玄関の扉を開けた途端、鼻についたのは埃と黴の匂いだった。
窓から射し込む光に照らされて、漂う埃がキラキラと輝いている。足を踏み出せば床に積もった埃が、膝の辺りまでぶわりと舞い上がった。
時折掃除を入れていたと聞いていたのだが、思った以上に汚れている。
フィレーネはうんざりしながら埃っぽい部屋を突っ切ると、硝子の嵌められた窓を開けた。
薄汚れたカーテンをはためかせて、乾いた風が吹き込んでくる。咄嗟にフードを押さえようと手を上げて、フィレーネは小さく苦笑を漏らした。
聖職者の証とも言えるフード付きのローブを返して随分と経つと言うのに、身に染みついた癖はなかなか抜けてくれそうにない。フィレーネは浮かべた微苦笑はそのままに、行き場を失った手で風に乱れた灰茶色の髪を撫でつけた。
肩口に触れる長さで切り落とされた髪も、未だに慣れきれずにいることのひとつだ。
髪を切ったのは長く伸ばす必要がなくなったことと、手入れの面倒さに辟易していたからだったが、首元のすかすかする感じがどうにも落ち着かない。
そしてもうひとつ、とフィレーネはたった今入ってきたばかりの扉を振り返った。
黒髪の青年がひとり、玄関に立ち尽くしている。室内を見回していたその彼は、フィレーネと目が合うと、濃青の瞳に困惑の色を滲ませた。
長躯で整った面立ちが印象的な彼こそ、フィレーネにとって違和感の最たるものだ。
つい先日に結婚して夫になったばかりのその彼を見遣って、フィレーネは浮かべていた苦笑を深くした。
「――大丈夫、思っていたより綺麗です。ちょっと埃っぽいですけど、このくらいなら掃除をすればなんとかなりますから」
「いや、だが……これではまともに身体を休めることも出来ないだろう。長旅で疲れているのに、これ以上の無理はさせかねる。家を整えるのは俺に任せて、あなたはしばらく宿を使うと良い。確か街道を少し行った先に、巡礼者用の宿泊所があったはずだ」
「そんな、もったいない。これからなにかと入り用になるのに、無駄遣いは良くないですよ。屋根があって風や雨が防げて、脚を伸ばして眠れるなら十分です」
王都レイナスより、ここまで馬車で一週間と少し。しかも後半は宿を取らずの野宿ばかりだった。身体はくたくたに疲れているから、固い床の上でも問題なく眠れるだろう。
とは言え埃まみれはいただけない。本格的な大掃除は明日に回すとして、せめて家具や床の埃くらいは払っておきたいところだ。それと出来ればリネン類の洗濯も。
せめて、と言うには、挙げてみればなかなかの大仕事である。であれば一刻も早く取り掛かった方が良い。
フィレーネはひとり静かに気合いを入れると、馴染みのない室内を見回した。家具や食器は以前の住人が残してくれているらしいが、さて掃除道具はあるだろうか。そう内心で首を捻ったのを見透かしたかのように、フィレーネの夫が扉のひとつを開けた。
扉の中にあったのは果たして掃除用具一式で、彼はこだわりもなくバケツと箒とモップとを取り出した。箒をフィレーネに差し出して言う。
「出来れば休んでいて欲しいが、それだと却って気を使わせることになりそうだ。とりあえず水汲みは俺がするので、あなたはこれを。それとここは見ての通りの有様だから、口元を布で覆っておいた方が良い」
「ありがとうございます。……あの、随分ともの慣れているようですけど、もしかして以前ここに来たことが?」
「いや、実際に訪れたのは初めてだ。だが、こういう建物は、どこも似たような造りをしているから、何がどこにあるかが分かりやすい」
そう言って彼は視線を巡らせた。
「――玄関を開けてすぐが居間、奥に台所で隣が洗面所。書斎と応接用に一部屋あって、廊下の奥が階段。二階には主寝室と客室がふたつ。外観から鑑みればおおよそ、そんなところだろう」
「ということは、つまりここは標準的なお宅なんですか?」
「郊外にあることを思えば、少しばかり手狭かもしれないが。それを除けばわざとらしいくらい普通だ。……だからよほどの捻くれ者でもない限り、何かを勘繰ろうという気にはならない」
とある事情でここに来ることになったフィレーネたちにとって、なるほどそれは有り難い限りである。
フィレーネはこくりと頷くと、夫が差し出してくれた箒を受け取った。
まずはともかく、掃除だ。初めての共同作業が掃除だなんてなんともお笑いだが、そもそも世間で夢見るような新婚生活は端から想定していない。いろいろなものを抱える身としては、波風の立たない、平穏な暮らしが出来ればそれで十分だ。
フィレーネは箒の柄をぎゅっと握り締めると、室内の埃を排除すべく動き始めた。