1章
僕が僕であったころの最後の記憶は、シャンプーの香りと火薬の匂いだった。
中学3年生、まだ大人にはなれず、精神的に不安定な時期だったけど、当時の記憶は宝箱の中にしまって大切に保管しなければいけない。僕がたしかに僕だったころの数少ない思い出だから。
高校受験を控えた中学3年生、僕は勉強は得意でも苦手でも、好きでも嫌いでもなかったけど周りのみんながするように塾に通い、それなりに勉強していた。
家にいれば親が勉強しろと口うるさいのは、僕の家庭だけではないだろうけど、何度も繰り返される親の口癖から、やる気を削がれるのがどうしても嫌だった僕は、塾がないときは、学校の図書館で勉強していた。
中学校の図書館は大して広くはなく、僕のように受験勉強をしている生徒は少ない。だけど図書館に行くと、いつでも決まって同じ席で勉強している同級生の女の子がいた。
僕は、いつしかその女の子と一緒に勉強するようになっていた。僕より勉強ができていつも僕のわからない問題を教えてもらっていたから、僕は彼女のことを敬意を込めて「先生」と呼んでいた。
夏休みが終わって、日の長さも受験までの時間もだんだんと短くなってきたある夕暮時。その日も先生と一緒に図書館で勉強して、家の方角が途中まで同じだった僕と先生は、自転車で並んで帰っていた。
やがて、僕と先生の帰路を分ける横断歩道に近づいた。僕は横断歩道の手前で右に曲がり、先生は横断歩道を突っ切って真っすぐに進む。
横断歩道の手前まで来て、信号が赤になった。乗っていた自転車から降りて二人は立ち止まった。
信号が青になって先生と別れの挨拶をするまで、もう少し時間があった。二人の間をかすかに心地よい静寂が過ぎさる。
少し間があいて、先生が口を開いた。
「このあと祭りに行きませんか?」
それは辺りが物音がしていたのなら、きっと聞き取れなかっただろう。先生の声は緊張で少し震えていたけど僕の耳にはしっかりと届いた。
先生の張り詰めた緊張感は、波になって僕の体に伝わってきた。頭の中が真っ白になってすぐに答えを返すことができなかった。
…やばい、もう少しで信号が赤から青に変わってしまう。急いでなにか言わなくちゃ…。
あたふたする僕の横で、先生は黙って歩行者信号を見つめている。その顔は心なしか萎んでいていつもより一回り小さい。
返す言葉を探すことに戸惑っていると、信号がとうとう青に変わってしまった。
先生が自転車を手で押し始め、いつもしているようにお別れの挨拶を言おうと口を開きかけた。
…だめだ、このまま先生と別れてしまうのは絶対に嫌だ…。
先生が口から音を発するほんの少し前、僕の口から重い足を引きずりながら出てきた言葉は、「七時に待ち合わせしよう。」という肯定も否定もすっ飛ばした、微妙に噛み合ってない返答だった。
それなのに、振り返った先生が今まで見た中で間違いなく一番の笑顔で手をふるから、頼りなかった僕の左手は先生の手につられて、勝手に動いた。
いつもなら先生と別れてから自宅までの道のりは長く険しいものだったけど、その日は一瞬で家に到着した。
7時に待ち合わせしようと言った僕は20分も早く祭りの会場の入り口に到着しそわそわして待っていた。僕たちの地域では夏休みが終わって、時期外れの祭りがある。まるで過ぎ去った夏休みに別れを告げるためにあるかのようだ。
そんな事を考えていると、先生が来た。浴衣姿の先生はすごく可愛いかった。
花火が上がるまでまだ少し時間があったから、金魚すくいをすることになった。先生は不器用だからといって、自分は何もせずに僕が金魚をすくう姿を、真剣な眼差しで見つめていた。そのせいで緊張して結局金魚は一匹も取れなかった。
大きな音を立てて花火が始まった。去年見た花火より豪華できれいだったはずだ。
先生は僕の右隣にいて花火を見ている。いくら花火が綺麗だとしても、そんなものより先生の横顔のをずっと見ていたいと思った。
先生に見惚れていたら、先生と目があった。先生が僕に微笑みかけると、僕の表情も自然と崩れてしまう。にやけすぎてほっぺがちぎれ落ちそうだ。まだ中学3年生だけど、今まで生きてきた中で間違いなく今が最高に幸せな瞬間だと思った。幸せすぎて気を失ってしまいそうだった。
…ほらね、だんだん頭がボーッとしてきて、気が遠くなってきた…あれ?なんだかおかしい、本当に気が遠くなっている。僕の意識が先生の左にいる僕の体からどんどん遠ざかっている。
どうしてしまったんだろう。しっかり気を保ってくれよ!もっと長く、少しでも長く先生の左側に立っていたい。先生との距離は縮まって今なら先生の感触がわかるぐらい近くにいるはずなのに、僕の体の感覚は離れて届かない。
嫌だ、やめてくれ。この場所は僕だけの場所だ。そんな僕の必死の懇願はお構いなしに、僕の意識は真っ暗闇の底なし沼の中に吸い寄せられるように沈んでいく。漆黒の闇の中へ落ちていく僕に僅かな光が差し込む。光がさすその場所には、先生と僕が腕を組んでいる映像が映し出される。
本来なら僕が存在していいはずの先生の左側なのに、今立っているのは僕であって僕でない。
どうやら僕の体は僕の支配下から外れてしまったようだった。体を動かそうと力を込めても、体を縄で固く縛られているかのように身動きがとれない。
気合を込めても頭に血が上るだけで、手足はびくともしない。
なぜこのような状況に陥っているのかという疑問と、嫉妬からくる強烈な怒りと悔しさが頭を駆け巡り、限界まで膨らませた風船のように今すぐはちきれそうだった。
そして、プツン。そんな音が鳴り僕の意識はそこで途切れた。