八、レッスン
「いい音だね、律子」
雨宮律子はレッスン室でピアノを練習をしていた。そこへ父親が入ってきて、一言漏らした。律子は、チラッと父親を見たが、そのままピアノを弾き続けた。
『シューベルト即興曲OP九〇−三』
弾き終えた律子は、ゆっくりと父親の顔を見た。父親は、満足そうに律子の顔を覗き込んだ。
父親の雨宮健一は、中堅のピアニストで、この地方では名の知れた演奏家だ。若い頃はヨーロッパで演奏していたこともあるが、その頃の無理がたたって身体を悪くし、今はもっぱら後進の指導を中心としている。
ヨーロッパから帰国した本人の弁は「やっぱり醤油が恋しくて帰ってきちゃったよ」というものだった。
「恋を、してるね」
健一はピアノの黒い表面を撫でながら、そう言った。しかし、彼の目は律子から離れなかった。
彼女は鍵盤を見たまま、何も言わなかった。だが、少しだけ頬を赤くしてしまった。
「そうなんだね」
健一は楽譜を見ながら、更に付け加えた。
「『ダメだ』とは言わない」
律子は顔を上げて、父親の顔を見た。だが、健一の視線は楽譜に注がれていた。
「だが、節度がないといけないよ」
そう言い終わると、楽譜を指し示して、律子のピアノの指導を始めた。
一時間後に律子のレッスンが終わった。
楽譜を片付ける律子に向って、健一は大胆な発言をした。
「今度の休みに連れて来なさい」
律子は驚いた。父親がそんな発言をするなんて、想像すら出来なかったのだ。だが、その後の、父親の言葉を聞いた後は、何とも言えない気分になった。
「私が吟味しようじゃないか」
健一はそう言ってレッスン室を出て行った。
次の楽団の練習日、練習室に入ってきた戸倉駿平を呼び止めた律子は、小さな声で呟いた。
「え?」
駿平は、思わず聞き返してしまった。律子の言葉がすぐに理解できなかった。
「今度の日曜日に、家に来ない?」
律子がそう言ったように聞こえた。でも、確信がなかった。
「ど、ど、どうゆうこと?」
ポカンとしている駿平に、律子はじれったそうに同じことを繰り返した。
「だから!」
律子は大きく声を張り上げた。
「今度の日曜日に家に来てって言ってるの!」
僕はのぼせ上がった。それと同時に、律子の家庭環境が思い浮かんで、冷や水を浴びせられたような冷静さも忘れなかった。
この頃の、僕と律子はずい分仲良くなっていた。すぐに五週目ずつのデートではなくなり、市民吹奏楽団の練習が終わった後には必ず、いつものライブハウスで、デートを重ねていた。
律子の大きな声に、楽団員が振り向いた。そして駿平と律子を冷やかした。
「おいおい、大きな声でデートの約束かぁ!」
「ヒューヒュー、お熱いお二人さんね」
その声に、律子は顔を真っ赤にして部屋を出て行った。僕も律子を追って部屋を出た。
部屋を出たところで、律子は立っていた。僕は律子にぶつかりそうになった。
「もう! 駿平ったら!」
律子は口を尖らせながら、手の甲をつねった。
「イテテテ、ごめん、ごめん」
僕は痛がりながら、謝った。
「ちょっと信じられなくてさ」
そして、僕は間髪入れずにこう言った。
「今度の日曜日だね。空けとくよ。必ず行くから!」
僕がそう言うと、律子はニッコリ微笑んだ。だけど、すぐに普通の顔に戻った。
僕の「冷や水を浴びせられたような冷静さ」と同じことを考えているのだろう。
律子はゆっくりと喋り始めた。
「あのね……」