六、ピアノ演奏
「ピアノ、弾いてみない?」
僕は思い切って、律子に言った。
本当は、前々から考えていたことだった。コンテストなどのホールじゃない所で弾く、律子のピアノが聴きたかったのだ。
律子は、驚いてたじろいだ。
「私、ジャズなんて出来ないわ」
僕は、律子に優しく言った。
「ジャズにこだわらなくてもいいよ」
「えー、でもー」
律子がモジモジしていると、その後ろからマスターが割り込んできた。
「聞いてますよ、お嬢さんはピアノが上手いって。うちの店は、音楽のジャンルを問いませんから、是非、弾いてくださいよ」
僕は、彼女の弾く曲を前から考えていた。だけど、今思いついたように律子に言った。
「そうだ!『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』はどう? これならクラシックでOKだよ」
律子はしばらく考えていたが、すくっと立ち上がった。
「じゃあ、弾いてみる」
そう言って、ピアノに向った。
彼女は椅子を調整して一瞬宙を見てから鍵盤に向かい、そして弾き始めた。
コンクールで聴いた律子のピアノとは違っていた。弾むように、そして持ち味の優しい音色が響き、心なしかフレーズがジャズ風になっていて、実に生き生きとした律子のピアノだった。
弾き終えて立ち上がった律子に、店の中から拍手が沸き起こった。律子は、深々とお辞儀をして席に戻ってきた。
僕は、拍手で律子を迎えた。
「ブラボー、よかったよ」
律子は手のひらを左右に振りながら、恥ずかしそうに言った。
「ミスタッチばっかりよ」
僕はコーラをすすりながら、律子に訊いた。
「でも、気持ちよかったでしょ?」
律子は、僕に向って満面の笑みを浮かべて、静かに、でも大きくうなずいた。
律子が時間を気にし始めたので、僕は店を出ることにした。
「もう、お帰りか」
マスターが声を掛けてきた。
「うん、彼女の門限がね」
僕はちょっと照れながら答えた。
「そうか。モテる男はつらいなー」
マスターは僕にそう言い、律子にも声を掛けた。
「お嬢さんのピアノ、よかったー。演奏をありがとう。是非また来てよね」
律子は恐縮して言った。
「ハイ、ありがとうございます」
僕と律子は席を立った。
「じゃ、駿平。またな」
そう言ってマスターは、店の入り口まで送ってくれた。
僕と律子は、一緒に歩き始めた。僕は歩きながら正面を見たまま言った。
「今日はありがとう。強引な約束を守ってくれて」
律子も正面を向いたまま、僕の言葉に応えた。
「ちょうどよかったの」
僕は律子の方を向いた。
「何がよかったって?」
律子は夜空を見上げながら言った。
「何でもない」
そして僕の方を見て言った。
「今日は楽しかったわ。ありがとう」
そう言い終わると、律子は駆け出した。しばらく走ってから、振り返った。
「またねー」
そう言うと、律子は再び振り返って走り去っていた。僕にさよならを言う暇を与えなかった。
僕は、ずい分小さくなった律子の姿に手を振った。そして、大声でこう叫んでいた。
「またなー」
そして、僕はつぶやいた。
「『また今度』って、次の五週目はいつなんだ?」