九、訪問
「あのね……」
律子はゆっくりと喋り始めた。あんまり浮かない顔をしながら。
「父が、連れて来いって」
僕の想像通りだった。
噂通りのレッスンを律子にさせている、あの有名な「雨宮健一」だ。そんなことを言いそうなのは想像に難くなかった。
僕は努めて明るく言った。
「そっか。そうなんだ。でもさ、大丈夫さ」
僕はかぶりを振った。
「とりあえずは『友達』ってことで、うん」
律子の表情に少しだけ赤味が戻って、口元にほんの少し、笑みが浮かんだ。でも、律子の目は笑ってなかった。
「父は『恋をしてる』って言ってた」
僕は雨宮健一の眼力に驚いた。さすがはプロだ。律子の弾くピアノの音にまで敏感なんだ。
僕は「ハァー」と溜息を吐いてから、律子の手を取り、彼女の目を見つめて言った。
「変なごまかしは、しない方がいいようだね。僕と律子はいつも通りだよ、うん。それで行こうよ」
僕がそう言うと、ようやく律子の目が優しくなった。そして、小さくうなずいた。
「うん、そうね」
日曜日の午後、僕は律子の家の呼び鈴を押した。
律子の家は、さすがに大きい。両親が伊達にプロを名乗っている訳ではない。レッスン室が三つはあるという噂だ。
律子が玄関を開けて、迎え入れてくれた。
「どうぞ。中に入って」
律子に言われて玄関をくぐった。そこには、彼女の母親「雨宮奈津子」が立っていた。
「駿平クン、どうぞ」
母親の奈津子にそう声を掛けられた僕は、いきなりビビッた。
(あちゃー。名前まで知れているぞっ)
雨宮奈津子は、ヴァイオリン奏者だ。地元のオーケストラでコンミスとして活躍する他に、ソロ活動とヴァイオリン教室を主宰している。
玄関を上がって、応接間に通された。
ナチュラルのフローリングに、白い壁、白いソファセットがガラスのテーブルを挟んで置いてあった。
まんじりともせず、ソファに座った。
僕は全然落ち着かなかった。
しばらくすると、律子と母親がお茶を持ってきた。母親は、紅茶を出しながら律子に言った。
「律子、駿クンの隣に座りなさい」
母親の言葉に、またまた僕はビビッた。
(駿クン……って、いきなり砕けてるよ〜)
「はい、お母さん」
律子は平然として、三人掛けソファに座る僕の横にちょこんと座った。
母親は、紅茶を出し終わると、三人掛けソファの反対に置かれた、二つ並んだ一人掛けのソファに深々と腰掛けた。そして流暢に話し始めた。
「ごめんなさいね。主人、午前中には帰る予定なのに遅れてるのよ」
母親の奈津子は溜息をついた。
「結局、私に押し付けなのよね」
そう言って母親は、紅茶をすすった。
「駿クン、あなたのことは娘から聞いていますわ。私たち、仲の良い母娘なんですの」
母親はまた、紅茶をすすった。
「駿クンとお付き合いを始めてから音が変わったわね」
母親の奈津子は、律子の顔を覗き込むように言った。
「いい音になったわ」
そして、遠くを見る目でささやいた。
「恋っていいわね〜」
母親は、紅茶のカップ&ソーサーを置いた。
「あ、そうね。駿クンもピアノ弾くのよね」
そう言いながら母親は僕を見た。
「是非、聴きたいわぁ。聴かしてくれないかしら?」
僕は、最初から圧倒されまくっていた。僕の想像していたイメージとは、全然違っていた。「こんなに砕けてていいのか?」と、僕は自問した。
気が付くと、律子が母親に意見していた。
「ダメよ。今日は緊張してるんだから! それに、そんなつもりで駿平クンは来てないし」
母親も負けてなかった。
「あ〜ら、いいじゃないの。あの人、どうせ今日は帰らないわよ」
父親の悪態をつきながら、律子を諭していた。
「あの人の方が緊張しているんだわ、きっと」
母親はじれったさに我慢しきれず、席を立って、僕を手招きした。
「さぁ、レッスン室へ行きましょ」
母親は律子の腕を引っ張った。
「ほら、律子も立って!」
律子は呆れ顔で言った。
「お母さんは、言い出したらきかないんだから」
そう言ってから僕に向き直った。
「ごめんね。お母さんの言う通り、お父さんが居ないの」
律子は申し訳なさそうに僕に頼んだ。
「悪いけど、今日はお母さんに付き合って」
僕は、肩透かしを食らったようだ。だけど、僕も少しリラックスできそうだった。僕は、母親に向き直って言った。
「はい、分かりました。少しだけ、ボロが出ない程度に」
母親は嬉々として言った。
「じゃ、レッスン室にレッツゴーよ!」
母親はドアを開けて廊下に消えていった。
僕と律子は、顔を見合わせてプッと吹いた。
「セッションだ」
「えぇ、セッションよ」
僕と律子も廊下に消えていった。




