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私が大人になるとき

作者: アカイノ

『人はいつから大人になるのか』

 最近、そんなどうでもいい疑問を永遠と考えている。

 こんなことを考えているときは大抵現実逃避をしているときだ。


 悪い癖だとは思っている。今は『人はいつから大人になるのか』であったが、少し前までは『なぜこの世から戦争はなくならないのか』であった。その前は確か『なにが人を幸福にするのか』だった。それより更に前に考えていたことはもはや忘れてしまった。どうせ似たようなことを考えていたんだと思う。


 本来こんなくだらないことを考えている暇など私にはない。

 私の目の前には具体的で、早急に解決しなくてはならない問題が山のようにあるのだ。しかし、そんなときに限って私の脳内は余計なことに埋め尽くされる。


 20歳になったら大人か。

 酒が飲めるようになったら大人か。

 煙草を吸うようになったら大人か。

 おっぱいが大きくなったら大人か。

 小さくても大人か。

 生理がきてそこそこしたら大人か。

 破瓜したら大人か。

 子どもを産んだら大人か。

 未成年に手をだして捕まったら大人か。


 目の前の問題への解決策は一向に思い浮かばない一方で、くだらない疑問への解答はいくらでも思い浮かんでくる。このどれもが解答となりえるし、このどれもが完全に当てはまることもない。それは考える前からわかっていたことだ。そしてこういった妄想がいかにくだらないことであるかも。


 だからといってやめることはできない。

 この至上とも言える現実逃避を止めることはできない。

 破滅への道だと心のどこかでわかっておきながら、気づかないふりをする。にもかかわらず破滅への恐怖をひしひしと感じ続ける。これが現実逃避している時の私の感覚だ。

 なぜ人間が現実逃避するように設計されたのか(はなは)だ疑問だ。多分、破滅願望を抱くよう遺伝子に刻まれていると想像する。

 これらもまたくだらない妄想だ。


 私もいい加減いい歳だ。社会的に見たらもう立派な大人である。

 だけど、私には"自信"がない。

 "大人であるという自信"がないのだ。


 昔愛読していた漫画に「大人には勝手になれる」といったセリフがあった。早く大人になろうと生き急ぐ少女に偉大な先生がかけた言葉だ。だから私も勝手に大人になれるものだと心のどこかで思っていた。しかし、いつまで経っても大人になれた気がしない。少なくとも法律で大人と認識されていることは私を大人にはしてくれない。あるのは自分はまだ子供であることへの恥ずかしさだ。


 私がまだまだ子供であるという羞恥(しゅうち)だけが膨らむ。


 社会はもっと優しいものだと思ってた。

 社会の外から見た大人というのは子供にはとても優しかったから。


 しかし、一旦中に入ってしまうと社会は私たちが子供であることを許さない。

 できないこと、知らないこと、使えないこと。

 これらは子供のときは当たり前であった。

 大人たちもそれを許していた。

 できること、知っていること、使えること。

 反対にこれらは凄いことで、褒められることでもあった。


 大人に対して大人は。

 できないこと、知らないこと、使えないこと。

 これらを決して許したりはしない。

 できること、知っていること、使えること。

 これらはは当たり前で、褒める対象ではもちろんない。


 社会というのがにこれほどにまでに大人に厳しいとは予想だにしてなかった。


 よく『大人としての自覚』が足りないと言われる。

 正直それは言われたところでピンとは来ない。

 私を注意してくる人も『大人としての自覚』とは何なのかを特に理解を得ていないことにはピンとくる。


 自分で自分を養うことがそうなのか。

 納税することがそうなのか。

 政治に文句を言い始めることがそうなのか。

 必要以上に赤い紅をつけることがそうなのか。

 何かと加工するのがそうなのか。

 あえてナチュラルで勝負するがそうなのか。

 この年になれば周囲に結婚する人も増えてきたが、それが『大人としての自覚』なのだろうか。


 尊敬する先輩がノロケ話を私にしている際、「あんたも早く結婚した方がいいよ」と話の流れで言われた。先輩が他人を見下す人ではなかったので嫌な気分こそしなかった。この手の話は得意ではなかったが先輩ならば許容できた。しかし、自分がなにか子供のように見られたという感覚になることを防ぐことはできなかった。


 そう、先輩が見る私は子供なのであった。そして私を見ているときの先輩は実に『大人としての自覚』に満ちているように見えた。つまりは、『大人としての自覚』とは他人を『子供として見る』によって生まれる何かだと思った。


 そう考えれば思い当たることがいくつかある。

 例えば、5つの歳下の従妹であるサツキと遊ぶとき、私は実に『大人としての自覚』に溢れている。それは私が大学生の時だろうと、高校生のときだろうと、中学生の時だろうと、なんなら小学生のときですらサツキといれば私は大人になれていた。

 

 別の例だと母親だ。ヒステリックを起こしているときの母を達観して見ているとき、私は大人になっている。母のヒステリックは頻繁に起こるものだから、最近ではヒステリックになっていない母に対しても随分大人びた心持ちになるのだ。


 サツキや母。

 他にも、

 いつもくだらない話が長い父。

 口だけは生意気な弟。

 耳が遠くなってきた祖母。

 私よりいつも成績が悪かったカンナ。

 いまだに内定の決まらないメグミ。

 くだらないことしか吐けないユウジ。

 頻繁に吐いているサトル。

 

 私は大人である自身がない。そんな私ですらサツキや母たちと接していると、ああこれが恋なのか、みたいな感じに、ああこれが『大人としての自覚』なのかと思うのだ。そしてそんなときは必ず、彼ら彼女らを『子供として見る』のだ。

 

 私は他人を『子供として見た』とき、はじめて自身が大人であることを自覚できる。いや、私の場合は『子供のように見下す』ときか。より端的にまとめてしまえば、『他人を見下す』ときだ。


 『他人を見下す』ときの私は大人である。いや、『他人を見下す』ときだけが唯一私が大人であるときだ。それ以外に私は私を大人として定められない。

 

 『人はいつから大人になるのか』という問いがいかにくだらないものであるか改めて認識する。いつからとかではないのだ。大人という状態は法律などでいつからと決められるものではない。


 人は大人である状態と子供である状態を行ったり来たりしているだけだ。嬉しいとき、怒るとき、哀しいとき、楽しいときがあるのと同じで、大人であるときと子供であるときがあるだけだ。そして大人である状態が長い人に、大人というレッテルを暫定的に貼っているに過ぎない。

 

 私はいつまで経っても大人に成り切れない。

 だからといって大人に成れないわけではない。

 私は成ろうと思えばいつからでも大人に成れるのだ。

 それが例え『他人を見下す』ことでも。


 「人はひとりでは大人になれない」というセリフはどこで聞いたものであっただろうか。そこら辺の小説にでも書いてあったのだろう。初めて聞いたときは単に綺麗ごとだとしか思わなかったが、今では心の底から同意することができる。

 

 愛読していた漫画のセリフを改めて思い出す。

 「大人には勝手になれる」

 なるほど確かに勝手ではある。

 今は自信や自覚なくとも、きっと私は立派な大人になれる。いや、もう既になっている。

 皮肉にもそう思い、私は今回の現実逃避をやめた。 


 

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