零式艦上戦闘機 ロンドン飛行指令
日英同盟が続いた世界で、零式艦上戦闘機が活躍する架空戦記です。
日本帝国海軍の零式艦上戦闘機。
ミリタリーに興味の無い人でも「ゼロ戦」「零戦」などの名前は聞いたことはあるでしょう。
第二次世界大戦を舞台にした映画やドラマでは必ずと言っていいほど出てきますね。
その零式艦上戦闘機の開発経緯からお話しましょう。
零式艦上戦闘機の想定していた戦場は欧州でした。
その理由は日本とイギリスが同盟関係にあるからでした。
日英同盟は第一次世界大戦を契機に強化されました。
それ以前は、日本・イギリスどちらかが第三国と戦争状態になった場合は一方は中立を守るというものでしたが、どちらかが第三国から侵略されたら自動的に参戦するというものに変わったのでした。
第一次世界大戦で日本は欧州に大規模な陸軍部隊と金剛型戦艦を主力とする海軍部隊を派遣しました。
日本政府内部には欧州には大規模な部隊を派遣せずに、欧州諸国がアジアに手を出せない間に中国大陸における権益を一人占めしてしまうという意見もありましたが、「火事場泥棒のようなことをすれば戦後恨みを買う」ということで却下されました。
第一次世界大戦では、日本は中国にある欧州諸国の権益を守るために中国大陸に軍隊を派遣しましたが、戦後欧州諸国に権益をすべて返還しています。
それが欧州諸国、特にイギリスに日本が信頼される要因となったのでした。
第一次世界大戦ではイギリスは戦勝国となったものの損害は大きく、国力の低下したイギリスはアジアにおける権益を維持するためのパートナーとして日本との同盟強化を選択したのでした。
アメリカは日英同盟を破棄させようとしましたが失敗しました。
イギリスはアジアにおける権益維持のために日本を必要とし、日本は日英同盟があることで国際的な信用が得られるのでイギリスを必要としていたので日英同盟は堅固なものでした。
アメリカはイギリスに日本に代わるパートナーとなることを申し出たりもしましたが、アメリカは国力が大き過ぎて、イギリスが格下になる関係になってしまう可能性が高いので拒否しました。
日英同盟は対等なパートナーとして存続したのでした。
さて、零式艦上戦闘機に話を戻します。
日本はイギリス本土周辺で戦争が起きたら大規模な陸海軍部隊を欧州に送り込むことにしていました。
最も速く部隊を送り込む方法として、航空機を載せた航空母艦を欧州に送るという計画を日本海軍は立てたのでした。
欧州の空で戦うことを想定して開発されたのが、零式艦上戦闘機、通称「零戦」だったのです。
最初、零戦の開発では航続距離を重視していました。
日本海軍は対アメリカ戦も想定していたので、艦隊決戦の時の制空権確保のためには航続距離が求められていました。
しかし、対アメリカ戦が発生する可能性は低いと思われていました。
アメリカは日本に中国の門戸開放を求めていましたが、イギリスが中国に持つ権益もアメリカに奪われる危険があったのでイギリスは日本に協力して拒否しました。
日本単独でアメリカと外交交渉をしたのでは、日本はアメリカに追い詰められて日本に不利な立場で日米戦争が開戦したかもしれませんが、現実にはイギリスの巧な外交により回避しました。
起こる可能性が高い戦争は、欧州におけるドイツとの戦争でした。
ドイツがアドルフ・ヒトラーが党首であるナチスによる独裁国家になり、再軍備宣言後、その軍事力を背景としてオーストリア・チェコスロバキアを併合していくのは、他の欧州諸国にとって脅威でした。
対ドイツ戦を想定して零戦は開発されることになりました。
零戦は欧州に輸出する予定もあったので、イギリス海軍・空軍の意見も取り入れることになりました。
最初に計画された零戦は航続距離と格闘性能を重視したため防弾装備は皆無で、イギリス側の評価は「これはスポーツ機としては良いが軍用機としては失格だ。防弾装備が無く一発で墜落する機体など、我がイギリスのパイロットたちに乗れと命じたら全員がストライキをする」と辛辣なものでした。
日本側では「イギリス人は軟弱だ! 防弾装備など無くてもパイロットの腕で弾を避ければいいのだ!」と主張する者もいましたが、日本的精神論がイギリスに通用するはずもなく、零戦は防弾装備をされることになりました。
自動消火装置も装備されることになり、零戦は当初の計画より航続距離が短くなり、格闘性能も低くなりましたが、欧州の一般的な戦闘機より航続距離は長く、格闘性能も高いため、充分な性能とされました。
さて、ここからは「ロンドン飛行指令」についてお話しましょう。
第二次世界大戦の開戦前、日本本土からイギリス本土まで二機の試作型零戦が飛行しています。
表向きの理由は、単発機による冒険飛行でしたが、本当の理由は「日本からイギリスに零戦を素早く送り込む方法」を試験するためでした。
もちろん、日本からイギリスまで無着陸では行けないので、零戦は途中で何度も給油しています。
このことを題材にした冒険小説「ロンドン飛行指令」があり、何度も映画化されているので、みなさんも見たことがあるでしょう。
最初の映画は実写映画で、実物の零戦が撮影に使われ、零戦のパイロット二人も男性の俳優が演じていましたが、去年公開された3DCGアニメではパイロット二人は女性のキャラクターになっていました。
そういうところに時代の流れを感じますね。
さて、小説や映画では何度もナチスの工作員の妨害を受けて、苦闘しながらも最後は零戦は二機とも無事にロンドンに辿り着くというハッピーエンドになっています。
しかし、史実は少し違います。
もちろん、史実でも零戦はロンドンに無事に辿り着いているのですが、史実ではナチスの工作員による妨害は無かったのです。
ナチスは自身の思想による人種的偏見により「日本人にまともな戦闘機がつくれるはずがない」と判断しており、妨害工作をしなかったのでした。
妨害工作はありませんでしたが、零戦のロンドンへの飛行は楽なものではありませんでした。
悪天候に巻き込まれたり、航法ミスにより燃料切れギリギリで飛行場に着陸したりと、危険なことは何度もありました。
ですが、日本からシンガポール・ビルマ・インド・エジプト・ジブラルタルなどイギリス植民地を経由したので、途中での給油・整備は万全でした。
全世界にネットワークを張り巡らすイギリスだから可能なことで、もしイギリスではなくドイツと同盟関係にあったりしたら、このようなことは不可能だったでしょう。
このように苦労して成功した零戦のロンドンへの飛行でしたが、「戦時には役に立たない」と判断されました。
ロンドンに辿り着いた零戦は超長距離飛行による機体の疲労が大きく、入念な整備をしなければならない状態でした。
欧州には当初の計画通り、空母で軍用機を送り込むことにしたのです。
1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が始まると、日本海軍は軍用機を詰め込んだ正規空母六隻「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」「翔鶴」「瑞鶴」を欧州に派遣しました。
もちろん、パイロットと整備兵も多数が乗艦していました。
零戦の正式採用は翌年の1940年でしたが、1939年中に前倒しで量産が開始されていました。
日本海軍が保有する正規空母すべてを欧州に派遣することは「日本本土の守りが薄くなる」と海軍内部でも反対意見が多かったのですが、当時の連合艦隊司令長官山本五十六は「大規模な航空隊を欧州に送り込む一番迅速な方法がこれなのだ。日本本土の守りは戦艦部隊と基地航空隊があるから大丈夫だ」と自身の意志を通しました。
ドイツがフランス侵攻作戦を開始した時、日本海軍航空隊はフランスの空で活躍しました。
零戦がドイツ戦闘機を撃墜し、九九式艦上爆撃機と九七式艦上攻撃機がドイツ地上部隊を爆撃しました。
日本海軍は欧州派遣のため対地攻撃を重視しており、訓練時間も対地攻撃に多くを割いていました。
日本海軍航空隊の活躍によりドイツ陸軍が目論んだ電撃戦は失敗し、戦線は膠着状態になりました。
その時、一つの重大事件が発生しました。
ナチス・ドイツ総統であるアドルフ・ヒトラーが戦死したのです。
膠着した戦線を督戦するために前線視察に赴いたヒトラーを零戦が銃撃したのでした。
その零戦は、地上にヒトラーがいるとは分からず。
ドイツ地上部隊を発見したので低空飛行で銃撃するという日常的な任務を遂行しただけだったのですが、戦争に与えた影響は甚大でした。
カリスマ的指導者を失ったナチスは混乱し、ナチスによる戦争指導に危機感を持ったドイツ国防軍がクーデターを起こしナチスを排除、実権を握った国防軍はイギリス・フランスに対して休戦・講和を申し出ました。
ドイツの同盟国であったイタリアはドイツがフランス戦で有利だったら火事場泥棒的にフランスに侵攻するつもりでしたが、結局は参戦しませんでした。
イギリス政府は、ドイツが併合したオーストリア・チェコスロバキア・ポーランドの独立、戦後の公正な選挙によるドイツの民主化を条件にそれを受け入れました。
フランス政府はドイツに対して賠償金や領土の割譲を求めようとしましたが、「ベルサイユ条約でドイツに過酷な賠償を求めたことがナチスを生んだ。同じ過ちは繰り返すべきではない」とイギリス政府が主張し、ドイツには賠償を求めないことでドイツとの戦争は終わりました。
ですが、第二次世界大戦は終わりませんでした。
第二次世界大戦の開戦当初、ドイツはポーランド西部を占領、ポーランド東部をソ連が占領しました。
ポーランド西部はドイツとの講和により、イギリスに脱出していたポーランド亡命政府に返還されることになりましたが、ソ連が占領しているポーランド東部が問題でした。
日本・イギリス・フランス・はドイツに宣戦布告しましたが、ソ連とは戦争状態になく、ポーランド東部の返還についてソ連と交渉しなければなりませんでした。
ソ連の独裁者ヨシフ・スターリンはポーランド東部の返還には応じませんでした。
それどころか、ポーランド西部に軍事侵攻、第二次世界大戦はソ連を敵として継続されることになったのです。
日本・イギリス・フランスは講和したドイツと同盟してソ連に立ち向かうことになりました。
ソ連はポーランド西部侵攻と同時に日本の勢力圏である満州・朝鮮半島にも侵攻しました。
ソ連にとっては欧州がメインの戦線で日本の勢力圏に侵攻したのは、日本が欧州に送る兵力を減らすためでした。
それは、ある意味で成功しました。
日本陸軍は満州・朝鮮半島の防衛とシベリアへの逆侵攻のために欧州への大部隊派遣を中止し、地上部隊も陸軍航空隊も欧州にはほとんど派遣されませんでした。
しかし、別の意味で失敗したのは、日本海軍は満州・朝鮮半島は「陸軍の戦争」としてほとんど関心を持たず。日本海軍は欧州への大規模な兵力派遣を続けたのでした。
ソ連との戦いに艦艇はほとんど必要とされないので、派遣されたのは航空部隊でした。
日本から欧州への海上交通路の安全は確保されたので、日本海軍は航空機と航空機運搬船の増産とパイロットの大量養成に力を入れました。
日本海軍は海軍航空隊の拡張に力を注ぐため、基準排水量六万トンを超える新型戦艦計画名「A140」の建造は計画のみで中止になっており、代わりに、翔鶴型空母二隻の起工・竣工が早まっています。
欧州に送られた海軍機で対地攻撃に最も活躍した機体は、艦上爆撃機「彗星」と艦上攻撃機「流星」で、艦上機でありながら空母から発艦したことよりも地上の基地から出撃したことの方がはるかに多い機体です。
欧州でイギリス製・ドイツ製のエンジンに換装した機体は、イギリス・ドイツのパイロットから「最良の単発攻撃機」との評価を得ています。
日本海軍航空隊は太平洋の大海原ではなく、欧州・ロシアの大平原で活躍したのでした。
少し話が逸れますが、日本海軍陸戦隊も欧州・ロシアで活躍し、ドイツから装甲車両を導入した完全な機械化師団が数個編成されました。
日本海軍陸戦隊は数は少なかったですが、重装甲・重火力部隊として友軍から頼りにされました。
日本陸軍が日本本土と周辺の防衛軍、日本海軍が海外遠征軍と棲み分けられたのでした。
さて、ソ連による欧州侵攻は最初こそ成功しましたが、補給物資の不足により進撃の足は止まり、逆に同盟軍に押し返されるようになりました。
日・英・仏・独同盟は、ついに第二次世界大戦には参戦しなかったアメリカ合衆国から大量の物資を購入していたので補給には不足しませんでした。
ソ連の物資不足を補える国はアメリカだけでしたが、戦争に参加せずに同盟に物資を売ることで経済的繁栄を得ていたアメリカはソ連に物資を売る気はなく、例えあったとしてもアメリカからソ連への海上交通路は日本とイギリスが抑えているので不可能でした。
さて、零戦に話を戻します。
大戦末期には、零戦は旧式化し、後継機である「烈風」「紫電改」が主力戦闘機となっていましたが、末期でも戦闘爆撃機として活躍していました。
250キロ爆弾を搭載し投下後は空戦もこなせる零戦は、専門の爆撃機よりは対地攻撃力は低かったのですが、戦場では使い勝手の良い機体として結構重宝されました。
大戦末期、ある零戦がモスクワから東に向かう列車を攻撃しました。
その列車にはソ連兵士が満載されていて、多数の戦死者が出ました。
その戦死者の中には、ソ連の独裁者スターリンも含まれていたのでした。
スターリンはモスクワから脱出しようとして、目立たぬように専用列車を使わず。一般兵士に紛れて脱出しようとしたのですが、それが裏目に出ました。
独裁者を失ったソ連は崩壊し、ロシア連邦共和国となり同盟に降伏しました。
零戦は「独裁者二人を倒した戦闘機」として歴史に名を残したのです。
戦後、経済的には一人勝ちしたアメリカに対抗するために、日本・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアを中心としたユーラシア同盟が結成されました。
アメリカは戦後、豊富な資金力により世界初の原子爆弾の開発に成功し、アメリカの権益を侵す者には重爆撃機B29に搭載した原子爆弾で爆撃することを宣言したのでした。
ユーラシア同盟は数年遅れで原子爆弾を開発しましたが、アメリカ本土の防空網を突破できる重爆撃機の開発は上手く行かず。ドイツ・ロシアで研究されていたロケット技術に注目しました。
ユーラシア同盟は1960年代に、世界初の人工衛星打ち上げ、世界初の有人宇宙飛行、世界初の有人月面着陸を成し遂げました。
現在でも航空宇宙産業ではユーラシア同盟がアメリカをリードしています。
さて、長々と話しましたが、間もなく、ここ羽田空港にロンドンから出発した零式艦上戦闘機が着陸します。
1939年に開戦した第二次世界大戦の開戦八十周年を記念して動態保存されていた零戦が当時の逆のルートで飛行するというイベントです。
昨年、2019年中に羽田空港に到着する予定でしたが、途中エンジントラブルに見舞われ、今日、2020年2月1日の到着にずれ込みました。
しかし、今年は皇紀では2680年であり、零戦が正式採用されて八十周年であり、西暦1948年の前回の東京オリンピックに続く我が国での二度目のオリンピックの年にふさわしいイベントであると言えるでしょう。
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