3章
3度目に目を覚ましたとき、僕の目の前には先生の姿ではなく、壁一面にはられた小学生の写真が映っていた。見覚えのない子供ばかりだ、みんな手に何かしらの楽器を携えている。この子どもたちは誰なのだろうか、そして一体ここはどこなのだろうか。
ふと右隣を見れば先生が立っていた。先生の姿を見つけて安心してしまった僕は、前回のときと同じようについ小声で、「先生」とつぶやいた後、そうだこの呼び方はまずかったんだとあたふたした。
先生は僕の声に反応して、一瞬戸惑いの表情を見せながら「どうしたの?その呼び方懐かしいわね」と笑った。僕は横で笑う先生の姿を目に映しながら、高校生の時とはあまりにも違う先生の姿に内心緊張していた。前回のときも大人びた先生の雰囲気に驚いていたけど今回はなおさらだった。あのときはまだ表情の片隅に残っていたあどけなさも洗い流され、いまでは先生は完全な大人の女性へと成長していた。
僕は、先生の放つ大人の女性の気配に圧倒されて、思わず「成長したんだな......」と感嘆の声を漏らしていた。
先生は、僕の口から出た感動がまさか自分に向けられてるとは思わなかっただろうけど、僕の言葉に対して「そうね、あんなに小さかったのにね......」と反応した。しかし、先生の目線の先は、僕ではなく壁一面にはられた写真の一枚に映った、懸命な表情でピアノを演奏する一人の少女に向かっていた。
もしかすると、この少女は僕と先生の子供なのだろうか。ふとそんな考えが頭によぎる。もしそうだとすると、僕は自分の娘に気づかない愚かな父親を非難してやりたい衝動に駆られた。そして同時に、目の前の初めて見る少女と隣りにいる先生に申し訳なくなった。
きっとそのとき僕は、ものすごくひどい顔をしていたのだと思う。先生は僕が抱いた絶望感に気づいたのか、僕の手を引いてその場を離れた。久しぶりに握った先生の手の感触。それはとても柔らかくて母親の手をしていた。
すぐ近くのドアから建物を出て駐車場まで出ると、先生は「大丈夫?すごく体調が悪そうだけど。」と心配そうに声をかけてくれた。
とてもじゃないが先生に心配などかけられない。そう思った僕は「うん、全然問題ないよ。少し立ちくらみがしただけだ。」と強がってみせた。混乱も焦燥も先生といれば和らいで、心は落ち着きを取り戻しつつある。だけどその時、いつものように気が遠くなり始めた。
今度こそ僕は、僕の居場所を守るんだ。自分の子供を前にして生まれた責任感からなのか、先生が徐々に離れていっているという焦燥感からなのか、僕は今までにない強い覚悟で、迫りくる闇に対抗した。
やはり、僕が闇に沈みゆく間、代わりに何かが闇から這い出てきている感覚がした。僕はそいつに対して、お前なんかに僕の居場所を奪われてたまるかと必死に抗った。
僕と、僕ではない何者かは、僕の体をかけて戦った。その争いは心の中だけで完結せず、体の外まで影響を及ぼした。
僕の体は先生の前で、通常ではありえないような動きをした。相反する2つの意志が同時に体を制御しようとしたせいで、関節は的はずれな方向に曲がり、目は左右でバラバラな方向を睨みつけていた。ついには立っていることもままならなくなり、地面に転がり落ちてなお暴れ続けた。
そんな必死の抵抗にもかかわらず、僕は闇の中へずぶずぶと沈んでいく。僕が沈むほど、僕の力は弱くなり、相手の力はより強くなっていった。しばらくして、僕の意思が体の制御に1%も反映されなくなったので、僕はただ闇の底へ一人寂しく沈んでいくのを待つだけになった。
今までで一番最低の気分だった。すべてが無駄に終わってしまうという激しい虚脱感が襲った。僕の体は何者かに乗っ取られた。そいつはきっと僕の体で、当たり前のように生活していくのだろう。奪われたのは体だけではない、僕の居場所や存在意義そして先生さえも奪われてしまったのだ。
僕の体を完全に自分のものにした何者かは、僕に対してあれが僕の顔だなんて信じられないぐらい気持ち悪い笑みを向けている。
心配そうな表情で「本当に大丈夫なの?」と声をかけてくれる先生に、「あぁ、心配ないさ」と自信満々に答えているのが腹立たしい。憎しみが最高点に達し、自分で自分の顔をぶん殴ってやりたいと思ったところで僕は意識を失った。