。
夜明けまであまり時間はなかったが、休息は取れる時に取っておくべきだろう。サミュエルは子どもたちと雑居寝すると言うので、フィレーネたちは寝室に引っ込んだ。
交代で湯を使って、さて後は眠るだけという段に至って、ヴィジランスが当然のように部屋から出ていこうとする。それをフィレーネは慌てて引き止めた。
「ヴィジランスさん、待ってください。どこへ行くんですか」
昨夜は別々に眠ったが、それは寝場所に余裕があったからだ。居間はマリアたちが使っているし、もうひとつある部屋は大量の物で埋まっている。ダイニングでは身体を休めることは出来ないし、廊下で眠るなんて真似は論外だ。
そもそも新婚の夫婦者が寝室を分けているなんて、知られれば不審に思われるだけだ。
フィレーネがそう主張すると、ヴィジランスが苦虫を噛み潰したような顔になった。眉間に深い皺を寄せて、彼は苦り切った声で言った。
「……では、あなたはベッドを使ってくれ。俺は床で休ませてもらう」
「なんとなくそう言われるだろうな、とは思っていたんですけれど駄目ですよ。あの、ヴィジランスさん。……私と一緒のベッドで眠るのは、そんなに嫌なことですか?」
訊くとヴィジランスは天井を仰いでから、深々と溜め息を吐いた。
「俺を信頼してくれているのは嬉しいが、あなたはもう少し危機感を持った方が良い。……同衾を避けたいのは、むしろそれが嫌ではないからだ」
「つまり生理的に受け付けない、というわけではないんですね。良かった。それなら便利な物があるんです」
フィレーネは言って、クローゼットからトランクを引っ張り出した。
着替えや洗面用具の類はすでに荷解きを済ませてあったが、急を要さないものはそのままにしている。と言っても中身はそんなに多くはない。入っているのは日記や裁縫道具、油紙の小さな包みと革袋が幾つかだ。
フィレーネはその中から革袋を取り上げトランクを片付けてから、ベッド脇までの短い距離を取って返した。革袋の中身を手のひらに空けると、ヴィジランスが戸惑った顔で訊ねた。
「……それは?」
「アルヘイナからハイラルドに来る途中で拾っておいた小石です。野宿をした場所の近くで、小さな川や沢を見かけたでしょう? ああいう人の手が入っていない水辺には、精霊が多く棲まうと言い習わされているんです」
それ以外にも古く大きな木のうろや、強い風の通る山の頂、煙を吐く火山口、すなわち四元素の影響の強い場所を精霊たちは好むと言う。
「私は精霊を見る目を持っていませんから、真実のほどは分かりません。ですが謂われのある場所にある石が、お守りに向いているのは確かなんですよ」
フィレーネは言って小石のひとつをベッドの中央に置いた。
親指の先ほどの大きさしかない小石には、守護の槍の紋様が刻まれている。野宿でフィレーネが火の番をしている時に、こつこつと彫っておいたものだ。獣避けにでもなればと思って作ったのだが、ハイラルドまでの旅は平和そのもので、お守りが役に立つような事態は一度たりとも起こらなかった。
それを安全な家の中で使うことになるとは、なかなかの皮肉である。
フィレーネは小さく苦笑してから、小石にそっと指先を宛てた。ひと撫ですると、周囲の空気に水の匂いが混じる。護りの術が発動したのを感じ取って、フィレーネは頷いてから言った。
「害意を持つ者の侵入を防ぐ術です。条件づけがそれですから、寝返りをうったくらいでは弾かれたりはしません。ですから安心して眠ってくださいね」
「安心して……?」
ものすごく不可解なことを言われた、とばかりにヴィジランスが眉根を寄せる。だがフィレーネそれに構わず、彼の手を引いてベッドに座るように促した。
しぶしぶ、といった風情で腰を下ろしたヴィジランスが、深く長く溜め息を吐いた。放そうとしていたフィレーネの手を、さり気なく掴んで言う。
「あなたがそこまで言うなら従おう。ただしそれは、あなたもきちんとここで眠ると約束するなら、だ。生真面目なあなたのことだ。俺が眠った後にでも、怪我人の様子を見に行くつもりだったのだろう?」
「それは……ええと、そうですね。マリアさんの容態は落ち着いていましたし、もう大丈夫だと思うんですけど。でも、もしものことがあっても良くないですから」
「彼女ならご主人が付いているのだから、あなたがこれ以上の負担を抱える必要はない。今朝から働き通しなんだ。俺のことを気遣うよりも、まずあなたが身体を休めるべきだ」
ですが、と言いさしたフィレーネを遮って、ヴィジランスは掴んでいたフィレーネの手を軽く引っ張った。さして力のこもっていなかったそれに、だがフィレーネは驚いて足をもつれさせてしまう。
ベッドに突こうとした手が空を切る。
あれ、と思う間もなく傾いだ身体を、腰に回った腕が危なげなく抱え上げた。そのままベッドに転がされて、フィレーネは目を瞬かせた。
ぎし、とベッドが軋む音がする。
フィレーネの上に身を乗り出したヴィジランスが、苦り切った口調で言った。
「随分と抜け穴があるようだな」
「……抜け穴?」
言葉そのままに問い返すと、たじろぎたくなる近さで溜め息が落ちる。ヴィジランスはフィレーネをじっと見つめてから、緩慢な動作で身を起こした。
「いや、こちらの話だ。……それよりも、あなたはこのまま眠りなさい。俺に眠れと言うのだから、あなたもそうするべきだろう。なにせ世間一般の夫婦というものは、互いに譲り合うものらしいからな」
そう常識を主張されては引くしかない。フィレーネは小さく苦笑して、夫に言われるまま目を閉じた。
隣に人がいて眠れるものだろうかと思ったが、ひとつふたつと呼吸を繰り返すうちに、フィレーネはすっかり眠りに落ちていた。




