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ほのぼのと緩んだ雰囲気のまま、ぽつりぽつりと会話を交わしているうちに、ヴィジランスは段取り良く買い物を進めてしまう。体格の良い健康そうなロバを買い、それに頑丈そうな荷車を繋いで、気づけばアルヘイナ北市場の建物が目の前にある。
車止めに荷車を停めて市場に入り、中の賑やかな様子にフィレーネは目を瞬かせた。
元が倉庫だったことが分かる簡素な建物内に、様々な店と人とがひしめき合っている。店は活気があって店員は威勢がよく、客の声も混じってどこもかしこも騒がしい。
アルヘイナ北市場は青果や加工品を取り扱う店が多いらしく、建物の中は乾いた土と香辛料の匂いに満ちていた。
ヴィジランスがまず向かったのは種苗を取り扱う店で、そこで買い付けたのは秋蒔きの種と種芋と豆、葉野菜や蕪と香草類の種だった。
冬を越すには心許ないが、まずは育てやすいものから育て始めて、徐々に種類を増やしていくらしい。今冬の分の麦と肉類は買うと決めていたが、それ以外もとなると出費がなかなかに嵩んでしまう。
農作物だけでなく、他にもなにか稼ぐ方策を考えた方が良さそうだ。
買った物は荷車まで運んでくれると言うのに甘えて、必要な諸々を揃えていく。最後に向かったのは持ち帰りの惣菜店で、ガラス張りのケースに沢山の料理が並べられていた。
肉や魚のホットミールにテリーヌ、野菜のグリルや蒸しサラダが色鮮やかだ。グラタンがちょうど焼き上がったばかりで、鉄板の上で美味しそうに湯気を立ち上らせていた。その隣では大鍋が火にかけられていて、野菜のたっぷり入ったスープがくつくつと煮えている。
どうやって持ち帰るのかと不思議に思って見ていると、注文した客が慣れた風情でブリキの容器を差し出していた。なるほど客から入れ物を預かって、それに入れて返すというやり方をしているらしい。容器の取り扱いもしていて、天井から下がったフックに、幾つもの容器が引っ掛けられていた。
店の奥には席が幾つかあって、買ったものを持ち込んで食べることも出来るらしい。頼める飲み物が葡萄酒のみ、というのはなかなかに潔い。興味津々に店を覗き込んでいると、恰幅の良い女性が朗らかな調子でフィレーネに声を掛けた。
「いらっしゃい、お嬢さん。うちに来るのは初めて――って、あらやだ、腕輪をしてるってことは奥さんなんだね。それならお隣の色男は旦那さん? あらあら、まあまあ、ずいぶんと男前を捕まえたんだねぇ。なんて羨ましいんだろ。うちのぼんくらと交換して欲しいくらいだよ」
売り子の女性の立て板に水のごとくの調子に、フィレーネは目を瞬かせる。内心ちょっとたじろいでしまったが、それは面に出さずに微笑んで返した。
「自慢の旦那さまですから。私には勿体ないくらいなんですけど、折角捕まえた相手なので交換はお断りさせてください。結婚も、ようやくこぎつけたばかりなんです」
「おや、初々しいと思ったら、やっぱり新婚さんか。それはめでたいねえ。ああ、そうだ。新婚さんなら料理までなかなか手が回らないだろう? 今日は沢山サービスしてあげるから、良かったら買っていっておくれ。うちは肉料理が美味しいからね。旦那の親戚が牧場をやってて、そこから良い肉を仕入れてるんだよ」
「お肉……牛ですか?」
「牛と鳥と羊だね。羊は固くて少し癖があるけど、ああやって煮込めば気にならないし美味しいよ」
言って指す先には、大きく切られた根菜と煮崩れかけた肉の塊がある。あれを解してソースに絡めて食べるらしい。
見るからに美味しそうだが、肉の煮込みなら昼に食べたばかりだ。
「お昼にシュリーアドを食べていなかったら、喜んでそれにしたんですけど。そっちのグラタンは、魚?」
「そう、トースクって魚を干したやつだよ。うちのは牛乳で戻してるからね。嫌な臭いもしないし、苦手な人でも食べられるって評判さ。つまみにするなら芋と一緒に煮て潰した、ブランダードもお勧めするけど」
どう? と訊かれてフィレーネは傍らの夫に視線を向けた。
出されたものに文句ひとつ言わないヴィジランスだが、しかし思い返してみると、彼が魚を食べていたのは見た記憶がない。もしかすると言わないだけで、実は苦手だったりしないだろうか。
フィレーネの内心の疑問を見透かしたのか、ヴィジランスがちらと苦笑を浮かべた。
「魚よりも肉なのは否定しないが、俺のことは気にせずあなたが食べたいものを頼むと良い。今朝も疲れているのに早起きだっただろう? 好きなものを食べて、今日の夜くらいはのんびりしよう」
ヴィジランスがそう言うと、彼を見上げていた売り子の女性が、うっとりと溜め息を吐いた。
「はあ、なんて羨ましいんだろ。男前なだけじゃなくて、優しくて気遣いができるなんて最高じゃないか。うちのなんて肉! 酒! 寝る! くらいしか言わないんだから。これで売り物になる料理が作れるんじゃなきゃ、とっくに家から叩き出してるよ」
大げさに呆れてみせているのが分かるそれに、フィレーネはくすくすと微笑いを零した。
「でも料理ができる男性も素敵だと思いますよ。並んでいるものは、どれもこれも美味しそうですし。……ええと、それじゃあトースクのグラタンと、鳥のハーブ焼きをふたつ。あとは横の野菜のグリルをいただけますか?」
「はいよ、まいどあり。お客さんにはうちのぼんくら亭主を褒めて貰ったし、なにより新婚さんだからね。うち特製のチーズケーキをおまけに付けとくよ。葡萄酒にも合うから、良かったら食べて、今度来たときにでも感想を聞かせておくれ」
なかなかの商売上手である。
フィレーネが頷く横で、買った品物をヴィジランスが受け取っている。彼は代金を支払ってから、さりげない様子で問いかけた。
「……この辺りの加療院は、あまり評判が良くないようだな。まだそういう予定はないのだが、もしものために教えて欲しい。体調が優れないとき、奥方はどう対処している?」
「あらやだ、奥方だなんて照れるじゃないの。ああ、でも、そうだね。旦那さんが心配になるのは良く分かるよ。街に住んでる者ならみんな知ってることだけど、ここらの加療院はちょっと問題があるから」
「人手が減った、と聞いたが」
「それだけじゃないよ。なんだか偉そうなやつばかりになっちゃってね。何年か前まではそうでもなかったんだけど、ここ最近はあんまりな対応されるから、街の外の修道院に行くのがほとんどさ。頼めば産婆さんの手配もしてくれるし、修道女も優しい人ばかりなんだけど、ちょっと遠いのが困りものだねえ。街にはご領主さまが他所から呼んでくれたお医者さまもいるけど、治療費が高くつくし」
「……そうか。だが修道院が頼りになるならなによりだ。教えてくれて助かった、少ないが釣りは取っておいてくれ」
ヴィジランスが言うと、売り子の女性がにっこりとする。
「気前の良いお客さんは大好きだよ。これで男前だっていうんだから、まったく文句のつけようもないね。次に来たときもサービスするから、奥さんともどもご贔屓にしておくれ」
愛想よく見送ってくれるのに手を振って、フィレーネたちは惣菜店を後にした。
荷車に買った品々を積んで、アルヘイナ領都を出た頃には、陽射しはずいぶんと西に傾いていた。
荷車を牽くロバは体格も立派で良い脚をしていたが、馬に比べるとゆっくりとした歩みをしている。日暮れまでに帰るのは難しそうだが、ヴィジランスは焦るでもなくのんびりと手綱を握っている。フィレーネは御者台に並んで座る彼に視線をやって、遠慮がちに問いかけた。
「さっき……あのお店で加療院のことを訊いたのは、どうしてですか? あの場所に、警戒を必要とするなにかがあるとは思えないのですが」
怪我人や病人を、信仰を問わずに受け入れる加療院は、教会という組織を象徴する存在でありながら、権力争いからは最も遠く隔たれている。職務を負うのは癒やしの祝福を得た者か、奉仕の精神に溢れた者、あるいは派閥から追いやられた者たちだ。
有益な情報が得られるとは思えず、それを尋ねた彼の意図が掴めない。フィレーネの内心の疑問が面に出ていたのか、ヴィジランスが苦笑含みに言った。
「一見すると無関係なものごとに、思いも寄らない情報が隠れていたりするものだ。加療院がそうだと確信があったわけではないが、情報は広く集めておくに越したことはない。おかげで教会の求心力の低下が、どの程度なのか知ることもできたからな」
満足そうな口調に、思わずフィレーネは溜め息を吐く。
「……教会の有様に思うことは沢山ありますが、でも今の状況を素直に喜べそうにありません。なにか手助けをしたくても、私にはどうにもできないですし。……ご領主さまが手を打ってくださっていると聞いて、少し安心しましたけれど」
「アルヘイナ領主か。代替わりしたばかりだそうだが、話に聞いていた以上に有能だな。民のことを考える良い領主だというのに、教会内の揉め事に足を引っ張られているのが気の毒だ」
「私たちの移住にも、手を貸してくださったんですよね。いつか、お礼をお伝えする機会があれば良いのですが」
フィレーネが遺産として譲り受けた土地と建物は、先代のアルヘイナ領主が愛人に与えたものだった。
本来であれば代替わりの際に、土地の権利は領主のもとに戻されたはずだ。どういう経緯があったかは謎だが、ともかくフィレーネの事情を知った上で、土地を与え住人として受け入れてくれたのだ。ご領主さまには感謝しかない。出来れば礼を伝えたいところだが、聖女の肩書きを無くした身では、貴人との面会など容易く叶うものではない。
とりあえず感謝の気持ちだけは忘れないようにして、フィレーネは夕陽に染まる長閑な景色に視線を向けた。
「夏の夕暮れは、日が落ちてしまうとあっという間ですね。家に着く前に暗くなってしまいそうですけれど、危なくなったりしませんか? たくさん買い物をしたから、かなりの大荷物ですし。……もし良ければ、守護の祝福をかけますよ」
後の方だけこっそり囁くように言うと、ヴィジランスは擽ったそうに微笑った。
「この辺りは治安が良いから問題ない。むしろあなたがそれをしてしまうと、却って悪目立ちしてしまうことになる。それなら俺が、どうにかした方が安全で手っ取り早い」
「どうにか、って武器もないのに。……まさか、素手で戦うつもりですか?」
「素手だけではないが、他にやりようならいくらでもある。田舎暮らしが長かったおかげで、泥臭い戦い方には慣れているし、だからあなたは心配せず、大船に乗ったつもりでいると良い」
冗談めかして言うヴィジランスの横顔には、力を誇示するような雰囲気は欠片もない。だがそういう振る舞いにこそ、彼の己の力量に対する自信の程が窺えた。
つまりフィレーネにできるのは、彼の足を引っ張らないようにすることだけだ。
いざという時に隠れる心積もりだけはしておいて、カラスの鳴く声を聴きながら、日が暮れゆく街道を荷車に揺られて進んだ。
異変があったのは、アルヘイナを出て一刻ほど過ぎたころのことだった。ランタンに火を入れていたフィレーネの横で、ヴィジランスがふと面を上げる。なにかを警戒するような素振りに、フィレーネは声を潜めて問いかけた。
「……ランタンの灯り、落としたほうが良いですか?」
「いや、そのままで。なにかの気配がするという感じではないが、微かに血の匂いがする」
ヴィジランスの言葉に、すんと鼻を鳴らす。だがフィレーネの鼻では青々とした草の匂いの他には、なにも感じ取れなかった。
戸惑っているうちに荷車は進み、やがて遠く聞こえてきた泣き声にフィレーネは弾かれたように面を上げた。隣に視線を向ける間もなく、ヴィジランスがロバを止める。彼はフィレーネに手綱を預けると、低く抑えた声で告げた。
「様子を見てくる。ランタンは御者台に置いて、あなたは荷台に隠れていてくれ。もしもの時は荷に構わず逃げるように」
そう言うとヴィジランスはフィレーネの返事も待たずに、荷車からするりと降りてしまう。
彼は風のように駆け去って、あっという間に夕闇に紛れて姿が見えなくなった。
フィレーネは少しの間唖然としていたが、すぐに我に返ると、ヴィジランスに言われたとおりに行動を起こした。手綱を握りしめたまま、荷台に身を滑り込ませる。荷の隙間に隠れて暫くすると、フィレーネを呼ぶ声が響いた。
「フィレーネ、手を貸してくれ!」
切迫した声を聞くと同時に、慌てて荷台から降りる。ランタンを掴んで声のした方へと駆けて行くと、茂った草の合間にヴィジランスの姿が見えた。
彼の足元には、こんもりとした岩のような影がある。近づくと呻く声が聞こえて、それで誰かが蹲っているのだと分かった。
風に乗って流れてきた血の匂いに、フィレーネは考えるより先に人影の側に膝を突いた。
蹲っていたのは女性で、ランタンで照らした顔は痛みに歪み、額にはびっしりと脂汗が浮かんでいた。女性の側には小さな子どもがふたり寄り添っていて、恐怖にだろう啜り泣いている。ふたりの子どもらの母親らしい女性は、太腿を手で押さえていて、その下に巻きつけられた布は血濡れて真っ赤に染まっていた。
はっとしてヴィジランスを仰ぎ見ると、彼は苦り切った声の調子で言った。
「すぐそこで獣に襲われたそうだ。牙で抉られた傷がずいぶんと深い。止血はしたが、とても俺の手には負えそうにない」
「……大丈夫、止血薬なら持ってます。ヴィジランスさんは子供たちをお願いできますか。それと水を汲んできてください。少し戻ったところに井戸があったはずですから」
「ああ、任せておけ」
頷いたヴィジランスが手を伸ばすと、子どもたちが身体を強張らせる。ひどい怪我をした母親から離れたくないのだろう。
不安になる気持ちは痛いほど分かるが、このまま側にいられると治療の邪魔になってしまう。ヴィジランスもそれが分かっているからか、泣いて抵抗する子どもたちを強引に担ぎ上げた。
子どもたちの母親が縋るように差し出した手を、フィレーネはそっと押し止めた。
「お子さんのことよりも、今はご自分のことだけを考えてください。私はフィレーネと申します。あなたは?」
「マリ、ア……マリア・フェルダイン。この先にある、牧場の……」
「大丈夫ですよ、マリアさん。すぐに手当てしますから。まずは傷を見せてください」
言ってフィレーネは巻きつけてある布を剥ぎにかかる。シャツを割いたらしいそれは、きつく縛ってある上に、ぐっしょりと濡れているせいで解きにくい。
手こずっていると水を汲んで戻ってきたヴィジランスが、なにも言わずにナイフを差し出した。
目顔で礼を言って、受け取ったナイフで布を裂く。途端に傷から血がどっと溢れて、フィレーネの手を赤く濡らした。
腿の付け根を縛っているというのに、ほとんど血を止める役に立っていないようだ。
フィレーネは眉を顰めると、腰に下げていた物入れから小瓶を取り出した。
栓を抜いて傷に注ぎかける。それと同時に、こっそりと癒やしの祝福を与えた。
フィレーネの力は貧弱で、全力を尽くしたとして傷を塞ぐのがせいぜいである。注ぎかけた水薬の方がよほど効き目が高いくらいだったが、ただし即効性だけは優れている。
要するにこういう状況でしか役に立てず、水薬の効果に紛れるように力を使ってから、フィレーネはほっと息を吐いた。
どれだけ効果が高くても、これは命の尽きゆく者には効果がない力だ。つまり血を止めた今、当面の危機は脱した、という証左になる。
フィレーネは血濡れた手を洗い流し、物入れから洗いざらしの綿布と包帯とを取り出した。
化膿を防ぐ軟膏を布に塗り、傷口に当ててその上から包帯を巻きつけていく。止血のために縛っていた紐を断ち切ると、マリアと名乗った女性が喘ぐように息を吐いた。身を起こそうとするのに手を貸して、フィレーネは彼女の口元に水袋を充てがった。
「中身は水です。焦らずゆっくり飲んでください。飲んだら、目を閉じて。身体が辛かったら眠ってしまっても大丈夫ですよ。薬で傷は塞がり始めていますから、もう心配は要りません」
「あり、がとう……でも、こどもたちが……」
言ってマリアは視線を彷徨わせる。だがそこで体力に限界が来たのか、がくりと気を失ってしまう。力の抜けてしまった身体を支えると、隣でヴィジランスが緊張の滲む声で言った。
「出来れば急いで移動した方が良い。これだけの血が流れれば、匂いで他の獣が集まってくる。……フィレーネ、彼女を動かしても大丈夫だろうか」
「ええ、傷に障らないようにすれば問題ありません。……とりあえず、家に運びましょう。小さなお子さんもいますし、まずは落ち着かせてあげないと」
フィレーネが支えていた身体を引き取って、ヴィジランスは苦もなく彼女を抱え上げる。フィレーネはランタンと水を汲んだバケツを取り上げてから、ヴィジランスの背中を追いかけた。
道を塞ぐように放置していた荷車の御者台で、子どもたちが不安そうに肩を寄せあっている。近づくランタンの灯りと足音に気づいたのか、赤毛をお下げにした女の子が声を上げた。
「かあさん!」
少女は御者台から飛び降りると、転がるようにして勢いよく駆けてくる。一方残された男の子はおろおろとしていたが、すぐに少女の後を追って駆け出した。
ヴィジランスに飛びつきそうになった少女の前でしゃがみ込み、フィレーネは手にしたランタンで照らして言った。
「お母さんなら大丈夫だから、心配しないで。今は怪我を治すために眠っているから、起こさないであげようね」
「……ほんとう?」
「うん、本当。私はフィレーネって言うの。あなたたちのお母さんを抱っこしてるのは、私の旦那さんのヴィジランス。あなたたちの名前を教えてくれる?」
「あ、あたしはレオナ。こっちは弟のノア。ふたごなの」
「レオナちゃんにノアくん、ね。あのね、お母さんを安全な場所で休ませてあげたいの。私のお家が近くにあるから、あなたたちも一緒に来て欲しいんだけど、良いかな?」
うん、と頷いたレオナの袖を弟のノアが引っ張った。
「だめだよ、レオナ。知らない人についていったらいけない、ってとうさんに言われてるのに」
「なに言ってるのよ、ノア。フィレーネさんは、怪我をしたかあさんを助けてくれたのよ。やさしくて親切な良い人だわ」
「でも……」
口ごもったノアは、警戒の色が滲む目でフィレーネとヴィジランスを見ている。
母親が怪我を負って不安だろうに、ちゃんと自分で考えて両親の言いつけを守ろうとする賢い子だ。不安そうな顔をしている少年に、フィレーネはにっこりと微笑んでみせた。
「ねえ、あなたたちはフェルダイン牧場の子でしょう?」
「う、うん。……僕たちのこと知ってるの?」
「実はね、私たちはお隣さんなの。だから家に着いたら、すぐにあなたたちのお父さんを呼んできてあげる。それなら心配ないと思うんだけど、どうかな」
訊くとノアは少し考え込んで、それから恐る恐る頷いてみせた。
なんとか納得してくれた子どもたちと御者台に上がって、フィレーネは手綱を握る。気を失ったままのマリアはヴィジランスの腕の中だ。彼女を荷台に乗せたいのは山々だったが、がたがたと揺れる荷車では却って傷に障ってしまう。この程度なら苦にもならない、とヴィジランスが言うのに甘えて、フィレーネはロバを歩かせた。
荷車にごとごとと揺られていると、暇を持て余したらしいレオナがおずおずと問いかけてくる。
「……フィレーネさんは、お医者さんなの?」
「お医者さんではないけれど、前に怪我をした人や、病気をした人を治すお手伝いをしていたことがあるの」
元修道女、と言っても子どもに細かい事情は伝わらないだろう。説明も難しい。さりとて適当な職業が思い浮かばず、ぼんやりとした答えになってしまう。
案の定、レオナは大きな目を不思議そうに瞬かせた。それでも医者ではないということは理解したらしく、考え込むようにうんうんと唸って、それから勢い込んで言った。
「あのね、あたしも、お手伝いする人になってみたい。それでかあさんの怪我を治してあげるの。どうやったらなれる?」
「……まずはたくさん勉強することかな」
「おべんきょうが必要なの?」
驚くレオナの隣で、ノアが小さく溜め息を吐いた。
「勉強がきらいなレオナには、難しいんじゃないかな」
「そ、そんなことないもん。そりゃあ、おべんきょうは好きじゃないけど、でもやらなきゃいけないならがんばれるよ。……だって、またかあさんが怪我したら嫌だもん」
そう唇を尖らせて言うのがいじらしい。
フィレーネは目を細めると、意識して柔らかな声で言った。
「嫌いなことでも頑張れるのは、とてもすごいことだと思う。お勉強が好きな子よりも、ずっとずっと大変な思いをすることになるだろうから。でもね、だからこそ無理はしちゃ駄目だよ。お母さんとお父さんに心配をかけたくないでしょう?」
「……うん」
聞き分けよく頷いたレオナだが、どうやら決心は固いようだ。
ともあれ学ぶことは無駄にはならないだろう。レオナは目を輝かせながらあれこれとフィレーネに訊ね、そうこうしているうちに家へと辿り着いた。
越したばかりの新居だが、灰色の屋根が見えるとほっとするものがある。フィレーネは門の木戸を開けてロバと荷車ごとアプローチに入り、子どもたちを御者台から下ろした。
とうに陽は落ちきっているから家の中は真っ暗だ。フィレーネは魔道具の室内灯をともし、居間を明るくしてからヴィジランスに声をかけた。
「ヴィジランスさん、ひとまずここへ。一度下ろしてから、身体の位置を変えて貰っても良いですか? そのままだと傷が診にくくて」
「ああ、分かった。……少し熱があるようだが、大丈夫だろうか」
「体温が下がるよりも、血を失った今は多少の熱があった方が良いんです。怪我をすると熱は上がるものですし。でも一応、熱冷ましを用意しておきましょうか」
言いながらマリアにブランケットを掛けて、首元に手を当てる。
体温は確かに少し高いが、脈も呼吸も落ち着いている。この様子なら急変するようなこともないだろう。シャツの首元を緩めてあげていると、ヴィジランスが淡々とした声で言った。
「今から牧場まで行ってくる。あなたと子どもだけを置いて家を空けるのは不安だが、帰らない家族を心配するご主人を待たせるのも酷だろう。きちんと戸締まりをして、俺が戻るまで決して扉を開けないように」
子どもに言い聞かせるような口調に、思わず苦笑してしまう。それでもフィレーネは、こっくりと頷いてみせた。
「ええ、言われたとおりに。どうかヴィジランスさんも気をつけて。夜道は危ないですから、くれぐれも無理はしないでくださいね」
「あなたも気をつけてくれ。――行ってくる」
言って肩に軽く触れてから、ヴィジランスは慌ただしく居間を後にした。




